映画「美しい諍い女」物語編(13)
「じゃ,女性陣のところへ戻ろうか?」
「待って,気付の酒は?」(これで終わったのでは役目が果たせないとバルタザールは思ったのである。探偵注)
「ここに泊まる気か?」(ここに泊まられたら堪らない,と画家は思ったのである。探偵注)
「でもここは気分が落ち着く。」
「いたくもないね,来るのがいやなんだ。
新作をみると苦痛に耐えられない。
「でも,ここは涼しいじゃないですか?静かだし...」
「静かだと?森の音は?
ざわめきや,ささやきは? 海と同じだ。
それが絵画だ。そう思わんか?」
「僕にとっては違います。絵画は描線です。
浮きでる色... やまぶき色や鮮烈な赤。
明確に仕上げたもの。」
「そうか。」
言い聞かせる。
もう少し描き込むべきでは...
「もっと大胆にやろう,
危険を冒してみろ」とね。
「その結果絵をだいなしにしたことは?」
「何度もあるよ。」
「でも危険を冒すんだ。だが,誰もが独創性に向くわけではない。」
「平凡な芸術家でも危険は冒すべきだ。」
(急に大声で)「めっそうもない。才能のない者にそんな資格はない。」
「じゃあ,彼らはどうすれば?」
「他人に追随するだけさ。」
ほらみろ,きまずくなったじゃないか(探偵)。
「また描きはじめろよ。」
「だめだ,根気が続かない。興味もまるで持てない。
描くなら傑作を描く。」
「モデルはリズだ。もう遅すぎるし... 破局寸前になった...」
「マリアンヌはどうだ?」
......彼女なら描けるかも知れん。
「間違いない。それは彼女だ。」
「彼女をモデルに描くんですか?」
「そうだ,それしかない。試みる価値はある。」
バルタザールはニコラを促すように酒を注いだ。
「君たちの出発は?」
「2日後だけど,特に予定はない。」
「急ぐことはないだろ?」
「分かった,やらせます。」
「私が市場価格で買うよ。」
「紳士協定か!」
「帰るかな,今から120キロの旅だ。」
画家は決心を固めるように,ワインの栓を閉めると,アトリエを見渡した...
「飛ばすぞ。」
「今度の彼女は?」
「えー,ナターシャ。」
「まあ,今考え付いた名前ね?」
「よろしくな。」
「ああ,さらば愛しき女よ。」
バルタザールはリズに別れのキスをした。(注)
「またね。すぐ会える。」
「おやすみ,マリアンヌ。」
「ニコラ,アデュー。」
「僕らも帰ろう。」
「あなた達も逃げるの?発つ前に会えるわね?」
「当然だ。」
「もちろん。」
「....」
昔の画家とモデルは城内に消えた。(続く)
注:「さらば愛しき女よ」("Adieu ma belle")はチャンドラの小説の題である。ヌーヴェル・ヴァーグの監督達はアメリカの探偵小説(ハード・ボイルド)を高く評価している。当ブログの前の記事を参照。
芸術家とその妻,モデル(1) 高村光太郎,智恵子の場合
「手」,ブロンズ,高村光太郎作
暴風(しけ)をくらった土砂ぶりの中を
ぬれ鼠になって,
買った米が一升
二十四銭五厘だ
くさやの干ものを五枚
沢庵を一本
生姜の赤漬
卵は鳥屋(とや)から
海苔は鋼鉄をうちのべたやうな奴
薩摩あげ
かつおの塩辛
湯をたぎらして
餓鬼道のやうに食ふ我等の晩餐
(中略)
われらの晩餐は
嵐よりも烈しい力を帯び
われらの食後の倦怠は
不思議な肉慾をめざましめて
豪雨の中に燃えあがる
われらの五体を驚嘆せしめる
まづしいわれらの晩餐はこれだ。
「晩餐」,智恵子抄より,高村光太郎
二人が互いにガツガツと喰らい,ガツガツと求め合っていることを微塵の後ろめたさもなく書ききっている。二人の新婚時代の作品である。二人が愛し合っていることを疑うものは誰もいないであろう。光太郎は「欲望の深さが私を造形美術に駆り立てる」と述懐している。彼は画家ではなかったので智恵子の肖像画は残していないが,智恵子の死後佐藤春夫の勧めで製作した「二人の裸婦像」は智恵子がモデルである。
その像が傷んで修復された際に詠んだ詩が,光太郎の絶筆になった。
どんな造形が行はれようと
無機質の図形にはちがいがない。
はらわたや粘液や脂や汗や生きものの
きたならしさはここにはない。
地上に割れてくづれるまで
この原始林の圧力に堪へて
立つなら幾千年でも立ってろ
私の理解では,高村光太郎ほど正直であり,またそれをストレートに表現した人はかつてなかったと思っている。
高村光太郎の場合は実生活でもそうであったが,私の言いたい「正直」とは作品に向かうときの態度である。探偵などかつてその端くれの,ほんの入り口のところに居たに過ぎないが,芸術に携わる者はすべて正直である。そうであらざるを得ないのだ。ごまかしや思い上がりは一切通用しない。それには相当の覚悟がいる。文字通り体力がいるのである。しかも,それが一回,一回新たに始める勝負であり,過去の実績は役に立たない,創造の世界である。
そのようにして捕らえた「生」を作品と呼ぶわけであるが,作品は上記の詩で光太郎が述べているように,実の智恵子には及ばないものなのだ。探偵はこのような形で作品を産み出す力をファンタジーと呼びたい。現実を再現することではない,という意味である。言い換えれば,それは現実以下であり,そしてあるときには現実以上のものだ。
嵐山光三郎の「文人悪食」に光太郎が取り上げられている。芸術家に対する尊敬があふれた文章に,つぎのような部分がある。この「幻視」と言う部分をファンタジーと読み替えていただきたい。
- 思いあまった光太郎は,智恵子を故郷の安達太良山に連れて行くが,智恵子の精神的障害はすでに進行している。智恵子が言う「ほんとの空」は幻視であり,芸術的欲求であることに光太郎はうすうす気づいている。あまりに純真で痛々しい幻視である。
















































