映画探偵室 -1995ページ目

これこそ西部劇

サムペキンパー監督,ダスティン・ホフマン主演の「わらの犬」

およそアメリカ映画に出てくる弱そうな主人公の代表格であるダスティン・ホフマンの映画ではあるが,これはれっきとした西部劇,男の伝説がどのように生まれるかを描いたものである。冒頭,子供が墓地で遊んでいる場面にそれは凝縮されている。もう墓に入っているかつての英雄とは実際にはどんな男だったのかと。村中の男たちを相手にたった1人で立ち向かい,ほぼ壊滅させてしまったほどの男とはどんな男だったのか。なんと,宇宙工学を専門とするひ弱な数学者だったのだ。ではなぜ,ひたすら平穏を求めて妻の故郷であるイギリスの田舎にやって来た平和主義者の男が,英雄になったのか。それは妻への暴行に対する復讐,ではなかった。彼よりももっと弱い者,白痴の男を誤って車で撥ねてしまったからだった。その白痴は彼の車に跳ねられる前に,誤って女をしめ殺してしまっており,村人は犯人を引き渡せと彼の家に押しかけた。あらゆる知恵と手段を尽くして戦う暴力場面は圧倒的で息がつけないほどだ。すべてが終わって彼が勝ち残った時,彼に居場所はもう無かった。彼は妻をその家に置き去りにして(ただし,<大丈夫か?>とは訊いている),保護した白痴の男と一緒に車に乗ると闇の中に消える。赤いテール・ランプが遠ざかる画面に白痴の男が尋ねる質問とその答えがスーパーとして出る。「これから何処へ行くんだ」「俺にもわからない」。

題名の「わらの犬」は荘子の言葉,人間は天からみれば(命のない)藁でできた人形でしかない。命は天から与えられるものであり,(それが無ければ)平和主義者などといっても暴力から逃れる術はない,から来ていると言われている。

見終わったあと立ち上がれないほど圧倒された映画であった。ワタシが当時兄事していた監督はもう故人だが,この映画を「西部英雄伝説の真髄」と言っていた

向こう側の世界

スティーブン・キング原作,スタンリー・キューブリック制作・監督の「シャイニング」は本当に怖い映画だ。だから次の事情に該当する人,つまり今小説家を目指して努力している人々や,脚本家になろうとしている人は今回のワタシのレビューをスキップすることをお勧めする。なぜなら,シャイニングの本当の怖さは「作家」にしか分からないものだと思うからであり,そして分からないことは幸せなことなのだから。冒頭の俯瞰による車の走り場面からそれはもう始まっている。つまり孤独の領域への突入である。おまけに,限られた空間に閉じ込められるといっても,その空間が数人の家族に適した規模より極端に大きければ,それも恐怖の原因となる。まわりに誰もいないという経験は予想以上に恐ろしいことをワタシも体験したことがある。船乗り達はそれを知っている。次にタイプライターを叩くシーンでその原因が明らかにされる。どう焦っても小説が書けないのだ。これは文字通り致命的である。フィクションは何をどう書いても自由,という原則であるため,何をどう書くかを決められるのは彼1人ということになる。この重圧は計り知れないものだ。創作の源泉になるはずの想像力によって,逆に悪夢が紡ぎ出されてしまうが,彼を助けられる者は皆無なのだ。その道で持続的に作家としての地位を維持している人たちは皆これと日々闘い,乗り越え乗り越えして来ている。かつての大江健三郎氏の「文学ノート」にもそれは滲みでているし,筒井康隆のエッセイーにもよく出てくる。その時の気持ちを言葉にすれば「悪魔に喰われてしまえ」だそうである。もちろんそうでない人にも怖い点は多々ある。ただ唯一の救いは主人公の二流作家を演じているのがジャック・ニコルソンであり,ああこの人ならしょうがないかと思えること。誰の身体のすぐ傍にも狂気は存在すると言っても,凡人はこんな目に遭わなくて済むからである。キューブリックらしい螺旋式の円環の閉じ方も恐怖の1つの原因である。

遺作

「アイズ・ワイド・シャット」は,遺言がない以上明らかではないが,事実上スタンリーキューブリックの遺作となった。原作はアルトゥール・シュニッツラー の『夢がたり』(早川書房)で,それがほぼ全面的に現代のニューヨークに置き直されている。これがなぜR18指定なのか私にはよく分からない。確かに乱交パーティはあるがただの背景に過ぎず,この映画の本質ではない。妻の側の見る悪夢はほとんど映像化されておらず,ただ彼女の口から語られるだけである。また様々な解説で「のぞいてはいけない裏の闇の世界を描いている」とか「ブルジョア,ハイ・ソサエティの腐敗」とか,「性の深遠」などと書かれているが,いずれも当たっていないのではないか。1つの鍵はアイズ・ワイド・シャット(Eyes wide shut)という言葉の訳し方であろう。原作から察するに,私は「目を開けていようがいまいが」,つまり生きていることは死んでいることと同じことで,当然,現実と夢の間に区別はない。どちらが夢でどちらが現実といっても間違いではない。そこに境目はあっても同一の地平だ,というキューブリックの初期から一貫している永劫回帰の表現であろうと思う。それがたとえ性の領域を含んだとしても。あるいはこうも言えるだろうか。永劫回帰が成立するうえでの重要な要素は暴力であり,生という一本の線が円環を成すためのリンクが「性」だ,と。ハイソサエティ,インテリ熟女の二コール・キッドマンは必見で,これならR18指定でも納得できる。しかし,トム・クルーズ,二コール・キッドマン夫妻がこの映画の撮影が原因で離婚に至ったのはなぜだろうか。最後の二コール・キッドマンのせりふは「私たちセックスしましょ」だったのに。撮影はすべてイギリスで行われた。ヒッチコックに倣ったのか,ジャズバーの客の一人としてキューブリック自身が顔を見せている。これがキューブリックの遺言だ,といわれれば私は納得するにやぶさかではない。