国宝・重要文化財指定の建造物 -2ページ目

国宝・重要文化財指定の建造物

全国の国宝・重要文化財に指定された建造物についてのブログです。


香川県高松・東讃・小豆地方にある国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。
高松市
高松城旧東之丸艮櫓、北之丸渡櫓、北之丸水手御門、北之丸月見櫓
披雲閣(旧松平家高松別邸)本館、本館付倉庫、倉庫
小比賀家住宅主屋、土蔵、米蔵、午門
国分寺本堂
旧下木家住宅
旧河野家住宅
屋島寺本堂
香川県庁舎旧本館及び東館
瀬戸内海歴史民俗資料館
さぬき市
志度寺本堂、仁王門
細川家住宅
旧恵利家住宅
長尾寺経幢(1)、(2)
小豆郡小豆島町
明王寺釈迦堂

 

 

瀬戸内海に面した海城

高松城


たかまつじょう
高松市玉藻町
高松城旧東之丸艮櫓34.348768, 134.051999
江戸中期
三重三階隅櫓、入母屋造、本瓦葺南面続櫓一重櫓、南端入母屋造、本瓦葺
北之丸渡櫓34.351096, 134.051671
江戸中期
一重櫓、入母屋造、本瓦葺
北之丸水手御門34.351173, 134.051687
江戸末期
一間薬医門、切妻造、本瓦葺
北之丸月見櫓34.351299, 134.051743
江戸中期
三重三階隅櫓、入母屋造、本瓦葺、南面続櫓一重櫓、南端入母屋造、本瓦葺
披雲閣(旧松平家高松別邸)本館34.350278, 134.051622
大正
木造、建築面積1,916.51㎡、一部2階建、入母屋造及び寄棟造、南面車寄附属、桟瓦葺
本館付倉庫34.350382, 134.051923
大正
木造、建築面積38.79㎡、寄棟造、桟瓦葺
倉庫34.350258, 134.052005
大正
木造、建築面積48.49㎡、寄棟造、桟瓦葺

高松城は高松市中心部の海岸沿いに位置します。天正15年(1587)に讃岐一国を与えられた生駒親正が築城したもので、生駒氏転封後の寛永19年(1642)には、松平頼重が東讃12万石が与えられ、城の大規模な改造を行いました。松平氏の治世は幕末まで続きました。
「高松城」として重文指定された4棟は松平氏による東ノ丸・北ノ丸の新造に伴い建設されたものです。披雲閣(ひうんかく)は、大正時代に旧城主の松平氏が高松城三ノ丸の御殿跡に建設した邸宅です。
城内側より見た月見櫓(写真右)と付属する続櫓(写真中央):
・北之丸月見櫓は北ノ丸の最北端に位置し、かつては瀬戸内海に面していた
・「(舟の)到着を見る」という意味の着見櫓が本来の名称
・三重三階の総塗籠で、各階に2本の長押をめぐらす
・初重には切妻破風が見られ、その下部に石落としが設けられている
・南面には続櫓と呼ばれる小規模な平櫓が付属する
・延宝4年(1676年)の上棟と考えられている

城内側より見た水手御門(写真右)と渡櫓(わたりやぐら、写真左)

城外側より見た渡櫓(写真右)、水手御門(中央)、続櫓(左)
北之丸渡櫓:
・月見櫓の南に位置する総塗籠の平櫓
・南側3間分は北ノ丸の新造前に所在した海手門の部材を再利用しており、柱が細く、内壁も波型真壁となってい
・月見櫓と同時期に建築されたと考えられている
北之丸水手御門:
・月見櫓の続櫓と渡櫓の間に設けられた一間の薬医門
・月見櫓と同時期頃に建設されたと考えられているが、地下から古い礎石が発見されており、幕末頃に建替えられたと推定されている
・海に向かって開いた門で、藩主はここで小舟に乗船し、沖で御座船に乗換えて参勤交代等に出かけた



旧東之丸艮櫓(うしとらやぐら): 

・延宝5年(1677)に東ノ丸の北東隅に建築された三重三階の隅櫓で、名称は高松城の丑寅(うしとら)にあたることに由来
・三重三階の総塗籠で、初重には二重の屋根を貫く千鳥破風が設けられ、城外側の隅には袴型の石落としがある
・昭和42年に現在地(高松城の南東隅)に移築



披雲閣:

本館:
・木造で、接客、居住、家政などの機能をもつ各部を渡廊下で接続
・建築面積は1916平方メートルに及ぶ
・南を正面として玄関を構え、西から北へ蘇鉄の間、大書院(写真上)、槙の間(写真下)の各広間を並置し、北方の庭園を望む接客空間としている
・玄関の北には居住と宿泊のための部屋が連なり、玄関の北東には勝手と調理場を設けている

本館付倉庫(写真中央)と倉庫(写真左):
・本館付倉庫は、木造、二階建、桟瓦葺で、小屋組は和小屋、外壁は下見板張
・倉庫は、本館付倉庫の東南に建ち、木造、二階建、寄棟造、桟瓦葺で北面に戸口を開き、小屋組はトラス構造、外壁は擬石塗

アクセス
高松城まではJR高松駅から徒歩数分です。琴電高松築港駅は高松城に隣接しています。
見学ガイド
「高松城」として重文指定された4棟は有料公開されています。これらは公道に面しているので、有料区域外からも見ることができます。東之丸艮櫓は堀を挟んでの見学となります。毎週日曜日には月見櫓の内部公開と水手御門の開扉が行われるようです。
披雲閣も有料公開されています。内部は非公開です。披雲閣は公道からは見ることができません。披雲閣の倉庫と本館付倉庫の周辺は立入りが制限されています。本館東側の裏庭を挟んで倉庫と本館付倉庫の一部をみることができます。
高松駅前の高松シンボルタワー展望台などからも高松城・披雲閣を遠望できます。

感想メモ
海と高松港の間には道路が通っており、海城の風情を失っているのは残念ですが、道路のおかげで月見櫓をいつでも近くから見ることができます。
(2018年10月訪問)

参考
高松市公式サイト

 

 

屋島山上の復古調の建築

屋島寺本堂


やしまじほんどう
高松市屋島東町
屋島寺本堂34.357945, 134.101269
江戸前期
桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺

屋島寺は高松の市街地東方にそびえる屋島南峯に位置する古刹で、弘法大師を中興の祖としています。本堂は元和4年(1618年)に再建されたものですが、昭和の修理の際に各所に鎌倉時代の特徴の古材が見られたことから、鎌倉様式に復元されています。
・屋根は一重の本瓦葺、入母屋造
・正面中央の3間は両折両開き桟唐戸、側面の上は連子窓、腰貫の下は板壁など鎌倉時代の様式
・内部は前2間が外陣、後3間が内陣と脇陣からなる

正面軒廻り:
・二軒の繁垂木で、和様の出組、中備は蓑束、支輪を飾る
・向拝の海老虹梁や装飾の多い手挟は近世風

外陣の格天井

アクセス
屋島山上にはJR屋島駅から、ことでん屋島駅経由のバスが運行されています。バスは重文民家のある四国村も経由するので周遊に便利です。屋島寺はバスの終点からすぐです。
見学ガイド
本堂はいつでも自由に見学することができます。

感想メモ
晴天に恵まれ、屋島からの眺めを堪能することができました。本堂は江戸時代の建築で、華美な彫刻も見られますが、全体としては復古調で落ち着いた雰囲気です。
(2021年4月訪問)

参考
四国八十八ヶ所霊場会公式サイト、高松市公式サイト

 

 

丹下健三の代表作

香川県庁舎旧本館及び東館


かがわけんちょうしゃきゅうほんかんおよびひがしかん
高松市番町四丁目
香川県庁舎旧本館及び東館34.340081, 134.044021
昭和
鉄筋コンクリート造、建築面積3,270.39平方メートル、本館及び東館よりなる
本館八階建、塔屋三階付
東館三階建 

香川県庁舎は高松市の中心部に位置します。旧本館及び東館は、昭和30~33年に建築されたもので、丹下健三の設計です。
・庁舎は高層の旧本館(写真左)と低層の東館からなる

・旧本館は、鉄筋コンクリート造、8階建、塔屋3階付(上段写真右)
・柱と梁、深い軒や高欄など伝統的な木造建築をモチーフとしている

・東館は、鉄筋コンクリート造、3階建、規模は南北98.2m・東西16.6m
・一階部分は開放的なピロティとしている

・ピロティーの長方形の柱の短辺を道路側に向けるなど、道路との境界を意識させないよう工夫されている
・天井には松材を用いたルーバーが設置されている

・旧本館の中心部に耐震壁などを集中したセンターコアを設け、その周囲を壁のない開放的な空間としている
・センターコアの上部は塔屋となり、一階ロビー部分は周囲に「和敬清寂」の壁画を飾る

アクセス
JR予讃線高松駅下車、南1.5㎞です。駅からは多数のバス路線があります。
見学ガイド
県庁開庁中は、ロビーなどの公共空間を自由に見学することができます。

感想メモ
高松で暮らしていたときには何度も前を通りましたが、ここまで価値のある建築であるとは知りませんでした。改めて見学すると、外観の美しさだけではなく、構造面でも工夫された建築であることがよくわかりました。
(2023年7月訪問)

参考
香川県公式サイト、香川県公式観光サイト、高松市公式サイト

 

 

四国霊場第86番札所

志度寺


しどでら
さぬき市志度
志度寺本堂34.324287, 134.179598
江戸中期
桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝三間、軒唐破風付、本瓦葺
仁王門34.323794, 134.178950
江戸中期
三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺

志度寺は県東部さぬき市の市街地に位置する真言宗の寺院で、四国霊場第86番札所です。高松藩によって造営された本堂と仁王門が重要文化財に指定されています。


本堂:

・桁行七間、梁間五間の大規模な仏堂



仁王門:

・三間一戸の八脚門
・中世以来の伝統を受けついで軸部が木太く堂々としているが、細部の意匠には近世的な特色もみられる

アクセス
琴電志度駅から徒歩10分程度です。
見学ガイド
境内は自由に見学できます。仁王門は西面しているので、午後の方が綺麗な写真を撮ることができます。

感想メモ
境内に植栽が多く、他の札所とは少し異なる雰囲気です。仁王門は古風で力強い建築です。
(2020年7月訪問)

参考
国指定文化財等DB

 

 

鎌倉時代の石塔

長尾寺経幢


ながおじきょうとう
さぬき市長尾西
長尾寺経幢(1)34.266180, 134.171663
鎌倉後期
石造幢
弘安歳次六年癸未七月日の刻銘がある
(2)34.266181, 134.171749
鎌倉後期
石造幢
弘安第九天歳次丙戌五月日の刻銘がある

長尾寺は県東部さぬき市の内陸部にある四国霊場第八十七番札所です。経幢は中国で唐から宋時代に多く建てられたもので、わが国では鎌倉中期ごろからつくられました。経文の埋納保存や、供養の標識とするため、各地に建てられています。長尾寺の経幢は、西側のものに弘安六年、東側のものに弘安九年の銘が あります。
・左の覆屋の中が弘安6年銘の経幢で、右が弘安9年銘

弘安6年銘の経幢:
・凝灰岩製で基礎の上に面取り四角柱の幢身を立て、その上に八角の笠と低い宝珠をのせたもの

弘安9年銘の経幢(4枚目の写真から「弘安第九天」の文字が読み取れる)

アクセス
長尾寺は、ことでん長尾駅下車、東250mです。経幢は長尾寺の正門の手前に建てられています。
見学ガイド
経幢は常時自由に見学することができます。覆屋の中にありますが、覆屋の正面上半分は開放されており、背面以外は隙間の大きな格子であるため、見学に大きな支障とはなりません。

感想メモ
素朴な感じを受ける石造経幢です。凝灰岩が良い感じに風化してやわらかい線を出しています。
(2021年4月訪問)

参考
現地解説板

 

 

水軍の拠点に築かれた小堂

明王寺釈迦堂


みょうおうじしゃかどう
小豆郡小豆島町池田
明王寺釈迦堂34.483846, 134.241952
室町後期
桁行三間、梁間四間、一重、寄棟造、向拝一間、本瓦葺

明王寺は小豆島南海岸、池田のオリーブ畑が点在する田園地帯東端に位置します。釈迦堂は大永2年(1522)に地頭・須佐美氏の子孫である源元安入道盛椿(せいちん)によって着工され、11年かかって完成したことが、文字瓦から知られます。小豆島は瀬戸内海の水軍の拠点で、釈迦堂の建立にも水軍が関係したものと考えられています。


釈迦堂

・桁行三間、梁間四間、寄棟造、本瓦葺で、向拝一間が付く

・正面三間に桟唐戸が吊られ、内法貫の藁座と、地長押が支えている
・軒は二軒の疎垂木

・柱は大面取の角柱で、柱上は繰型付実肘木を入れた出三斗
・中備の間斗束にも繰型付実肘木を入れる
・頭貫は禅宗様の木鼻を出す

・向拝には優美な蟇股を飾る

・内部は手前一間が外陣で、菱格子の結界の奥が内陣
・内部も柱上は出三斗で、中備は中央間が蟇股で、両側間が撥束



厨子(附指定)

・禅宗様で鮮やかな彩色が施されている

アクセス
小豆島池田港の東2kmで、路線バスを利用することもできます。
見学ガイド
明王寺は常時自由に参拝することができます。釈迦堂は内部に入ることもできます。内部の写真撮影も禁止されていません。

感想メモ
オリーブ畑に囲まれたのどかな風景ですが、かつては水軍の本拠地で今とは全く違う世界であったことを思うと感慨深いです。釈迦堂は小堂ですが細部の意匠が優れています。厨子も大変手の込んだ意匠です。
(2024年9月訪問)

参考
小豆島町公式サイト

宮城県内にある国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。
仙台市青葉区
東北学院旧宣教師館
東照宮本殿、唐門、透塀、随身門、鳥居
大崎八幡宮
大崎八幡宮長床
仙台市若林区
陸奥国分寺薬師堂
石巻市
石井閘門
塩竈市
鹽竈神社左宮本殿、右宮本殿、左宮幣殿、右宮幣殿、左右宮廻廊、左右宮瑞垣、左右宮拝殿、別宮本殿、別宮幣殿、別宮廻廊、別宮瑞垣、別宮拝殿、門及び廻廊、随身門、鳥居
名取市
旧中澤家住宅(旧所在 宮城県名取市愛島塩手)
洞口家住宅(宮城県名取市大曲)
角田市
高蔵寺阿弥陀堂
旧佐藤家住宅
登米市
旧登米高等尋常小学校校舎
刈田郡蔵王町
我妻家住宅前蔵、板蔵、主屋、文庫蔵
柴田郡村田町
旧大沼家住宅店、本宅、前座敷、内蔵、新蔵、西蔵、穀蔵、塩蔵、作業場、表門
宮城郡松島町
瑞巖寺本堂(元方丈)
瑞巖寺庫裏及び廊下庫裏、廊下
瑞巖寺御成門
瑞巖寺中門
瑞巖寺五大堂
陽徳院霊屋
圓通院霊屋
加美郡加美町
松本家住宅

 

 

日本最古のレンガ造り西洋式閘門

石井閘門


いしいこうもん
石巻市水押三丁目
石井閘門38.446507, 141.291039
明治
閘室 一所、閘頭部 一所、閘尾部 一所

石井閘門は石巻の市街地北部、旧北上川と北上運河の分岐点に位置しています。日本最古の煉瓦・石造西洋式閘門で、可動ゲートを持つ閘門としても日本最古のものです。北上川の河口部の水深が浅く、蒸気船の通航が困難であったため、北上川と我が国初の西洋式港湾として計画された野築港を結ぶ北上運河が建設され、明治14年に運河入口に石井閘門が設置されました。閘門は内務省雇長工師のオランダ人ファン・ドールンの計画によるものです。
・旧北上川に接続する閘頭部
・門扉は当初木製であったが、現在は金属製に取り換えられている(下流側も同様)

・閘室(写真中央の水面)は、長さ50.6m、幅8.1m、

・下流側の閘尾部

アクセス
仙石線陸前山下駅下車、北1.4㎞です。
見学ガイド
石井閘門は常時自由に見学することができます。

感想メモ
野築築港そのものは完成を待たず、台風被害のため頓挫してしまいましたが、北上運河と石井閘門はその後も物資輸送路として活躍したとのことです。現在では、かつての賑わいを忘れたかのように静かに佇み、蒸気船が往来していたのは遠い昔になっています。
(2023年1月訪問)

参考
東北地方整備局公式サイト、宮城県公式サイト

 

 

社殿が整然と並ぶ陸奥国一宮

鹽竈神社


しおがまじんじゃ
塩竈市一森山
鹽竈神社左宮本殿38.319156, 141.012841
江戸中期
三間社流造、檜皮葺
右宮本殿38.319189, 141.012677
江戸中期
三間社流造、檜皮葺
左宮幣殿38.319071, 141.012822
江戸中期
桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、正面廻廊に接続、檜皮葺
右宮幣殿38.319109, 141.012650
江戸中期
桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、正面廻廊に接続、檜皮葺
左右宮廻廊38.319064, 141.012727
江戸中期
中央高屋根 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、妻入
左右翼屋 各桁行五間、梁間一間、一重、一端切妻造、他端高屋根に接続
総檜皮葺
左右宮瑞垣38.319071, 141.012933
江戸中期
一周延長四十五間、潜門一所を含む、檜皮葺
左右宮拝殿38.318959, 141.012689
江戸中期
桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、正面向拝三間、背面向拝三間、銅板葺
別宮本殿38.318614, 141.013229
江戸中期
三間社流造、檜皮葺
別宮幣殿38.318635, 141.013128
江戸中期
桁行二間、梁間一間、一重、切妻造、正面廻廊に接続、檜皮葺
別宮廻廊38.318641, 141.013089
江戸中期
中央高屋根 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、妻入
左右翼屋 各南面四間、北面五間、梁間一間、一重、一端切妻造、他端高屋根に接続
総檜皮葺
別宮瑞垣38.318526, 141.013165
江戸中期
一周延長三十一間、潜門一所を含む、檜皮葺
別宮拝殿38.318673, 141.012925
江戸中期
桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、正面向拝三間、背面向拝三間、銅板葺
門及び廻廊38.318626, 141.012581
江戸中期
門 四脚門、切妻造、左右潜門附属
左右廻廊 各桁行五間、梁間二間、切妻造、総銅板葺
随身門38.318411, 141.012487
江戸中期
三間一戸楼門、入母屋造、銅板葺
鳥居38.317397, 141.012213
江戸中期
石造明神鳥居
柱に寛文三年癸卯天七月十日の刻銘がある

鹽竈神社は塩竈湾を東に望む高台に鎮座しています。古代より陸奥国の一之宮として崇敬された古社で、現在の社殿は宝永元年(1704)に完成したものです。
・鳥居を潜ると表坂の202段の石段が続き、その先に髄神門が建つ



左宮本殿、右宮本殿、左右宮瑞垣、廻廊

・向かって右が武甕槌神を祀る左殿で、左が経津主神を祀る右宮
・手前の檜皮葺は左右宮回廊
・左宮本殿、右宮本殿は同寸同大、同形式の三 間 社 流 造、檜皮葺

・奥が右宮本殿で、手前が左右宮回廊、回廊の左に左右宮瑞垣が続く

・瑞垣は一周延長四十五間、檜皮葺で、左右両宮を取り囲む



左右宮拝殿

・桁行七間、梁間四間、入母屋造で、彩色が施されている
・寛文3年(1663)の拝殿を再用している

・鮮やかな装飾が施されているが、柱は面取角柱で組物は平三斗と質素な構成



別宮本殿

・奥が別宮本殿で、手前が別宮回廊

・左右宮本殿と同様に素木造の三間社流造で檜皮葺



別宮廻廊、瑞垣

・回廊中央部には高屋根を設ける(写真右端)

・回廊南側側面の切妻(写真左)と瑞垣(右)
・回廊の柱は角柱で、柱上は舟肘木、軒は疎垂木と質素な造り

・回廊前面(左背後に瑞垣が続く)



別宮拝殿

・左右宮拝殿と同僚に彩色が施された入母屋造だが、桁行が五間と規模がやや小さい
・左右宮拝殿が寛文3年の拝殿の再用であるのに対し、別宮拝殿は本殿の再用であるため、荘厳な造り

・柱は円柱で、柱上は二手先、軒支輪を有するなど、旧本殿にふさわしい構成

・妻は二重虹梁大瓶束で下段には立体的な蟇股を飾る



門及び廻廊

・彩色が施された四脚門で、左右に潜門を付ける



随身門

・三間一戸の楼門で、彩色が施されている

・上層、腰組ともに三手先で、中備は特徴的な人字型の蟇股



鳥居

・柱間約5m、高さ約6mの花崗岩製明神鳥居

・「寛文三年癸卯七月十日松平亀千代」との銘文がみられる
・亀千代は四代藩主・伊達綱村公の幼名

・銅製の社号額は、姫路藩二代藩主・酒井忠以公の揮毫

アクセス
JR仙石線本塩釜駅下車、西1kmです。東北本線利用の場合は塩釜駅下車、北1.2kmです。
見学ガイド
鹽竈神社は常時自由に参拝することができます。左宮、右宮、別宮とも拝殿脇までしか進むことができないので、各本殿はかなり離れた場所からしか拝観することができません。幣殿は各宮とも回廊の陰になっていて、よく見ることができません。

感想メモ
古風な本殿、回廊と桃山風の拝殿との対比が面白いです。また、主神が別宮に祀られ、藩主の守護神が正面に祀られているという、珍しく興味深い社殿の配置も印象的でした。公式サイトでは、別宮の「別」は「付属的」ではなく「特別な」という意味が込められていると解説されていますが、やや後付けの理屈のようにも感じられました。
この日はあいにくの曇り空でしたが、帰り際に雲間から陽が差し込み、西日を受けた社殿が神々しい輝きを放つ姿を拝することができました。
(2023年1月訪問)

参考
鹽竈神社公式サイト、宮城県公式サイト、文化遺産オンライン、現地解説板

 

 

紅花の取引などで財を成した豪商

旧大沼家住宅


おおぬまけじゅうたく
柴田郡村田町村田
旧大沼家住宅38.117480, 140.725173
明治
土蔵造、建築面積49.39㎡、二階建、桟瓦葺
本宅38.117465, 140.725058
大正
木造、建築面積148.79㎡、二階建、桟瓦葺
前座敷38.117378, 140.724789
明治
木造、建築面積84.56㎡、二階建、桟瓦葺
内蔵38.117489, 140.724904
江戸末期
土蔵造、建築面積48.26㎡、二階建、桟瓦葺
新蔵38.117484, 140.724798
江戸後期
土蔵造、建築面積26.50㎡、二階建、鉄板葺
西蔵38.117475, 140.724667
明治
土蔵造、建築面積30.88㎡、二階建、鉄板葺
穀蔵38.117471, 140.724570
江戸末期
土蔵造、建築面積30.88㎡、二階建、鉄板葺
塩蔵38.117465, 140.724482
江戸末期
土蔵造、建築面積16.56㎡、二階建、鉄板葺
作業場38.117365, 140.724524
昭和
蔵造、建築面積66.25㎡、鉄板葺
表門38.117421, 140.725195
明治
一間薬医門、切妻造、桟瓦葺、北方袖塀、南方潜戸及び土塀附属、鉄板葺

旧大沼家住宅は県南の村田町村田伝統的建造物群保存地区内に位置します。村田家は、近世に紅花商、近代には味や醤油の製造販売等で財をなした商家です。屋敷地は、間口が狭く奥行きの大きな短冊形で、町を南北に貫く最上街道に面して店と門を配置し、主な建造物を北側に並べて南側に村田産の石材で通路(ロウズ)を通しています。これは村田の商家に共通するものですが、その規模は他の商家と比較して非常に大きなものとなっています。
・敷地前面に重厚な意匠の店 (明治7年建築)と表門(同32年)を並べる豪壮な表構え
・写真手前が最上街道

・写真左から、本宅、店、表門

・写真左が内蔵で、右が本宅

・写真左から、新蔵、内蔵、本宅

・写真左から、西蔵、新蔵、内蔵、本宅で、ロウズの右が前座敷

・写真左が前座敷で、中央奥が附指定の裏門、ロウズの右が奥から塩蔵、穀蔵、西蔵





・置屋根で、村田では珍しい釉薬が施された赤色瓦(福島産)を用いている

・二階は海鼠壁で飾られ、重厚な観音開きの扉が設けられている

・手前が本宅で、観音開きの土扉の奥が店

・梁には巨大なケヤキ材が用いられている



本宅

・総二階建で店と内蔵に接続する

・チャノマは二階まで吹き抜けにしている

・チャノマ南側は二階からも廊下を通して採光している

・手前の仏壇がある部屋がザシキで左奥がジョウダン



前座敷

・村田の商家の中で離れ座敷を持つのは珍しい
・大沼家当主と明治大学マンドリン部で親交のあった作曲家古賀政男が青年期にこの建物に逗留している



内蔵

・安政3年(1856)の建築
・本宅と接続しており、一階は畳敷き
・腰壁を海鼠壁とし、開口部は観音開き扉としている



新蔵

・文政11年(1828)の建築で、大沼家に現存する建築の中でもっとも古い



西蔵

・明治11年(1878)に旧材を用いて再建
・西蔵、穀蔵、塩蔵は、開口部を扉ではなく引戸とし、腰壁を下見板張にするなど、内蔵、新蔵よりも格式を下げている



穀蔵

・嘉永6年(1853)の建築
・細い栗材を用いている



塩蔵

・穀蔵と同時期の建築



作業場

・小屋組みに方杖付のキングポストトラスを用い、柱のない広い空間を確保している



表門

・格式の高い薬医門としている



湯殿(附指定)



裏門(附指定)

アクセス
JR東北本線大河原駅からバスで村田中央下車すぐです。仙台からの高速バスを利用することもできます。
見学ガイド
午前9時~午後4時までの間は敷地内に入って見学することができます。向かいの観光案内所にお願いすれば店と本宅の内部も見ることができます。

感想メモ
敷地内は奇麗に整備されていて気持ちよく見学することができました。立ち並ぶ蔵や巨大な欅の梁を架けた店は壮観です。近所のcafé蔵人のご主人は郷土史に詳しく、おいしいコーヒーをいただきながら村田商人についての興味深いお話を聞くことができました。
(2024年12月訪問)

参考
現地パンフレット、現地説明、蔵人のご主人のお話

 

 

松島を臨む伊達家の菩提寺

瑞巖寺


ずいがんじ
宮城郡松島町松島町内
瑞巖寺本堂(元方丈)38.372128, 141.059571
国宝・桃山
桁行十三間、梁間右側面八間、左側面八間、一重、入母屋造、本瓦葺、玄関附属
瑞巖寺庫裏及び廊下庫裏38.372244, 141.060192
国宝・桃山
桁行23.6m、梁間13.8m、一重、切妻造、妻入、本瓦葺、玄関及び北面庇二ヶ所を含む
廊下38.372207, 141.059965
国宝・桃山
桁行玄関二間、東廊下六間、中廊下十一間、西廊下二間、各梁間一間、一重、入母屋造、本瓦葺
瑞巖寺御成門38.371774, 141.059915
桃山
一間薬医門、入母屋造、本瓦葺
瑞巖寺中門38.371919, 141.060017
桃山
四脚門、切妻造、こけら葺
瑞巖寺五大堂38.369723, 141.064215
桃山
桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、向拝一間、本瓦葺

瑞巖寺は松島海岸に位置する臨済宗妙心寺派の寺院で、正式名称は松島青龍山瑞巌円福禅寺です。9世紀初頭、比叡山延暦寺座主・慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身であると伝わっています。13世紀中頃、執権・北条時頼公が臨済宗への改宗を行い、寺名も円福寺と改めています。関ヶ原の戦いの後は、仙台に入った伊達政宗公が円福寺の復興に力を入れ、伊達家の菩提寺としました。 慶長13年(1608)に鋳造された大鐘には、「山を号して松島と曰い、寺を名づけて瑞岩(巌)と曰う」という一文があり、これが「瑞巌寺」の呼称の初出です。


本堂(元方丈)

・書院造で、入母屋造本瓦葺の巨大な屋根を架ける
・南・北・東の三方に上縁、下縁をめぐらす
・内部は10室に画して中央奥に仏間を設けている

・疎垂木で軒回りも質素だが、肘木に繰型を刻むなど、細部に技巧が凝らされている

・本堂南西端には御成玄関が付く
・御成玄関には、詰組、柱頭の粽、礎盤、七宝輪違いを装飾した花頭窓など、禅宗様の意匠が見られる

・明治29年(1896)に来松した島崎藤村が御成玄関桟唐戸上部の欄間彫刻「葡萄に栗鼠」を見て心を揺さぶられたことが、処女詩集『若菜集』に収録されている



庫裏及び廊下

・写真左端が廊下の玄関部、右は庫裏



庫裏

・正面13.8m、奥行23.6m、切妻造の本瓦葺で、大屋根に煙出しをのせる
・正面上部は複雑に組み上げられた梁と束で装飾する

・正面妻は大斗肘木を三段積み上げている
・肘木には繊細な繰型が施されている

・正面妻最上部の大瓶束の左右は笈形を唐草模様に発展させた特異な意匠
・虹梁も若葉繰型で装飾している

・正面入口庇にもふんだんに装飾が施されている

・煙出しは重厚な入母屋造で、腰袴で大屋根にすりつける

・側面は簡素な意匠で、柱上は装飾のない舟肘木(写真は西側面)



廊下

・廊下は桁行二間の玄関(突出部の右)、六間の東廊下(突出部)、十一間の中廊下(突出部の左)、二間の西廊下(写真左に見切れた部分で本堂との接合部)から成る

・高欄や縁の持ち送りに特殊な様式の装飾が見られる



御成門

・御成玄関のほぼ正面に位置する、天皇、皇族、藩主専用の門
・入母屋造、本瓦葺の格式の高い薬医門

・扉の上部には七宝輪違いの装飾が施されている

・軒は繁垂木で、木鼻や肘木には彫の深い繰型が見られる



中門

・本堂の正面に位置する、切妻造、杮葺の四脚門
・瑞巌寺の建築物は本瓦葺が多い中、中門は唯一の杮葺

・扁額「瑞嵓円福禅寺」は瑞巌寺100世洞水東初禅師(1605~71)の揮毫

・質素な疎垂木の化粧屋根裏
・棟は蓑束で支えている



五大堂

・慶長9年(1604)、伊達政宗公による造営
・宝形造、本瓦葺で、向拝をつけ勾欄付縁をめぐらし、軒の出が深い

・正面中央間は禅宗様の桟唐戸だが和様の幣軸が付いている
・両側間は古風な和様の蔀戸

・側面中央間は正面と同様だが、両側間は連子窓
・内法長押のほか腰長押も回し、和様の趣が強い

・向拝柱は面取角柱で、木鼻は桃山風の写実的な意匠

・軒は二軒繁垂木で、組物は拳鼻付きの二手先

・蟇股には方位に従って十二支の彫刻が施されている

アクセス
JR仙石線松島海岸駅下車、北700mです。
見学ガイド
瑞巌寺は有料で公開されています。本堂や庫裏は堂内に入ることもできますが、堂内の写真撮影は禁止されています。五大堂は常時自由に参拝することができます。

感想メモ
大震災では境内の巨杉が大きな被害を受けましたが、国宝建造物が無事だったのは何よりのことでした。復興工事を終えた境内は、今では落ち着きを取り戻しています。
本堂と庫裏はいずれも大規模な建築でありながら、細部にまで意匠が凝らされており、特に本堂内部は伊達文化を象徴する豪華絢爛な造りとなっています。
(2024年12月訪問)

参考
瑞巌寺公式サイト、宮城県公式サイト

 

 

西洋風の意匠が見られる厨子を有する

圓通院霊屋


えんつういんたまや
宮城郡松島町松島町内
圓通院霊屋38.371215, 141.058707
江戸前期
桁行三間、梁間三間、一重、宝形造、本瓦葺

圓通院は松島海岸の瑞巌寺の西隣に位置します。伊達政宗公の嫡孫光宗公の霊廟として、正保4年(1647)瑞巌寺第100世洞⽔和尚により霊屋・三慧殿(さんけいでん)が建⽴され開⼭されました。


霊屋

・宝形造、本⽡葺で、四周に⾼欄付の縁を巡らす
・和様を基調としているが、桟唐戸や高欄親柱など禅宗様を折衷している
・東北地⽅では数少ない格式ある⽅三間霊屋の遺構

・軒は二軒繁垂木
・柱上は拳鼻付き二手先で、中備は蟇股

・側面は板壁で、窓や扉を設けない



厨子(附指定)

・光宗公の騎馬像を納めた一間厨子
・⽀倉常⻑が伝えとされる西洋風の意匠が施されており、三百年余り伊達家に秘蔵されてきた

・向かって右の扉にはローマ帝国以来ローマを象徴するバラの花が、左の扉には、フィレンツェ市を表すスイセンが描かれている

・蟇股の上に乗る斗の基部にはクローバーの意匠
・斗が支える梁にはクロスつなぎ(切支丹弾圧の時代、十字架を隠すために用いられた模様)
・下部には葵の御紋に似せたスペード(光宗公は徳川家康のひ孫)

・桐紋の左右の金具にはダイヤの意匠

アクセス
JR仙石線松島海岸駅下車、北700mです。瑞巌寺に隣接しています。
見学ガイド
圓通院は有料で拝観することができます。霊屋もすぐ近くから見ることができます。玉屋の扉が開かれているので、附指定の厨子も見ることができます。

感想メモ
前回の訪問は紅葉のライトアップの時期で、闇夜に浮かび上がる霊屋の幻想的な雰囲気に心を奪われました。今回は日中の拝観となり、落ち着いた雰囲気の中で霊屋をじっくりと鑑賞することができました。
ちょうど団体の方々が訪れており、寺院の方によるご説明を一緒に聞かせていただく機会にも恵まれました。光宗公にまつわるお話や、厨子に秘められた文様の意味など、興味深いお話の数々に耳を傾けながら、より深く霊屋の魅力を感じることができました。
(2024年12月訪問)

参考
宮城県公式サイト、円通院公式サイト、現地解説板
このブログについて:

東京都副都心4区で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

新宿区
聖徳記念絵画館
学習院旧正門
早稲田大学大隈記念講堂
旧馬場家牛込邸
新宿御苑旧洋館御休所
文京区
根津神社本殿、幣殿、拝殿、唐門、西門、透塀(唐門西門間)、透塀(唐門東方)、透塀(西門北方)、楼門
旧磯野家住宅主屋、表門
護国寺本堂
護国寺月光殿(旧日光院客殿)
旧東京医学校本館
旧加賀屋敷御守殿門(赤門)
スカイハウス(旧菊竹清訓自邸)
渋谷区
旧朝倉家住宅主屋、土蔵
旧久邇宮邸(聖心女子大学)御常御殿・小食堂、正門
明治神宮本殿、内拝殿及び祝詞殿、内院渡廊(1)、(2)、外拝殿、宝庫、神庫、内透塀及び北門、神饌所及び渡廊、旧祭器庫、北回廊(1)、(2)、外透塀(1)、(2)、(3)、北神門、外院回廊(1)、(2)、(3)、(4)、東神門、西神門、南神門、宿衛舎、玉垣(1)、(2)、(3)、(4)、祓舎、南手水舎、西手水舎、東手水舎、神橋、南制札、北制札、西制札
明治神宮宝物殿中倉、東西倉(東倉)、東西倉(西倉)、東西廊(東廊)、東西廊(西廊)、東西橋廊(東橋廊)、東西橋廊(西橋廊)、東西渡廊(東渡廊)、東西渡廊(西渡廊)、北廊、車寄、事務所、正門
代々木競技場第一体育館、第二体育館
豊島区
雑司ケ谷鬼子母神堂
自由学園明日館中央棟、東教室棟、西教室棟、講堂

 

 

早稲田のシンボル

早稲田大学大隈記念講堂


わせだだいがくおおくまきねんこうどう
新宿区早稲田鶴巻町
早稲田大学大隈記念講堂35.708910, 139.721575
昭和
鉄骨鉄筋コンクリート造、建築面積1,225.95平方メートル、三階建、地下一階、鉄筋コンクリート造時計塔付

早稲田大学大隈記念講堂は、早稲田大学早稲田キャンパスに位置します。創立者である大隈重信に対する記念事業として計画され、昭和2年(1927)に竣工しました。
・ロマネスク様式を基調としてゴシック様式を加味したもの
・わが国近代の折衷主義建築の優品として、高い価値があるとされている
・西面の正面玄関は二層分の吹き抜け空間とし、正面に三連のチューダーアーチの開口をとる
・西北隅に鉄筋コンクリート造七階建の塔屋(時計塔)を配置する

アクセス
東京メトロ早稲田駅北500mです。
見学ガイド
大隈記念講堂の外観は常時自由に見学することができます。

感想メモ
改めて文化財としてゆっくりと眺めると、すっきりとした美しい建築です。
(2021年4月訪問)

参考
国指定文化財等DB

 

 

銅(あかがね)御殿として知られる

旧磯野家住宅


いそのけじゅうたく
文京区小石川5丁目
旧磯野家住宅主屋35.719002, 139.738238
大正
木造、建築面積547.08平方メートル、一部3階建、銅板葺
表門35.718854, 139.737694
大正
四脚門、切妻造、南北屋根塀及び脇門附属、銅板葺

旧磯野家住宅は、茗荷谷駅から湯立坂を上ったところに位置します。実業家の磯野敬が建設した住宅です。 主屋の屋根は銅板葺で、外壁にも銅板を張ることから、銅御殿と称されています。


主屋

南面: 
・大正元年(1912)竣工で、車寄を備えた平屋建の書院棟、3階建の応接棟、平屋建の旧台所棟などからなる

西面(応接棟三階部分)

内部(玄関より)



表門

・大正2年(1913)竣工の四脚門で、尾州檜の太い丸太材を柱に用いている

アクセス
東京メトロ丸の内線茗荷谷駅北東250mです。
見学ガイド
磯野家住宅は通常非公開ですが、表門は公道に面しているので、常時見学することができます。主屋の一部は西側の遊歩道から見ることが出ます。

感想メモ
普段は非公開で、都心にあって深い木立に囲われた神秘的な住宅です。西側の遊歩道の階段からちょうどうまく主屋を見ることができる場所がありますが、目の前の電線に邪魔をされます。
(2020年4月訪問)
特別公開の日に訪問しました。普段固く門を閉ざした謎めいた屋敷の敷地内に入ることができました。前庭からのみの見学でしたが、ちょうどいい角度で住宅を見ることができる場所があってよかったです。この日は午後の遅い時間の訪問になったので日が陰ってしまっていたのは残念でした。Googleに投稿された写真を見ると、早い時間だときれいに日が当たっていたようです。
(2022年10月訪問)

参考
東京都文化財情報DB

 

 

明治初期の木造擬洋風建築

旧東京医学校本館


とうきょういがっこうほんかん
文京区白山3丁目
旧東京医学校本館35.721400, 139.741150
明治
木造、建築面積430.6m2、二階建、桟瓦葺、正面玄関及び中央部塔屋付

旧東京医学校本館は、もとは東大本郷キャンパスにありましたが、現在は小石川植物園に隣接した場所に移築されています。東京大学の前身にあたる東京医学校時代の建物で、明治9年(1876)に概成したものです。東京開成学校と東京医学校が合併され、東京大学が創設された以後は、医学部本部・病室などの用途に用いられました。明治44年(1911)に建物の前半部が赤門脇へ移され、この際に平面規模の縮小とともに、形状が一部変更され現在見るような姿となりました。明治初期の木造擬洋風建築の特徴を示す建物です。
・小石川植物園から池越しに眺めた医学校本館

・塔屋は明治44年の規模縮小時に改変されたもの

・二階ベランダには和風の擬宝珠付き親柱の高欄が用いられている

アクセス
東京メトロ丸の内線茗荷谷駅から700mです。
見学ガイド
旧東京医学校本館は東京大学総合博物館分館として無料で公開されています(耐震診断のため令和3年から休館中)。開館時間は10時-16時30分 (入館は16時まで)で、休館日は月・火・水曜日です。本館は隣接する小石川植物園からきれいに見ることができます。植物園入口は医学校本館から700mほど離れた植物園南東端にあります。

感想メモ
明治期の擬洋風建築は、今、小石川植物園の西端、池のほとりで静かに余生を送っています。 石造を模しながらも木の温もりを湛えたその佇まいは、レンガ造りの洋館とは一線を画します。 和様との折衷も、迷いなく自然に溶け込んでおり、その潔さが魅力的です。
(2021年10月訪問)

参考
東京大学総合博物館公式サイト

 

 

東京大学の代名詞

旧加賀屋敷御守殿門(赤門)


かがやしきごしゅでんもん(あかもん)
文京区本郷7丁目
旧加賀屋敷御守殿門(赤門)35.710606, 139.760356
江戸後期
三間薬医門、切妻造、本瓦葺、左右繋☆塀及び離番所付
繋☆塀 左右各4.1m、本瓦葺
番所 左右各桁三間、梁間二間、一重、前後唐破風造、本瓦葺

旧加賀屋敷御守殿門は、東大本郷キャンパスの赤門として広く知られています。もとは加賀藩上屋敷の御住居表御門で、文政10年(1827)に、加賀藩第13代藩主前田斉泰に輿入れする第11代将軍徳川家斉の第21女溶姫を迎えるために建てられたものです。御守殿とは、三位以上の大名が将軍家から迎えた妻、またはその居所を意味します。通常、御守殿門は輿入れした姫がなくなると取り壊されますが、溶姫が輿入れしたのが幕末で、この土地が新政府に移管されたため、取り壊されることなく残されました。旧加賀屋敷御守殿門は、加賀百万石にふさわしい豪華な構造と構成となっています。
・切妻造、本瓦葺の薬医門で、門の左右に繋塀と唐破風付きの番所を配している
・唐破風の番所の付く門は格式の高い大名にのみ許された
・大名屋敷の赤色の門は御守殿にのみ許された

・重厚な冠木で、金物で装飾されている
・柱は長辺を正面に向ける長方形断面で、外見を重厚に見せている。

・本瓦葺きで、棟には重厚な意匠が見られる

・左右の番所の外側には海鼠壁が続く(写真は向かって左側の番所)

・番所の唐破風には兎の毛通しや笈形などに装飾が凝らされている

アクセス
東京メトロ・都営地下鉄本郷三丁目駅下車、本郷通を北にすぐです。
見学ガイド
赤門は常時自由に見学することができます。2022年3月時点では、耐震診断中であるため、門を潜ったり近くには立ち入ったりすることはできません。赤門は西面しています。

感想メモ
耐震診断のため周辺に立ち入ることができませんでしたが、風格のある場所に建つ、風格のある門でした。
(2021年11月訪問)

参考
東京都文化財情報DB、東京大学公式サイト、東京大学youtube

 

 

大正期の邸宅

旧朝倉家住宅


あさくらけじゅうたく
渋谷区猿楽町
旧朝倉家住宅主屋35.647508, 139.700916
大正
木造、建築面積573.76平方メートル、一部2階建、桟瓦葺
土蔵35.647643, 139.700691
大正
鉄筋コンクリート造及び木造、建築面積29.03平方メートル、2階建、桟瓦葺、東面庇附属

旧朝倉家住宅は代官山に位置します。朝倉家は、明治以降、精米業などにより発展した家で、住宅は東京府議会議長などを務めた朝倉虎治郎が大正8年(1919)に建設したものです。宅地北側に主屋が建ち、西に土蔵があります。


主屋

東面玄関:
・木造2階建てで、ほぼ全室が畳敷き、屋根は瓦葺、外壁は下見板張、一部が漆喰塗り

南面

二階広間

平面図



土蔵

・主屋西側に建つ
・軸部を木造、外壁を鉄筋コンクリート造とし、入口や窓は重量感のある鉄扉で作られている

アクセス
東急東横線代官山駅下車すぐです。JR渋谷駅からだと徒歩20分程度です。
見学ガイド
朝倉家住宅は、有料で公開されています。公開時間は、10:00~18:00(ただし、11月~2月は10:00~16:30)で、月曜日は休館です。主屋は内部も見ることができます。

感想メモ
都心とは思えないほど、鬱蒼とした樹木が繁茂する邸宅です。豊かな植栽に囲まれているため、主屋や土蔵の外観は限られた角度からしか望むことができません。特に2020年の訪問時は、土蔵の周囲に植栽が一層繁茂しており、建物全体を視認するのが困難でした。そのため、全貌を記録した2009年撮影の写真を改めて引き出すことにしました。
(2009年6月訪問、2020年11月再訪)

参考
東京都文化財情報DB、渋谷区公式サイト

 

 

内務省神社局設計の社殿

明治神宮


めいじじんぐう
渋谷区代々木神園町
明治神宮本殿35.676384, 139.699385
昭和
木造、建築面積108.70平方メートル、正面向拝付、銅板葺
内拝殿及び祝詞殿35.676214, 139.699381
昭和
内拝殿 木造、建築面積226.13平方メートル、正面千鳥破風及び軒唐破風付、銅板葺
祝詞殿 木造、建築面積65.37平方メートル、銅板葺
内院渡廊(1)35.676110, 139.699549
昭和
東方内院渡廊 木造、建築面積37.18平方メートル、銅板葺
内院渡廊(2)35.676090, 139.699245
昭和
西方内院渡廊 木造、建築面積37.18平方メートル、銅板葺
外拝殿35.675961, 139.699416
昭和
木造、建築面積507.21平方メートル、銅板葺
宝庫35.676535, 139.699513
昭和
鉄筋コンクリート造、建築面積61.92平方メートル、地下一階、東西出入口付
神庫35.676501, 139.699189
昭和
木造、建築面積11.57平方メートル、銅板葺
内透塀及び北門35.676523, 139.699351
昭和
内透塀 東方及び西方 各折曲り延長67.7メートル、銅板葺
北門 木造、建築面積10.97平方メートル、銅板葺
神饌所及び渡廊35.676231, 139.699034
昭和
神饌所 木造、建築面積59.49平方メートル、銅板葺
渡廊 木造、建築面積28.92平方メートル、銅板葺
旧祭器庫35.676228, 139.699761
昭和
木造、建築面積44.62平方メートル、銅板葺
北回廊(1)35.676668, 139.699499
大正
東方北廻廊 木造、建築面積104.11平方メートル、銅板葺
北回廊(2)35.676621, 139.699181
大正
西方北廻廊 木造、建築面積104.11平方メートル、銅板葺
外透塀(1)35.676116, 139.699756
昭和
南東方外透塀 木造、延長16.4メートル、銅板葺
外透塀(2)35.676407, 139.699722
昭和
北東方外透塀 木造、延長32.7メートル、銅板葺
外透塀(3)35.676417, 139.698999
昭和
北西方外透塀 木造、延長22.7メートル、銅板葺
北神門35.676648, 139.699325
大正
木造、建築面積18.58平方メートル、銅板葺
外院回廊(1)35.675505, 139.699800
大正
南東方外院廻廊 木造、建築面積111.73平方メートル、銅板葺
外院回廊(2)35.675438, 139.699145
大正
南西方外院廻廊 木造、建築面積111.73平方メートル、銅板葺
外院回廊(3)35.675787, 139.699766
大正
北東方外院廻廊 木造、建築面積67.00平方メートル、銅板葺
外院回廊(4)35.675655, 139.699107
昭和
北西方外院廻廊 木造、建築面積37.22平方メートル、直会殿附属 木造、建築面積59.49平方メートル、銅板葺
東神門35.675620, 139.699778
大正
木造、建築面積16.45平方メートル、銅板葺
西神門35.675570, 139.699122
大正
木造、建築面積16.45平方メートル、銅板葺
南神門35.675396, 139.699477
大正
木造、建築面積41.70平方メートル、銅板葺
宿衛舎35.675052, 139.699339
大正
木造、建築面積81.99平方メートル、東面式台玄関附属、銅板葺
玉垣(1)35.674986, 139.699933
大正
南東方玉垣 木造、折曲り延長136.5メートル、銅板葺
玉垣(2)35.674948, 139.699246
大正
南西方玉垣 木造、折曲り延長102.4メートル、銅板葺
玉垣(3)35.675785, 139.700256
大正
北東方玉垣 木造、折曲り延長110.7メートル、銅板葺
玉垣(4)35.675711, 139.698924
大正
北西方玉垣 木造、折曲り延長169.2メートル、銅板葺
祓舎35.674817, 139.699746
大正
木造、建築面積55.24平方メートル、銅板葺
南手水舎35.674781, 139.699364
大正
木造、建築面積22.20平方メートル、銅板葺、手水舟付
西手水舎35.675605, 139.698752
大正
木造、建築面積11.97平方メートル、銅板葺、手水舟付
東手水舎35.675597, 139.700394
大正
木造、建築面積11.97平方メートル、銅板葺、手水舟付
神橋35.671734, 139.701656
大正
鉄筋コンクリート造反橋、橋長10.3メートル、幅員14.5メートル、親柱及び高欄付
南制札35.670054, 139.701820
大正
木造、銅板葺
北制札35.678950, 139.702270
大正
木造、銅板葺
西制札35.678187, 139.695380
大正
木造、銅板葺
明治神宮宝物殿中倉35.679990, 139.697960
大正
鉄筋コンクリート造、建築面積423.55平方メートル、切妻造、瓦葺
東西倉(東倉)35.680157, 139.698471
大正
鉄筋コンクリート造、建築面積93.17平方メートル、切妻造、瓦葺
東西倉(西倉)35.679897, 139.697461
大正
鉄筋コンクリート造、建築面積93.17平方メートル、切妻造、瓦葺
東西廊(東廊)35.679918, 139.698380
大正
鉄筋コンクリート造、建築面積114.84平方メートル、入母屋造、瓦葺
東西廊(西廊)35.679733, 139.697705
大正
鉄筋コンクリート造、建築面積114.84平方メートル、入母屋造、瓦葺
東西橋廊(東橋廊)35.680081, 139.698288
大正
鉄筋コンクリート造、建築面積130.29平方メートル、切妻造、瓦葺
東西橋廊(西橋廊)35.679911, 139.697668
大正
鉄筋コンクリート造、建築面積130.29平方メートル、切妻造、瓦葺
東西渡廊(東渡廊)35.680110, 139.698410
大正
石造及び鉄筋コンクリート造桁橋、橋脚3基、高欄付
東西渡廊(西渡廊)35.679879, 139.697561
大正
石造及び鉄筋コンクリート造桁橋、橋脚3基、高欄付
北廊35.680114, 139.697929
大正
鉄筋コンクリート造、建築面積26.95平方メートル、切妻造、銅板葺
車寄35.680177, 139.697902
大正
鉄筋コンクリート造、建築面積103.47平方メートル、切妻造、東西軒唐破風付、銅板葺
事務所35.680257, 139.697881
大正
鉄筋コンクリート造、建築面積328.37平方メートル、本館、附属屋及び渡廊下よりなる
本館 入母屋造、正面千鳥破風付、銅板葺
附属屋 入母屋造、銅板葺
渡廊下 両下造、北面下屋附属、銅板葺
正門35.679591, 139.698131
大正
鉄筋コンクリート造、建築面積87.14平方メートル、切妻造、瓦葺

明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后を祀る神社として、大正9年に代々木に鎮座しました。創建時の設計は伊東忠太が指導し、内務省神社局によるものです。昭和20年に空襲で本殿ほかを焼失し、同33年に再建されました。再建設計は、もと内務省神社局の角南隆が担当しました。再建設計においては焼失を免れた社殿を生かしつつ、内拝殿での祭式が見通せる外拝殿の形態など、参拝の便を図りながら、大規模な社殿群が優秀かつ特徴的な意匠でまとめられました。
・写真左が本殿東側面で、本殿の右には宝庫、北神門の屋根の一部が見える
・手前が外透塀で、これらすべてが重文指定されている

・内拝殿及び祝詞殿の東側面



外拝殿



東神門

・各神門の左右が外院回廊



西神門

・西神門の右の一段高い屋根は北西方外院廻廊に附属する直会殿



南神門



宿衛舎



祓舎



玉垣



南手水舎



神橋



南制札



明治神宮宝物殿

明治神宮宝物殿は、明治天皇ゆかりの御物を収蔵し、拝観に供していた施設で、境内の北辺西寄りに位置します。宝物殿の建設は明治神宮の創建と一体的に計画され、設計は明治神宮造営局によるもので、工事は大正10年に竣工しました。宝物殿は、約三千坪の敷地の中央に中倉が南面して建ち、その側面から東橋廊・西橋廊、東廊・西廊が鉤の手に連なって前方に延びます。敷地の東西には東倉・西倉が中倉を挟んで建ち、東渡廊・西渡廊を介して東橋廊・西橋廊に接続しています。中倉の背面に軸線を合わせて事務所を配し、車寄、北廊を介して中倉に接続しています。敷地の境界は土塁を廻して限り、正面中央に正門を開きます。明治神宮宝物殿は、我が国の伝統的な建築様式を集成した独特の意匠を、鉄筋コンクリートを中心とした当時最新の建築技術を用いてまとめ上げたものです。
中倉:
・宝物殿の中心となる単層高床の展示施設で、正面に階(きざはし)を付し、側背面に廊を接続
・外壁は花崗岩(万成石)で化粧した校倉風の意匠
・床下の束柱上の組物と床梁を色石粉塗で仕上げ
・軒まわりは木造風に造り出し、二軒半繁垂木とする

東倉(上)と西倉(下):
・単層高床の収蔵施設で、渡廊に接続。意匠、構造とも中倉に準じた仕様

東廊(上及び中段、中段写真は東橋廊から撮影)と西廊(下):
・東西の廊は、中倉の玄関を兼ねた歩廊で、寝殿造の中門廊を連想させる構成
・桁行中央を五間を吹放ちとし、両端部を袴腰の壁面で閉塞
・北端は東橋廊・西橋廊に連なる階段室
・外部は、柱と壁面を万成石で化粧し、組物と梁桁を色石粉塗で仕上げ

東橋廊(上)と西橋廊(下):
・東西の橋廊は、各々東廊・西廊と中倉を繋ぐ高床の歩廊で、南面端部に切妻造の角屋を出して東廊・西廊と接続する階段室を設ける

東渡廊:
・東西の渡廊は各々東橋廊・西橋廊と東倉・西倉を結ぶ桁橋
・三基の橋脚を万成石による石造

・右端の一段高い銅板葺が北廊、その左の軒唐破風が車寄、さらにその奥が事務所、事務所の左に渡廊下で繋がるのが事務所の附属屋(西)
・北廊と車寄は貴賓用を兼ねたもの
・事務所は本館と二棟の附属屋、渡廊下の各棟からなる

正門(写真上から、外面、内面、柱上の装飾):
・長屋門風の単層門
・中央三間を吹放ち鉄扉を付し、両端部は袴腰の壁面で閉塞
・外部は東廊・西廊に準じた仕様で、柱上組物を青銅製の彫刻で飾る。

アクセス
JR山手線原宿駅、東京メトロ千代田線明治神宮前駅、副都心線北参道駅、小田急線参宮橋駅から境内入口まではすぐですが、境内が非常に広大なので歩く距離はかなりあります。
見学ガイド
明治神宮は日の出から日没までの間、自由に参拝することができます。外拝殿から奥の内院には入ることができません。外拝殿から内院の建物の一部を見ることができますが、ここからの写真撮影は禁止されています。神楽殿北側の玉垣の外から本殿などの一部を見ることができます。
宝物殿は通常非公開ですが、特別公開されることもあります。2021年の特別公開で内部に立ち入ることができたのは、中倉、東西橋廊、東西廊、正門のみでしたが、その他の建物についても全て公開区域から外観を見ることができました。非公開時でも正門の鉄扉越しに主要な建物の外観を見ることができます。

感想メモ
深い森の中に端正な造りの社殿が整然と立ち並ぶ姿には、本当に心が洗われます。このように素晴らしい神宮ですが、戦後に再建された社殿を含め、その建物ほぼすべてが重要文化財というのは、ちょっとどうなのかと思いました。いろいろ事情があったのでしょうが、あと百年くらい待てなかったのでしょうか。制札まで重文指定してしまうのは、いくら何でもやりすぎだと思います。宝物館の方は意匠や構造に工夫が凝らされており、見ごたえがありました。
(2020年11月訪問、2021年10月再訪)

参考
国指定文化財等DB、東京都文化財情報DB

大阪市内・北摂・三島・豊能地域にある国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。
大阪市天王寺区
四天王寺六時堂、元三大師堂、五智光院、本坊方丈、本坊西通用門、石舞台
四天王寺鳥居
勝鬘院塔婆
大阪市浪速区
旧松坂屋大阪店(髙島屋東別館)
大阪市住吉区
住吉大社本殿第一殿、第二殿、第三殿、第四殿
住吉大社摂社大海神社本殿
住吉大社幣殿及び渡殿 (第一殿)、幣殿及び渡殿 (第二殿)、幣殿及び渡殿 (第三殿)、幣殿及び渡殿 (第四殿)、摂社大海神社幣殿及び渡殿、摂社大海神社西門、末社招魂社本殿(旧護摩堂)、石舞台、東楽所、西楽所、南高蔵、北高蔵、南門
大阪市平野区
奥田家住宅主屋、米蔵 (1)、米蔵 (2)、旧綿蔵、乾蔵、納屋、表門
杭全神社本殿(第一殿)
杭全神社本殿(第二殿)
杭全神社本殿(第三殿)
大阪市北区
大阪市中央公会堂
大阪府立図書館本館、左翼、右翼
淀川旧分流施設毛馬第一閘門、毛馬洗堰
旧造幣寮鋳造所正面玄関
泉布観
大江橋及び淀屋橋大江橋、淀屋橋
大阪市中央区
愛珠幼稚園園舎
綿業会館
旧緒方洪庵住宅
旧小西家住宅主屋、衣装蔵、二階蔵
大阪城大手門、桜門、一番櫓、六番櫓、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、金蔵、金明水井戸屋形、焔硝蔵、塀(大手門南方塀)、塀(大手門北方塀)、塀(多聞櫓北方塀)
豊中市
原田神社本殿
旧山田家住宅
旧泉家住宅
旧椎葉家住宅主屋、馬屋
金禅寺三重宝篋印塔
池田市
八坂神社本殿
五社神社十三重塔
久安寺楼門
吹田市
旧西尾家住宅主屋、離れ西棟、離れ東棟、積翠庵、戌亥角土蔵、米蔵、戌亥土蔵
太陽の塔
高槻市
普門寺方丈
三島郡島本町
水無瀬神宮客殿
水無瀬神宮茶室

 

 

我が国最初の官寺

四天王寺


してんのうじ
大阪市天王寺区四天王寺1丁目
四天王寺六時堂34.654827, 135.516379
江戸前期
桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺
元三大師堂34.655539, 135.515354
江戸前期
桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、本瓦葺
五智光院34.655917, 135.517008
江戸前期
桁行七間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺
本坊方丈34.655601, 135.517588
江戸前期
桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺
本坊西通用門34.655126, 135.516927
江戸前期
四脚門、切妻造、本瓦葺
石舞台34.654587, 135.516403
江戸前期
石橋及び石造高舞台、木造高欄付
四天王寺鳥居34.653669, 135.514530
鎌倉後期
石造明神鳥居、島木木製銅包、貫柱間、額束及び額銅製

四天王寺は大阪市の中心部、谷町筋の東に位置します。推古天皇元年(593)に建立された我が国最初の官寺です。昭和20年(1945)の大阪大空襲により、境内のほぼ全域が灰燼に帰してしまいましたが、この時に残った建物が重要文化財に指定されています。


六時堂

・境内中央に位置する大規模な堂で、昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名がある



元三(がんさん)大師堂

・叡山中興の祖、第18代天台座主元三大師を祀る
・元和4年(1618年)の建立



五智光院

・大日如来を本尊とする五智如来を安置する道場で、灌頂堂ともいわれる
・徳川家代々の位牌を納めている



本坊方丈

・住職の居室で、1623年に徳川秀忠により再建
・天海大僧正が四天王寺執務の時、在住した



本坊西通用門



石舞台

・亀の池に架かる石橋に組まれた舞台

・高欄の親柱に彫られた舞台講とは舞台再建に寄進した大阪の材木問屋の講



鳥居

・1294年に木造から石造に改められた
・元来鳥居は聖地結界の四門として古来インドより伝わったもので神社に限ったものではなく、寺院にも設けられていた

・扁額の「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」は、この場所が極楽浄土の東門であるとの意味

アクセス
地下鉄谷町線四天王寺前夕陽ヶ丘下車すぐです。
見学ガイド
本坊方丈と五智光院は本坊庭園の有料区域内にあります。庭園の公開時間は8:30 ~ 16:30(10月から3月は8:30 ~ 16:00)で閉園日もあるようです。本坊西通用門は通行が禁止されていますが、近くの参道から見ることができます。その他の指定建造物はいつでも自由に見学することができます。
六時堂・ 元三大師堂は2026年春まで工事中です。

感想メモ
歴史の深い寺院ですが、決して堅苦しくなく、世俗的な雰囲気もあって大阪らしい光景です
(2018年10月訪問、2021年8月再訪)

参考
四天王寺公式サイト

 

 

アール・デコ調の百貨店

旧松坂屋大阪店(髙島屋東別館)


きゅうまつざかやおおさかてん
大阪市浪速区日本橋3丁目
旧松坂屋大阪店(髙島屋東別館)34.662517, 135.506269
昭和
鉄骨鉄筋コンクリート造、建築面積四、八三一・五七平方メートル、七階建一部八階建、地下三階、屋上塔屋三所付

高島屋東別館は大阪ミナミの繁華街の近くに位置します。昭和のはじめに松坂屋大阪店として建築されたものです。
・建物全体はヨーロッパ歴史様式にアール・デコ調の装飾デザインが取り入れられている

・上層階にはアール・デコ調の幾何学的な意匠が見られる

・堺筋に面して11連アーチが設けられている

・アーチ周辺にはアカンサスの葉をモチーフにしたテラコッタの装飾が施されている

・大階段のまわりにも細かな装飾が施されている

アクセス
南海なんば駅東500m、近鉄・地下鉄日本橋駅南500mです。
見学ガイド
外観は常時見学することができます。内部の大階段は史料館開館時間中であれば自由に見ることができます。

感想メモ
なんばの高島屋には子供の頃、親によく連れてきてもらいましたが、東館の存在は文化財に指定されるまで全く知りませんでした。
11連のアーチはインパクトがありますが、一方で装飾は控えめで、落ち着いたいい感じです。足元にアールデコとは全く無縁な東京チカラメシが貼り付いているのも面白かったです。ちなみに、昭和初期の写真を見ても、この場所には木造の商店が貼り付いています。
(2022年8月訪問)

参考
高島屋公式サイト

 

 

古事記・日本書紀にその名の見える古社

住吉大社


すみよしたいしゃ
大阪市住吉区住吉2丁目
住吉大社本殿第一殿34.612394, 135.493842
国宝・江戸後期
住吉造、檜皮葺
第二殿34.612428, 135.493361
国宝・江戸後期
住吉造、檜皮葺
第三殿34.612448, 135.493031
国宝・江戸後期
住吉造、檜皮葺
第四殿34.612317, 135.493014
国宝・江戸後期
住吉造、檜皮葺
住吉大社摂社大海神社本殿34.613892, 135.493720
江戸中期
住吉造、檜皮葺
住吉大社幣殿及び渡殿 (第一殿)34.612395, 135.493745
江戸後期
幣殿 桁行五間、梁間二間、一重、切妻造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、 檜皮葺、渡殿 桁行二間、梁間一間、両下造、檜皮葺、鳥居付
幣殿及び渡殿 (第二殿)34.612426, 135.493280
江戸後期
幣殿 桁行五間、梁間二間、一重、切妻造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、 檜皮葺、渡殿 桁行二間、梁間一間、両下造、檜皮葺、鳥居付
幣殿及び渡殿 (第三殿)34.612452, 135.492940
江戸後期
幣殿 桁行五間、梁間二間、一重、切妻造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、 檜皮葺、渡殿 桁行二間、梁間一間、両下造、檜皮葺、鳥居付
幣殿及び渡殿 (第四殿)34.612325, 135.492921
江戸後期
幣殿 桁行五間、梁間二間、一重、切妻造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、 檜皮葺、渡殿 桁行二間、梁間一間、両下造、檜皮葺、鳥居付
摂社大海神社幣殿及び渡殿34.613909, 135.493627
江戸中期
幣殿 桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺、渡殿 桁行二間、梁間一間、両下造、檜皮葺、鳥居付
摂社大海神社西門34.613937, 135.493416
江戸前期
四脚門、切妻造、本瓦葺
末社招魂社本殿(旧護摩堂)34.613025, 135.494596
江戸前期
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺
石舞台34.611952, 135.493743
桃山
石造桁橋及び石造高舞台、木造高欄付
東楽所34.611756, 135.493820
桃山
桁行十一間、梁間二間、一重、東面入母屋造、西面切妻造、本瓦葺
西楽所34.611759, 135.493619
桃山
桁行五間、梁間二間、一重、西面入母屋造、東面切妻造、本瓦葺
南門34.611756, 135.493717
桃山
四脚門、切妻造、本瓦葺
南高蔵34.612298, 135.494113
桃山
桁行三間、梁間二間、板倉、寄棟造、本瓦葺
北高蔵34.612424, 135.494124
桃山
桁行三間、梁間二間、板倉、寄棟造、本瓦葺

住吉大社は大阪市南西部の住吉浜に鎮座します。古事記や日本書紀にその名の見える古社で、かつての住吉浜は旧淀川が大阪湾に注ぐ水陸交通の要衝でした。
本殿は四棟すべて海に向かって西面し、西から第三殿、第二殿、第一殿の順に縦に並び、第三殿の南に第四殿が建ちます。祭神は住吉三神で。第四殿は神功皇后を祀ります。本殿は、平安時代初期以来二十年ごとに式年遷宮が行われていましたが、途中、戦乱による空白期があり、十七世紀始めに再興されました。現本殿は文化七年(1810)の造替時のものです。
各本殿は前面に渡殿を介して幣殿を付属しています。各幣殿及び渡殿は、本殿とともに再建されたものですが、第一殿の幣殿は中世には存在していたとみられ、他の三殿の幣殿は慶長以後に設けられたものと考えられています。
本殿第二殿(手前)と第三殿(右奥)

本殿第三殿(右)と第四殿(左)



本殿第一殿

・四つの本殿はすべて檜皮葺、切妻造、妻入で、前後二室からなる住吉造
・柱はすべて丸柱で礎石上に立ち、側面・背面は板壁
・破風と垂木は直線、軒は一軒、妻飾は豕扠首
・床が比較的低く張られ、周囲に縁をめぐらさないことも、古式を残すもの
・瑞垣は縦板を貫にすきまなく打ちつけて本殿の下半をかくしており、玉垣はその外に頭部を丸くした角柱を立て、貫で連結している



本殿第二殿

・右が本殿で、左が幣殿、両者を繋ぐのが渡殿



摂社大海神社本殿

・宝永五年(1708)造営の住吉造りで、本社本殿よりも古い



幣殿(第一殿)

・桁行五間、梁間二間、切妻造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、檜皮葺で、甍棟を積む
・割拝殿形式で、正面中央間を馬道とし、左右に二間四方の部屋を配している
・軒は二軒疎垂木
・渡殿は、桁行二間、梁間一間、両下造、檜皮葺



幣殿(第二殿)

・第二殿・第三殿・第四殿の幣殿は、桁行三間である以外は第一殿と同様の構成



幣殿(第三殿、第四殿)

・写真左が第三殿で、右が第四殿



摂社大海神社幣殿

・本殿の宝永五年(1708)の造替時に、本社に倣って新たに設けられたものと考えられている
・本社第二殿以下の幣殿と同形式だが若干小振りで、正面に千鳥破風や軒唐破風を付けない点が異なる



摂社大海神社西門

・江戸初期の建築とされる四脚門で、切妻造、本瓦葺
・軸部は、親柱を円柱、控柱を面取角柱として、腰を貫と長押、上部を冠木、貫、虹梁で固める
・組物は、柱上に三斗を置き、妻虹梁上の板蟇股で棟木を受ける



末社招魂社本殿(旧護摩堂)

・境内に残る唯一の仏教建築で、元和五年(1619)の建立と考えられている
・桁行三間、梁間三間、入母屋造、本瓦葺で、正面に向拝一間を付ける
・軸部は、円柱を貫と長押で固め、組物は三斗で、中備は中央間を蟇股、脇間を間斗束
・軒は二軒繁垂木で、妻飾は虹梁大瓶束として大瓶束を笈形で飾る



石舞台

・南門北側の池に架かる石造桁橋の上に方約六メートル、高さ約〇・五メートルの舞台を築いたもの
・羽目石には格狭間を刻み、上面には高欄を取付けるほぞ穴がある
・高欄は木製で、舞楽を演じる時以外は楽所に納められている(写真は仮設の金属製高欄)



南門

・門の右が東楽所で、左が西楽所
・東西楽所とともに慶長十二年(1607)豊臣秀頼の再興によるもの
・切妻造、本瓦葺の四脚門で、親柱は円柱、控は角柱
・組物は出三斗、中備に蟇股を配し、木割も太く、絵様など細部も桃山時代の特徴がよく表れている

・棟は妻梁上に板蟇股をおき舟肘木で支える
・二軒で化粧裏板



東楽所

・梁間二間の建物で、桁行十一間
・入母屋造で、南門寄りは切妻
・中央間を土間の入口とし、左右二室で床張りとする
・正面側は連子窓、背面(内方)は蔀戸を吊る
・柱上に舟肘木を置く



西楽所

・桁行五間で、一室であること以外は、東楽所と同じ構成



北高蔵、南高蔵

・手前が北高蔵で、奥が南高蔵
・双方とも、慶長一二年(1607)の造営で、昭和時代に現在地に移築されたもの
・桁行三間、梁間二間、板倉、寄棟造、本瓦葺で、北高蔵の方がやや大きい
・西面を出入口として木階を設ける
・軒は一軒半繁垂木で、上部の壁板や腕木を差し出して出桁を受ける

・高蔵の軸部は円束上に台輪を組んで壁板を組上げている(写真は北高蔵)

アクセス
南海本線住吉大社駅と南海高野線住吉東駅の中間に位置します。両駅から500mあまりです。阪堺電車の住吉鳥居前なら下車すぐです。
見学ガイド
境内は常時自由に見学することができます。本社本殿の開門時間は朝6時~夕方5時(10月~3月は朝6時半~夕方5時)です。主要な社殿は西面していますが、本殿については前面が幣殿で覆われていて側面・背面から見ることになるので、夕方近くになると逆光になります。本殿第一殿、大海神社本殿以外は、すぐ近くから見学することができます。

感想メモ
式年遷宮の伝統があったため本殿は比較的新しい建築ですが、住吉造の古制を守った四殿が並び立つ姿は壮観です。
(2018年10月訪問、2021年8月再訪)

参考
国指定文化財等DB

 

 

三殿が並び立つ

杭全神社


くまたじんじゃ
大阪市平野区平野宮町2丁目
杭全神社本殿(第一殿)34.629283, 135.554776
江戸中期
一間社春日造、檜皮葺
杭全神社本殿(第二殿)34.629245, 135.554913
室町後期
三間社流造、檜皮葺
杭全神社本殿(第三殿)34.629275, 135.555139
室町後期
一間社春日造、檜皮葺

杭全神社は平野の市街地に鎮座します。平安時代の貞観4年(862)に坂上田村麿の孫当道が、素盞鳴尊を祀る祇園社を創建したのが始まりといわれ、平野郷一円の守護神として信仰をあつめてきました。本殿は、第一殿から第三殿までの三殿が向かって左から右に並立しています。元享元年(1321)に熊野三所権現を勧請し第二本殿を建立して以来、熊野権現社が総社となっていましたが、明治になって、社号を杭全神社と定め、本来の祇園社(第一殿)が本社とされました。
・右手前の春日造が第三殿で、中央の流造が第二殿、奥に第一殿が見える



第一殿

・式年造替で取壊された春日大社本社本殿(第三殿)を移したもので、一間社春日造、檜皮葺
・後世の改修はほとんどなく、よく旧規を保っている



第二殿

・第三殿とともに永正十年(1513)の建立で、三間社流造、檜皮葺



第三殿

・一間社春日造で、檜皮葺

アクセス
JR関西本線平野駅下車、徒歩数分です。駅南口を出て、左斜め前方です。地下鉄谷町線の平野駅からは徒歩で15分程度です。
見学ガイド
杭全神社は常時自由に参拝することができます。3棟の本殿は、それぞれの前の瑞垣に設けられた拝所の隙間から一部見ることができます。

感想メモ
3棟の本殿は、背の高く連子の隙間が狭い瑞垣に囲まれていて、各本殿の前の瑞垣に設けられた拝所には奥行きの深い屋根がかけられているので、各社殿ともごく一部しか見ることができません。
でも、訪問時には瑞垣の右端の掖門が迎春準備のため開放されていたので、この部分から社殿を見ることができました。
(2020年12月訪問)

参考
国指定文化財等DB、平野区公式サイト

 

 

現存最古の幼稚園建築

愛珠幼稚園園舎


あいしゅようちえんえんしゃ
大阪市中央区今橋3丁目、北浜3丁目
愛珠幼稚園園舎34.690906, 135.502876
明治
遊戯室棟、玄関棟、西保育室棟、北保育室棟、便所棟、東棟からなる
遊戯室棟 木造、建築面積265.42平方メートル、西面下屋・北面下屋及び庇付、桟瓦葺、北面突出部附属
玄関棟 木造、建築面積127.86平方メートル、桟瓦葺、南面西突出部・南面中央玄関車寄・南面東突出部附属、北面遊戯室棟に接続
西保育室棟 木造、建築面積186.59平方メートル、東面庇付、桟瓦葺、北面下屋・南面廊下附属
北保育室棟 木造、建築面積99.26平方メートル、南面庇付、桟瓦葺
便所棟 木造、建築面積17.55平方メートル、桟瓦葺、東面西保育室棟附属廊下に接続
東棟 木造、建築面積79.99平方メートル、西面及び北面庇付、桟瓦葺、西面南端渡廊下附属

愛珠幼稚園は大阪の古くからの市街地、淀屋橋に位置します。明治13年に創立され、現在の園舎は明治34年に竣工しました。園舎は、遊戯室棟、玄関棟、西保育室棟、北保育室棟、便所棟、東棟からなり,これら全体を1棟の建造物として重文指定されています。愛珠幼稚園園舎は,現存最古の幼稚園建築です。
玄関棟(南面):
・車寄が付き、和風で重厚な外観を呈している

戯室棟(中央の建物):
・たちの高い木造平屋建で、屋根は入母屋造、桟瓦葺

アクセス
京阪電鉄・地下鉄の淀屋橋駅と北浜駅の中間にあり、どちらの駅からも徒歩数分です。緒方洪庵旧宅のすぐ近くです。
見学ガイド
現役の園舎なので非公開ですが、公道に面しているため、外観はいつでも見ることができます。

感想メモ
一般公開の機会がなかなかなくて、塀越しに外観しか見たことがありませんが、大変重厚な建築です。
(2020年7月訪問)

参考
文化遺産オンライン

 

 

大阪の町屋建築の代表例

旧緒方洪庵住宅


おがたこうあんじゅうたく
大阪市中央区北浜3丁目
旧緒方洪庵住宅34.691343, 135.503279
江戸末期
一階 十二畳半(床、棚、附書院、縁側付)、八畳(押入付)、四畳半三室(二室に押入付)、六畳、四畳半(床、押入付)、四畳半(押入付)、四畳、八畳、六畳、四畳半(押入付)、台所土間及び玄関土間(二畳付)より成る
二階 八畳(床、床脇、縁側付)、四畳(押入付)、階段室、七畳、六畳、二十七畳及び八畳より成る
棧瓦葺 附;土蔵及び納屋(各1棟)"

旧緒方洪庵住宅は淀屋橋に位置します。江戸時代末期の大阪の町屋建築の代表的なもので、天保九年(1838)緒方洪庵がここで医者を開業し、また塾を開いて人材を養成しました。福沢諭吉や大村益次郎など多くの著名人を輩出しています。
正面(北面)と東面

中庭(北側二階より)

二階北側の27畳間

アクセス
京阪電鉄・地下鉄の淀屋橋駅と北浜駅の中間にあり、どちらの駅からも徒歩数分です。
見学ガイド
公道に面しているので外観はいつでも見ることができます。内部は有料公開されています。

感想メモ
内部もよく保存されていて見ごたえがあります。
(2020年7月訪問)

参考
文化遺産オンライン

 

 

大規模な五間社

原田神社本殿


はらだじんじゃほんでん
豊中市中桜塚1丁目
原田神社本殿34.779441, 135.465696
江戸前期
五間社流造、正面千鳥破風及び軒唐破風付、檜皮葺

原田神社は豊中の市街地、岡町商店街の近くに鎮座します。7世紀の創建と伝える古社で、社殿は天正6年(1578)の兵火により焼失し、現在の本殿は慶安5年(1652)に再建されたものです。
・五間社流造で、正面に千鳥破風および軒唐破風を有し、屋根は檜皮葺
・妻飾りに配置した邪気、虹梁の配置や身舎とのつなぎ方などに特徴がみられる

アクセス
阪急宝塚線岡町駅下車、すぐです。駅東口を出たら目の前に神社の木立が見えます。
見学ガイド
境内にはいつでも自由に入ることができます。本殿は背の高い瑞垣に囲われており、周囲には樹木も多いので、あまりよく見ることはできません。

感想メモ
駅近なのはありがたいのですが、大きな拝殿や背の高い瑞垣、繁茂した植栽が邪魔をして五間社の雄大さを味合うことができないし、細部も金網でブロックされていて良く見えないのは残念でした。
(2020年9月訪問)

参考
豊中市公式サイト、現地解説板

 

 

珍しい層塔型の宝篋印塔

金禅寺三重宝篋印塔


こんぜんじさんじゅうほうきょういんとう
豊中市本町5丁目
金禅寺三重宝篋印塔34.789225, 135.466008
室町前期
石造三重宝篋印塔

金禅寺は豊中市の市街地に位置する黄檗宗の寺院です。三重宝篋印塔は基壇背面の刻銘から南北朝時代の貞和5年(1349)の造立であることが知られています。
・花崗岩を用材とし、現在失われている相輪の部分を加えて六個の部材から成る

・初層塔身の四面の四仏は一面が像容で三面が梵字で現されている

・基壇背面には「貞和五年己丑十二月廿六日一結衆等敬白」と刻まれている

アクセス
阪急豊中駅から徒歩10分弱です。駅東口から人工地盤を横切ってまっすぐ進み、スクランブル交差点の先の坂を上りきる手前を右折し、さらに右に回り込みます。それほど複雑な経路ではありませんが、金禅寺周辺の道路はやや入り組んでいるので、間違うとかなり迷うことになると思います。
見学ガイド
金禅寺境内にはいつでも入ることができます。宝篋印塔は本堂前に囲いなどもなく建てられているので、自由に見ることができます。基壇背面の碑文は本堂が近接していて直接見ることはできません。

感想メモ
本堂と宝篋印塔の隙間に手を入れて基壇背面の写真を撮りました。不審者のような格好で気が引けました。残念ながら銘文ははっきりとは判別できませんでした。
(2020年9月訪問)

参考
豊中市公式サイト

 

 

桃山様式の極彩色の社殿

八坂神社本殿


やさかじんじゃほんでん
池田市神田4丁目
34.812684, 135.421989
桃山
一間社流造、檜皮葺

八坂神社は池田市の猪名川に近い住宅地に鎮座します。もとは素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社と呼ばれていました。本殿は、天正7年(1579)に織田信長の兵火にかかり全焼し、慶長15年(1610)に再建されました。木鼻や蟇股などに桃山時代の特徴が見られます。
・一間社流造、檜皮葺で、柱等の軸部は丹塗、壁板等は胡粉塗、組物や梁等は極彩色
・垂木の先端や破風板等の要所には金箔で仕上げた金具で飾られ、非常に華やかな外観

向拝の装飾

身舎正面の装飾

左側面の妻

背面

修繕工事前の本殿(2008年撮影)

アクセス
阪急宝塚線池田駅南1.4kmです。神社近くの早苗の森を通るバスもありますが、本数は非常に少ないです。
見学ガイド
八坂神社は常時自由に参拝することができます。本殿は瑞垣越しに見ることができます。

感想メモ
市街地の中にありますが、境内は広く、緑も豊かで心地よかったです。
本殿前面は拝殿で塞がれていて、前面の細部意匠をほとんど見ることができなかったのは残念でした。平成30年頃に保存修理工事がされたようで、まだかなり真新しい感じです。
(2008年10月訪問、2022年6月再訪)

参考
現地解説板、重要文化財八坂神社本殿保存修理工事(池田市資料)

 

 

古墳の玄室内の石塔

五社神社十三重塔


ごしゃじんじゃじゅうさんじゅうとう
池田市鉢塚2丁目
五社神社十三重塔34.817780, 135.437153
室町前期
石造十三重塔

五社神社は池田市の住宅地にあります。十三重塔は、本殿背後の鉢塚古墳の玄室内に建てられている石塔です。室町初期に造られ、玄室に持ち込まれたものです。
十三重塔(2008年10月撮影):
・笠石の最上部までよくそろっている
・相輪は後補だが、古いものが別に保存されている
・現在は写真撮影が禁止されており、玄室の手前に鉄格子が設けられている

アクセス
五社神社は、阪急宝塚線池田駅と石橋阪大前駅の中間にあります。両駅から約1.5kmです。両駅からのバス便もあります。十三重塔は神社の背後の鉢塚古墳の玄室の中にあります。玄室の入口は本殿右奥にあります。
見学ガイド
十三重塔は通常非公開です。祭礼時に公開しているようですが、写真撮影は禁止されています。

感想メモ
十三重塔の座標で検索したら、またgoogleに壁越えルートを案内されてずいぶんと遠回りしました。何度同じことを繰り返しも懲りないのが嫌になります。普通に五社神社の正面入口から入ると十三重塔(の入口)にアクセスできます。2022年に訪問した時は公開日ではなかったので見ることができませんでした。写真撮影ができないと貼紙がされていたので、過去に撮った写真がないか探したら14年前の写真が出てきました。そういえば、古墳の中の石塔を見たような、見なかったような、かなりあやふやな記憶です。
(2008年10月訪問、2022年6月再訪)

参考
国指定文化財等DB

 

 

隠元禅師が6年間暮らした

普門寺方丈


ふもんじほうじょう
高槻市富田町4丁目
普門寺方丈34.830541, 135.592917
江戸前期
桁行13.8m、梁間10.9m、一重、入母屋造、こけら葺

普門寺は、歴史的な街並みの残る高槻市富田に位置する臨済宗妙心寺派の寺院です。明徳年間(14世紀末)に創建されたと伝えられ、永禄年間(16世紀後半)には、室町幕府の管領細川晴元や14代将軍足利義栄が滞在しました。普門寺城とも呼ばれており、境内地の北端から南端にかけて土塁が残り城郭の面影を見てとることができます。江戸時代初期には、中国・明の高僧、隠元が宇治に萬福寺を開創して移るまでの約6年間をここて過ごしました。
方丈西面:
・方丈は永禄期の建築で、桁行七間、梁行五間半、入母屋造
・桁行方向に三室を二列に配した六間取りで一般的な禅宗方丈の構造、こけら葺で南面
・襖絵は狩野安信の水墨画

方丈南面

隠元禅師筆の『獅林(しりん、禅の修行の場の意味)』の大額

アクセス
阪急京都線富田駅南1km、JR東海道本線摂津富田駅南1.2kmです。普門寺の入口は境内南側、三輪神社の横の一カ所のみです。
見学ガイド
方丈は有料で公開されています。2022年に訪問した時は予約制でした。堂内も見学することができます。方丈周辺は他の建物があり、立ち入り範囲も制限されているので、視角は限られます。西側面は比較的広く空いています。

感想メモ
予約制とは知らず訪問しましたが、お寺の方のご好意で拝観することができました。建物内部を詳しく説明していただきました。
(2022年2月訪問)

参考
高槻市富田町4丁目公式サイト
このブログについて:

群馬県富岡・西毛地域で国宝や国の重要文化財に指定された建造物のうち、私がこれまで訪問したものを紹介しています。
個人の備忘録みたいなものですが、実際に訪ねてみたら目当ての文化財が塀や樹木の陰で見えないといったことも時々あるので、ここでは、このあたりも詳しく書いて、閲覧してくれた方の参考になるように考えました。また、文化財の位置は国指定文化財等データベースで確認できますが、間違った情報も結構多いので、ここでは現地で実際に確認した座標を記載しています。
記載内容は訪問日時点のものです。情報が古くなってしまっている可能性もあり、修復工事が始まって見学できないこともあるので、注意してください。

富岡市
貫前神社本殿、拝殿、楼門
旧富岡製糸場首長館、繰糸所、女工館、鉄水溜、蒸気釜所、下水竇及び外竇、検査人館、東置繭所、西置繭所
旧茂木家住宅
妙義神社本殿・幣殿・拝殿、唐門、髄神門、廻廊、銅鳥居、御殿、社務所、総門
安中市
旧碓氷峠鉄道施設旧丸山変電所蓄電池室、旧丸山変電所機械室、熊ノ平変電所本屋、第二橋梁、第三橋梁、第四橋梁、第五橋梁、第六橋梁、第七橋梁、第十三橋梁、第一隧道、第二隧道、第三隧道、第四隧道、第五隧道、第六隧道、第七隧道、第八隧道、第九隧道、第十隧道、第十七隧道、、旧丸山変電所機械室、熊ノ平変電所本屋、第二橋梁、第三橋梁、第四橋梁、第五橋梁、第六橋梁、第七橋梁、第十三橋梁、第一隧道、第二隧道、第三隧道、第四隧道、第五隧道、第六隧道、第七隧道、第八隧道、第九隧道、第十隧道、第十七隧道、、旧丸山変電所機械室、熊ノ平変電所本屋、第二橋梁、第三橋梁、第四橋梁、第五橋梁、第六橋梁、第七橋梁、第十三橋梁、第一隧道、第二隧道、第三隧道、第四隧道、第五隧道、第六隧道、第七隧道、第八隧道、第九隧道、第十隧道、第十七隧道
多野郡上野村
旧黒澤家住宅

 

 

類例の少ない「下り宮」

貫前神社


ぬきさきじんじゃ
富岡市一ノ宮
貫前神社本殿36.255304, 138.857668
江戸前期
桁行三間、梁間三間、一重二階、入母屋造、妻入、向拝三間、檜皮葺
拝殿36.255175, 138.857660
江戸前期
桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、正面軒唐破風付、檜皮葺
楼門36.255068, 138.857642
江戸前期
一間一戸楼門、入母屋造、銅板葺

貫前神社は、富岡の市街地西方の田園地帯に鎮座します。古くから上野国一之宮として信仰を集めてきました。一般に、神社の社殿は参道から石段を上がったところにありますが、この神社は総門を潜ると石段を下ったところに社殿が位置する下り宮です。本殿・拝殿・桜門は、寛永12年(1635年)、徳川家光による再建で、徳川綱吉により大規模な修理がなされ現在に至っています。
参道から眺めた「下り宮」: 
・石段の下に楼門が建ち、その奥に拝殿と本殿がある



本殿

・外見は一階建て、内部は二階建てという珍しい造り
・多く極彩色の彫刻で装飾されている

・向拝にも極彩色の装飾が凝らされている

・背面も装飾の密度が非常に大きい

・正面破風に雷神小窓(右下の四角枠)を設ける



拝殿

・写真上段から、全景、向拝の唐破風、右側面
・一軒で出三斗、柱は角柱で軒支輪も設けないなど、本殿と比較すると簡略化されているが、極彩色の装飾が施されている



楼門

・一間一戸で、上階は三間に造り、全面に漆を塗る

アクセス
上信電鉄上州一ノ宮神駅から北西に0.8km です。 まず急坂を上り、そのあと、下り宮の坂を下ります。上州一ノ宮駅にレンタサイクルがあります。上州富岡駅近くのお富ちゃん家観光案内所の電動アシストレンタサイクルも便利です。上州富岡から約4kmの緩やかな上りです。神社の手前の急登は電動アシストでも無理だと思います。
見学ガイド
貫前神社の重文指定建造物はいつでも自由に見学することができます。

感想メモ
日本三大下り宮というのがあるらしくて、貫前神社のほか熊本の草部吉見神社、宮崎の鵜戸神宮が挙げられるそうです。いろんなものに三大があるようで感心しました。貫前神社の下り宮はかなりの急坂を上って、ズドンと下るインパクトのあるものでした。
(2021年1月訪問)

参考
上信電鉄公式サイト、文化遺産オンライン

 

 

日本最古級の民家

旧茂木家住宅


もてきけじゅうたく
富岡市宮崎
旧茂木家住宅36.247598, 138.845978
江戸中期
桁行16.2m、梁間8.6m、切妻造、板葺、南面及び西面庇付、杉皮葺

茂木家住宅はもとは市街地西方の神農原地区にあったもので、現在は近くの宮崎公園内に移築されています。大永7年(1527)の墨書が残されており、我が国の現存の民家の中では最古級のものであると考えられています。
・桁行15.m、梁間7.5m、切妻造りで、板葺石置屋根

・古代の掘立柱建物に通じる小屋組みで棟持柱が屋根まで達している
・梁等の横材は曲がりくねった細いもの
・柱材は手斧で多角形に仕上げられている

アクセス
上信電鉄神農原駅から北に1.1 km です。上州富岡駅近くのまちかと観光物産館のレンタサイクルを利用することもできます。約 5 km の登り道ですが、電動アシスト付き自転車なら問題ないと思います。貫前神社を経由するときには便利です。
見学ガイド
旧茂木家住宅は宮崎公園の中に移築されており有料で公開されています。公開時間は10時00分~16時00分までで、月曜日、祝日の翌日、年末年始は休館です。

感想メモ
古式を伝える興味深い民家でした。有料区域内からは近すぎて屋根までは見ることができず、区域外からでは無粋なフェンスと目隠しの生垣が邪魔。せっかく広い場所に移築されているのに、ちょっともったいないです。公園の遊具の上から何とか全体を見ることができました。
(2021年1月訪問)

参考
富岡市公式サイト

 

 

妙義山麓の極彩色の社殿

妙義神社


みょうぎじんじゃ
富岡市妙義町妙義
妙義神社本殿・幣殿・拝殿36.300446, 138.762414
江戸後期
本殿 桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造
幣殿 桁行三間、梁間一間、一重、両下造
拝殿 桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風付
総銅瓦葺
唐門36.300503, 138.762544
江戸後期
桁行一間、梁間一間、平唐門、銅瓦葺
髄神門36.300670, 138.762573
江戸前期
三間一戸八脚門、切妻造、銅板葺
廻廊36.300746, 138.762536
江戸前期
桁行三間、梁間一間、一重、切妻造、銅板葺
銅鳥居36.300915, 138.763412
江戸中期
銅製明神鳥居
御殿36.301330, 138.764025
江戸末期
桁行12.4m、梁間11.0m、入母屋造、渡廊下、便所及び旧湯殿附属、銅板葺
社務所36.301541, 138.763904
江戸末期
南棟 桁行15.0、梁間9.4m、切妻造、玄関、南・西面下屋附属、銅板葺
東棟 桁行13.2m、梁間7.5m、一部二階建、寄棟造、東・南面及び西面下屋、便所附属、銅板葺
北棟 桁行15.0m、梁間9.4m、一部二階建、切妻造、東面下屋、台所附属、銅板葺
総門36.300942, 138.763907
江戸後期
三間一戸八脚門、切妻造、銅板葺

妙義神社は奇岩怪石で知られる妙義山の主峰白雲山の東山麓に鎮座し、境内は上部の神域と下部の旧寺域(石塔寺)に分かれています。これらはともに明暦から元禄年間に基盤が造られ、宝暦年問から安永年間にかけて大造営が行われたものです。神域と旧寺域は百六十五段の急な石段で結ばれています。
境内図(群馬県広報資料より)

上部の神域: 
・写真左が本殿・幣殿・拝殿で、右が唐門

下部の旧寺域: 
・上段写真中央右寄りが御殿で、その左下が旧本殿の波己曾社本殿及び拝殿(附指定)、その右が銅鳥居
・下段写真左が社務所で、右が御殿



本殿・幣殿・拝殿

・写真右手前が拝殿で左奥が本殿
・典型的な権現造で、本殿と拝殿は黒漆塗銅茸入母屋造り
・宝暦六年(1756)の建造で、手のこんだ彫刻が見られる

・写真右が本殿で、左が拝殿、これらを繋ぐのが幣殿
・中央手前の唐破風が附指定の神饌所で、その右に同じく附指定の透塀が続く

・拝殿は正面に千鳥破風をおき、その前に唐破風の向拝屋根を張り出す

・拝殿唐破風の虹梁上には「松に鶴」の彫刻が施されている

・拝殿向拝の繋虹梁は上り龍、下り龍の意匠
・大型の手挟にも極彩色が施されている

・拝殿長押上は彩色が施された彫刻で埋め尽くされている

・拝殿内部の天井は格天井で、絵柄が描かれている
・正面奥が本殿

・拝殿内部頭貫には菊の紋が飾られ、頭貫上には彩色の施された蟇股が置かれる(上段写真)
・拝殿内部内法長押上には彩色が施された欄間を設ける(下段写真)

・幣殿は比較的落ち着いた意匠だが、内法長押上は鮮やかな彫刻で飾られている

・本殿は装飾の密度が非常に高い

・上段写真が拝殿の破風で、下段写真が本殿の破風
・よく似た意匠だが、本殿の方が金具を多く用いるなど、荘厳に差を付けている

・附指定の神饌所も、やや控えめながら破風などに装飾が施されている

・附指定の透塀は抑制のきいた装飾で、軒は簡素な板軒



唐門

・唐門は上部神域上段部の石垣上に建ち、この奥に本殿が鎮座する
・本殿等と同時期の建造で、松に鳳風、松に雉の透彫、菊花葉の籠彫などが施されている

・天井画は狩野派の中澤燕州の筆



髄神門

・切妻造、銅板葺、三間一戸の八脚門
・明暦2年(1656)の建立とされる
・赤色、黒色で塗装され、全体として装飾は簡素
・彫刻、彩色による装飾化が進む以前の、古い段階の神社建築の特徴を示す

・妻飾は二重虹梁大瓶束

・中備に板蟇股を置く



廻廊

・桁行三間、梁間一間、切妻造、銅板葺の単廊で、随神門の北隣に位置する
・かつては、随神門南側のにも廻廊が設けられていたが、明治以降に撤去されている
・明暦2年(1656)の建立とされる
・髄神門と同様に赤色、黒色で塗装され、全体として装飾は簡素



銅鳥居

・「寛文人戊申年(1668)十二月吉日、前天台座主二品親王良尚書之」の銘がある銅製明神鳥居

・柱元に獅子の飾りが付く



御殿

・入母屋造、銅板葺
・輪王寺宮(石塔寺の本山である寛永寺の座主)の宿所であり、前身建物が安政2年(1855)の火災で焼失した後に再建され、翌年に上棟が行われた
・簡明な意匠に上質なつくりで、格式高い建物

・御殿は高い石垣上に建つ



社務所

・石塔寺の庫裏として建てられたもので、南棟(上段写真中央)・東棟(上段写真右端)・北棟(下段写真)の三棟を「コ」字形に配置している
・前身建物が安政2年(1855)の火災で焼失した後に再建され、全体としては安政5年(1858)頃に完成したと考えられている

・南棟には唐破風造の玄関が附属し、往時の隆盛をうかがわせる



総門

・石塔寺の仁王門として安永二年(1773)に建てられた三間一戸の大規模な八脚門



波己曾社本殿及び拝殿(附指定)

・明暦2年(1656)に現在の本殿・幣殿・拝殿の前身社殿として建立されたもの
・宝暦6年(1756)の現社殿建立時に分離移築され、本殿を波己曾社、拝殿を神楽殿として再利用
・昭和44年(1969)に上部神域から下部旧寺域へと移築され、幣殿部分が復原された

アクセス
信越本線松井田駅から4.3 km です。路線バスは既に廃止されていますが、上信電鉄上州富岡駅など富岡市内の鉄道駅などからは予約制の乗合タクシーを利用することができます。乗合タクシーは市外在住者も利用できますが、事前に登録しておく必要があります。乗合タクシーの降車場所から本殿までは少し距離があり、165段の急な石段もあるので、帰りの乗合タクシーの時間までは一時間程度は必要かと思います。
見学ガイド
妙義神社の重文指定建造物は、いつでも自由に見学することができます。妙義神社は東斜面に位置しているので、日が陰るのが早めです。

感想メモ
杉木立に囲まれた急な石段を登り切ると、妙義山の奇岩を背に、極彩色の社殿が荘厳な姿を現します。群馬県内には、日光東照宮の造営に携わった職人や、その技術的影響を受けた工匠による神社建築が数多く残されており、妙義神社もその系譜に連なる一社とされています。時代が下るにつれて装飾が過剰になる傾向も見られますが、妙義神社の社殿は華やかさの中にも節度があり、洗練された美しさを湛えています。
(2021年1月訪問)
前回の訪問以降、重要文化財の追加指定があったので、改めて足を運びました。髄神門などは、極彩色の社殿よりも古い時代に建てられたもので、素朴ながらも風格を感じさせる味わい深い建築でした。参拝を終えたあとは、門前の蕎麦屋でひと息。蕎麦の香りが店内に漂い、打ち立ての手打ち蕎麦をじっくりと堪能しました。
(2025年6月訪問)

参考
妙義神社公式サイト、富岡市公式サイト、現地解説石碑

 

 

アプト式鉄道の土木遺産

旧碓氷峠鉄道施設


きゅううすいとうげてつどうしせつ
安中市松井田町横川、松井田町坂本
旧碓氷峠鉄道施設旧丸山変電所機械室36.348604, 138.725982
大正
煉瓦造、建築面積354.75㎡、桟瓦葺一部鉄板葺、南面階段附属
旧丸山変電所蓄電池室36.348313, 138.726144
大正
煉瓦造、建築面積430.77㎡、桟瓦葺一部鉄板葺、背面小屋附属、鉄骨鉄筋コンクリート造、建築面積34.63㎡
熊ノ平変電所本屋36.355442, 138.685734
昭和
鉄筋コンクリート造、建築面積336.24㎡、東面トラバーサー附属
第二橋梁36.356040, 138.711973
明治
煉瓦造単アーチ橋、橋長24.9m
第三橋梁36.358047, 138.698229
明治
煉瓦造四連アーチ橋、橋長91.1m
第四橋梁36.354653, 138.693110
明治
煉瓦造単アーチ橋、橋長9.8m
第五橋梁36.354630, 138.692927
明治
煉瓦造単アーチ橋、橋長15.8m
第六橋梁36.354661, 138.689627
明治
煉瓦造単アーチ橋、橋長51.9m
第七橋梁36.355010, 138.683916
明治
煉瓦造単アーチ橋、橋長9.5m
第十三橋梁36.354670, 138.664542
明治
煉瓦造五連アーチ橋、橋長51.7m
第一隧道36.355334, 138.714194
明治
煉瓦造隧道、延長187.1m
第二隧道36.355070, 138.708586
明治
煉瓦造隧道、延長112.8m
第三隧道36.356402, 138.703114
明治
煉瓦造隧道、延長77.5m
第四隧道36.357257, 138.702109
明治
煉瓦造隧道、延長100.3m
第五隧道36.358259, 138.700179
明治
煉瓦造隧道、延長243.6m
第六隧道36.355244, 138.694459
明治
煉瓦造隧道、延長546.2m、甲横抗及び乙横抗付
第七隧道36.354432, 138.691635
明治
煉瓦造隧道、延長75.4m
第八隧道36.354448, 138.690393
明治
煉瓦造隧道、延長91.5m
第九隧道36.355012, 138.688721
明治
煉瓦造隧道、延長120.3m
第十隧道36.355647, 138.686946
明治
煉瓦造隧道、延長102.7m
第十七隧道36.354825, 138.665649
明治
煉瓦造隧道、延長175.0m

旧碓氷峠鉄道施設は、安中市横川駅と軽井沢駅までの碓氷峠越え区間(11.2キロメートル)に現存する橋梁や隧道などの建造物から構成されています。旧碓氷線は、最大66.7パーミルの急勾配に対応するため、ドイツの山岳鉄道で用いられていたアプト式が採用され、明治26(1893)年に開通しました。昭和38(1963)年にアプト式に頼らない専用補助機関車による粘着運転を行うための新線が開通するまで、約70年間にわたり使用されてきました。
旧碓氷峠鉄道施設の橋梁は、英国人技師パナウルの指導の下、日本人技師が分担して設計しました。橋梁は平地部の1橋(重文未指定)を除き、全てがレンガ造りのアーチです。当時、既に鉄橋架設の技術はありましたが、縦断こう配が大きく、橋軸方向に大きな力が作用するため、欧州の事例も参考にして煉瓦アーチが採用されたものと考えられています。アーチは第7橋梁が半円アーチであるほかは欠円アーチ(円弧部分が半円よりも短いもの)です。これは、濃尾地震の被害を踏まえて設計を見直して耐震性を強化したものです。


旧丸山変電所蓄電池室

・碓氷線の電化に伴い明治44(1911)年に建設
・簡素ではあるが壁面の装飾も見られる
・急坂を上る機関車の補助動力とするための蓄電池を補完するためのもの
・充電中には大量の硫酸雲霧などが発生するため、窓を多く配し換気が良くなるよう工夫されている



旧丸山変電所機械室

・蓄電池室の軽井沢側に隣接



第一隧道

・写真は横川側坑門
・峠の湯から少し上ったところにある横川側の最初の隧道
・碓氷峠鉄道施設のトンネルの坑口はレンガ積みの簡素なものが多いが、峠の入口にあたるこの坑口は重厚な切石積み



第二橋梁

・草木に覆われてアーチ部分はほとんど見ることができない
・大正時代にカルバートに改造されている



第二隧道

・写真は軽井沢側坑門



第三隧道

・写真は横川側坑門



第四隧道

・写真は横川側坑門



第五隧道

・写真は軽井沢側坑門(第三橋梁上より)



第三橋梁

・我が国最大規模の煉瓦製アーチ
・橋脚は明治時代に補強されたため、当初の倍以上になっている
・橋脚の南面のみ全長にわたりピラスター(柱状の突起)が設けられており、上部は保線要員の待避所として利用された

・高欄部分は焼過ぎ煉瓦を用いて色彩に変化をつけている

・橋脚側面の石材の突起は、施工時に支柱が谷底から届かないため、これを支えるために設けられたもの

・イギリス積みの煉瓦壁



第六隧道

・切石積みの軽井沢側坑門
・旧碓氷峠鉄道施設の中で最長のトンネル

・隧道に設けられた横穴は、この部分からも掘削を行い工期短縮を図ったもの
・天井の穴は蒸気機関車の排煙用



第四橋梁

・橋梁の奥の隧道は第六隧道



第五橋梁

・第四橋梁と同様に高欄のない簡素な構造



第七隧道

・写真は軽井沢側坑門



第八隧道

・写真は軽井沢側坑門



第六橋梁

・碓氷峠鉄道施設のレンガ積みはイギリス積みだが、第六橋梁高欄(下段写真)は唯一フランス積み



第九隧道

・写真は軽井沢側坑門



第十隧道

・上段写真は軽井沢側坑門
・第十隧道を抜けたところが旧熊ノ平駅



熊ノ平変電所本屋



第七橋梁

・旧熊ノ平駅構内にあり、高欄しか確認することができない



第十七隧道

・上段写真が横川側坑口で、下段写真が軽井沢側坑口
・熊ノ平駅から軽井沢側は、新線が旧線のルート上に建設されたため、旧施設は撤去されているが、第十七隧道と、これに隣接する第十三橋梁付近は線形が改良されたため、旧施設が残されている



第十三橋梁

・南側の高欄は機関車の大型化に対応するため撤去されたと考えられている
・両側のアーチ下には国道が通っていたため警戒色の塗装が残る

アクセス
重文指定された建造物のうち、第十三橋梁と第十七隧道以外は全て信越線横川駅と旧熊ノ平信号所間の旧鉄道敷を利用した遊歩道(アプトの道)沿いにあります。これらの建造物は横川駅から1.8kmから6.2kmまでの間にあります。駅との標高差は最大300mです。これらのうち駅から最も遠い熊ノ平変電所本屋と第七橋梁は旧熊ノ平信号所構内にあり、この近くの旧熊ノ平駐車場には季節運行で便数が非常に少ないですが、軽井沢横川間のJRバスが停車します。
第十三橋梁と第十七隧道は、旧熊ノ沢信号所から、さらに3.3km軽井沢側で、130mの上りです。第十三橋梁は国道18号線旧道の第129カーブの山側にあります。第十七隧道はこの横川側にあります。軽井沢駅から碓氷峠経由で第十七隧道までは、5.4kmで、碓氷峠まではほぼ平坦で、その先は一様な下りです。
見学ガイド
アプトの道沿いの建造物は間近に見ることができますが、第二橋梁は下部に降りる通路がなく国道との間も植栽が多いので、下部をほとんど見ることができません。第七橋梁周辺は立入禁止で前面に別のカルバートがあるので下部工は見えません。第十三橋梁と第十七隧道も周辺立入禁止ですが、周囲から見ることができます。立入禁止の表示は限られた場所にしかないので、どの範囲が立入禁止なのか判然としません。逆側から入って気が付けは立入禁止区域にいたといったこともあるので注意が必要です。全般的に草木に覆われた建造物も多いので、落葉後の季節の訪問が良いように思います。

感想メモ
軽井沢から踏破しました。碓氷峠までは上りがほとんどなかったので拍子抜けしましたが、その先はちょっと大変なくらい延々と下ります。意外と交通量があってカーブのショートカットができないので、遠回りしたような気になります。熊ノ平から下はアプトの道として奇麗に整備されていて楽しく歩くことができました。終点の横川では名物の峠の釜めしを味わいました。
(2021年11月訪問)

参考
安中市公式サイト、「碓氷峠旧線跡に残る鉄道構造物の技術的特徴と意義」小西、田島、現地解説板

 

 

御巣鷹山の御林守の住宅

旧黒澤家住宅


くろさわけじゅうたく
多野郡上野村楢原
旧黒澤家住宅36.087068, 138.736044
江戸末期
桁行21.8m、梁間15.9m、二階建、切妻造、正面及び背面庇付、板葺、風呂場及び便所附属

黒澤家住宅は御巣鷹山の麓、日航機事故の慰霊塔の近くに位置します。黒澤家は、江戸時代の天領・山中領の三郷のうちの一つ、上山郷の大総代を代々務めた旧家です。上山郷には鷹の保護区が置かれ、将軍家に鷹狩り用の鷹のヒナ(巣鷹)を献上していました。黒澤家は代々、その御林守として御巣鷹山の管理にも当たりました。旧黒澤家住宅は、19世紀中頃の建築と考えられています。
・間口22m、奥行16mの総二階の切妻造りの建造物
・屋根には山中でも入手が容易な栗の木の割板(長さ1尺(約30㎝))を並べ、強風で飛ばされないように石が置かれている
・南面には、3つの玄関があり、手前にある「大戸口」(上段写真の右側)は土間に通じる勝手口で、日常的に使用されていた
・中央にある「むらげんかん」(上段写真の左側、下段写真の右側)は村の行事の時などに使用していた
・一番奥の「式台」(下段写真の左側)は、特別の客を迎えるための玄関で、「おしらす」と呼ぶ玄関の間が続いている

一階平面図(現地解説板)

一階中央の、いろりのある「ちゃのま」:
・31畳半の広さがあり、天井の一部は二階に吹き抜けになっている
・主人の座る席の後ろには大きな神棚(写真下段)がある
・「ちゃのま」の周囲には家族の居室が配置されている

一階西側:
・「上段の間」、「中段の間」、「中の間」、「休憩の間」の4つの座敷が一列に並ぶ
・幕府の代官等の接遇に利用された
・部屋の外には畳敷きの廊下。

二階内部: 
・仕切りのない広い板の間で、養蚕に用いられた

アクセス
最寄駅からの距離はありますが、公共交通のアクセスはそれほど悪くありません。JR高崎線新町駅から上野村方面行きのバスで学園入口下車すぐです。バスの乗車時間は2時間以上ですが、後半は山あいの旧街道を走るので退屈しません。週末限定のフリーパスを利用すれば、バスの運賃が半額以下になります。
見学ガイド
旧黒澤家住宅は有料公開されており、内部も見ることができます。開館時間は午前9時~午後4時で、水曜日が休館日です。公道からも建物の一部を見ることができます。

感想メモ
群馬・長野・埼玉の三県県境に近い山深い集落に位置しますが、非常に規模の大きな立派な構えの建築です。それでいて石置きの板葺き屋根は山中の住宅らしく興味深いです。
(2020年8月訪問)

参考
上野村公式サイト