第42章 平成25年 東北最後の寝台特急「あけぼの」への惜別 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:寝台特急「あけぼの」・秋田新幹線「こまち」】

 

 

僕にとって、上野発東北行き夜行列車の最後の物語は、平成25年11月初旬の連休中、信州からの帰り道に高崎駅に立ち寄った時に始まる。


高崎まで乗ってきたのは長野新幹線の上り最終「あさま」534号で、時計の針は深夜10時半を過ぎようとしていた。

翌日の旅程に合わせて前橋市内で1泊する予定であったから、両毛線の電車に乗り換えようと在来線ホームへの階段を降りていると、静まり返っていた構内に、不意に拡声器のアナウンスが響き渡った。
 

『次の3番線は、22時48分発の寝台特急「あけぼの」青森行きです』

 

最初は耳を疑った。

「あけぼの」と言えば福島・山形を通る東北・奥羽本線経由、という子供の頃からの思い込みがあったので、おやおや「あけぼの」が高崎に停まるのか、と意表をつかれた。
ついてる、と小躍りした。
来春3月の廃止が噂されている東北最後の寝台特急列車に、思いがけず会うことが出来る。

思ってもみなかった展開であった。

 

 

寝台特急「あけぼの」が運転を開始したのは、昭和45年のことで、当初は、東北本線と奥羽本線を経由し、上野から福島、山形、新庄、秋田、弘前を経て青森を結んでいた。

 

最盛期には、青森へ2往復、秋田止まり1往復の計3往復が運転されていた「あけぼの」であったが、昭和62年の青函トンネル開通で登場した寝台特急「北斗星」の車両を捻出するため、2往復に減便されている。
平成2年に、山形新幹線の改軌工事の影響で奥羽本線の福島-山形間が使えなくなり、「あけぼの」は、1往復が東北本線を小牛田まで足を伸ばしてから、陸羽東線で新庄に出て、奥羽本線を秋田へ向かう経路に変更となり、1往復は、高崎線・上越線・羽越本線を経由する寝台特急「鳥海」に分離された。

平成9年3月の秋田新幹線開業に伴い、陸羽東線経由の「あけぼの」が廃止される一方で、「鳥海」が「あけぼの」に改称されていた。

 

何故そこまで拘るのか首を傾げたけれども、ともかく「あけぼの」の名は残ったのである。


僕が初めて「あけぼの」を利用したのは、大学生時代の昭和62年の冬だった。
奥羽本線を全線走破していた時代である。
友人との北海道旅行の帰路だったが、当時、何本も走っていた東北本線の寝台特急「はくつる」や「ゆうづる」ではなく、奥羽本線経由の「あけぼの」を選んだのは、鉄道ファンとして未乗の寝台特急に乗りたい、という理由だけであった。
周遊券を所持していたので、奥羽本線経由で差額が発生する訳でもなく、少しでも長い時間、汽車に揺られていたかったのだろう。
 

以後30年間、僕が「あけぼの」と関わりを持った記憶はない。

世の中から次々と寝台特急が姿を消していく中で、粘り強く生き残っているな、と注目はしていた。



僕は小学4年生で鉄道ファンになったのだが、寝台特急列車は、常に憧れの的だった。
故郷の長野駅に寝台特急が走っていなかっただけに、見果てぬ夢を追い求めるように恋い焦がれた。
友達が東京に行き、寝台特急の写真を撮って来ようものなら、みんなの羨望を一身に受けて、我先に群がって見せて貰ったものだった。

当時の僕が、家に置かれていた大判の時刻表で最初に開くのは、寝台特急が載っているページと決まっていた。
時刻表は深夜の運転停車を記載しないので、始発駅付近と終着駅付近以外は、通過を示す「レ」が縦にずらりと何ページも続いたりする。
ページを次々とめくり、列車が進んでいく線区を追っているうちに、未知の土地へ旅する寝台特急の乗客になった気分に浸ったものだった。



続いて頁をめくる先は、巻末に掲載されている寝台特急の編成表である。
「A」マークのA寝台、「☆」星1つの3段式B寝台、「☆☆」星2つの電車3段B寝台、「☆☆☆」星3つの2段式B寝台。
「個」のマークの個室寝台と、フォークとナイフが組み合わさった食堂車は、特に垂涎の的だった。

時刻表と編成表を交互に眺めているだけで、寝台特急を疑似体験している気分に浸ったものだったが、いつかは実際に乗ってみたい、という渇望を満たすには程遠かった。



寝台特急列車の終焉は、今振り返れば、僕が鉄道ファンになった昭和50年代から緩やかに始まっていた。


「月光」新大阪-博多 昭和50年「明星」に統合

「きりしま」京都-西鹿児島 同年「明星」に統合

「安芸」大阪-下関 昭和53年廃止

「金星」名古屋-博多 昭和57年廃止

「北星」上野-盛岡 同年廃止

「いなば」東京-米子:昭和58年「出雲」に統合

「紀伊」東京-紀伊勝浦:昭和59年廃止

「明星」京都・大阪-西鹿児島:昭和61年廃止


このあたりまでは、僕が乗りたくても旅に出られる身分ではなかった時代である。

消えた寝台特急は少なくないが、発展的統合であったり、数多くの寝台特急があるのだから、稀に成績不振の列車だってあるさ、と楽観していた。



まさか、その10年後に、寝台特急が全て淘汰される時代を迎えようとは想像もしていなかったのだが、平成を迎えると、そのような悠長なことを言っていられなくなり、僕は意識して寝台特急を利用するようになった。


「ゆうづる」上野-青森(常磐線経由):平成5年廃止
「出羽」上野-秋田(常磐線・羽越本線経由):同年「鳥海」に統合
「みずほ」東京-熊本・長崎:平成6年廃止

「つるぎ」大阪-新潟:同年廃止

「鳥海」上野-秋田(上越・羽越本線経由):平成9年「あけぼの」に統合
「はくつる」上野-青森(東北本線経由):平成14年廃止

「あさかぜ」東京-下関・博多:平成17年廃止
「さくら」東京-長崎・佐世保:同年廃止

「彗星」京都・大阪-宮崎:同年廃止

「出雲」東京-出雲市(山陰本線経由):平成18年廃止

「なは」京都・大阪-西鹿児島・京都・「あかつき」大阪-長崎:平成20年廃止
「富士」東京-西鹿児島(日豊本線経由・後に宮崎、大分止まり)・「はやぶさ」東京-西鹿児島(鹿児島本線経由・後に熊本止まり):平成21年に廃止
「北陸」上野-金沢:平成22年廃止

「日本海」大阪-函館:平成24年廃止



今回の旅の後も、寝台特急の凋落は容赦なく続くことになる。


「あけぼの」上野-青森(奥羽本線経由・後に上越・羽越本線経由):平成26年廃止

「トワイライトエクスプレス」大阪-札幌:平成27年廃止

「北斗星」上野-札幌:平成28年廃止

「カシオペア」上野-札幌:平成29年廃止


今や、残されている寝台特急は、東京と高松・出雲市を結ぶ「サンライズ」だけという体たらくである。



1人旅に出かけられる年頃になると、寝台特急は思った以上に高額であり、僕は、いつしか廉価な夜行高速バスに趣味を移してしまった。
それでも、30年近くの間に、何本かの寝台特急を経験することができたのは、幸運な時代に生まれ合わせたと言うべきだろう。


寝台特急の車中では、真っ暗な車窓を楽しむことなど出来ないし、客車の構造も画一的で、格別変わったことがあるはずもない。

大半の時間は退屈である。


それでも、乗る機会に恵まれた列車の愛称を思い浮かべるだけで、その夜の客車の揺れ具合や台車の軋みまでが、ありありと脳裏に蘇ってくる。

車内で体験した些末な出来事すら、その旅を象徴する思い出に昇華されて、僕の心に刻まれているのは、珠玉のような人生の一幕だったからであろう。


生まれて初めて寝台特急に乗った「あさかぜ」で、翌朝に感動した夜明けの瀬戸内海の車窓。

 

初めての東北旅行で「はくつる」のグリーン車に坐り、上野から盛岡まで、つましく過ごした一夜の長かったこと。
 

北海道の帰路に、「ゆうづる」で電車3段寝台の最上段をあてがわれて、あまりの狭さに辟易して、中段から話しかけてくる同行の友人に生返事を返しながら「寝るしかないではないか」と不貞寝したこと。

 

九州一周の往路に利用した「みずほ」で、食堂車の廃止に愕然としたものの、徳山駅から乗り込んだ駅弁屋から買った「あなご弁当」の美味しかったこと。

 

「はやぶさ」で22時間を過ごし、西鹿児島駅に降り立った時は西日が傾いていたこと。
 

友人と2人で「富士」に乗り通し、宮崎に着いてから巨人軍御用達のお店で食べた絶品の釜揚げうどん。

「サンライズ瀬戸」に切り替わる前の「瀬戸」から乗り継いだ、宇高連絡船のデッキの讃岐うどんの野趣な味わいも忘れ難い。
 

「さくら」が対向列車の踏切事故の現場で立ち往生して、2時間近くも遅れたこと。
 

岡山から乗車した上り「サンライズ瀬戸」が大幅に遅延し、静岡で新幹線に乗り換えて出勤時間に間に合わせたこと。

 

倉敷から乗った上り「サンライズ出雲」の個室で、当時付き合っていた女性と携帯電話で話しているうちに、僕が寝台特急に乗っていることを白状すると、いきなり泣き出されたこと。

 

その女性と別れた暫く後に、最終運転日の「彗星」上り列車に乗り、彼女の故郷である宮崎県内を鬱々と過ごしながらも、沿線で「彗星」を見送る地元の人々の姿に胸を打たれたこと。
 

僕にとって縁の深い北陸地方を走る寝台特急にも関わらず、早朝の6時過ぎに終着駅に着いてしまう「北陸」や「つるぎ」では、全くもって乗り足りない思いに駆られたこと。


職場の先輩たちと「サンライズ出雲」を乗り通し、明け方の伯備線で車窓を覆う積雪に驚いたこと。


昔ながらのブルートレインだった「出雲」で冬の朝を迎え、払暁の余部鉄橋から眺めた山陰の雪景色と荒寥とした日本海。

 

下関止まりの「あさかぜ」の個室で放映されていた邦画ビデオが意外に面白く、旅から帰った後にDVDを購入したこと。

 

青函トンネルではなくフェリーで津軽海峡を渡ろうとしたものの、乗船場所に迷い、しょんぼりと函館駅に戻ると、函館発大阪行き「日本海」が待っていて、青森まで寝台の座席利用、いわゆる「ヒルネ」を初めて体験したこと。
 

「北斗星」の開放型B寝台で、僕に競艇の必勝法を得々と披露した向かいの寝台のおじさん──。

 



30年前に利用した「あけぼの」では、北海道をひと回りした疲れでひたすら寝込んでしまったらしく、せっかく奥羽本線を乗り潰したのに、途中の停車駅や沿線風景が殆んど頭に残っていない。

寝台特急に乗車している時間の大半は、車窓が真っ暗で景色を楽しむことなど叶わないし、客車の構造も殆んど変わらないから、格別変わった出来事があるわけではない。


それでも、友人と過ごした車中のひとときは懐かしいし、憧れの寝台特急に乗っているという心の昂ぶりは、今でもはっきりと覚えている。。
その後は音沙汰もなく、高校の同期生のSNSにも参加していないけれど、あいつは元気かな、と思う。


そもそも「あけぼの」は地味な列車で、同じ区間を走っていた夜行急行「津軽」の方が、「出世列車」「出稼ぎ列車」などと呼ばれて東北の人々に親しまれていたようで、「あけぼの」は特急であるにも関わらず、裏方のような半世紀を送ってきた印象がある。
無口に、着実に仕事をこなす職人、といったところだろうか。

 


 

秋の深まりを思わせる肌寒い空気に震えながら待っていると、ホームの先の闇に、眩い前照灯が浮かび上がった。
明かりはみるみる近づいて、モーターの重々しい唸りが静寂を破り、紺色のEF64型電気機関車がこちらにのしかかるように向かってきて、思わず後退りした僕の前を通過していく。
機関車より明るい青色を纏った24系客車が、少しずつ速度を落とし、かすかにブレーキを軋ませながら停止した。
 

乗降扉が一斉に開いたが、上野発の下り夜行列車を高崎で降りる乗客はいないと見切っているのか、『たかさきー、たかさきー』という駅名の連呼はなかった。
乗り込む客の姿も見受けられず、ホームを右往左往しているのは、カメラを手にした鉄道マニアらしき数人の男性だけだった。
 


 

停車時間は僅か2分である。
 

窓から半身を乗り出した車掌が短くホイッスルを吹き鳴らし、客車の扉が一斉に閉まった。

直立不動で挙手の礼を交わす駅員と、返礼する車掌の姿は、いつ見ても絵になると思う。
ゴトリ、と機関車に引き出された客車が動き出す。
カーテンを閉めた大きな窓が、次々と僕の前を過ぎていく。

 

鈍重な滑り出しだったが、「あけぼの」はすぐに軽やかな足取りに変わり、律動的に線路を鳴らしながら、矢のように僕の視界を流れ去っていく。

 

 

この日まで、特に思い入れが深い訳でもない「あけぼの」だったが、深夜の高崎駅での思いがけない邂逅に胸が高鳴ったのは、まさに時代の成せる業であろう。

機会に恵まれれば出来るだけ寝台特急を利用するように心掛けていたものの、以前に比べれば運転本数が大幅に減っている現状では、乗りたくても乗れなくなり、寝台特急はこれが最後、と常に思い定めるような情勢だった。


万感の思いをこめて、僕は、青森へ向かう「あけぼの」を見送った。

テールランプが、ホームの外れの暗がりの中に、ふっ、と消えた。
夢のような数分間だった。
乗って行きたかった。
「あけぼの」とは、これでお別れなのだな、と思った。
 


 

その前日に、あるニュースが報道された。
 

『羽越線や奥羽線などを通り上野-青森駅間を1日1往復走るJR東日本の寝台特急「あけぼの」が、本年度で廃止される見通しとなったことが1日、鉄道関係者への取材で分かった。
乗客の減少や車両の老朽化などが原因。
東北を起点に運行する寝台特急が全て姿を消すことになる。
「あけぼの」は1970年に運行を開始。
酒田駅や秋田駅などを経由し、上野-青森駅間(772.6キロ)を約12時間半かけて結ぶ。
かつては1日2往復し、さらに上野-秋田駅間で1日1往復する列車もあったが、90年秋のダイヤ改正で1往復となった。
山形、秋田両新幹線の開業で東北と首都圏を往復する環境が大きく変わったことや、70~80年に量産された使用客車24系の老朽化が激しいことを理由に、東北新幹線が全線開業した2010年ごろから廃止が本格検討されていた。
一方で、秋田、山形両県などの新幹線の通らない日本海沿岸地域の駅からは、首都圏への唯一の直通列車として根強い利用がある。
東北を起点とする寝台特急は、12年3月に青森-大阪駅間を結ぶ「日本海」が廃止されて以降、「あけぼの」だけになっていた。
これまでに廃止になった寝台特急の中には、大型連休期間や年末年始などの繁忙期に臨時列車として運行されるケースがある』
 


 

また1つ、思い出の列車が消えていく。
時代というものは、個人の感傷には全く構うことなく流れていくのだろう。

 

廃止が報じられた直後に、「あけぼの」に出会ったという偶然は、僕の胸を少なからず熱くした。
「あけぼの」に乗る時間の余裕はないだろうが、高崎駅でのひとときは、他の寝台特急の様々な記憶にも引けをとらない、人生の1ページとして心に刻まれたのだ、と思った。
 

 

人生、何が起こるか分からない。
 

その3週間後、同じ年の11月中旬のことである。
職場で、誰かが秋田へ出かけなければならない用件が出来た。
火曜日の夕刻までに着き、夜の9時まで拘束されるという。
何とか業務をやりくりしてその日に出掛けられるのは僕だけだったが、翌朝の仕事は変えられなかった。
 

「寝台特急に乗れば、秋田を夜の9時過ぎに出て、上野に朝の7時前に着きますよ」
「ええ?大丈夫ですか?そんな強行軍で」
「でも、他に方法があります?」
 

事務員さんたちが、パソコンと首っぴきになって新幹線や航空機の時刻を調べ始めたが、秋田新幹線の東京行き最終が秋田駅19時09分発、航空機の羽田行き最終便が秋田空港20時30分発という厳然たる事実を、幾ら頭を捻っても変えられる訳がない。
翌朝の交通手段としては、新幹線の始発が秋田6時05分発・東京9時51分着、航空機が秋田7時35分発・羽田8時45分着である。
 

「無理しないで翌日の便で帰ってきて下さいよ」
 

と言ったのは事務長だった。
以前、岡山へ似たような出張に出掛けた際に、
 

「翌日の仕事の手配がつかないから、夜行で帰って来て下さい。夜行列車、好きでしょ?」
 

と言って、寝台特急「サンライズ瀬戸・出雲」の切符を差し出したことを、僕は決して忘れていない。

事務長の思いやりに少なからず感動を覚えたけれど、ここでそれに甘えるわけにはいかない。
 

「ありがとう。でも、火曜日の午後を留守にできるのは僕だけみたいだし、僕は水曜日の朝の仕事が抜けられないんですよね」
 

もちろん、仕事が大事と思っての反論である。
断じて、他意はないのである。



 

「あとは、経費がかからないよう、夜行バスって手がありますけど」
 

秋田と東京を結ぶ夜行高速バスは、元ツアー系バスを除けば2路線あり、秋田駅を22時20分に出て新宿駅に6時20分に着く「フローラ」号と、秋田駅を21時20分に出て東京駅に6時ちょうどに着く「ドリーム秋田・横浜」号(終点は横浜駅6時53分着)である。
前者は乗車経験があるが、後者は乗ったことがなく、初乗りの夜行高速バスも悪くないかな、と思い掛けたが、


「いいえ、お願いだから夜行バスはやめて下さい。万が一事故ったら大変ですし、疲れ過ぎて水曜日の仕事に影響します」

 

関越自動車道で多くの死傷者を出したツアー高速バスの事故が起きたのは、前年のことで、高速バスは危ない、と受け止めている人が少なくなかった頃である。

事務長の判断材料が、あくまで仕事であることはよく分かったが、ならば方法は1つしかないではないか。
 

「じゃあ、この出張の成否は、帰りの寝台が取れるかどうかに掛かってますね」
「分かりました。今から切符買ってきます」
 

まんまと僕の策略に引っ掛かった──もとい、見事に仕事の段取りをつけた事務長が、出張費を貰うために総務課へ駆け出していく後ろ姿を見送りながら、僕は、何だか夢見心地だった。
 

つい先日、永遠の別れを告げたと思い込んでいた「あけぼの」に、再び乗る機会が巡ってこようとは!──

 

 

こうして、僕は、11月下旬の火曜日の夜に、秋田駅のホームに震えながら立っていることになったのである。
職場をその日の昼過ぎに出て、東京発13時20分の秋田新幹線「こまち」25号に飛び乗り、17時08分着の秋田まで3時間48分の車中となるはずだった。

 

秋田への行き来も便利になったものだ、と思う。

何かと言うと用事が持ち上がることが少なくない、不思議な縁のある街で、初めて足跡を記したのは、秋田の大学を受験する弟に付き添って、日帰りで往復した昭和61年である。

「みどりの窓口」で、当時の寝台特急「あけぼの」の経路を思い浮かべて、東北新幹線で上野を発ち、福島で奥羽本線の特急「つばさ」に乗り換えて秋田、という切符を申し込むと、

 

「秋田なら盛岡回りの方が早いよ」

 

と係員に言われて、仰天した。

新幹線で上野を発つと、福島・山形経由で574.4km、所要6時間半を費やすが、盛岡まで新幹線を乗り通して田沢湖線の特急「たざわ」に乗り継げば662.6km、100km近くも遠回りになるにも関わらず、所要時間が5時間20分に短縮されると知って、新幹線の威力とは凄いものだ、と舌を巻いた。

 

後に、秋田新幹線が同じ経路になったのを知り、なるほど、と頷いたものである。

 

 

平成10年に、今回の出張と似たような用件で1泊の出張に出掛けた時は、その前年に秋田新幹線が開通していたものの、職場の事務さんは航空機を選択した。

当時の職場が、東京駅よりも羽田空港の方が近いという事情もあった。

 

羽田を14時15分に離陸予定のJAL555便は、空席が目立ち、秋田新幹線の影響を改めて思い知らされたのだが、搭乗してからのアナウンスに愕然とした。

 

『お急ぎのところを恐れ入りますが、次の秋田行き877便が機材故障のため欠航となりましたので、そちらのお客様を当機にお乗せしてからの出発となります。離陸までもうしばらくお待ち下さい』

 

877便はANAの担当で、JAL555便より1時間25分も後になる15時40分に出発、秋田空港への到着は16時40分の予定だった。

他社の後続便を救済するとは、そちらの予約客は救われるだろうが、大幅に遅れる僕たちはどうなるのか、と、僕は同行者と顔を見合わせて苦笑いしたものだった。

 

秋田新幹線にすれば良かったね、と鉄ちゃんとしては言いたかったが、事務さんが手配した旅程であるので、黙って待つことにした。

当時、JAL555便と同じ頃合いの14時00分に東京駅を発車する「こまち」49号の秋田着は、18時32分なので、ANA877便の運航時刻でも、航空機の方が早く着くのである。

それでも、簡単に2つの便の搭乗客をまとめられるほど、羽田-秋田便の利用者は減少しているのか、と驚いた。

 

 

競合相手の航空機でこのようなトラブルに見舞われれば、鉄道応援団の僕としては、開業当時の秋田新幹線のCMを想起せざるを得ない。
 

「秋田行き6629便」と字幕が出て、羽田空港で乗客がボヤきながらタラップをぞろぞろと昇っていく。

飛行機の塗装も便名も、もちろん架空である。


「新幹線って秋田まで行かねえんだよな」
「そうそう」
「秋田行きの新幹線があればなあ」
「え?あるよ」
「ええ?」
 

乗客の列が一斉に止まる。


「もう出来てたの?」
「知らなかった」
「乗り換えなしなんだって」
「なんだよ、早く言ってよ」
 

踵を返してタラップを降り始める乗客たち。
慌てたキャビンアテンダントが、コクピットに駆け込んで、
 

「機長、乗客が秋田新幹線に!」
「知らなかったな……」
 

機長も遠い眼差しで席を立ち、タラップを降りて秋田新幹線に乗ってしまうのだ。
「こまち」の車内では、キャビンアテンダントが、
 

「お弁当ください」
 

と何気に汽車旅を楽しんでいて、窓際では機長が景色を眺めながら、
 

「ビールも買っちゃおうかな」
 

と呟くオチには、吹き出した。
 

いいのか、こんなモノ製作して、と心配になるほど、JR東日本の航空機への対抗意識が剥き出しになったCMであった。
 

 

今回の秋田行きで、快調に東北路を北上していく最新型のE6系「こまち」25号の座席に身を任せれば、やっぱり鉄道はいいな、と、僕はすっかりくつろいでいた。

 

福島県内であったか、それとも宮城県に足を踏み入れた頃だったか、飛ばしに飛ばしていた列車が、不意に減速した。

停車駅か、と最初は思ったのだが、辺りは一面の色褪せた田園地帯で、新幹線の駅を設けるような場所には見えない。

列車の制動力はぐいぐい強くなり、終いには、身体が前のめりになるほどだった。

高速走行で輪郭がぼやけていた窓外の風景が、瞬く間に形を取り戻していく。

 

「こまち」25号は、駅でも何でもない田圃の真ん中に完全に停まってしまい、これは只事ではなさそうだ、と身構えていると、ひと呼吸おいてから、緊張した声色の案内放送が流れた。


『ただいま地震が発生し、停止信号が出ております。安全確認を行っておりますので、しばらくお待ち下さい』

 


この日に発生した、宮城県沖深さ50kmを震源とするM4.9、最大震度4の地震は、2年前の東日本大震災の余震の1つと言われている。

初期微動に反応して、基準以上の揺れを感知すると変電所の送電を止め、列車の非常ブレーキを掛ける「ユレダス」が作動したらしい。

新幹線の非常ブレーキは初めての経験だった。

 

誰もが憮然とした表情を浮かべているものの、車内は茫然とした静寂が支配している。

まだ震災の記憶も生々しく、余震が頻繁に続いているだけでなく、福島第一原子力発電所の事故も沈静化には程遠い状態が続いていたので、この時期の東北行きには、ある程度の心構えが必要だったことを、つい失念していた。

 

 

僕は、盛岡から先の田沢湖線の鄙びた車窓が好きだったが、地震による遅延で、すっかり日没後にずれ込んでしまった。

真っ暗な車窓に目を遣りながら、結局秋田の大学には行かなかったけれども、弟は元気にやっているかな、と思う。

思えば、弟と2人で鉄道旅行をしたのは、あの時が最後だった。

 

16年前ほどの大幅な遅延には繋がらなかったけれども、秋田の滞在時間が否応なく圧縮されてしまい、慌ただしく所用を片付ければ、せっかくの夕餉時にも関わらず、きりたんぽも何にも味わう暇はなかった。

それどころか、発車の10分前に秋田駅に飛び込んで、土産を買うのがやっとだったのである。



雨上がりの秋田駅のホームは吹きっさらしで、襟元や袖口から容赦なく湿った寒気が忍び込んでくる。

雪でも降り積もれば似合いそうな、古びた構内の晩秋の夜である。
別のホームに、男鹿半島や奥羽線下り方面のローカル列車がじっと蹲って、発車時間を待っている。

 

あまりの寒さに震えながら、僕は何となく面映ゆい気分で、数週間前に高崎駅で同じようにがたがたしながら「あけぼの」を待っていたことを思い出していた。

心ならずも別れを告げた恋人に再会する時のような、気恥ずかしさと嬉しさが入り混じった感情と言えばいいだろうか。

その時と大きく異なるのは、今回は「あけぼの」を見送るのではなく、乗ることが出来るという点である。

 

 

『21時23分発、上野行き寝台特急「あけぼの」は、2つ手前の駅を通過しております。もうしばらくお待ち下さい』


という構内放送が、しん、と張りつめたホームの冷気をかすかに震わせる。

 

青森仕立ての寝台特急「あけぼの」は、電気機関車のモーターの唸りを響かせながら、定刻21時21分に4番線に滑りこんできた。
ベンチから腰を上げながら、大きな荷物を手にとる乗客。
ホームに直立して周囲に目を配る駅員。
客車の床下から吐き出される暖房の白い水蒸気。
 

それまで死んだようだった構内が、静から動へ一気に生き返った。

 

 

職場の事務さんが手配してくれたのは、5号車9番のB寝台1人用個室「ソロ」である。
A寝台でも僕は全然構いませんよ、と冗談めかしながらも、財政難の折り、格安の「ゴロンとシート」でも購入してくるのではないかと懸念したのだが、事務員さんは僕の期待以上の買い物をしてくれた。
鉄道に全然詳しくない人物で、「あけぼの」も寝台の種類も知らなかったようだが、
 

「窓口の人に勧められたんですよね、こっちの方がいいって」
 

と言うことは、最初は、普通の開放型B寝台の切符を購入するつもりだったのか。
 

確かに、係員も勧めやすいだろうと思う。
個室と言っても、普通の開放型2段式B寝台と料金は同じ6300円なのだ。

 

 

車室に入ると、狭い通路の左右に個室の扉がずらりと並んでいる。


「あけぼの」の「ソロ」は2階建て構造で、1階と2階の部屋が上下で重なり合う凹凸の構造になっている。
上り列車では、1・2・5・6・9・10・13・14・17・18・21・22・25・26号室が進行方向左側、3・4・7・8・11・12・15・16・19・20・23・24・27・28号室が右側となる。
それぞれの部屋の寝台は、窓に沿って前後方向を向き、「サンライズ瀬戸・出雲」の個室と同じ構造である。
もちろん、こちらの方がずっと使い古された感じであるが。
 

ちなみに、上野と札幌を結ぶ「北斗星」の「ソロ」は、進行方向と直角に並ぶ構造だったから、「ソロ」でも色々な種類が存在したことになる。
部屋番号の奇数が1階、偶数が2階であるから、9番は1階だった。

1階になるのは、個室を利用する時の僕のいつものジンクスである。
 

 

「サンライズ」の個室もそうだったが、扉を開けてみれば、天井のあまりの低さに恐縮してしまう。
部屋に入るのに腰をかがめなければならず、まるで穴蔵に潜り込むようである。
 

室内で立って着替えるなど、とても出来ない相談で、僕は、ベッドの上で足腰を浮かせながら、ズボンを脱いで浴衣に着替えた。

浴衣は、線路の断面を模した「エ」が散りばめられた国鉄時代以来の伝統的なデザインだが、A寝台個室に付き物だった寝台特急のヘッドマークが縫い込まれたタオルがないのは、曲がりなりにもB寝台だからだろう。
向かいの部屋のおじさんは通路で着替えていたが、僕にそのような度胸はない。

 

床面積の9割は、ベッドが占めていると言っていい。
2階の個室へ上がる階段の裏側が、天井の3分の1程度を占めて突き出しているから、かなりの圧迫感がある。

 

 

通路側の壁には折り畳みテーブルと鏡がつき、備え付けのスリッパと靴を置けば一杯になってしまう上がり框に、小さなゴミ箱が置かれている。

奥に置かれた大きなクッションの正体が判然としなかったけれど、後に背当てと判明した。
寝台の壁ぎわに置いて上半身をもたせかければ、座って外を眺められるというわけである。
ハンガーはドアの脇の壁に掛けられる。



BGMのチャンネルを選ぶつまみも、照明スイッチや非常呼び出しボタンと一緒に並んでいる。

かつてのA寝台個室の扉には鍵がなかったが、今では、暗証番号を打ち込む電磁ロックがついている。
 

1晩を過ごすための必要最小限の設備がうまく収納されているものだと感心するが、要はカプセルホテル、と言えばぴったりである。
寝ている間に700kmを移動するカプセルホテルとは、誠に豪勢だと思う。

 


「あけぼの」の「ソロ」は初体験であるから何かと物珍しかったが、発車してから列車内を散策してみると、今度は懐かしさで胸が一杯になった。
 

隣りの車両の開放型2段式B寝台の雰囲気は、昔と全く変わらない。
客の姿は数えるばかりで、空きベッドばかりだった。
1人旅らしい女性が、ポツンと物憂げにベッドの隅に腰をおろしている風情は、なかなか良いものである。

 

 

ちなみに、廉価さが売り物の「ゴロンとシート」の構造は開放型B寝台と同じだったが、毛布や枕、シーツなどのリネン類、ハンガーやスリッパ、浴衣が省略されている。

 

北国を走る列車で、これでは寒くないのかと心配になってしまうのだが、寝台料金が全く不要、運賃と指定席特急料金だけで乗れるのだから、確かにお得であろう。

特に、1号車は女性専用の「レディースゴロンとシート」で、洗面所やトイレも含めて車両全部が男子禁制だから、女性客は安心だろうと思う。


思い起こせば、「サンライズ」の格安寝台は「ノビノビ座席」と名づけられ、座席ではないけれども、まるで蚕棚のような2段構造だった。


 

車端部にある洗面台も、造りは20年前と変わらなかったが、コックは新しくなって、温度調整のつまみがついていた。
昔は、温水と冷水の蛇口が分かれていて、コックが固定できず、手や顔を洗うためにコックを捻りながら洗面台に適温、適量のお湯を貯めたものである。

初めて寝台車に乗った時に、洗面台が2つ並んでいるのを見て、感心したことを思い出す。
 

和式のトイレも昔のままだった。
手すりを握り締めて、揺れに耐えながら用を足したことも、こよなく懐かしい。
A寝台車や一部のB寝台車は洋風トイレになったと聞いている。

 

 

デッキには、冷水サーバーと、健診の採尿容器を想起させる紙コップが健在だった。

昔は、昼夜行を問わず、特急・急行列車には冷水サーバーが付き物だったけれども、いつの間にか見掛けなくなった。

あちこちを覗いて回るうちに、まるで、自分が若かリし頃の昭和に引き戻されたかのような気分になった。

そうそう、子供の頃は、このような設備がある列車で旅をしたよな、と思う。

ひと昔前に、昭和の町並みを模したテーマパークが流行ったことがあるけれども、平成20年代の「あけぼの」は、まさに「走る昭和の博物館」だった。

 

残念だったのは飲み物の自販機が見当たらなかったことで、持ち込んだのはお茶のペットボトル1本だったから、夜中に喉が乾いた時に途方に暮れたけれども、冷水サーバーからペットボトルに水を補給することで解決した。

 

 

自室に戻ってベッドに身体を横たえれば、心身ともにゆったりとくつろげる。

強がりで夜行高速バスでもいいですよ、なんて言ってしまったが、寝台特急にして貰えて良かった、と事務長に感謝しながらも、僕も歳をとったものだ、と苦笑した。


「ハイケンスのセレナーデ」の可憐なチャイムが鳴り、車掌の案内放送が停車駅と到着時間をひと通り告げてから、
 

『夜も更けて参りました。皆様のお休みを妨げませんよう、放送は、明朝6時29分に到着の大宮まで控えさせていただきます。皆様、どうぞごゆっくりお休み下さい』
 

と締めくくられた。
 

室内灯を消し、漆黒の窓外に目を凝らせば、沿線に立ち並ぶ木々が枝を激しく揺らしているのが見えた。

かなりの強風が吹き荒れているようである。

羽越本線を日中に通った時には、波打ち際の区間も少なくなかった覚えがあるから、海からの風がもろに吹きつける場所もあるのだろう。
 

「あけぼの」の走りは、決して揺るがない。

もともと大してスピードを上げなければならないダイヤではないのだろう。
時折、平行する国道7号線の街路灯がぼんやりと窓を照らし出すけれども、行き交う車の姿は全く見かけなかった。

 

 

持ち込んだ文庫本のページをめくったり、うつらうつらと居眠りしたり、狭いながらも居心地のいい空間を、気儘な時間だけがのんびり流れている。

 

22時01分、羽後本荘。
22時14分、仁賀保。
22時25分、象潟。
22時48分、遊佐。
23時01分、酒田。
23時12分、余目。
23時28分、鶴岡。
23時53分、あつみ温泉。
 

「あけぼの」は秋田・山形県内でこまめに停車しながら、日本海に沿って羽越本線を南下していく。

滑るように走り続けている列車が、ふっ、と肩の力を抜くように、深夜の駅に停まる風情も悪くない。

深夜の停車駅に、動く人影はない。

カーテンをそっとめくり、淡い明かりに照らされた駅名標を眺めながら、物音1つしない静けさの中で、旅の実感を噛み締める時間は、僕にとって紛れもなく贅沢だった。

 

夜行列車の旅を愛した内田百閒が、
 

『全く愛想のいい急行で、頻りに右顧左眄する。君子ハ右顧左眄セヌそうだから、急行雲仙は君子でないのだろう』

 

と、東京から長崎まで27時間を掛けて走り抜く急行「雲仙」が、東京、品川、横浜、大船、小田原、熱海、沼津、富士と小まめに停車することについて、愛情たっぷりにこき下ろしていた一文を思い出し、ふと可笑しくなった。

 

平行して運転されていた急行列車がなくなった頃から、昼も夜も、特急列車が右顧左眄するようになったのは確かである。

昔ならば、夜行急行列車しか停まらなかったであろう駅にも、「あけぼの」は丁寧に停車して行く。

羽越本線における「あけぼの」の停車駅は、昭和40年代に上越・羽越本線経由で上野と秋田を結んでいた夜行急行「鳥海」と、全く同じなのだ。

「あけぼの」が何処に何ヶ所停まろうとも、あとは終点の上野まで乗り通すだけだから、定時にさえ着いてくれれば、全く問題はない。
 

 

それにしても、東北の行き来に上越線・羽越本線を経由するとは、かなりの大回りのように見える。

実際、東北本線で直行すれば739.2kmの上野-青森間を、奥羽本線経由ならば757.3km、陸羽東線経由で834.4km、そして上越・羽越本線経由では776.2kmであるから、それだけの差なのか、とも思ってしまう。

むしろ、陸羽東線時代の方が長かったのか、ということの方が意外だった。

長時間を乗りたくて、かつて北海道の帰りに「あけぼの」を選んだ僕が言うべきことではないけれど。

 

遠回りであっても、上越線・羽越本線を経由する寝台特急列車にもそれなりの歴史があって、その嚆矢は、東北・上越新幹線が開業した昭和57年に登場した「出羽」である。

「出羽」は、平成2年に「あけぼの」から分離した寝台特急「鳥海」に後継を譲るかのように、平成5年に廃止され、その「鳥海」が平成9年に「あけぼの」に改称されたことは、前述した通りである。

 

 

「あけぼの」に再び乗車できたことは嬉しいのだが、二番煎じではなく、乗る機会に恵まれなかった寝台特急「出羽」や「鳥海」に乗っているのだ、と思い込むのも、寝台特急ファンとしては楽しい連想である。

山形・秋田の両新幹線に追いやられた結果とはいえ、よくぞ、この経路で「あけぼの」が生き残ってくれたものだと思う。

 

0時38分、村上。
1時07分、新発田。
1時34分、新津。


日付が変わるとともに列車は新潟県に足を踏み入れ、僕は、村上駅を発車して間もなく、眠りに落ちた。
3週間前に「あけぼの」と出会った高崎駅は、早朝5時19分の到着だったが、もちろん夢の中だった。

 

 

ぐっすりと心地よく眠って、「ハイケンスのセレナーデ」のメロディーで目覚めれば、大宮到着まで残り10分を告げる放送が始まった。

 

前日の忙しさが嘘のように、疲れがとれている。
カーテンを開け放つと、外はまだ真っ暗だった。

冬至まであと1ヶ月、日が短くなったな、と思う。
 

ひっきりなしに通過する駅とすれ違う電車の頻度が増し、照明が煌々と灯されたホームに並ぶ通勤客の姿に、首都圏に帰ってきたこと、旅の終わりが近いことが嫌でも思い知らされ、気分は一気に日常に引き戻された。

 

北国からの夜行列車で帰京する際の、大宮駅での停車は、旅を終えて普段着の生活に戻るための程よいウォーミングアップである。
30年近く前、常磐線経由の青森発上り寝台特急「ゆうづる」で眠り込んでいたところに、
 

『おはようございます。列車は定刻で運行しております。あと10分程で、終点の上野に到着致します』
 

という突然の放送にびっくりして飛び起き、暖機運転をしないまま全力運転を強いられたように慌てふためいたことを思い出す。

 

きちんと上野の手前の大宮で起こしてくれる「あけぼの」で、そのような心配はない。


 

大宮を出れば、6時58分に到着する上野まで27分である。

 

狭い室内で苦心して服を着替え、用足しを済ませ、洗面所の温水で顔を洗っているところで、轟々と荒川の鉄橋を渡る気配がした。

今度こそ寝台特急に乗る最後に違いない、と思うと、不覚にも涙がこぼれそうになった。

 

子供の頃から憧れていた存在が、今、消えようとしている。

この夜、僕は、1つの時代の終わりを体感したのである。
 

それでも、僕らの国で寝台特急が主役を張り、昼夜を問わず人々が行き交っていた、熱い時代の記憶は残る。

最後の東北夜行となった「あけぼの」で、味わい深い9時間半を過ごせた巡り合いに、感謝すべきだろう。

今回の僕の出張は、新幹線でも航空機でもなく、「あけぼの」がなければ成り立たなかったのだ。

 

 

右手から寄り添ってきた東北新幹線の高架を見上げれば、目が覚めるような濃緑色のE5系がすれ違っていくのが見えた。

東京駅を6時40分、上野駅を6時46分に発車した盛岡行き「やまびこ」203号であろう。

同時に、前夜の秋田駅で、翌日の出発に備えて翼を休めていた真っ赤なE6系「こまち」の姿が思い浮かんだ。

 

鉄道よ、しっかりやれ──

 

不意に、このような言葉が頭に浮かんだ。


大多数の人々が、乗り物に速さを求めるのは自然である。

思い出はいつも綺麗だけれども、それだけで人間は生きていけないし、昭和の町並みと同じで、情感や郷愁だけで日常の交通機関は成り立たない。

新幹線が登場して航空機の利用客を奪ったように、人々の生活スタイルに見合わなくなった夜行列車が消えていくのも、今の時勢ではやむを得ないことかもしれない。

鉄道が、これからも、僕らの国を支える重要な動脈として、たゆみなく進化を続けるのであれば、消えて行く寝台特急も浮かばれる。

寝台特急は見事に時代の要請に応えたのだから、胸を張って退場すればいいし、寝台特急で旅をした思い出を、僕は決して忘れない。

 

終点の上野駅が近づき、「あけぼの」は徐々に速度を落としていく。

車掌の乗り換え案内の合間に、ギシギシ、コツコツと、転轍器を越えていく振動で車両が軋む音、台車が車体を叩く音が混じり、この列車がが走り続けてきた長い歳月を感じさせる。

洗面台の中で揺れる水面が、朝の光を反射して、きらきらと輝いた。

 

 

 

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