さて、旧街道シリーズは前回・前々回と有馬街道をご紹介してきましたが、有馬街道には間道と呼ばれる別ルートがあります。
今回はこちらを探索してみます。
以前紹介した有馬街道はこちら。
前編 後編
有馬街道は前にご紹介した通り、神崎川の渡しから有馬温泉へ至る街道です。
神崎川の渡しから本街道を進み、現在のダイセル神崎工場で本街道と間道が分かれます。
追分には立派な道標が建っていますのですぐにわかります。
本街道と別れた間道は昆陽(伊丹)を経由して小浜宿の手前にある安食で本街道に再び合流するルート。
北へ向かう本街道から間道は西に進んでいきます。
次屋という交差点で間道は住宅街の中に入っていきますが、その分岐には長い道標が建っていました。
別の場所から移設されたものだそうですが、江戸時代中期の安永8年に作られたものだそうです。
これは年季が入っていますねえ。
このすぐ近くの民家には道標ではありませんが、かつて橋が架かっていたことを示す石碑が建っていました。
間道は住宅街の中をウネウネと蛇行しながら北西へ進んでいきますが、途中には道標もあり、細い道ながらもここが街道であることをしっかりと示しています。
最近になって建てられた道標(メモリアル的なもの?)もありましたが、やはり古から建っている道標の方がいいですね。何とも言えないオーラが漂っています。
主要幹線道路を横切ると、近松門左衛門ゆかりの土地に入っていきます。
ほどなく近松公園があり、この近くに近松門左衛門の墓所があります。
公園の一角には道標が建っていました。
公園の隣には廣済寺があり、こちらに近松門左衛門が眠っています。
お寺の門のアピールがすごいです。
ただその陰には道標が隠れています。
道標からすると、かつては別の場所に安置されていたようですね。
廣済寺のすぐ近くには須佐男神社があります。
本街道の時も「すさのお」神社が多いということを書きましたが、尼崎市内は特に多いようですね。
間道はこのあたりから北西に進路を変え塚口を目指して進みますが、また道標を発見。
地中に有馬の馬と西宮の宮が沈んでしまってますね。
なにがあったのでしょう??
塚口駅手前の上坂部にも道標がありました。
こちらは絵が入っているものになります。
ここで間道は尼崎道と合流し、ルート重複しながら塚口へ向かいます。
間道をたどっていくと、JR塚口駅前へ出ました。
旧街道はちょっと違うルートだったようでしたが、現在は道がないので線路沿いに北上すると目立たないですが道標があります。
JRの線路を渡ると、かつては塚口城があったエリアです。
間道はその縁に沿って進んでいきますが、この東門跡前に道標が建っています。
小さな道標でしかも朽ちかけているので、見落としてしまうかもしれないですね。
この道標から塚口城の中心へちょっと寄り道。
基本住宅街なので、古い遺構はあまり残されていませんが、文化財に指定された古い建物や白の痕跡は少しだけ残されていることがわかります。
民家の前に尼崎藩の境界が残されているのもシュールですね。
間道に戻ると今度は昆陽を目指して北上していきます。
幹線道路を横切ると伊丹市に入りますが、間道は住宅街の中を相変わらずウネウネと進んでいきます。
住宅街ながらも所々に歴史を感じる古い建物があったりして、やはり街道筋だなという雰囲気は残っています。
やがて間道は西国街道と交差しますが、その手前に町村境石があるということで寄り道。
街道を離れ東へ向かうと、三叉路の片隅に町村境石がありました。
鈴原町4丁目バス停のすぐ後ろにあるので、バス停に気を取られると見落としそうです。
ここがかつての伊丹町と稲野村との境となります。
間道に戻って北上を続けます。
相変わらずの1車線ほどの狭さを維持しながら間道は進んでいき、西国街道と交差。
西国街道は昔からの主要街道ですが、有馬街道と同じくらい細い道です。
昔は徒歩移動ですから、そこまで広い道は必要ないんでしょうね。
また交差した辻の近くには旧稲野村の道路元標がありました。
側溝の中に半分入っており、ちょっと気の毒ですね。笑
辻からさらに北上していくと東天神社があります。
ここの入口にも道標がありました。
このあたりから伊丹の実質の中心部になりますが、土地としては昆陽(こや)と呼ばれる地域になります。
そのためか、神社の入口には昆陽の由来の説明板が建っていました。
なかなか由緒正しい土地のようですね。
東天神社を曲がると間道は県道142とほぼ同ルートを進みます。
県道は伊丹空港を飛行機で飛び立つとミニ日本列島が見えるという昆陽池の脇を通ります。
天神川を越えると県道を離れ、また間道独自のルートを通ります。
ちょっと進んだところには追分があり、その真ん中には常夜燈が建っていました。
その足元に道標があります。
有馬街道(間道)と中山寺方面への分岐のようです。
ちなみにこの常夜燈は建立された年が掘ってあり(長年の風化で見えづらいですが・・)、慶応2年の建立だそうです。
よくもまあ長い間残っているものですね。
更に間道は北上を続けていくと中野素盞鳴神社につきあたります。
やはりスサノオ神社という名称が多いですね。
そしてこの神社の向かいにも常夜燈が建っており、今度は常夜燈の土台が道標になっています。
中野素盞鳴神社を過ぎると間道は県道142をまたぎ、小浜宿のある宝塚市に入ります。
ずっと住宅街の中をウネウネと蛇行しながら通っていた間道も宝塚に入ってしばらくしたところにある姥ケ茶屋と呼ばれる三差路で終了。
ここで神崎から分岐していた有馬街道の本道と合流します。
本街道の時も見ていますが、ここには祠が建ててあり、その中に道標があります。
兵庫県の中で最も古い道標の一つと言われており、そのため道標に刻まれた文字の風化が進んで判別しにくくなっています。
ここからは以前ご紹介した本街道で小浜宿~蓬莱峡を越えて有馬へ至ります。
さて有馬街道はここだけではありません。
続いては有馬温泉から三田(さんだ)に至る有馬街道をご紹介していきましょう。
あまり痕跡がなかったので、サックリといきます。
有馬街道は以前ご紹介した通り、神崎から有馬温泉へ至るルートが有名ですが、ほかにもルートがあります。
本街道の時にご紹介した三宮からのルートに住吉から六甲の山を越えるルート、そして本稿でご紹介する三田からのルートです。
有馬温泉は太閤橋からスタートします。
三宮方面は県道51号線ですが、三田方面は県道98号線にほぼ沿って街道が伸びています。
出発してすぐに街道は県道を離れ、斜面の縁に沿うように進んでいきます。
この後何度も県道と離れては合流するの繰り返しです。
街道は有馬温泉のある神戸市から西宮市に入ります。
神戸市は西宮市より西にあるのに、神戸市から北に進むと西宮市に入るのもなんだか変な感覚です。
上山口付近から街道はまた県道を離れます。
県道を離れるとすぐに1-1.5車線ほどの狭さになるのがこのルートの特徴ですね。
まあ昔はその広さでも十分だったのでしょうがね。
このルートは道標などの街道だったことを示す痕跡は全くありませんが、このあたりになると道の両脇に古めかしい日本家屋が増えてきてなんとなく街道の雰囲気だけは残ってると感じさせます。
下山口付近には孝徳天皇武庫行宮(むこかりのみや)の碑が残されていました。
これが街道筋であることを示す数少ない証拠でしょうか。
ここから左に折れると公智神社がありますが、そこへ向かう道には播磨街道と書かれていました。
街道と街道が交差している辻だったようです。
さらに北上を続けると、旧街道は有馬川を行ったり来たりしはじめますが、沿道には心なしか古い建物が増えてきた気がします。
昭和家屋の中に茅葺屋根の建物もあったり。
道場の手前には枡形もありました。
そして旧道場村の道路元標も。
旧街道は再び国道に合流し、しばらく国道沿いを走ります。
横山付近で国道を離れ、三田の中心へと進んでいきます。
このあたりになると三田市街になるので、街道の雰囲気はほぼ消えていますね。
それでも京口の五差路を抜けて細い道に変わると古い家並みが伸びる界隈になります。
そのどん詰まりで武庫川にぶつかり、有馬街道は終わり。
お地蔵さんの入る祠があったので、ここを三田方面からの有馬街道終点とします。
お地蔵さんから川を渡るとすぐ三田駅があります。
今回は間道からずっと来た有馬街道でしたが、実際探索してみると現代に変貌していたり、古い街道の雰囲気が残っていたりとバリエーションに富んだ道中でした。
おわり