国宝・重要文化財指定の建造物 -3ページ目

国宝・重要文化財指定の建造物

全国の国宝・重要文化財に指定された建造物についてのブログです。

このブログについて:

山梨県山梨市・石和地域で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

この地域の文化財について:

甲府盆地の東部に位置する山梨市と笛吹市からなるこの地域は、古くから開け、中世には甲斐源氏武田氏の本拠地が、近世には江戸幕府御三卿の陣屋が置かれるなど、甲斐の政治経済文化の中心地として発展してきました。
この地域には、国宝の清白寺仏殿をはじめ室町時代から江戸時代にかけての優れた社寺建築が多く残されています。
(参考:山梨市資料)

文化財マップ:

山梨市
清白寺仏殿
清白寺庫裏
天神社本殿
窪八幡神社本殿
窪八幡神社拝殿(庁屋)
窪八幡神社摂社若宮八幡神社本殿
窪八幡神社摂社若宮八幡神社拝殿
窪八幡神社末社武内大神本殿
窪八幡神社末社高良神社本殿
窪八幡神社末社比咩三神社本殿
窪八幡神社神門
窪八幡神社鳥居
中牧神社本殿
上野家住宅主屋、文庫蔵、質蔵、穀蔵、表門
笛吹市
浅間神社摂社山宮神社本殿
慈眼寺本堂、庫裏、鐘楼門
山梨岡神社本殿

 

 

国宝の禅宗様仏殿

清白寺


せいはくじ
山梨市三ケ所
清白寺仏殿35.693743, 138.708088
国宝・室町中期
桁行三間、梁間三間、一重もこし付、入母屋造、檜皮葺
清白寺庫裏35.693959, 138.708382
江戸中期
桁行17.5m、梁間12.2m、一重、切妻造、妻入、茅葺、北面庇付、鉄板葺

清白寺は、東山梨の田園地帯に位置する臨済宗の寺院で、夢窓疎石(国師)を開山とし、足利尊氏が正慶2年(1333)に創立したと伝えられます。
仏殿の建立年代は墨書から応永22年(1415年)であるとされています。清白寺は天和2年(1682年)の火災で伽藍、塔頭のほとんどを焼失しましたが、仏殿のみ羅災をまぬがれています。庫裏は天和の火災後,元禄2~6年(1689~1693)の間に再建されたと考えられています。
仏殿(左)と庫裏(右)



仏殿

・禅宗様の方三間の裳階付き入母屋造、桧皮葺の仏殿で、石積基壇上に建つ
・禅宗様仏殿の代表例である円覚寺舎利殿や正福寺地蔵堂と比較すると規模がやや小さい

・花狭間を用いた桟唐戸、花頭窓、波形連子の弓欄間や、長押を用いない軸部、頭貫先の木鼻など禅宗様の装飾が見られる
・裳階の垂木は疎垂木に配している

・身舎軒廻りには禅宗様の特徴である扇型垂木、詰組が見られる
・組物を尾垂木付の三手先とはせずに出組として簡素化している



庫裏

・切妻造,妻入,茅葺の大規模な建物
・平面は正面側(南側)に土間を設け,床上は棟通りで東西に二分し,西側を客室部,東側を居室部とする

・正面妻は、白漆喰壁に三重の虹梁を架け、下段に花肘木と三斗、中段には板蟇と双斗、上段には大瓶束をたてる

アクセス
中央本線東山梨駅東750mです。
見学ガイド
清白寺の仏殿及び庫裏は常時自由に見学することができます。

感想メモ
仏殿は構架を簡素化しているとのことですか、煩雑な部材を省略して軒廻りを美しく見せているようにも思えます。
(2021年5月訪問)

参考
山梨県公式サイト

 

 

武田氏の崇敬を受けた神社

天神社本殿


てんじんじゃほんでん
山梨市大工
天神社本殿35.713646, 138.663485
室町後期
一間社流造、檜皮葺

天神社は山梨市駅北方の丘陵地に鎮座します。創立についての詳細は不明ですが、中世には武田氏の崇敬をうけていました。本殿は大永2年(1522)に武田信虎によって再建されたことが明らかになっています。
・一間社流造、檜皮葺
・背部の脇障子が江戸時代の改修により旧規を失っているが、他は室町時代後期の姿をよく残す

・窪八幡神社武内大神本殿と同様に、繋虹梁は身舎頭貫をのばしたもので、身舎側木鼻もこの材からの造り出している

アクセス
JR中央本線東山梨駅から北に4.5kmです。電動アシストのシェアサイクルの利用も可能です。山梨市駅から5kmで140mの上り、塩山駅から7.2kmで、100mの上りです。
見学ガイド
本殿は背の低い瑞垣に囲われていますが、瑞垣内に立ち入ることができるので、近くから見学することができます。

感想メモ
アクセスはちょっと大変でしたが、古風な社殿を近くから見ることができました。
(2021年5月訪問)

参考
山梨市公式サイト

 

 

武田家代々の氏神

窪八幡神社


くぼはちまんじんじゃ
山梨市北
窪八幡神社本殿35.704813, 138.689764
室町後期
十一間社流造、檜皮葺
窪八幡神社拝殿(庁屋)35.704769, 138.689889
室町後期
桁行十一間、梁間三間、一重、切妻造、檜皮葺
窪八幡神社摂社若宮八幡神社本殿35.704944, 138.689858
室町中期
三間社流造、檜皮葺
窪八幡神社摂社若宮八幡神社拝殿35.704909, 138.689975
室町後期
桁行四間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺
窪八幡神社末社武内大神本殿35.704711, 138.689695
室町後期
一間社流造、檜皮葺
窪八幡神社末社高良神社本殿35.704591, 138.689832
室町後期
一間社隅木入春日造、檜皮葺
窪八幡神社末社比咩三神社本殿35.704555, 138.690237
江戸前期
一間社流造、銅板葺
窪八幡神社神門35.704469, 138.690642
室町後期
四脚門、切妻造、檜皮葺
窪八幡神社鳥居35.703873, 138.692102
室町後期
木造両部鳥居

窪八幡神社は笛吹川右岸の窪集落に鎮座します。正式には大井俣窪八幡神社と呼ばれ、貞観元年(859年)に宇佐神宮の八幡三神を笛吹川の中島の大井俣に勧請したのが始まりであると伝えられています。その後、何回かの水害で流されて現在地へ遷座して窪八幡宮と呼ばれるようになりました。
窪八幡神社は武田家代々の氏神として崇敬されてきました。若宮八幡神社、末社武内大神(たけのうちだいじん)社も、本社鎮座と同時に勧請されたと伝えられています。比咩三(ひめさん)神社は、本社創建当時は正殿に合祀されていましたが、康平6年(1063)に源義光が神殿を建立のうえ遷し祀ったと伝えられます。
本殿:
・墨書から永正16年(1519)頃の建立であるとされる
・三間社流造の三殿が、一間の相の間をはさんで連結され、これをひと続きの屋根に収めて十一間社流造とした特異な形式の連棟社殿
・屋根は桧皮葺で、向拝は身舎前面にひと続きに付いている

本殿左端社殿の正面:
・身舎のほか、向拝も円柱であるのは珍しい
・中央を幣軸構えとして両開き板唐戸、両脇間は板壁(ガラス板で保護)
・身舎前面と側面に刎高欄つきの榑縁(くれえん)をめぐらし、中央間にのみ擬宝珠高欄つきの階段を設ける
・一般的に神社本殿は切目縁だが、窪八幡神社は本社、摂社とも榑縁であるのが珍しい
・相の間(写真右端)には嵌殺し格子戸を嵌める

本殿身舎左端の組物(奥)と向拝左端の組物(手前):
・身舎、向拝とも平三斗であるが、両端部のみ連三斗
・頭貫先端には木鼻

本殿左側面:
・妻飾りは豕杈首(いのこざす)組
・各社殿の身舎隅柱から向拝柱に繋虹梁を架している

本殿背面:
・相の間背面も三棟の三間社背面と同じ板壁であるため、一体の十一間社のように見える
・窪八幡神社の摂社・末社は脇障子を立てないのが特徴だが、本殿は両端に脇障子を備える

拝殿:
・十一間社流造の本殿に対応する桁行11間の長大なもので、社務所を意味する「庁屋」とも呼ばれている
・墨書から弘治三年(1557)頃に建設されたものと考えられている
・右側2間は窓のない板張りの御供所で、礼拝部は残りの9間
・出入口は全体の中央に設けられているため、礼拝部だけを見ると左右非対称な形になる
・御供所を除いた柱間は、腰貫と長押間に吹放ち窓をめぐらし、他は嵌板壁
・軒は一軒疎垂木、屋根は桧皮葺の切妻造

拝殿左側面

若宮八幡神社本殿:
・武田信昌によって応永7年(1400)に建立されたとされ、窪八幡神社社殿のなかでは最も建築年代が古いもの
・三間社流造で、そりの大きな古風な造り
・身舎柱、向拝柱ともに井桁組の一連の土台上に建てられており、身舎は円柱で、向拝は面取り角柱
・正面中央1間を幣軸構えとし、両開きの板唐戸、ほかは板壁

若宮八幡神社本殿左側面:
・妻は豕杈首組で、破風には猪目懸魚
・軒は前面一軒、背面二軒の繁垂木
・正面と両側には刎高欄つき榑縁をめぐらせるが、背面では高欄を欠き、脇障子もない特殊な様式
・身舎(朱色の柱)、向拝(黒色の柱)とも端部は連三斗で、他は身舎が平三斗で、向拝が出三斗
・向拝の頭貫先端の肘木鼻は古い手法

若宮八幡神社拝殿:
・天文5年(1536)、武田信虎によって建立されたと考えられている
・桧皮葺入母屋造の簡潔な建物で、柱はすべて面取り角柱、組物は舟肘木、軒は一軒疎垂木
・桁行4間、梁間3間で、左側3間が拝殿で、中央1間を本殿の中心線とあわせて社殿が配されている
・出入口両脇間および左側面は腰貫と内法貫間に吹放ち窓を配する
・右端の1間は板張りの御供所

武内大神本殿:
・明応9年(1500)建立と考えられている
・桧皮葺の一間社流造で、身舎、向拝とも井桁に組んだ一連の土台上に柱を立てている
・正面は幣軸構えとし、両開きの板唐戸を吊り込み、その他は板壁
・正面・側面には刎高欄つき榑縁をめぐらすが、脇障子は設けない

武内大神本殿左面の組物: 
・向拝柱(右の面取り角柱)、身舎柱(左の円柱)とも柱上の組物は連三斗で、木鼻上の巻斗で受けるなど技巧的

武内大神本殿左側面: 
・繋虹梁は身舎頭貫をのばしたもので、身舎側木鼻もこの材からの造り出した特異な手法

高良神社本殿:
・武内大神本殿と同時期に再建されたもの
・桧皮葺の一間社隅木入春日造
・通常の春日造は身舎の軒幅いっぱいに向拝が付くが、この社殿は内側に幅を狭めて向拝を設けている点が特徴
・正面は幣軸構えとし、両開き板唐戸を吊り込み、ほかの柱間は板壁で、軒は二軒繁垂木
・四周に刎高欄つき榑縁をめぐらし、脇障子は設けない

高良神社本殿の軒廻り:
・中央の身舎柱の組物は平三斗で、右の向拝柱の組物は連三斗
・頭貫先端はいずれも繰形つき木鼻
・身舎と向拝柱を結ぶ繋虹梁が身舎頭貫の下から渡されている点が、武内大神本殿とは異なる

比咩三神社本殿:
・一間社流造の小規模な社殿であり、建物は切石積み二重基壇上に建ち、身舎柱と向拝柱は井桁に組まれた一連の土台上に建てられている
・正面と両側面に榑縁をめぐらし、高欄と脇障子は設けない
・正面には幣軸構えで金箔押しの両開き板唐戸
・向拝は面取り角柱、組物は平三斗で中備も平三斗
・頭貫先端は繰形つき木鼻

神門:
・永正8年(1511)に武田信虎が建てたものとされている
・1間1戸の四脚門で、屋根は桧皮葺の切妻造
・箱棟には武田菱、花菱紋をつける
・全体に木割の太い門

神門内部: 
・梁上の板蟇股が斗を介して棟を支える

・神門前の石橋も当初の状態をよく残しており、附指定されている

鳥居: 
・天文4年(1535)の再建によるものと考えられている
・木造の両部鳥居で、高さ約7.41m、横幅約5.91m
・現存の木造鳥居のなかで最も古い遺構

・鳥居の柱頭に台輪が付き、反りのある島木・笠木を支える
・笠木上には銅板葺きの屋根

アクセス
中央本線東山梨駅から北西に2kmです。山梨市駅と塩山駅の駅前の電動アシストレンタサイクルを利用することもできます。山梨市駅からは2.5km、塩山駅からは4.5kmで、ほぼ平坦なルートです。
見学ガイド
各社殿はいつでも自由に見学することができます。本殿の前面は立ち入りが制限されているので、側面から見ることになります。背面に回り込むこともできます。本殿、拝殿とも規模の大きな建造物で、周囲に植栽が多いことから全体像を収める視角は限られています。重文指定されたすべての社殿は南東に面しています。

感想メモ
室町時代の檜皮葺の社殿が立ち並ぶ姿は壮観です。少し離れた場所にある鳥居も古風で趣があります。畿内以外で室町以前の文化財が、これだけまとまって残されているところは他にあまりないように思います。
(2021年5月訪問)

参考
現地解説板、山梨県公式サイト

 

 

清楚な室町建築

中牧神社本殿


なかまきじんじゃほんでん
山梨市牧丘町千野々宮
中牧神社本殿35.756858, 138.707091
室町後期
一間社流造、檜皮葺

中牧神社は甲府盆地の北端、牧岡の田園地帯に鎮座します。神社の創始は不明ですが、現在の本殿は、棟札から文明10年(1478)の造営であることが明らかになっています。
本殿右側面: 
・1間社流造、桧皮葺で、背面2間、梁間1間
・すべて素木造で装飾が少なく、簡素な社殿だが、深く折れた破風や彫刻類の力強い曲線など細部は室町時代の特徴をよく示している

本殿向拝:
・手挟は置かず、直線的な虹梁で身舎を繋ぐ

本殿右側面:
・妻は古風な豕扠首が用いられている

アクセス
中央本線塩山駅から西沢渓谷行きのバスで室伏下車、徒歩20分です。本数は少ないですが、神社近くまで入る塩山からのコミュニティバスもあります。塩山駅からは7kmで、駅前の電動アシストレンタサイクルを利用することもできます。200mの上りで後半はやや急ですが電動アシストなら何とかなる範囲です。途中、向岳寺、恵林寺を経由します。
見学ガイド
本殿はいつでも自由に見学することができます。前面は拝殿に視角が遮られますが、側面は背の低い瑞垣で囲われているだけなので、よく見ることができます。

感想メモ
飾り気のない清楚で美し室町建築です。江戸時代の職人さんもこういうのを受け継いでくれたら良かったのですが、彫刻でコテコテにしないと施主さんが納得してくれなかったのでしょうか。
(2021年5月訪問)

参考
現地解説板、山梨県公式サイト

 

 

洗練された装飾意匠の室町建築

山梨岡神社本殿


やまなしおかじんじゃほんでん
笛吹市春日居町鎮目
山梨岡神社本殿35.664606, 138.638740
室町後期
桁行二間、梁間一間、隅木入春日造、こけら葺

山梨岡神社は甲府盆地の北東部、御室山の山裾に鎮座する式内社です。社記によれば、はじめは三室山(御室山)に祀られましたが、その後、第13代成務天皇のときに山麓の山梨岡の地に遷座されたとのことです。山梨岡は山梨の地名発祥の地であるとされており、山梨岡神社は、古くから近郷の村々の産土神として信仰を集め、中世には武田氏代々の崇敬をうけました。
現在の本殿の建立時期は明らかではありませんが、様式や手法から室町時代の建築であると推定されています。
・隅木入り春日造、檜皮葺の規模の大きな社殿
・桁行2間、梁間正面1間、背面2間で、正面に1間の向拝を付ける
・全体に変化に富む技法や、洗練された装飾意匠など、室町建築の特徴が見られる

・出組で中備は蟇股、軒支輪を持つ複雑な構成
・繋虹梁は直線的で古風

・向拝中央二も蟇股を置く

・二軒で、隅木を力強く突き出す

・背面も出組、軒支輪付きで凝った意匠としている

・室町時代の特徴が表れた繊細な意匠の蟇股
・写真上段から、左側面、右側面前方、右側面後方

アクセス
JR中央本線石和温泉駅下車、北1.2kmです。
見学ガイド
山梨岡神社は常時自由に参拝することができます。本殿は瑞垣越しに拝観することができます。

感想メモ
室町建築のお手本のような洗練された意匠の社殿です。三室山は美しい円錐形描き、古来から信仰の対象とされてきたことが頷けます。
(2024年3月訪問)

参考
山梨県公式サイト
このブログについて:

茨城県土浦・つくば・県南地域で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

土浦市
旧茨城県立土浦中学校本館
古河市
旧飛田家住宅
石岡市
善光寺楼門
龍ケ崎市
来迎院多宝塔
下妻市
大宝八幡神社本殿
常総市
坂野家住宅主屋、書院、文庫蔵、表門
取手市
竜禅寺三仏堂
牛久市
シャトーカミヤ旧醸造場施設事務室、貯蔵庫、醗酵室
つくば市
大塚家住宅
旧矢中家住宅本館、別館
筑西市
内外大神宮内宮本殿、外宮本殿、御遷殿
稲敷市
平井家住宅
横利根閘門
かすみがうら市
椎名家住宅
桜川市
小山寺三重塔

 

 

明治のゴシック風建築

旧茨城県立土浦中学校本館


いばらきけんりつつちうらちゅうがっこうほんかん
土浦市真鍋4丁目
旧茨城県立土浦中学校本館36.097417, 140.202659
明治
木造、建築面積987.9m2、一階建、スレート葺

旧茨城県立土浦中学校本館は、土浦の市街地北部、土浦第一高校の構内に位置します。明治30年、茨城県尋常中学校土浦分校が設置され、その後、土浦中学校として独立し、明治37年に現在残る旧本館が建設されました。設計は、辰野金吾の弟子で茨城県技師の駒杵勤治です。
・ゴシック風建築で、尖塔、玄関の三連アーチ、桜色と濃茶の配色が特色
・中心性を強調した左右対称の建築で、平面は凹字型
・全国の旧制中学の建築が簡素なバラック建築である中、県内には駒杵による芸術性の高い校舎が多く建築された

・壁面には構造部材ではない付け柱を多用しており、当時流行した米国の木骨様式の影響を示す

・左右両翼には連続的に縦長の窓を開き、垂直方向の直線を強調している
・両翼の屋根には各三個のドーマー窓を開く
・壁面は目地の開いたドイツ下見板張り
・両端部には破風を置き、意匠を枯らしている

・西側側面は簡素な意匠だが、出入口の破風にはアーチが用いられており、屋根上にはアカンサスの装飾が残されている
・西面に沿って内廊下が設けられ、その奥が教室
・これは西日を避けるためで、当時の学校建築の標準的な仕様

・北側背面は凹型平面で、中庭を取り囲む

・玄関の三連アーチの支柱にはアカンサスの柱頭飾が施されている

・玄関ホールは外観と連続性のある意匠としている
・天井が非常に高いのも、この建物の特徴

・校長室の出入口や天井は意匠が凝らされている

アクセス
JR常磐線土浦駅からバスで土浦一高前下車すぐです。
見学ガイド
旧本館は高校の構内にあり、通常は非公開です。年に数回一般公開されます。

感想メモ
旧本館の側面の一部は公道から見ることもできますが、正面のアーチ等、この建物の特徴的な部分については、植栽が多く、周辺道路と高低差もあるため、公道から見ることはできませんでした。
(2020年9月訪問)
コロナが収束して旧本館の特別公開が再開されていたので訪問しました。午前中に着いて内部を見学しました。保存協力金を出したらお土産に屋根のスレートをいただきました。少額なのに申し訳なかったです。午前中は曇っていたので、写真はあきらめて矢中家に。午後は快晴で、矢中家からの帰路に立ち寄ると、青空に尖塔が美しくそびえていました。
(2025年4月再訪)

参考
県立土浦第一高校公式サイト、現地パンフレット、土浦市公式サイト

 

 

曲屋の特徴を持つ住宅

旧飛田家住宅


とびたけじゅうたく
古河市鴻巣
旧飛田家住宅36.176373, 139.701580
江戸中期
桁行16.9m、梁間6.6m、南面突出部 桁行4.7m、梁間5.6m、寄棟造、北面土庇附属、茅葺

飛田家住宅は、渡良瀬川左岸の公万公園内に移築保存されています。もとは常陸太田市に建てられていました。建築年代は18世紀前半と推定され、北関東から東北地方によく見られる曲屋の特徴を持つ住宅です。茨城県下の曲屋形式としては最も古いとされています。
・L字形の左が厩で、右が居室部

居室部内部: 
・手前が板の間、奥、左から、部屋、座敷、前室

アクセス
JR東北本線古河駅から徒歩30分です。旧飛田家住宅は公万公園内にあります。駅南側ガード下の駐輪場(駐車場よりもさらに南)で、レンタサイクルを貸し出しています。自転車を利用すれば、駅からは逆方向ですが、栃木県の旧下野煉化製造会社煉瓦窯にも行くこともできます。
見学ガイド
公園は常時開園していますが、旧飛田家住宅周辺には公開時間(月火を除く9:00~17:00)以外は立ち入ることができません。公開時間中は内部も見学することができます。

感想メモ
曲屋というと東北地方のイメージが強いですが、関東にも残っているのは意外な感じがしました。
(2020年10月訪問)

参考
茨城県教育委員会公式サイト

 

 

未完成の楼門

善光寺楼門


ぜんこうじろうもん
石岡市太田
善光寺楼門36.304695, 140.198704
室町後期
三間一戸楼門(軒以上を欠く)、寄棟造、茅葺

善光寺は石岡市北部の田園地帯に位置します。室町時代の文亀元年(1501)に小田城(つくば市)の城主・小田成治の母が開いたものとされており、元禄14年(1701)に現在地に移されました。楼門は室町時代に旧所在地に建てられたものであると考えられています。
・室町後期の建築細部様式を持ち、地方的特色を表わした建造物で、行方市の西蓮寺仁王門に類似
・ニ階部分を造りながらも、何らかの原因により完成を断念したものと考えられている

・中央間の開口部

・側柱は上部粽付とし、台輪をまわし肘木の組物を乗せ、上層の縁となるよう張られた切目板を支える
・この上に未完成の上層の円柱が並ぶが、屋根で覆われているため見ることができない

アクセス
JR常磐線羽鳥駅からバスで恋瀬小学校前下車、北に1.2kmです。
見学ガイド
楼門は常時自由に見学することができます。

感想メモ
未完成の門ですが、違和感はそれほどありませんでした。
(2021年11月訪問)

参考
現地解説板、石岡市公式サイト

 

 

禅宗様の特徴が見られる多宝塔

来迎院多宝塔


らいごういんたほうとう
龍ケ崎市馴馬町
来迎院多宝塔35.917650, 140.171552
室町後期
三間多宝塔、こけら葺

来迎院は龍ケ崎の市街地東方の田園地帯に位置します。弘治2年(1556)頃に境内が整えられた天台宗寺院で、多宝塔も同時期に建立されたものです。
・こけら葺きの三間多宝塔
・下層は各面中央間に桟唐戸を配し、両脇間は一枚の欅材の板壁
・上層は各柱間に幣軸が立つ

・上・下層とも禅宗様の組物で下層は出組、上層は四手先
・当地で活躍していた前嶋大工の手になり、同大工による薬王院本堂(水戸市)などと共通する意匠をもつ

アクセス
関東鉄道竜ヶ崎駅から徒歩20分です。竜ヶ崎駅のレンタサイクルも利用することができます。
見学ガイド
多宝塔は墓地の中にあります。いつでも自由に見ることができます。

感想メモ
墓地の中に取り残されたような感じでした。
(2020年9月訪問)

参考
文化遺産オンライン、現地解説板

 

 

桃山建築としては落ち着いた意匠

大宝八幡神社本殿


たいほうはちまんじんじゃほんでん
下妻市大宝
大宝八幡神社本殿36.204838, 139.971405
桃山
三間社流造、茅葺形銅板葺

大宝八幡神社は下妻市北部の田園地帯に鎮座します。大宝元年(701)、藤原時忠公が筑紫の宇佐神宮を勧請創建したのがはじまりとされています。天台宗の古い経文の奥書の記録から、平安末期にはすでにこの地で八幡信仰が盛行していたことが窺えます。本殿は、天正5年(1577)に下妻城主多賀谷下総守尊経が建立したものです。
・本殿は三間社流造で、建ち上がりが高く、柱も太くい重みのある建築

・木割の大きさに比べて組物は小柄で複雑に組合わされ、また、派手な装飾は見られず落着いた意匠(写真は左側面)

アクセス
関東鉄道常総線大宝駅下種。駅のすぐ東側です。
見学ガイド
本殿は瑞垣越しにいつでも自由に見ることができます。

感想メモ
桃山時代の建築としては、非常に落ち着いた意匠でした
(2020年9月訪問)

参考
茨城県教育委員会HP、大宝八幡公式サイト

 

 

周囲に堀を巡らせた名主の屋敷

坂野家住宅


さかのけじゅうたく
常総市大生郷町
坂野家住宅主屋36.066522, 139.955432
江戸中期・後期
居室部 桁行18.3m、梁間14.2m、東面突出部 桁行7.3m、梁間8.4m、寄棟造、西面濡縁付
座敷部 桁行10.7m、梁間6.5m、南端寄棟造、北端主屋に接続、玄関入母屋造、便所附属
総茅葺
書院36.066485, 139.955249
大正
建築面積115.95平方メートル、寄棟造、二階建、桟瓦葺、東渡廊下二所附属
文庫蔵36.066625, 139.955206
明治
土蔵造、建築面積35.28平方メートル、桟瓦葺、南渡廊下附属
表門36.066224, 139.955870
江戸後期
薬医門、切妻造、茅葺

坂野家住宅は常総市中部、鬼怒川左岸の台地に位置します。坂野家はこの地に土着してから五百年ほどになると言われ、有力な名主でした。その屋敷地は、1ヘクタールにおよび、周囲に塀を巡らしています。主屋は、18世紀初め頃に建てられたと考えられる居室部と、増築された座敷部からなります。


主屋

居室部東南面

・居室部は木割の大きい柱・梁で構成されている

・写真上から、座敷部の式台付の玄関(東北面)、東南面、南西面



書院

・離れとして造られた建物で、現存する書院は棟札にある大正9(1920)年に建替えられたもの
・伝統的な技法によるが、ガラス建具やテント生地の巻上げ日除けといった新しい技術も取り入れられている



表門

・上段写真は外側で、下段は内側
・武家屋敷に設けられる薬医門形式であり、当時の坂野家の格式の高さが窺える

アクセス
最寄駅は関東鉄道常総線三妻駅ですが、坂野家までの公共交通機関がなく、距離が4.6kmあります。これに代わるルートとしては水海道駅下車でレンタサイクルを利用するものがあります。距離は約8kmで多少のアップダウン、自転車は変速なしと、やや厳しい条件ですが、何とかなる範囲かと思います。
見学ガイド
坂野家住宅は水海道風土博物館として有料で公開されています。主屋の内部も見ることができます。主屋正面は南東・北東方向に開いているので、午前中の方が光の具合は良いと思います。

感想メモ
公共交通でのアクセスは大変でしたが、静かな環境のなかの立派なお屋敷で、ゆっくり過ごすことができました。
(2020年9月訪問)

参考
常総市公式サイト

 

 

三方に裳階が付く珍しい様式の仏堂

竜禅寺三仏堂


りゅうぜんじさんぶつどう
取手市米ノ井
竜禅寺三仏堂35.922541, 140.023479
室町後期
桁行三間、梁間四間、一重、両側面及び背面もこし付、寄棟造、茅葺、もこし板葺

竜禅寺は利根川左岸の台地上に位置する天台宗の古刹で、天慶2年(939年)の創建とも伝えられています。釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒菩薩の三仏を祀る三仏堂は、永禄12年(1569)の墨書から、このころに建立されたものと考えられています。
・茅葺き、寄棟造り、桁行三間、梁間三間で左右と背面に裳階が付く
・三方に裳階が付く形式の建物は、他に例を見ない

左側が本堂背面

・正面のみ詰組になっている

・内部は板張りで、禅宗様の須弥壇が置かれる

アクセス
関東鉄道常総線稲戸井駅下車、徒歩10分です。駅から線路をわたり、国道を稲戸井霊園入口の看板で曲がって進むと竜禅寺の案内表示があります。
見学ガイド
三仏堂はいつでも自由に見ることができます。三仏堂は東面しているので、午前中の訪問がおすすめです。

感想メモ
屋根にむくりがあって、温かみのある曲線を描いています。正面の扉が開け放たれていたので、内部も見ることができました。何かの行事の準備をされていたのかもしれません。
(2020年9月訪問)

参考
取手市公式サイト

 

 

太田道灌の系譜をひく旧家

大塚家住宅


おおつかけじゅうたく
つくば市栗原
大塚家住宅36.130980, 140.120680
江戸中期
桁行18.5m、梁間11.6m、西面突出部 桁行4.8m、梁間5.7m、寄棟造、茅葺、東面庇付、桟瓦葺

大塚家住宅は筑波山南方の田園地帯に位置します。大塚家は、太田道灌の系譜をひく旧家で、代々名主を務めていました。現在の建物は正徳から享保にかけて(18世紀前期)建てられたものと伝えられています。
・県内における整形四間取の民家の初期の例で、規模も大きく質的にもすぐれている

アクセス
JR常磐線土浦駅から筑波山口行きのバスで南大杉下車、徒歩20分です。土浦駅はレンタサイクルが充実しているので、これを利用することができます。ただし電動アシストのレンタル料金は他地域よりかなり高くバスよりも高額になることもあります。土浦駅から旧筑波鉄道跡の快適な自転車道を経由して約12kmです。
見学ガイド
大場家住宅は個人所有で、現に居住されています。通常は非公開です。

感想メモ
庭で作業をされていた職人さんが入ったらいいよということだったので長屋門の内側から外観を見せていただきました。家の方にお願いしたら内部も見せていただけるとのことでした。
(2020年9月訪問)

参考
茨城県教育委員会HP

 

 

古い時代の様式を残す民家

平井家住宅


ひらいけじゅうたく
稲敷市柴崎
平井家住宅35.902518, 140.300569
江戸中期
桁行20.2m、梁間10.7m、寄棟造、西面北端便所附属、茅葺

平井家住宅は新利根川左岸の田園地帯に位置します。平井家の当初の建物は、江戸時代前期の建築で、有力者の屋敷あるいは新田開発に かかる施設であった可能性があり、江戸中期にその役割を変え、土間部を付設した民家の形式に変更されたとも考えられています。
・間口10間、奥行5間半の直家で、南正面と西側面各半間通りは後世拡張したもの
・柱頭に桁行の繋ぎ材を持たず、上屋柱が途中で省略されず一間ごとに建てられているなど古い時代の様式を示す

アクセス
JR常磐線龍ケ崎市駅、関東鉄道竜ヶ崎駅から江戸崎行きのバスで新利根小学校前下車、徒歩10分です。バスの本数が少ないですが、駅からの距離が12kmあり、片道を歩くのは無理そうです。バス以外の選択肢としては竜ヶ崎駅のレンタサイクルがあります。
見学ガイド
現地の案内板によれば、公開は火、水、木だけです。公開日以外は入口のアコーディオンフェンスが閉ざされていて敷地内に入ることはできませんが、フェンスの背が低く、植栽も少ないので、主屋は外からでもよく見ることができます。入口以外はやや背の高いブロック塀なので塀越しに見ることは難しく、視角は入口部分からに限られます。公開日であっても訪問するときは事前連絡が必要であるようです。

感想メモ
レンタサイクルを利用しましたが、この距離は街乗り用の変速のない自転車では、ちょっときつかったです(無償でサービスを提供されている関東鉄道さんも、この距離の利用は想定されていないと思います)。もし、自転車を利用するなら、交通量の少ない農道ルートを事前に調べておくことをお勧めします。googleが案内するルートは交通量が多くて危険です。
(2020年9月訪問)

参考
現地解説板、茨城県教育委員会公式サイト

 

 

利根川改修工事で建設

横利根閘門


よことねこうもん
稲敷市西代
横利根閘門35.912050, 140.494128
大正
閘室(両岸防舷材を含む)一所
閘頭部(門扉四枚、ラック棒四本、給排水扉二枚、給排水扉開閉装置一基を含む)二所
閘門外擁壁四所

横利根閘門は,利根川と常陸利根川を結ぶ横利根川の南端,利根川との合流点近くに位置しています。明治33年から昭和5年にかけて行われた内務省直轄の利根川改修工事で建設されたもので、大正10年3月に竣工しました。横利根閘門は,水位調節時の停船場となる閘室と,その両端で門扉を収容する閘頭部からなります。
手前が南側閘頭部で、奥が北側閘頭部

手前が閘室で、奥が北側閘頭部

南側の門扉

アクセス
JR成田線佐原駅下車、1.3kmです。川沿いを佐原方面に戻ります。横利根閘門には佐原駅前のレンタサイクル(大祭中、年末年始休業)も便利です。電動アシストもあります。佐原駅からは3.5kmです。
見学ガイド
横利根閘門はいつでも自由に見学できます。周辺は公園整備されていて、見学しやすくなっています。

感想メモ
開放的で美しい土木遺産です。
(2021年4月訪問)

参考
国指定等文化財DB

 

 

民家としては東日本最古の墨書が残る

椎名家住宅


しいなけじゅうたく
かすみがうら市加茂
椎名家住宅36.079199, 140.297519
江戸中期
桁行15.3m、梁間9.6m、寄棟造、茅葺

椎名家住宅は霞ヶ浦北岸の台地上に位置します。延宝2年(1674)の墨書銘が発見されており、年代が明らかな民家としては東日本最古のものであると考えられています。
・桁行15.3m、梁間9.6mの茅葺、寄棟造の直屋で南面し、西側に土間、東側に部屋を配置
・曲がり材を用いた梁組など関東の古民家にみられる特徴がある

・前面の格子窓に丸竹を用いているのも古い形式

アクセス
JR常磐線土浦駅から玉造駅行きのバスで下原下車、徒歩25分です。土浦駅はレンタサイクルが充実しているので、これを利用することができます。ただし電動アシストのレンタル料金は他地域よりかなり高くバスよりも高額になることもあります。土浦駅から霞ヶ浦湖岸の自転車道を延々と続く蓮田を眺めながら約12kmです。湖岸から椎名家のある集落までは上り坂です。
見学ガイド
椎名家住宅は現住の個人宅の敷地内にありますが、重文指定された建造物には現在は居住されておらず、常識の範囲内で敷地内に立ち入って見学することが許されています。ひろま、ざしきなどに上がって見学する場合は所有者の方の了解が必要とのことです。

感想メモ
古風な民家で見ごたえがあります。
(2020年9月訪問)

参考
茨城県教育委員会HP
このブログについて:

茨城県水戸・県北・鹿行地域で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

水戸市
佛性寺本堂  
薬王院本堂  
中崎家住宅  
八幡宮本殿  
旧弘道館 正庁、至善堂、正門
常陸太田市
旧茨城県立太田中学校講堂  
佐竹寺本堂  
高萩市
石岡第一発電所施設 本館発電機室、本館旧変圧器室、本館変電室、調圧水槽、水槽余水路、第一号水路橋、第二号水路橋、沈砂池、取水堰堤
笠間市
塙家住宅 主屋、土間
笠間稲荷神社本殿  
楞厳寺山門  
鹿嶋市
鹿島神宮 本殿、石の間、幣殿、拝殿
鹿島神宮仮殿  
鹿島神宮摂社奥宮本殿  
鹿島神宮楼門  
神栖市
山本家住宅  
行方市
西蓮寺仁王門  
西蓮寺相輪橖  

 

 

水戸藩が計画した総合大学

旧弘道館


きゅうこうどうかん
水戸市三の丸1丁目
旧弘道館 正庁 36.375330, 140.477362
江戸末期
二十四畳(床、棚、附書院付)十五畳、十二畳、二十四畳(床付)、十畳、十二畳(押入付)、六畳、玄関、入側、廊下より成る、一重、南面、北面及び玄関入母屋造、西面寄棟造、桟瓦葺
至善堂 36.375554, 140.477244
江戸末期
十二畳半(床、棚付)、十畳、十七畳半、十二畳半、十畳、畳廊下、入側、縁より成る、西面及び北面寄棟造、桟瓦葺
正門 36.375162, 140.477649
江戸末期
四脚門、切妻造、本瓦葺

 

弘道館は水戸市の中心部、水戸城三の丸跡に位置します。水戸藩第9代藩主徳川斉昭が、藩政改革の眼目として創立した藩校で、総合大学として立案され、正庁をはじめ、文館・武館・医学館・寄宿寮等の外、調練場・矢場・砲術場等が設けられました。天保12年(1841)に仮開館、安政4年(1857)に本館開式を挙げ、明治5年(1872)の閉館まで教育活動が行われました。明治戊辰の兵火と太平洋戦争で建物の焼失が多く、現在は正門と土塀の中に正庁・至善堂などが残っています。

 


正庁
 
・上段写真が正面で、下段が左側面
・学校御殿とも呼ばれる弘道館の中心建築の一つで、試験などが行われた
 

 


至善堂
 
・渡り廊下で正庁と接続されている
・藩主臨場の際は休憩所、そのほかの場合は藩主子弟の勉学所でもあった
 

 


正門
 
・上段写真が外面で、下段が内面
・総欅造本瓦葺の四脚門で、藩主臨場や特別な行事の場合にのみ使用された
 
・渦巻き紋の木鼻や、曲がりの大きな海老虹梁など禅宗様の特徴が見られる
 
・前面の控柱には戊辰戦争の弾痕が残る
 
アクセス
JR常磐線水戸駅下車、北600mです。
見学ガイド
旧弘道館は有料で公開されています。建物内部も見学することができます。公開時間は9:00~17:00で、冬季は閉館が30分早まります。

 

感想メモ
水戸のランドマークになっている正門ですが、控柱には明治時代の弾痕が残り、時代の荒波を感じさせます。
(2021年2月訪問、12月再訪)

 

参考
茨城県教育委員会公式サイト、水戸市公式サイト

 

 

分棟型の民家

塙家住宅


はなわけじゅうたく
笠間市安居
塙家住宅 主屋 36.291215, 140.335030
江戸後期
桁行13.5m、梁間9.3m、寄棟造、茅葺
土間 36.291283, 140.335113
江戸後期
桁行13.2m、梁間6.7m、寄棟造、妻入、茅葺

 

塙家は、武家出身で主君が転封になった時に当地に帰農したと伝えられる旧家です。
塙家住宅は、分棟型で、座敷・居間・寝室などから成る床を張った主屋と、炊事や農作業用の広い土間の一部に馬屋を設けた釜屋(土間)の二つの建物が棟を別にし、互いに軒を接して建てられています。
左側の寄棟が主屋で、右側のかぶと造妻入りが土間
 

 


主屋
 

 


土間
 
・主屋と土間の接合部には排水のため大きな雨どいが設けられている
 
・手前が土間で、奥の床張りが主屋
・室内は二棟で一体的な空間を構成している
 
アクセス
本数が非常に少ないですが、平日はJR常磐線岩間駅からバス便があります。このほか、石岡駅の電動アシストレンタサイクルも利用することができます。塙家住宅まで14kmと、少し距離があり、小美玉市に入ると小さな丘をいくつか越えるのでアップダウンが多くなります。電池の残量が少し心細くなるので省エネ運転をおすすめします。
見学ガイド
塙家住宅は、現住の民家の敷地内にあります。常識的な時間帯であれば、建物内部も見ることができます。

 

感想メモ
見ごたえのある分棟型の住宅でした。敷地入口には公開について何も表示されていないので、敷地内に入るのを躊躇しましたが、土間の扉が開放されており、入口に料金箱が置かれていたので、公開されていることを確信しました。自転車でのアクセスは大変でした。
(2021年11月訪問)

 

参考
現地解説板

 

 

東国遠征の拠点

鹿島神宮


かしまじんぐう
鹿嶋市宮中
鹿島神宮 本殿 35.968784, 140.631544
江戸前期
三間社流造、向拝一間、檜皮葺
石の間 35.968833, 140.631517
江戸前期
桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、前面幣殿に接続、檜皮葺
幣殿 35.968853, 140.631511
江戸前期
桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、前面拝殿に接続、檜皮葺
拝殿 35.968943, 140.631465
江戸前期
桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺
鹿島神宮仮殿 35.969289, 140.631450
江戸前期
桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝一間、檜皮葺
鹿島神宮摂社奥宮本殿 35.970125, 140.635283
桃山
三間社流造、向拝一間、檜皮葺
鹿島神宮楼門 35.968872, 140.630880
江戸前期
三間一戸楼門、入母屋造、銅板葺

 

鹿島神宮は北浦の東方に鎮座します。古くは東国遠征の拠点として重要な祭祀が行われ、奈良、平安の頃には国の守護神として信仰されるようになり、奉幣使が頻繁に派遣されました。中世以降は、源頼朝、徳川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになりました。
・左端が拝殿、その右の突出部が幣殿、一段低い屋根が石の間、右端が本殿
・拝殿の後方に幣殿を凸字形に建て、その後方に石敷きの渡廊である石の間を隔てて本殿に接続する複合社殿
・元和5年(1619)、幕府の大棟梁鈴木長次の奉行になるもの
 

 


本殿
 
・極彩色の三間社流造
 
・写真右が向拝、左が身舎柱上の装飾
・組物を出組とし、中備えに蟇股を置き、軒は二軒
 
・右側面の妻飾り
 

 


拝殿
 
・本殿とは異なり白木のままの社殿で、桁行5間、梁間3間
 
・柱上は出組で、中備は蟇股
 

 


仮殿
 
・元和5年(1619)、現本殿の造替時に神霊を仮安置するために設けられた建物で、本殿と同じく幕府大棟梁鈴木長次の作事になるもの
・土台建で四方に縁をめぐらし、屋根は入母屋造
・仮の社殿であるため、装飾は扉・蟇股・破風にのみに漆彩色を施してほかは白木とし、繰形などの彫刻に細部を省略している
 
・出三斗は、中備は蟇股を飾り、軒は二軒繁垂木
 
・彩色は本社拝殿と類似。
 

 


奥宮本殿
 
・慶長10年(1605)、徳川家康によって造営された神宮の旧本殿
・元和5年(1619)、社殿造替に際して現在地に移され、奧宮本殿としたもの
 
・三間社流造で、庇の床を高く張り、前庇の前に1間の向拝を付しているが、これは後に修理の際現本殿の形式に倣って改造したものと考えられている
・縁を四方にめぐらし、扉口も正面中央間に設けるのみであることなど神社本殿の古い形式を伝える
・全体に木割りが大きく、白木造りで意匠も簡潔だが、蟇股や木鼻の彫刻などには桃山時代の特徴が窺える
 
・破風には手の込んだ彫刻が施されている
 

 


楼門
 
・上段写真が前面、下段写真が背面
・三間一戸で、寛永11年(1634)、水戸初代藩主徳川頼房の造営によるもの
・総朱漆塗りとし、わずかに欄間などに彩色を飾る控え目な意匠
 
・上層の組物は尾垂木をもつ和様三手先で、二軒繁垂木
 
・扁額は東郷平八郎の直筆
 
アクセス
JR鹿島線鹿島神宮駅から東に1kmです。
見学ガイド
各社殿は常時自由に見学することができます。本殿等は北北西に面しており、日中は逆光になります。2026年までの間、幣殿・拝殿、楼門の改修工事が順次実施されています。

 

感想メモ
桃山・江戸期の建築としては装飾に落ち着きがあり、風格が感じられます
・ながらく工事中ですが、完成が楽しみです。
(2003年7月訪問、2021年7月再訪)
前回工事中で見ることのできなかった奥宮の工事が完成したので、再訪しました。奥宮本殿は境内の奥に鎮座する落ち着いた意匠の社殿です。
(2003年7月訪問、2021年7月再訪)

 

参考
茨城県教育委員会公式サイト、鹿島神宮公式サイト

 

 

鹿島灘の網元の住宅

山本家住宅


やまもとけじゅうたく
神栖市奥野谷
山本家住宅 35.883512, 140.682411
江戸中期
桁行19.7m、梁間10.6m、南面突出部 桁行3.8m、梁間6.9m、寄棟造、茅葺

 

山本家住宅は鹿島港近くの集落に位置します。山本家は、鹿島灘の網元をしていた漁家で、名主を勤めたこともある旧家です。住宅の建設年代は明らかではありませんが、手法より見て18世紀前半の建築であると考えられています。
・寄棟造、茅葺で、間口19.6メートル、奥行き10.6メートル
・南正面東寄りに突出部を付けた曲屋
・突出部は土間であるが、東北・北関東の曲屋に見られるような馬屋は設けられていない
 
・南正面(上段写真)と西側面(下段写真)には、せがいを設け、軒を深くしている
 
・突出部南面(写真左側)にはせがいを設け、東側面(写真右)には、せがいを設けず、葺き下ろしている
 
・北側背面東端部には開口部を設けている
 
・土間には湾曲した太い梁が用いられている
 
・座敷や居間の南側(写真左)に入側を設ける格の高い造りとしている
 
アクセス
鹿島線鹿島神宮駅から銚子方面行のバスで奥ノ谷下車、北400mです。鹿島神宮駅周辺のレンタサイクルも利用することができます。駅からは約12㎞で、鹿島神宮周辺の台地の上り下り以外は平坦です。
見学ガイド
山本家住宅は通常非公開ですが、二か月に一回程度、特別公開しています。生垣に囲われているので、公開日以外は屋根や背面しか見ることができません。

 

感想メモ
特別公開日に訪問しました。鹿島神宮からレンタサイクルで向かいました。経路の後半は巨大な臨海工業地帯の中の産業道路をひたすら進みます。美しくはないですが非日常の面白い体験です。山本家住宅は臨海工業地帯のすぐ近くですが、工業地帯を一歩出ると商店や普通の民家もあって、日常の世界に戻ってきたようでほっとします。
山本家住宅は、一般庶民が用いることを禁じられていたせがいを隠すことなく堂々と使っていて、網元と言っても何か特別な力をった家であるような印象を持ちました。屋内には入側も設えてあって、風格があふれています。
(2024年3月訪問)

 

参考
茨城県公式サイト、神栖市観光協会公式サイト、茨城県郷土文化顕彰会公式サイト

 

 

奈良時代創建の古刹

西蓮寺


さいれんじ
行方市西蓮寺
西蓮寺仁王門 36.071294, 140.437628
室町後期
三間一戸楼門(二階を欠く)、寄棟造、とち葺形銅板葺
西蓮寺相輪橖 36.071675, 140.438235
鎌倉後期
青銅製相輪トウ

 

天台宗の西蓮寺は、延暦元年(782年)に創建された伝わる天台宗の古刹です。
仁王門は、天文十二年(1543)建立されたもので、もとは三間一戸の楼門でしたが、寛政年間 (1789~1801)に楼門の二階部分が取毀されて一重の山門となりました。その後、安政七年(1860)に現在地に移築され、仁王門に改められました。
相輪橖(そうりんとう)は、元寇(弘安の役) の戦勝を記念して、 弘安十年(1287)に建立されたものとして伝えられています。相輪橖は天台宗の寺院に特徴的に見られるものです。

 


仁王門
 
・上段写真が表側で、下段が内側
 
・蟇股(上段写真)と蓑束(下段)には、それぞれ特異な様式が見られる
 

 


相輪橖
 
・高さは九 ・一六メートルで、基壇、橖身、頭部からなり、全体として錫杖形をしている
・基壇は石造三段積みで、橖身は木製の円柱に10個の銅板の筒をかぶせたもの
・頭部は五輪塔形で、宝珠に火焔ををつけ、風輪以下を取り巻く大輪と、それにに懸けられた12個の小輪から成る
 
アクセス
西連寺は霞ヶ浦東岸にあり、公共交通の便はよくありません。JR常磐線の土浦駅または石岡駅からバスで玉造庁舎下車、南に5kmあまりです。玉造庁舎から西連寺入口までは本数が少ないですがコミュニティバスもあります。JR土浦駅からは25kmと少し距離がありますがレンタサイクルを利用することもできます。霞ヶ浦の湖岸には快適なサイクリング道が整備されています。国道は大型車の通行が多く、起伏もあるのでサイクリングには不向きです。
見学ガイド
西蓮寺の仁王門と相輪橖は常時自由に見学することができます。

 

感想メモ
相輪橖は想像していたよりずっと大きく、見ごたえがありました。
(2021年4月訪問)

 

参考
現地解説板

このブログについて:

京都府丹波丹後地域で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

福知山市
島田神社本殿
舞鶴市
行永家住宅主屋、道具蔵、新蔵
舞鶴旧鎮守府倉庫施設舞鶴海軍兵器廠予備艦兵器庫、舞鶴海軍兵器廠弾丸庫並小銃庫、舞鶴海軍兵器廠雑器庫並預兵器庫、舞鶴海軍需品庫需品庫(3)、舞鶴海軍需品庫需品庫(2)、舞鶴海軍需品庫需品庫(1)、舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫
舞鶴旧鎮守府水道施設岸谷川上流支流砂防堰堤、旧岸谷川上流本流取水堰堤、旧岸谷川上流支流取水堰堤、旧接合井、岸谷川下流取水堰堤、旧第一配水池、旧第二配水池、与保呂川支流砂防堰堤、桂取水堰堤、桂量水堰堤
金剛院塔婆(三重塔)
綾部市
石田神社境内社恵比須神社本殿
光明寺二王門
旧岡花家住宅
齋神社本殿
宮津市
旧三上家住宅主屋、道具蔵、庭座敷、什器蔵、新座敷、酒造蔵、釜場、表門
智恩寺多宝塔
宮津洗者聖若翰天主堂
亀岡市
梅田神社本殿
遠山家住宅主屋、米蔵、借物蔵、長屋門
金輪寺五重塔
寶林寺九重塔
出雲大神宮本殿
愛宕神社本殿
延福寺十三重塔
京丹後市
本願寺本堂
縁城寺宝篋印塔
経ケ岬灯台灯台、旧第一物置
南丹市
春日神社本殿
普濟寺仏殿
九品寺大門
大山祗神社本殿
小林家住宅主屋、小屋、土蔵
石田家住宅
船井郡京丹波町
大福光寺本堂
大福光寺多宝塔
渡邊家住宅
観音堂
九手神社本殿
与謝郡与謝野町
旧尾藤家住宅主屋、奥座敷、内蔵、新座敷、雑蔵、新蔵、奥蔵、米蔵

 

 

旧日本海軍の赤レンガ倉庫

舞鶴旧鎮守府倉庫施設


まいづるきゅうちんじゅふそうこしせつ
舞鶴市北吸、浜
舞鶴旧鎮守府倉庫施設舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫35.476057, 135.387466
明治
鉄骨煉瓦造、建築面積四二四・三六平方メートル、二階建、鉄板葺(内装を除く)
舞鶴海軍兵器廠予備艦兵器庫35.474596, 135.385393
明治
煉瓦造、建築面積七五六・○五平方メートル、二階建、鉄板葺(内装を除く)
舞鶴海軍兵器廠弾丸庫並小銃庫35.474703, 135.385183
明治
煉瓦造、建築面積七五六・○五平方メートル、二階建、桟瓦葺(内装を除く)
舞鶴海軍兵器廠雑器庫並預兵器庫35.474779, 135.384942
明治
煉瓦造、建築面積七五六・○五平方メートル、二階建、スレート葺
舞鶴海軍需品庫需品庫(1)35.475444, 135.382954
明治
三棟よりなる 各煉瓦造、建築面積五五○・四八平方メートル、二階建、桟瓦葺
舞鶴海軍需品庫需品庫(2)35.475151, 135.383269
明治
三棟よりなる 各煉瓦造、建築面積五五○・四八平方メートル、二階建、桟瓦葺
舞鶴海軍需品庫需品庫(3)35.474835, 135.383676
明治
三棟よりなる 各煉瓦造、建築面積五五○・四八平方メートル、二階建、桟瓦葺

舞鶴旧鎮守府倉庫施設は東舞鶴の海上自衛隊の港湾施設に隣接しています。この場所はかつての海軍舞鶴鎮守府の軍需部本部地区に当たります。舞鶴旧鎮守府倉庫施設は、海軍舞鶴鎮守府開庁時に整備された倉庫施設で、このうち魚形水雷庫、予備艦兵器庫、弾丸庫並小銃庫、雑器庫並預兵器庫は舞鶴海軍兵器廠の武器倉庫として、需品庫三棟は舞鶴海軍需品庫(鎮守府の組織名)の需品倉庫として、明治34年から36年にかけて建設されました。
旧舞鶴海軍兵器廠予備艦兵器庫(手前)、弾丸庫並小銃庫(中央)、雑器庫並預兵器庫(奥):
・文庫山の東側に並列して建つ同規模同構造の倉庫
・桁行72.3メートル梁間10.5メートル、切妻造桟瓦葺の煉瓦造二階建
・四方に出入口を設け、両妻側端部を軍港引込線の線路が南北に通り抜けていた
・壁面のレンガはイギリス積み



舞鶴海軍兵器廠予備艦兵器庫:

平側西面

平側東面



舞鶴海軍兵器廠弾丸庫並小銃庫:

妻側南面

妻側北面

平側東面

イギリス積みの壁面



舞鶴海軍兵器廠雑器庫並預兵器庫:

妻側南面

妻側北面



軍需部第三水雷庫(附指定):

・三棟の武器倉庫の南側に建つ
・煉瓦造二階建で大正8年に増設されたもの



舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫:

・上段写真が西面、下段が東面
・桁行37.8メートル、梁間11.2メートル、切妻造鉄板葺の鉄骨煉瓦造二階建で、現存最古級の鉄骨造建築

・壁面はフランス積み



舞鶴海軍需品庫需品庫:

・三棟の需品倉庫は、文庫山の南側山際に直列して建つ
・三棟とも同規模同構造で、桁行39.4メートル、梁間14.0メートル
・切妻造桟瓦葺の煉瓦造二階建で、壁面はイギリス積
・平側南面に二箇所の出入口、東西両妻面に貨車出入口を開け、線路の上方に物揚口を設ける

舞鶴海軍需品庫需品庫(1)

舞鶴海軍需品庫需品庫(2)

舞鶴海軍需品庫需品庫(3)


朝霧に包まれた舞鶴旧鎮守府倉庫施設

アクセス
JR舞鶴線東舞鶴駅下車、北西1.5㎞です。駅の近くから、心地よい遊歩道が整備されています。
見学ガイド
各棟とも外観は常時見ることができます。魚形水雷庫、予備艦兵器庫、弾丸庫並小銃庫は博物館や物販施設として利用されており、内部も見ることができます。

感想メモ
各々厳めしい名前のレンガ建築ですが、今では家族連れでにぎわう場所になっていて、建物も優しい表情を見せています。
(2018年8月訪問)
出張で前泊、早朝に訪問することができました。朝霧が立ち込めていて神秘的でした。
(2023年4月訪問)

参考
国指定文化財等DB

 

 

三間社流造の身舎のみが残された本殿

石田神社境内社恵比須神社本殿


いしだじんじゃけいだいしゃえびすじんじゃほんでん
綾部市安国寺町宮ノ腰
石田神社境内社恵比須神社本殿35.340150, 135.311350
鎌倉後期
桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、銅板葺

石田神社は綾部の市街地の東北、山間の集落にある安国寺の近くに鎮座します。安国寺は足利尊氏出生の地と伝えられる古刹で、石田神社はその鎮守です。境内社恵比須神社本殿は延慶4年(1311)に石田神社の本殿として建立されたもので、棟札によって建立年代や大工名が明かな数少い鎌倉時代後期の神社本殿の遺構です。
・桁行三間、梁間二間、切妻造で、三間社流造の庇部分が失われたもの
・木割が非常に大きい

・妻飾は禅宗様の虹梁大瓶束で、神社建築にこのような様式が取り入れられたものとしては早い例

・蟇股は左右対称の鎌倉様式

アクセス
JR舞鶴線梅迫駅下車、南1.2㎞です。バス便もあります。
見学ガイド
石田神社は、常時自由に参拝することができます。境内社恵比須神社本殿も近くから見ることができます。

感想メモ
雪の降る地域の神社の境内社ということで、多分覆屋の中かと思っていましたが、そんな心配が全くいらない堂々とした社殿でした。社殿の規模は大きくありませんが、木割が太く、構造上必要な太さよりもはるかに太い柱は不思議な力を持っているようでした。
(2023年4月訪問)

参考
森の京都DMO公式サイト、現地解説板

 

 

摂丹型民家の代表例

旧岡花家住宅


おかはなけじゅうたく
綾部市本宮町
旧岡花家住宅35.295448, 135.261565
江戸中期
桁行12.1m、梁間9.3m、入母屋造、妻入、茅葺

旧岡花家住宅は綾部の市街地の南東部、由良川左岸の宗教法人大本本部構内に移築されています。もとは京丹波町西部の山間の集落にあったものです。岡花家は、江戸時代は村役層の属していたと考えられており、住宅は江戸中期の建築です。
・入母屋造り茅葺で妻入縦割り床上3室の特徴がある摂丹型の民家
・この形式の民家は、中世末期の在地支配層の身分の建築的表現を受け継ぐものであると考えられている
・岡花家住宅は妻入りの正面を西面させているが、一般的摂丹型の民家では正面を南面させる

・正面向かって左側に広縁を設け、その奥に座敷・部屋を縦方向に並べる
・右側に大戸を開き、その奥は土間とし、土間の手前に厩、奥に炊事場を設ける

・座敷、部屋が並ぶ南面(写真左)は比較的閉鎖的な造り

・土間側の南面には木戸や窓が設けられている

・土間の突き当りの東面(写真右)にも部屋が設けられているが、外面は閉鎖的

広縁の軒裏

アクセス
JR山陰本線綾部駅下車、南東1.4㎞です。バス便もあります。旧岡花家住宅は宗教法人大本本部の構内にあります。
見学ガイド
旧岡花家住宅は大本本部の開門中、庭園から外観を見ることができます。

感想メモ
以前、別の宗教団体の構内にある文化財を見学していた時に少し嫌な思いをしたので、今回も身構えて訪問しましたが心配無用でした。庭園は奇麗に整えられていて、木立の間の祠に神官が祝詞を奉じる神聖な雰囲気でしたが、境内は地域の方々も自由に出入りができるようで堅苦しさはありませんでした。
(2023年4月訪問)

参考
全国重文民家の集い公式サイト、北山型と摂丹型の民家(中山等)

 

 

宮津にある白壁の大規模商家

旧三上家住宅


みかみけじゅうたく
宮津市河原、白柏
旧三上家住宅主屋35.538117, 135.191101
江戸後期
桁行18.0m、梁間11.1m、一部二階、入母屋造、南面・東面及び西面庇付、北面取合の間附属、桟瓦葺及び鉄板葺
新座敷35.538059, 135.191196
江戸後期
桁行8.6m、梁間8.9m、一部二階、南面切妻造、北面主屋に接続、東面及び西面庇付、桟瓦葺
庭座敷35.537984, 135.191188
江戸末期
桁行9.9m、梁間5.9m、切妻造、南面・北面及び西面庇付、東面玄関・南面湯殿及び便所附属、仏間、桁行4.0m、梁間3.0m、両下造、北面主屋に接続、桟瓦葺
表門35.538041, 135.191275
江戸末期
一間薬医門、切妻造、桟瓦葺
酒造蔵35.538087, 135.190919
江戸後期
土蔵造、桁行15.3m、梁間5.5m、二階建、西面切妻造、東面釜場に接続、桟瓦葺
釜場35.538193, 135.191040
江戸後期
土蔵造、桁行11.4m、梁間5.8m、東面切妻造、西面酒造蔵に接続、東面庇付、桟瓦葺
道具蔵35.537952, 135.191091
江戸後期
土蔵造、桁行5.9m、梁間2.9m、二階建、切妻造、北面庇附属、桟瓦葺
什器蔵35.538008, 135.190932
江戸後期
土蔵造、桁行6.0m、梁間4.0m、二階建、切妻造、桟瓦葺

旧三上家住宅は宮津の市街地西部に位置します。三上家は屋号を元結屋といい、江戸時代において宮津城下有数の商家のひとつで、酒造業・船業・問屋等をむ一方で、藩財政や宮津城下の町政に深く関わっていました。安永五年(1776)に現在地に屋敷を構えたことに始まると伝え、天明三年(1783)の晒屋火事により屋敷は焼失しますが、主屋ほかの再建工事は同年中に行われ、その後、座敷・土蔵・玄関・酒造施設を順次増築し、現在に見られる屋敷構に至ったものです。
屋敷北面:
・右端の切妻が釜場、その左が入母屋の主屋と平入切妻の新座敷、その左が表門で門の奥が庭座敷
・防火のため、外に面する柱を漆喰で塗り込めた大壁造としている



主屋:

・入母屋造の妻入で、宮津の町家のほとんどが切妻造平入の建物で構成されるのに比べ、 家格にふさわしい威容を誇る

・屋根には煙出が設けられている

・土間部は上部は吹き抜けとし、小屋組を露出している
・垂木を放射状に打つ届垂木の技法が用いられている



新座敷:

・写真左が新座敷:
・文政3年(1820)に、主屋の東側に増築されたもの
・一階の格子、二階の土格子の意匠を主屋棟と揃え、腰板の高さも合わせるなど、統一が図られている

・新座敷には仏間が設けられている(写真奥は庭座敷)



庭座敷:

・天保8年(1837)に新座敷の東に増築された
・庭園を座視鑑賞できるように建てられている

・ニワザシキ(写真手前)とツギノマ(写真中央)からなり、ツギノマの下手北側(写真右)に入側が接続し式台玄関に続く
・随所に銘木を惜しみなく用い、金砂子を全面に撒いた床障壁や、波間に踊る鯉を図柄とした欄間彫刻など、贅を尽くしている



表門:

・天保9年に宮津藩視察に来た幕府巡見使を迎えるため、庭座敷の式台玄関とともに急遽増築されたもの
・間口一間の切妻造桟瓦葺の薬医門で、両脇に袖壁を構える



釜場:

・主屋の西、酒造蔵の北に隣接している建物で、米を蒸す大きなかまどを備えている

・内部は主屋の土間と一体的な空間となっている
・釜場の一角には麴室(写真右奥)を備える

・屋根は通気が考慮されている



酒造蔵:



什器蔵:



道具蔵

アクセス
京都丹後鉄道宮津駅下車、西1㎞です。
見学ガイド
旧三上家住宅は有料で公開しています。表通りに北東に面しているので、朝以外は逆光です。

感想メモ
白壁の建物が連なる迫力のあるお屋敷です。通りに北面していて、南側の庭はそれほど広くなく、建物が密集しているので、写真撮影が難しかったです。
(2023年4月訪問)

参考
宮津市公式サイト、現地解説板、天橋立観光協会公式サイト

 

 

雪舟「天橋立図」の多宝塔とも考えられる

智恩寺多宝塔


ちおんじたほうとう
宮津市文殊
智恩寺多宝塔35.558007, 135.184219
室町後期
三間多宝塔、こけら葺

智恩寺は天橋立の南端に隣接し、古来より文殊信仰の聖地として信仰を集めてきました。もとは密教寺院であったものが、嘉暦元年(1326)頃、禅僧嵩山居中が中興を果たし、禅宗寺院となりました。
多宝塔は明応10年(1501)に丹後守護代の延永春信や大谷寺住持・智海らによって建てられたもので、密教の大日如来像が安置されるなど禅宗と密教の一体化を目指す智海の思想が反映されています。
・こけら葺きの三間多宝塔で、和様を基調としている

・上重の柱は円柱で、貫は用いす長押で固める
・軒は二軒で、組物は拳鼻付きの四手先
・柱間は幣軸付きの板戸と連子窓を設ける
・腰は出組で切目縁を支える

・下重の柱も円柱で、貫は用いす長押で固める
・軒は二軒で、組物は拳鼻付きの出組、中備は中央間のみ双斗で、他は間斗束
・中央間に幣軸付きの板戸を吊り、両側間に連子窓を設ける

アクセス
京都丹後鉄道天橋立駅下車、すぐです。
見学ガイド
智恩寺は常時自由に参拝することができます。多宝塔も自由に見ることができます。

感想メモ
和様を基調とした均整の取れた美しい多宝塔です。雪舟が天橋立図に描いた多宝塔かどうかについては議論があるようですが、水墨画のモデルになりそうな美しい塔です。
(2023年4月訪問)

参考
智恩寺公式サイト、宮津市公式サイト

 

 

和様の住宅風の仏堂

本願寺本堂


ほんがんじほんどう
京丹後市久美浜町
本願寺本堂35.601608, 134.902406
鎌倉後期
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、檜皮葺

アクセス
京都丹後鉄道久美浜駅東700mです。
見学ガイド
本願寺は常時自由に拝観することができます。本堂外観は常時見学することができます。
本願寺は久美浜湾の最奥部、久美浜の山裾に位置します。縁起によると、行基が開創し、その後、恵心僧都(えしんそうず)が復興したと伝えます。本堂は、鎌倉後期のものであると考えられています。
・桁行5間、梁間5間、単層入母屋造で、勾配が緩やかな檜皮葺
・正面側面は扉口を除き蔀戸を吊る

・軒は疎垂木で、柱は面取角柱、柱上は舟肘木と非常に質素
・長押で角柱を固める


感想メモ
五間堂としては小ぶりで、軒まわりなどは非常に簡素で落ち着いた和様の建物でした。
駅からの直行ルートはあまり面白みがないので、帰路は遠回りして久美浜湾の近くの旧市街を経由しました。かつて廻船業で栄えた趣のある街並みです。久美浜湾は湖のように静かで、旧市街からこれにそそぐ水路は水面が足元のすぐ近くにあって印象的でした。
(2022年8月訪問)

参考
京丹後市公式サイト

 

 

優美な笹竜胆の蟇股を持つ

春日神社本殿


かすがじんじゃほんでん
南丹市園部町高屋
春日神社本殿35.124227, 135.500191
室町前期
一間社流造、檜皮葺

春日神社は桂川の上流、大堰川右岸の田園地帯に鎮座します。奈良春日大社と縁故があるといわれ、平安時代の創立とされています。現在の社殿は、形式などから室町時代初期の建立と考えられています。
・一間社流造檜皮葺で、地長押、 切目長押、内法長押を廻す
・縁を三方に廻し、浜床を付す

・大面取りの向拝柱(写真左)や直線的な繋虹梁はこの時代の特徴

・身舎正面の笹竜胆の蟇股は左右対称で、これもこの時代の特徴を示す

左側面: 
・二軒の繁垂木で、妻飾は扠首組
・柱上は三斗組で、柱間には蓑束を配している

・鬼瓦も時代の特徴を表すとされている

アクセス
JR山陰本線船岡駅下車、徒歩20分です。駅前の府道を右に進み、橋の手前を右折、川沿いを進んで最初の集落に入ってすぐです。
見学ガイド
春日神社本殿は、いつでも自由に見学することができます。拝殿や瑞垣など、視界を遮るものが一切ないので、どの角度からも大変よく見ることができます。

感想メモ
均整の取れた美しい社殿です。室町前期の建築の特徴が凝縮されていて興味深いです。
(2020年12月訪問)

参考
現地案内板

 

 

典型的な禅宗様の小堂

普濟寺仏殿


ふさいじぶつでん
南丹市園部町若森
普濟寺仏殿35.057049, 135.457002
室町前期
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、檜皮葺、背面突出部附属、板葺

普濟寺は園部の市街地南方の山間部に位置しています。創建は明らかではありませんが、荒廃していた寺院を寛永11年(1634)に亀山城主菅沼織部正定芳が復興し、曹洞宗に改めたものです。仏殿の建立年代は南北朝時代であると考えられています。
・方三間、単層、檜皮葺で、軒が大きく反りあがる禅宗様建築

・禅宗様の藁座付桟唐戸と花頭窓

・二手先尾垂木付詰組、波状連子をはめた弓欄間、柱上の粽と台輪なども禅宗様の特徴

・二軒の扇型垂木で、尾垂木の先端は鋭く繰られている

アクセス
JR山陰本線亀岡駅と園部駅を結ぶバスで農芸高校前下車、北400mです。バスの本数が少ないため、JR園部駅西口のレンタサイクルが便利です。駅からは約7kmで、高低差100m程度の上りですが、電動アシストなら全く問題ありません。
見学ガイド
普濟寺仏殿は常時自由に見学することができます。仏殿は南東に面しています。

感想メモ
小堂ですが禅宗様の特徴が詰め込まれていて興味深いです。
(2021年12月訪問)

参考
現地解説板

 

 

戦乱で荒廃した古刹に唯一残された鎌倉建築

九品寺大門


くぼんじだいもん
南丹市園部町船阪
九品寺大門35.101231, 135.441746
鎌倉後期
三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺

九品寺は園部の市街地西方の田園地帯に位置します。弘法大師創建とも伝わる古刹ですが、中世の戦乱によって伽藍は焼失するなどして荒廃し、現在では大門のみが残ります。
・三間一戸の楼門で、屋根は入母屋造桧皮葺
・鎌倉時代後期の様式を伝える

・軒は二軒の平行繁垂木で、和様の二手先のす疎組の組物
・腰組も和様の二手先で、下層頭貫の木鼻には禅宗様の渦巻き模様がみられる

アクセス
JR山陰本線亀岡駅と園部駅を結ぶバスで九品寺前下車すぐです。バスの本数が少ないため、JR園部駅西口のレンタサイクルが便利です。駅からは約5kmです。
見学ガイド
九品寺大門は常時自由に見学することができます。大門は東面しています。

感想メモ
今は門以外の古建築は残されていませんが、立派な楼門で、往時の繁栄が偲ばれます。
(2021年12月訪問)

参考
現地解説板

 

 

箱棟の鬼面が特徴

大山祗神社本殿


おおやまずみじんじゃほんでん
南丹市園部町大河内溝ノ上
大山祗神社本殿35.054638, 135.406410
室町中期
一間社流造、こけら葺

大山祗神社は京都・大阪・兵庫の三府県境に近い山間の集落に鎮座しています。藤原純友の弟が熊野三所権現 を祀ったことに始まり、文中3年 (1374) に楠正季がこの地に社地を改めたと伝えられています。本殿は、応永26年(1419)に造り替えられたと伝えられています。
・一間社流造で、杮葺きの屋根に箱棟をのせ、鬼板をすえる

・鬼板は鬼面の彫刻を取り付けた珍しいもの

アクセス
JR山陰本線亀岡駅と園部駅を結ぶバスから八田地区のコミュニティバスに乗り継ぐルートがありますが、本数が少ないのであまり現実的ではないように思います。
園部駅西口のレンタサイクルが便利です。神社までの距離は約12kmで、高低差200mの上り、アップダウンもありますが、電動アシストだとそれほど大変な距離ではありません。国道477号線経由と県道大河内口八田線経由の2ルートがありますが、距離はほとんど変わりません。それぞれ、普濟寺、九品寺の近くを経由するので、往復で使い分けるとこの辺りの文化財を効率的に回ることができます。
見学ガイド
大山祗神社には常時自由に参拝することができます。本殿には覆屋がかけられていますが、前面が開放され、覆屋内にも立ち入ることができるので、本殿を間近に見ることができます。覆屋の背が低いので、屋根の箱棟はほとんど見ることができません。

感想メモ
このあたりまで訪ねてくる人は珍しいようで、地元のおばあさんが話しかけてこられました。園部から自転車で来たと言うと、よう遠いところから来られたと感心してもらえました。
神社は集落の奥の林の中です。神秘的な雰囲気と適度に荒れた世俗的な雰囲気が入り混じっています。
(2021年12月訪問)

参考
現地解説板

 

 

蕨の毘沙門さんの鎌倉建築

大福光寺


だいふくこうじ
船井郡京丹波町下山岩ノ上
大福光寺本堂35.217079, 135.431785
鎌倉後期
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、檜皮葺
大福光寺多宝塔35.216788, 135.431631
鎌倉後期
三間多宝塔、檜皮葺

雲晴山大福光寺は由良川上流の高屋川右岸河岸段丘上に位置します。真言宗御室派の古刹で、南北朝時代には、足利氏の祈祷所として栄えました。本尊に毘沙門天を祀ることから蕨の毘沙門さんとも呼ばれています。方丈記最古の写本を所蔵していることでも知られています。
もとは現在地より北方の空山(深山)にありましたが、嘉暦2年にこの地に移り、諸堂が建立されました。天正年間の兵火により多くの堂宇は焼失しましたが、本堂と多宝塔は難を逃れました。
本堂と多宝塔



本堂

・方五間単層入母屋造桧皮葺で、鎌倉時代の様式を残す
・長押、連子窓、隅角のある肘木、切目縁などの和様と、藁座付き桟唐戸、扇垂木などの禅宗様を折衷している
・長押と藁座が併存して桟唐戸を支えるのは過渡期の様式であり珍しい



多宝塔

・方三間二層桧皮葺で、鎌倉・室町時代の様式を伝える
・上重は円柱、下重は大面取角柱で、それぞれ長押で固める
・上下とも二軒の平行繁垂木で、組物は和様で、上重が四手先、下重が出組

・下重に彩色が施された蟇股12枚(内4枚は江戸時代の後補)を飾る

アクセス
JR山陰本線下山駅下車徒歩25分です。駅前の交番の前の坂道を下り、下りきったら鋭角に左折します。橋を渡ったところで右折し、今度は河岸段丘をのぼります。登り口に大福光寺の案内板があります。上り終えた辺りに工業団地との分岐があるので、左折すると、あとは段丘上のなだらかな坂道を道なりに進みます。
見学ガイド
本堂と多宝塔はいつでも自由に見ることができます。

感想メモ
それほど多くの人が訪れる地域ではありませんが、ここにも立派な鎌倉建築が残り、鴨長明の方丈記の写本も所蔵するなど、京都の文化の奥深さを感じます。
(2020年12月訪問)

参考
京丹波町観光協会公式サイト

 

 

北船井型の茅葺き民家

渡邊家住宅


わたなべけじゅうたく
船井郡京丹波町下山岩ノ上
渡邊家住宅35.216682, 135.430947
江戸中期
桁行12.8m、梁間9.8m、入母屋造、北面突出部附属、茅葺

渡邊家住宅は大福光寺の近くの田園地帯にあります。建築年代に関する記録は残されていませんが、およそ17世紀末から18世紀はじめに建てられたものであると推測されています。
・北船井型と呼ばれる平入、入母屋造りの茅葺き民家で、内部は、田の字型間取りの4間と土間などから成る

アクセス
JR山陰本線下山駅下車徒歩25分です。大福光寺のすぐ近くに位置しています。
見学ガイド
渡邊家住宅は通常は非公開です。町役場のサイトには事前予約制で見学が可能との記載があります。住宅は公道からも見ることができますが、周囲の附属屋のため全体を見るのは難しいと思います。

感想メモ
周囲より一段高い敷地に建つ立派な建築です
(2020年12月訪問)

参考
京丹波町観光協会公式サイト
このブログについて:

徳島県徳島・鳴門地域で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

徳島市
一宮神社本殿
丈六寺本堂(元方丈)
丈六寺観音堂
丈六寺経蔵(旧僧堂)
丈六寺三門
三河家住宅
鳴門市
宇志比古神社本殿
福永家住宅主屋、離座敷、土蔵、塩納屋、薪納屋、納屋

 

 

神仏習合の歴史を伝える社殿

一宮神社本殿


いちのみやじんじゃほんでん
徳島市一宮町西丁
一宮神社本殿34.037866, 134.462565
江戸前期
三間社流造、正面千鳥破風付、向拝一間、唐破風造、銅板葺

一宮神社は徳島市東部の山間部、四国八十八箇所十三番札所の大日寺の隣接地に鎮座しています。式内社・天石門別八倉比売神社の論社で、鳴門の大麻比古神社が阿波国一宮とされるまでは、阿波国一宮であったと考えられています。近世には徳島城主の崇敬も深く、もとは四国八十八箇所の霊場でもありました。
本殿は、棟札と正面千鳥破風板の墨書から、寛永7年(1630)の建築であることが判明しています。
・三間社流造で、正面に千鳥破風を飾り、中央一間分を突出させ軒唐破風を設ける

・全体に彩色を施しながらも過度の装飾には陥らず、上品な意匠としている

・木階前方の庇柱まで浜床を張り出す

・和様の長押と、禅宗様の台輪付き頭貫を併用している

・妻の大瓶束下端の蓮の葉の意匠は仏教の影響

・向拝突出部の頭貫木鼻にも蓮の意匠

・向拝海老虹梁下面の錫杖彫りも仏教の影響

アクセス
JR高徳線徳島駅からバス便があります。
見学ガイド
一宮神社は常時自由に参拝することができます。本殿は瑞垣越しに見ることができます。

感想メモ
隣の四国霊場大日寺と比べると訪れる人が少なく、少し荒れた感じもしますが、神仏習合の影響が随所に見られる興味深い社殿でした。
(2023年5月訪問)

参考
現地解説板

 

 

阿波の法隆寺

丈六寺


じょうろくじ
徳島市丈六町丈領
丈六寺本堂(元方丈)34.005166, 134.550936
江戸前期
桁行18.7m、梁間11.8m、一重、入母屋造、本瓦葺
丈六寺観音堂34.004574, 134.550759
江戸前期
桁行三間、梁間四間、二重、寄棟造、本瓦葺
丈六寺経蔵(旧僧堂)34.004908, 134.551044
江戸前期
桁行五間、梁間三間、一重、寄棟造、本瓦葺、八角輪蔵付
丈六寺三門34.005200, 134.551390
室町後期
三間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺

丈六寺は勝浦川下流左岸にある曹洞宗の寺院で、「阿波の法隆寺」とも通称される名刹です。室町期の三門のほか、江戸前期の本堂、観音堂、経蔵が残されています。


本堂

・寛永六年(1629)蜂須賀蓬庵が方丈を再建寄進したもの
・明治以後は本尊を安置して本堂としている
・妻は狐格子
・柱は面取り角柱で、江戸初期の特徴

・軒、身舎とも舟肘木で桁を受ける
・軒は疎垂木で、柱はすべて面取り角柱



観音堂

・桁行三間、梁間四間、二重で、大棟の短い寄棟造

上重軒廻り:
・柱上部に粽があり、貫と台輪で固める禅宗様式
・組物は禅宗様の詰組ではなく疎組で、中備も置かない

・下重も疎組だが、中央間のみ柱間に大瓶束を立てる

・下重の柱(写真右)と上重の柱は直線的な虹梁で繋がれている



経蔵

・室町末期の永禄十一年(1568) 細川真之が僧堂として寄進建立したものを、江戸中期の享保十二年(1727)に奥行 を一間縮小して二間後ろへ移築し、経蔵に改めたもの

・疎垂木で平三斗、中備は設けない

・経蔵内部には八角輪蔵が安置されている



三門

外面(上段写真)と内面(下段写真):
・各間とも開放された三間三戸の折衷様二重門

・上重、下重とも二軒の繁垂木

・柱は上下に粽を持ち、礎石上の礎盤の上に立つ

・上重には、花頭窓、渦巻き模様の木鼻、台輪、扉の藁座、詰組、柱の粽など、禅宗様の特徴が見られる

・下重も上重と同様に出組の詰組

アクセス
JR牟岐線地蔵橋駅下車、南3㎞です。徳島駅からのバス便もあります。
見学ガイド
丈六寺は日中自由に参拝することができます。重文指定の建造物も近くから見ることができます。

感想メモ
周辺の道路は交通量が意外とありましたが、境内は深い緑に囲われていて、大変静かでした。お寺で何か動物を飼育されているのか、鳴き声が聞こえました。
本堂は巨大ですが、住宅風の落ち着いた建築でした。観音堂は横幅に比べて高さが高く、不思議な表情の建築でした。屋根が高く、大棟が非常に短いところや、軒廻りがすっきりしているところが不思議な感じを生み出しているのかもしれません。正面の格子の裏の金網がない部分があって、堂内をよく見ることができました。
経堂正面からは内部をよく見ることはできませんが、背面の格子の隙間から輪蔵を見ることができました。三門は折衷様ということですが、禅宗様が色濃く出ていました。
(2023年5月訪問)

参考
徳島県観光情報サイト、現地解説板

 

 

日本人建築家が建てたドイツ建築

三河家住宅


みかわけじゅうたく
徳島市富田浜4丁目
三河家住宅34.066428, 134.556178
昭和
鉄筋コンクリート造、建築面積193.30平方メートル、三階、一部地下一階、瓦葺一部銅板葺

三河家住宅は、徳島市の中心部、新町川右岸に位置します。医学博士三河義行が自邸として昭和三年頃に建設したもので、設計はドイツ留学中に知り合った徳島出身の建築家です。ドイツのユーゲントシュティルから表現派の系譜に至る造形意匠でまとめあげられています。曲面を多用した複雑で変化に富んだ住宅建築です。
・出隅部付近に展望台としての塔屋を高く立ちあげる
・塔屋から西(写真右)へ半切妻の、北(写真左)へは切妻の急傾斜屋根を架ける
・屋根は赤色のフランス瓦で葺く
・北面には陸屋根造の二階屋を配置する
・主屋西方に岩屋(倉庫:附指定)を配する

・腰を石張り、上部を辛子色のモルタル塗とする
・正面となる入隅の二階には波形平面のテラスを設けるとともに、三階を四分の一円筒状に跳ね出す
・西面(写真右端)の半切妻の軒を窓下の花鉢飾りに対応して曲線状に処理する

・三階の窓の間にはフルーティングを施したイオニア式のピラスターを配する
・三階跳ね出し部の三連アーチのヴォールト面や庇の下面などには組紐装飾を付ける

・隅角部は隅石風に見せ、軒蛇腹部には雷文風の装飾帯を廻す
・塀も附指定されている

・塔屋頂部は、東西両面を楕円状にふくらませ、ロンバルド帯を廻す
・北面妻の頂部には頬杖をついた怪獣を据える

・東面には弓形状平面のボウウィンドウを置く

・南面(写真右)には腰折屋根を架けた張り出しを突出させる

・写真左が花鉢のある西面で、右が突出部を持つ南面

アクセス
JR牟岐線阿波富田駅下車、北500mです。徳島駅からは南東1.2㎞です。
見学ガイド
三河家住宅非公開ですが、公道から建物の一部を見ることができます。

感想メモ
徳島駅前から川沿いの遊歩道を通って訪問しました。ちょうどいい朝の散歩になりました。
道路に面しているのが北面なのでちょっと暗い感じに見えますが、それはそれで冬のドイツみたいな良い雰囲気です。
東側の県庁前の歩道橋からも、手前がうまく空地になっているので、線路越しに見ることができました。
非常に複雑な様式で、細部も凝っていて面白い建築です。
(2023年5月訪問)

参考
国指定文化財等DB、現地解説板

 

 

江戸時代の製塩場

福永家住宅


ふくながけじゅうたく
鳴門市鳴門町高島浜中
福永家住宅主屋34.205550, 134.589311
江戸後期
桁行13.4m、梁間10.0m、一部二階、切妻造、四面庇付、本瓦葺
離座敷34.205558, 134.589158
江戸末期
桁行5.7m、梁間6.0m、切妻造、南面及び東面庇付、本瓦葺
土蔵34.205618, 134.589174
江戸末期
土蔵造、桁行6.4m、梁間5.2m、二階建、切妻造、東面庇付、本瓦葺
納屋34.205531, 134.589447
江戸末期
桁行6.8m、梁間4.0m、切妻造、本瓦葺
塩納屋34.205368, 134.589454
明治
桁行9.3m、梁間4.2m、切妻造、本瓦葺
薪納屋34.205446, 134.589308
江戸末期
桁行4.2m、梁間3.4m、切妻造、本瓦葺

福永家住宅は、かつて広大な塩田が広がっていた鳴門町高島地区の西端に位置し、敷地内に製塩施設を有しています。福永家は、寛文年中(1661~1673)に高島村で塩田を開き、代々塩業を営んできました。
建物は、棟札により主屋が文政11年(1828)、離座敷が天保3年(1832)、土蔵が天保4年(1833)に建てられたことが知られています。塩納屋は明治42年(1909)に改築されていますが、そのほかの建物は主屋が建てられた文政11年から天保4年に建てられたと考えられています。
敷地南面:
・右端が塩納屋で、その左の護岸の切込みが塩の積出場
・積出場の左の妻を見せた小屋が薪納屋で、その右背後が主屋
・左の漆喰の妻が離座敷で、その奥の一段高い屋根が土蔵

敷地西面:
・中央右が離座敷で左が土蔵、離座敷の右奥が主屋

敷地東面・北面:
・中央が主屋で、右が土蔵、左が納屋



主屋

・文政11年(1828)の建築で、ミセ・オモテ・ナイショ・オクの4部屋とカマヤ・ニワの土間で構成されている
・二階部分の背が低く、錣屋根のように見える

・主屋北面(右奥が土蔵)



離座敷

・天保3(1832)年の建築で、床の間を持つ6畳と4畳の2部屋ある
・主屋と渡廊下(下段写真右側)で接続し、前庭に面する所には濡縁が廻らされ書院風になっている



土蔵

・天保4(1833)年の建築で、床および内壁は板張りで、離座敷に接して建っている



納屋

・4室に区切り、更に南の間を2室に区切っている
・風呂場、便所、漬物置き場、板敷の物置として利用された



塩納屋

・イダシ場と塩の計量・袋詰場(下段写真)の2部屋からなり、イダシ場では釜屋から運ばれた塩が一週間程度貯蔵され、自然に苦汁の除去と乾燥が行われる



薪納屋

・石炭の付火用の薪を貯蔵するための納屋

アクセス
JR徳島駅から、鳴門駅経由ウチノ海総合公園行のバスで高島下車、すぐです。
見学ガイド
福永家住宅の周辺は公園整備されており、敷地周辺から見学することができます。通常は敷地内に立ち入ることはできませんが、春と秋には建物内部を含め特別公開されます。

感想メモ
特別公開の機会に訪問しました。ボランティアガイドさんから住宅や製塩工程について分かりやすい説明がありました。お客さんの中に「塩の先生」がいて、飛び入りでかな~~り詳細に説明してもらえました。帰りのバスまで時間があったので、良かったですが。。。
(2023年10月訪問)

参考
鳴門市公式サイト、総覧日本の建築8