第41章 平成25年 原発事故に揺れる町へ~北関東道高速バスで常磐線暫定開業区間の北端広野駅へ~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:高速バス「北関東ライナー」前橋-宇都宮線・「北関東ライナー」宇都宮-水戸線・常磐線普通列車547M・いわき発広野行き673M】

 

 

平成25年11月初旬の連休に、金沢から長野を経由して前橋で1泊した僕は、早朝6時45分に、閑散とした前橋駅前からバスに乗った。

黄色に染まった銀杏並木の向こうから姿を現したのは、白地に金色のラインが入り、高速バスを運行する都市の名前をずらりとボディに羅列した日本中央バスである。


少し前に、成田空港行きリムジンバスが別の乗り場から出発し、大きなトランクを抱えた外国人客が数名乗車していた。
だが、複数の高速バスの時刻が案内されているこちらの乗り場には、僕がバスを待つ十数分の間、誰も近づいて来なかった。
 

若い運転手は、無表情に僕を見やっただけで、すぐに扉を閉めてバスを発車させた。

すいていることに慣れているような印象も受けたけれど、ここから乗ってくる客がいるとは思わなかった、と内心驚いていないか、運転手の表情が少しばかり気になった。
大丈夫なのだろうか、この路線は、と少しく心配になってしまう。

 

 

乗り場の時刻表にも、同社の「東海ライナー」(前橋・高崎-静岡・名古屋)運休の張り紙が張られており、僕が乗りこんだ宇都宮行きも、4月に4往復から2往復に減便となったらしく、一部の時刻がマジックで無造作に消されていたりするから、どうも気が滅入る。

 

座席に収まれば気持ちが改まり、車窓に映る街路は整然としていて、交通量も少なく、黄色く染まった銀杏の葉が目にしみた。

直角に交差する通りの先や、広々とした利根川を渡る橋の上からは、彼方にそびえる赤城の山々がなだらかな裾野を悠然と広げているのが見え、北関東の旅も捨てたものではないと心が躍る。

 

 

これから、広大な関東平野の北辺を成す山沿いに、前橋から宇都宮、そして水戸へ、半周しようと思っている。

このルートは、30年近く前の学生時代に、鉄道の乗り潰しを目論んでたどったことがある。
高崎から前橋を経て小山に抜ける両毛線も、小山から水戸の南の友部へ至る水戸線も、坦々とした田園地帯と、こぢんまりした街並みや工場が繰り返し車窓に現れるだけで、退屈した記憶が断片的に残っている。

 

地元の方々には大切な鉄道であろうし、歴史も文化も古く由緒ある地域なのであるが、沿線に超有名観光地があるわけでもなく、あまりに渋すぎるのだ。

このルートを乗り通そうという意欲に駆られることは、もうないだろうと思ったものだった。

現に、その後、両毛線に乗ったのは、東京から前橋・桐生・太田・足利・伊勢崎などへ向かう高速バスの初乗りで、それぞれの起終点の駅から駅へ移動するだけであり、水戸線に至っては1回も再訪していない。


 

ところが、平成20年以降に、順次、北関東自動車道が延伸し、高速バスが走り始めた。

平成20年に宇都宮-水戸線、平成22年2月に前橋-宇都宮線、そして同年4月には、全区間を走破する前橋-水戸線の3路線が登場し、いずれも「北関東ライナー」の愛称が付けられていた。

 

乗ってみたい、と高速バスファンとしては当然思ったけれども、いかんせん、東京を要として広がる扇の縁を走るような、東京とは全く関係ない路線である。

僕にとって、ついでに乗りにいくような所用が持ち上がるような地域でもない。

 

東京に住んでいると、距離的にはそれほど離れていなくても、放射状に延びている鉄道やバス路線ばかりを利用してしまう。

首都圏の交通網がそのように発達しているのだから、鉄道でも両毛線や水戸線ばかりでなく、放射状の路線を横糸のように結ぶ八高線、横浜線、相模線、武蔵野線などもあまり乗る機会がない。

 

紀行作家の宮脇俊三が国鉄全線完乗を果たした時に、1番最後に残ったのは、両毛線から分岐する足尾線であったのは、よく知られた話である。

 

『足尾線は群馬県の桐生から北へ向かい、栃木県足尾町内の間藤を終点とする44.1キロのローカル線で、東京から近いわりには不便なところにある。

そういうところは案外行きにくいもので、1週間前に指定券を買って張り切るほどの魅力がない反面、急に思い立って午後から出かけるわけにもゆかない』

 

と言い訳しておられるが、僕にとっての「北関東ライナー」も全く同じ位置づけだった。

 

 

平成23年3月の東日本大震災以降、「北関東ライナー」前橋-水戸線は運転を取りやめたままである。
こいつは、うかうかしていると乗り損なうぞ、と焦っていたのだが、開業後5年以上が経過した今回、ようやく、念願を叶える機会に恵まれたのであった。

 

バスは、赤城の山々を遠く右手に望みながら、目的地に背を向けて県道12号線を西へ進み、n-パーキング日高、高崎バスセンター、高崎駅東口で乗車扱いをする。

この道筋を初めて通ったのは、羽田空港からのリムジンバスが開業した平成10年だった。

当時は羽田から首都圏近郊の街々へリムジンバスが次々と開業し、品川区に住んでいた僕は、あの街にもバス路線が通じた、こんな地域にもバスで行けるようになった、と心を躍らせながら乗りに行ったものだった。

羽田空港の利用者はせいぜい都内か神奈川・千葉・埼玉の人々だろうと近視眼的に思い込んでいたので、北関東に住む人々も羽田を利用するのか、と蒙を開かれた思いがした。

 

あれから、もう十数年か、と思う。
月日の流れの容赦ない早さに粛然とする。

 

 

古びた家々や工場と田園が交互に現れるだけの、何の変哲もない県道ではあるが、のんびりと鄙びた車窓は、日常から解き放たれて異郷の地を旅している喜びをかき立てる。

 

n-パーキング日高は、刈り入れの終わった水田に囲まれたこぢんまりとした住宅地の中の駐車場だった。

おそらく自社営業なのであろう、高速バス利用者が車を置いておくこともできる。

このような施設やサービスは、クルマ社会の地方では欠かせない。

 

バスは駐車場の中でぐるりと転回したが、誰も乗る人はいなかった。

どこからか飛び出してきた誘導員のおじさんに導かれて国道に復帰し、広大な駐車場に囲まれた孤島のような全国チェーンの郊外型店舗や、黒ずんだ工場が増える中を、高崎市街へ入っていく。

 

 

高崎駅前の綺麗に手入れされた並木を眺めながら、この街に住む高校時代の同窓生の顔を、ふと思い浮かべた。

社長として厳しい世相にも負けずに頑張っている様子や、地域活動として駅前の生け垣の草取りや掃除などにも積極的に参加している様子がSNSに書き込まれ、こちらまで励まされることが多い。

東京と故郷信州の行き来などで高崎を通ることは何度もあるのだが、どうしても高崎で下車してその友人と一献する時間がとれない。

信州に行くたびに、「なぜ途中下車せぬ?」などとSNSに書き込んでくれるのを、申し訳なく思う。

今回も、故郷の帰り道にようやく1日を捻出して、こうして「北関東ライナー」に乗りに来ているのだが、友人のことを思い浮かべながらも通過せざるを得ない。

 

驚いたことに、駅から少し離れた高崎バスセンターでも、ロータリーに設けられた高崎駅東口乗り場でも、乗車してくる客は皆無だった。

東口では、隅の高速バス乗り場で数人の客がバスを待っていて、バスが横付けされると近づいてくるのだが、「宇都宮行きです」という運転手のアナウンスに、なあんだ、と苦笑いを浮かべて、乗り場から離れてしまう。

池袋か羽田空港、もしくは新潟行きに乗るのだろう。

 

 

宇都宮まで、このバスは僕の貸し切りとなってしまうのだろうか、とちょっぴり不安になった。
乗り物は混雑しているよりは空いている方が望ましいが、運転手1人、乗客1人という状態は極端すぎて恐縮する。

この路線、不採算で長いことないのではないだろうか。

もし僕がこの旅に出てこなければ、運転手は、もっと気楽に宇都宮までドライブ気分で過ごせたのではないだろうか。

運転手に何か話しかけて場を盛り上げた方がいいのではないか、などと、まるでタクシーに乗った時のように気を遣ってしまう。

 

幾つかの高速バスで貸し切り状態に遭遇したことがあるが、いずれも運転手と大いに話しながら盛り上がって過ごしたものだった。

どの路線とは言えないけれど、30年も前のことだから時効と考えて白状すれば、禁煙の車内で、運転手と意気投合して、2人して煙草をくゆらせたこともあり、愉快な思い出も少なくないのだが、この日の「北関東ライナー」の運転手は寡黙だった。

気が引けるならば、後方の席へ下がればいいのだろうけれど、せっかく車窓を満喫できる最前列左側の席を確保できたのだから、それも勿体ない。

 

 

バスは後戻りするように市街地の東にある高崎ICから関越自動車道に駆け上がり、続く高崎JCTで北関東自動車道に分岐した。

間もなく駒形ICを降り、駐車場が併設されている停留所にわざわざ寄り道したけれども、そこでも乗車客はなく、宇都宮まで僕の貸し切りが確定してしまった。

 

この道は、僕にとって初体験である。

北関東道やJR両毛線は、ひたすら東西方向に延びているという思いこみがあったが、実態は異なる。
地図を見れば、鉄道は、高崎から前橋・伊勢崎にかけては利根川に沿って南東に向かい、伊勢崎から桐生は左へ直角にカーブして北東へ、桐生から小山へは右に弧を描いて再び南東へと、市街地を忠実にたどって波線のようにジグザグに走っているのに対して、ハイウェイは、その波線を串刺しにするように真っ直ぐ東西を貫いている。

沿線の市街地は何処も離れていて、「北関東ライナー」も、駒形以東は途中停留所に寄ることなく、ひた走るだけである。

 

 

どんよりと垂れ込めた雲の合間から地上に降り注ぐ陽の光が、窓から車内にも差し込んでくる。

ひたすら地平を走り、建物に視界が遮られがちだった両毛線と異なり、盛り土の上を行く高速道路の眺望は、予想に反して素晴らしかった。

田園に点在する集落や工場群を彼方まで見通すことができるから、雄大な関東平野の広さを実感する。

左手に赤城、後方は榛名に連なる武骨な山並みが、雲に霞みながら見え隠れしている。

首都圏では有数の美しい車窓ではないだろうか。

お見逸れしました、と思う。

 

 

渡良瀬川を渡って栃木県に入ると、平坦だった車窓は一変し、緑に覆われた山肌がぐんぐんとハイウェイに迫ってきて、幾つものトンネルで足利の街の北側を迂回していく。

上野の国から下野の国へ、険しくはないけれども起伏に富んだ車窓の変化を楽しんでいるうちに、バスは、北関東道が東北自動車道に合流する岩舟JCTに差しかかった。

 

宇都宮は左手、東北道下り方面のはずであるが、「北関東ライナー」は右へぐいっと舵を切り、東京方面の上り線に乗ってしまう。

呆気にとられていると、バスは、10kmほど南下した佐野藤岡ICを出て、定刻8時26分、幾何学的な建物に取り囲まれた佐野新都市バスターミナルに立ち寄った。

ここは降車専用の停留所であり、当然、降りる客は誰もいない。

 

僕に行き先を聞いてくれれば、佐野まで寄り道しなくても良かったのに、と思ったけれど、路線バスである以上、利用客がいようといまいと、定まった経路を取らなくてはならないのだろう。

 

 

佐野は、僕にとって曽遊の地である。

平成18年の真夏に、僕は東武特急「りょうもう」で佐野までやってきて、ここが始発の日本中央バスの夜行高速バス「シルクライナー」に乗った。

佐野・館林・太田・桐生・伊勢崎・前橋・高崎と栃木・群馬県内の主要都市に立ち寄ってから、上信越道と北陸道を回り、富山と金沢を経由して大阪を目指すという、所要14時間にも及ぶ浮き世離れした路線だった。

当時の佐野新都市のバス乗り場は、広大な空き地の隅っこに建つ、草むらに囲まれた虫だらけのプレハブ造りだった。

 

7年ぶりの佐野新都市はバスターミナルが整備され、隣りにプレミアムアウトレットも出来て面目を一新し、全く別の土地のようになっている。

昔を懐かしむためだけに寄ったような佐野藤岡ICから、再び東北道に復帰し、「北関東ライナー」は今度こそ宇都宮に向けて速度を上げた。

 

 

大雑把な見方をするならば、前橋・高崎は関東平野の北西の、宇都宮は北の辺縁である。
実際、東京から放射状に高崎へ延びる関越道はひたすら平坦だけれども、東北道は、館林を過ぎると起伏に富んだ山々の合間をすり抜けるようになる。
鹿沼ICで高速を降りて宇都宮市街に入っていくと、まるで山越えをして別の盆地に来たような気分にさせられる。

 

鹿沼IC入口に8時56分。

砥上車庫に9時02分。

東武宇都宮駅西口に9時15分。

県庁前に9時16分。

 

まだ眠りから覚めていなかった前橋や高崎とは異なり、2時間半のバス旅でたどり着いた宇都宮の街は、人や車の行き来が多く賑わっていて、少しずつ運行が遅れたようである。

JR宇都宮駅前の路地を進み、駅と反対側の歩道にある停留所に到着したのは、定刻9時20分を少々過ぎていた。 

たった1人の降車客を降ろした「北関東ライナー」前橋ー宇都宮線は、さっさと視界から消えた。

 

 

せっかく宇都宮までやって来たにもかかわらず、名物の餃子に舌鼓を打つ暇もなく、僕は旅を続けなければならない。
僅か10分の接続で、9時30分発の水戸行き「北関東ライナー」宇都宮-水戸線が発車する。

 

バス停に行列が出来ているものの、混雑という程でもない乗客数であり、少なくとも前橋からのバスより利用者が定着しているようで、内心ホッとした。

やって来たのは、カラフルな色彩の茨城交通バスだった。

 

 

この会社のバスには、何回か乗車したことがある。
どんな古い車体でも、他の事業者のバスに比べて、すっぽりと腰を包む座席の座り具合がとても心地よく、この日のバスもその感触に変わりがなかったので、嬉しくなった。 

 

宇都宮と水戸を結ぶバスは、高速道路開通以前にも、国鉄バスが「茂木線」もしくは「水都西線・東線」の路線名で昭和12年から運行していた歴史があるという。
昭和54年に廃止されたが、平成20年の北関東道開通で復活した「北関東ライナー」は、実は戦前からの伝統路線の進化なのである。

 

 

栃木県庁前と東武宇都宮駅前まで、来た道の逆戻りだったが、その先、バスは国道123号線で東へ向かう。
かつての一般道経由の宇都宮-水戸直通バスは、この国道123号線を走っていたという。

 

混雑する窮屈な市街地を、宇都宮大学前、宇都宮大学工学部前とたどり、国道4号線バイパスへ右折すると、視界が開けた。

鬼怒川の西岸を南下して、サーカスのテントが立つインターパークが、宇都宮側の最後の乗車停留所である。

インターパークは、宇都宮市と上三川町にまたがる北関東最大の郊外型商業施設で、ショッピングプラザや専門店街が建ち並んでいるのが、バスからも伺うことができる。

 

 

すぐ南側に高架のハイウェイが見え、バスは上三川ICから北関東自動車道へ入って速度を上げた。

北関東道は高崎JCTで関越道から分岐し、岩舟JCTで東北道に合流して、いったん途切れるが、10キロほど北に位置する栃木都賀JCTで東北道から東へ向けて、段違いのように北関東道が分岐する。

 

真岡ICと桜川ICは平板な地形であったが、筑西ICを過ぎ、小山からの水戸線と交差する頃になると、こんもりとした山々が車窓を占め、ところどころでトンネルをくぐるようになった。

関東平野と言っても、辺縁では起伏に富んだ地形になるのだな、と思う。

 

 

笠間市の南のゴルフ場だらけの丘陵地帯を回り込み、前方から右手の遙か彼方に筑波山の流麗な姿が垣間見えるようになれば、早くも友部JCTで常磐道に合流である。

関越・東北・常磐道と、東京から放射状に伸びる3本のハイウェイを横に紡いで走ってきたが、関越道と東北道の間隔よりも、東北道と常磐道の方が遙かに近いことに気づいた。

前橋ー宇都宮間は、高崎を回ったとは言え2時間35分、宇都宮ー水戸間は1時間48分である。
 

人の流動、ひいては高速バスの乗客数も、その距離に比例するのだろうか。

僅か2往復に減便された前橋-宇都宮線に比して、宇都宮-水戸線は1日6往復である。

地域性もあるのかもしれない。

群馬県は日本でも有数の自家用車保有地域であり、逆に路線バスは人口比にして最も少ないと聞いたことがある。
東京と水戸の間は、1日数十往復の高速バスが行き来して混雑しているが、東京と高崎・前橋の間には、日本中央バスが頑張って1日6往復の高速バスを走らせて、僕も時々見かけることがあるが、可哀想なくらいに空いている。

 

宇都宮にも、東京へ直行する高速バスが運行されていたのだが、平成22年に途中の佐野止まりになったので、実は群馬県より情けない状況である。
平行する新幹線の有無も関係するのだろうか。

 

 

駅前や市街地を行き交う路線バスの数も、水戸が圧倒的に多いのだが、宇都宮も決して少なくないような気がする。

あくまで僕の印象ではあるものの、道や駅前で見かけるバスの数は、前橋と高崎が明らかに少ないように感じた。
どの地域でも路線バスは乗客数の減少に苦しんでいるが、群馬県では特に、バスが定着しにくい土壌があるのだろうか。
 

水戸ICから市街地へと東に向かうルートは、水戸発着の他の高速バスでも通ったことがある、通い慣れた道だった。

大塚・双葉台団地入口・大塚東・赤塚駅北口・石川三丁目とこまめに降車停留所がアナウンスされる。

 

 

この道が国道50号線ということに、この日、初めて気づいた。

国道50号線と言えば、以前に、東北道の館林ICから足利・桐生方面へバイクで走ったことがある。
桐生から足尾、日光方面へ抜けようと、1人でツーリングを目論んでいたのだが、館林ICを降りて国道を走り始めると、滞りがちに流れる車列にトラックばかりが目立ち、景色に何の面白みも感じなかったことと、暑い夏の日差しが相まって音を上げてしまい、途中で引き返したという、僕にとって屈辱の道である。
 

栃木県東部から群馬方面の道、という印象が強かったその国道が、水戸まで続いているとは知らなかった。

国道50号線の起点は前橋市本町1丁目。

終点は水戸市三の丸1丁目。

北関東道とともに、国道50号線も、北関東の北縁を半周する幹線だったのである。

 

 

この道路の終点が水戸駅であるはずなのに、バスはいきなり左折した。

このような道を高速バスが走っていいものか、と仰け反るような住宅地の狭い路地に入り込んで、行き違いに苦労しながら国道118号線に出ると、茨城大学前・上水戸入口と降車停留所をめぐり、再び狭い路地を縫って、国道50号線に戻ったのである。

来るときも宇都宮大学を経由したが、栃木・茨城相互の地域に進学する学生が多いのだろうか。

大工町・泉町一丁目・南町二丁目と進むに従って沿道が賑やかさを増し、繁華街の銀杏坂を下れば、突き当たりが水戸駅である。

バスは駅前のバス乗り場に入らない。

この先、勝田・海浜公園が終点であるから、のんびりとロータリーに入り込んでいる暇などないのであろう。


ペデストリアン・デッキに隠れた駅舎を右手に見ながら左折し、水戸城址へ向けてのきつい上り坂の途中にある北口三の丸ホテル前に到着したのは、11時18分、定刻であった。 

 

 

水戸駅から、11時35分発のいわき行き普通電車547Mに乗って、北へ向かった。
シルバーに緑色のラインが入ったスマートな電車だが、全車両がロングシートの座席で、いわきまでの1時間半を過ごすには面白みに欠け、ちょっぴりがっかりした。

朝夕のラッシュ時の乗客数に合わせているのか、東京寄りの過密区間と車両を共有するためなのか、JR東日本の普通列車は大半がロングシートの車両となっている傾向は、鉄道ファンとして残念である。
祭日の昼間で空いているので、身体の向きを変えたり反対側の窓に席を移したりするのは容易で、進行方向を向いて座れる30分後の特急「スーパーひたち」に、特急券を購入してまで乗ろうとは思わなかった。
所要時間も20分程度しか変わらないのである。
 

定時に発車すると、普通列車とは思えないほどの韋駄天ぶりを発揮して、爽快に飛ばし始める。
常磐線は線形が良く、東北新幹線が出来るまで東北方面への長距離列車がバイパスとして使っていた時代があり、普通列車の水戸-いわき間の所要時間が俊足を誇る特急列車と20分しか変わらないのも、充分に頷ける話である。
30分ほど後から特急「スーパーひたち」が追いかけてくるけれども、547Mが追いつかれて抜かれることはない。

 

 

車窓はいつしか市街地を外れて、のんびりした緑の田園地帯に移り変わっている。
 

勝田駅、佐和駅、東海駅──
 

東海村は、日本初の原子力の火がともった地である。
日本原子力発電の東海発電所が昭和35年1月に着工し、昭和40年5月4日に初めて臨界に到達、日本初の商業用原子炉となった。
27年間に及ぶ営業運転を行い、平成10年3月31日に運転を停止、今では廃炉となり、日本初の商業用原子炉の解体作業が進められている。
日本の原発は、僕と同い年だったのか、と思う。
 

同じ敷地に立つ日本原子力発電の東海第二発電所の運転開始は昭和53年11月28日で、今も現役である。
東海村には合計2基の原子炉があるだけだが、福島第一原発に6基、福島第二原発に4基の原子炉があり、福井県ほどではないけれども、常磐線沿線は原発銀座という表情を併せ持っている。
 

東海駅は、がらんとしたホームが伸びているだけの至って普通の駅で、547Mは僅かな時間停車しただけで、呆気なく発車した。

 

 

大甕、常陸多賀、日立、小木津、十王、高萩、南中郷と進めば、遠くに見えていた山なみが近づいてきて、関東平野もいよいよどん詰まりといった雰囲気が醸し出されてくる。
乗降する客もめっきりと減り、駅に着くと、しん、と時が止まったかのような静けさがあたりを覆う。
 

磯原駅を過ぎると、不意に、右側の車窓いっぱいに青々とした海が広がり、僕は身体を横に向けて身を乗り出した。
静かに淡々と波が打ち寄せるだけの、穏やかな海原だった。
常磐線より海側を走る国道6号線・陸前浜街道を行き来する車の量もめっきりと減り、海岸沿いの景観もどこか寂しげになってくる。
 

遠くまで来たな、と思う。

 

 

大津港駅を過ぎれば、線路は海岸線に別れを告げて内陸へ進路を変えながら、県境を越える。
関東平野が尽きて、両側から山々が迫って視界を閉ざし、右に左にと身をくねらせるカーブが続く。
 

勿来を過ぎれば、軽快に歌うようだった走行音も、どこか曇りを帯びたような響きに変わった。
「なこそ」とは、来るな、という意味を表す古語の「な来そ」に通じると言い、蝦夷の南下を防ぐ関所だったという説があるが、東北本線沿線にある「白河の関」とは異なり、所在地がはっきりしていない。
古来から数多くの歌枕に詠みこまれている名所だけれども、僕は源義家が詠んだという、
 

吹く風を 勿来の関と 思へども 道も背に散る 山桜かな
 

という歌が好きである。
 

 

泉、湯本、内郷と、断続するトンネルの狭間に点在する小さな町が窓外を過ぎていく。
湯本と言えば、スパリゾートハワイアンをはじめとする温泉郷が思い出される。
原発事故後に、スパリゾートを盛り上げたダンサー達の奮闘を聞いたことがあるけれど、温泉郷全体の客足は、今も落ちたままだという。
 

市街地の高台をくぐる短いトンネルを抜ければ、いきなり視界が開けて、547Mは減速しながらいわき駅構内に進入した。
13時04分、定刻の到着だった。

 


いわき駅に来るのは十数年ぶりだった。
いつも雨だったり冬雲りだったり、天候が崩れていることが多かったので、小さなビルが並ぶだけの、雑然とした駅前だった印象が残っている。

広い構内やホームは昔ながらの古びた佇まいだったが、ホームの階段を昇り、真新しい橋上駅の改札を出ると、ハイカラなペデストリアンデッキが広がって、見事に垢抜けた雰囲気に様変わりしていた。
紅葉をまとった並木が枝を伸ばす駅前通りも整然としている。
 

10年前に高速バスで訪れた時は、小さな営業所の脇の路地を、肩身が狭そうにバスが発車したものだったが、今では駅前の一角に広いバス乗り場が設けられ、東京や郡山・会津、福島方面への高速バスや、市内近郊路線が頻繁に出入りしている。

 

 

雲の切れ間から差し込む日光が燦々と照らすデッキの上では、父親に連れられた幼い女の子がはしゃぎ回っている。
 

片岡に露みちて
蝸牛枝に這ひ
揚雲雀なのりいで
神、空に知ろしめす
なべて世は事もなし
 

思わず詩を口ずさみたくなるような平和な光景に心が和んだが、ふと、北に伸びる線路の先に視線を転じれば、暗然とした気分に襲われた。

東北への寄り道と言っても、僕の旅は、いわき駅で終わりではない。
次に乗り換えるのは、14時28分発の常磐線下り電車673Mである。

平成23年3月11日の東日本大震災と、直後の福島第一原発事故に伴い、常磐線の広野駅-原ノ町駅と相馬駅-浜吉田駅の間は、それぞれ不通の状態が続いている。
後者は津波被害が主な原因だが、前者は、原発事故の立ち入り制限地域に引っかかっているのだ。


不通区間の北端となっている南相馬市の原ノ町駅は、この年の5月に訪れ、福島第一原発から28kmという至近距離の緊張感で、胸が塞がれる思いがした。
唯一、救いに感じられたのは、すれ違った人々の表情が意外と明るいことであった。

 

今度は不通区間の南端である広野駅を訪ねるために、出かけてきたのである。

福島第一原発が産む電気で繁栄を謳歌して来た東京に住む者として、原発事故に見舞われた地元は、必ず自分の眼で見なければならない、と僕は思い詰めていて、相馬や南相馬を訪ねた後は、一層その思いが募っていた。

 


下り列車が発着する3番線には、発車時刻が近づくと、三々五々と利用客が階段を降りてきた。

誰もが軽装の地元客らしい装いである。
半年前に、仙台から相馬へ向かう高速バスに乗車した時も、乗り合わせた乗客の姿に、この人たちは2年前の大震災を経験したのだな、と粛然としたが、いわき駅のホームでも同じ思いが込み上げて来る。

 

ホームの方面別の案内板には、もともと「原ノ町・仙台方面」などと書かれていたのだろうと思うのだけど、テープが貼られて「広野方面」と表示されている。


発車時刻表を見ても、東京・水戸方面は、赤数字の特急も含めて1時間に2~4本の列車でどの時間帯も埋められているが、下り方面は、朝夕に2本運転されることもあるものの、ほとんどの時間帯が1時間に1本程度の列車しか運行されておらず、幹線とは思えない寂れ具合である。

午前8時台と10時台は空欄である。

 

 

発車の10分ほど前に、広野からの上り列車が到着し、十数人の乗客が降りて来た。
銀色の車体に青い帯が入った、常磐線東京口でも馴染みの415系電車が3両連結されている。

1両あたり10人にも満たない客を乗せて、折り返しの673Mは、定時にいわき駅を発車した。
市街地を抜けると、しばらくは広い田園地帯の中をのんびりと走る。
高速運転で鳴らした常磐線であるから、普通列車と言えども、決して速度が遅くはないのだろうが、相馬と原ノ町の間を走る701系電車のポンポンと跳ねる暴れ馬のような走りっぷりではなく、揺れの少ない泰然とした乗り心地だった。


 

相馬と原ノ町を結ぶ線路は山あいを縫うように敷かれていたから、斜面に生える木々が櫛の歯を引くように目まぐるしい車窓だったが、こちらは広々とした平地だから、若干スピード感に乏しく、電車は悠然と走る。

左手の奥には、阿武隈の山並みが連なっている。

 


刈り取られて土が剥き出しになった田圃がどこまでも続く、素寒貧とした光景の中を、電車は黙々と走り続ける。

当時の首相が広野町の米を試食したというニュースを目にしたことがあるから、稲作は続けているのだろうと思うけれど、原発事故で福島県の農業が大打撃を受けたことは想像に難くない。

 

 

「福島から出荷される農作物は、今では日本一安全と言えるかもしれませんよ。米は全品放射線を検査しているし、その他の作物も全て抜き取り検査をやっていますから」

と断言する専門家もいるが、それでも、消費者にためらいが生じるのは、やむを得ないことではないかと思う。
それが原発事故なのだ、と僕は唇を噛みしめるしかないのだけれども、こうして実際に農耕地を目にすると、どうしても複雑な気持ちになる。

 

左手の山の中を、常磐自動車道の白亜の橋梁が真っ直ぐに伸びている。
常磐道も、例外なく通行止めが続いている。
東京と福島県浜通りの街を結ぶ高速バスも、見通しが立たない運休のままなのである。

 

 

列車は、草野、四ツ倉と小さな駅に丹念に停車していき、どこでも数人がポツポツと降りていく。
乗ってくる客はいない。

どの駅にも駅員が常駐し、隅々まで手入れが行き届いている。
駅員が笑顔で話しかけながらノートのようなものを差し出し、車掌が何やら書き込む、という作業が、どの駅でも繰り返された。
運行時刻や乗客数でもチェックしているのだろうか。



腕時計に何度も目をやりながら、駅員が直立不動になり、ビシッと敬礼して、ホイッスルが吹き鳴らされれば、ガタン、と列車は動き出す。
聞こえるはずのない、運転手さんの「出発進行!」の声までが耳に響いてくるようである。


いつ終わるとも知れない災害により、運転本数も乗客数も少なくなってしまった鉄路だけれど、きちんと守り抜いてみせる、という鉄道員の心意気を感じさせる光景に、何となく目頭が熱くなった。

 

 

小高い丘の合間をすり抜け、太平洋に注ぎ込む幾すじもの川を轟々と渡っていくうちに、僕は、再び海を見た。


いわき以南と何ら変わりのない、水平線の彼方まで果てしなく続く、波1つない海原。
大規模な護岸工事が進められている場所も多く、浜辺には白いブロックがぎっしりと並べられ、クレーンが何機もそそり立っている。

 

 

普段ならば海が見えると胸がときめくのだけれど、福島第一原発に近い海と考えれば、どうしても気分は沈みがちになる。

公式発表では、放射能汚染は広がっておらず、首相は汚染はコントロールされていると太鼓判を押し、いわき市の海水浴場が今年の夏に営業を開始したというニュースも耳にしたのだけれど。

 


今は山なか
今は浜
今は鉄橋渡るぞと
思う間もなくトンネルの
闇を通って広野原

唱歌「汽車」の歌詞そのままの光景が、車窓を過ぎていく。
それもそのはず、明治45年の「尋常小学唱歌」で初出されたこの歌は、作詞した大和田健樹氏が、常磐線開通の折りの久ノ浜と広野の間の景観を謳ったものと伝えられている。
「広野原」は広い野原かと思い込んでいたけれど、広野の原っぱ、という意味だったのか、と思う。

 


久ノ浜駅、末続駅、そして定刻14時28分に到着した終点の広野駅は、彼方に松林が並ぶ海岸を背景にした、まさに「広野原」の真っ只中だった。

5駅24分間のミニ・トリップはあっけなく終わった。


広野駅にも駅員がいて、Suicaで乗り越してきた若い女性客を相手に、手慣れた様子で精算を行っている。
いわき以北は、SuicaやPasmoといったIC乗車券の利用可能範囲外だった。

列車の滞留時間は僅かに8分、14時36分にはいわきに向けて折り返してしまう。
次の電車は16時51分までない。

 


僕は駅を小走りに飛び出して、瀟洒な駅舎や、海と反対側にひっそりとたたずむ町並みをしっかりと目に焼き付けた。
原発事故がなければ、この駅に降り立つことなどなかっただろう。
まさに一期一会である。
一緒に乗ってきた乗客達の姿は既になく、客待ちをしているタクシーの運転手は、車内で微動だにしない。

福島第一原発から直線距離にして23.7kmという緊張感を微塵も感じさせない、静かな昼下がりの広野駅だった。



駅の敷地内には「汽車」の歌碑がある。
広野町は、「とんぼのめがね」を作詞した額賀誠志氏が、この町で医師をしていたというゆかりから、童謡の里としても知られている。

とんぼのめがねは 水色めがね
青いお空を飛んだから 飛んだから

とんぼのめがねは ぴかぴかめがね
おてんとさまを見てたから 見てたから

とんぼのめがねは 赤いろめがね
夕焼雲を飛んだから 飛んだから


駅員から上りの切符を購入して、電車が待つホームに戻り、頭に浮かんだ懐かしいメロディを口ずさみながら、僕は、駅から北へまっすぐに伸びる鉄路に目をやった。
赤く灯された信号が彼方で滲むように輝き、その向こうの路盤は緑色に染まっている。
雑草が生い繁っているのだろうか。
この先にある失われた国土が戻ってくる日、この地域に住む人々の生活が元通りになる日は、いつになったらやって来るのだろう。

やるせない思いは、半年前に訪ねた、同じ常磐線の54.5km先に位置する原ノ町駅と、何ら変わりはなかった。
収束の見通しが立たない災厄が、今でも厳然と続いているという実感が、ひしひしと胸に迫ってくる。

 


でも──

帰りのいわき行き普通列車と、乗り継いだ上野行きの特急「スーパーひたち」に揺られながら、思ったことがある。

「とんぼのめがね」は、昭和23年、額田氏が広野の町内を往診している最中に、子供たちがとんぼと戯れている情景を歌ったもので、戦後の混乱した中でも子供達には明るく育って貰いたいという願いをこめたと聞く。

『戦後日本の子どもたちは、楽しい夢をのせた歌を歌えなくなった。
子どもが、卑俗な流行歌を歌うのは、あたかも、煙草の吸いがらを拾ってのむのと同じような悲惨さを感じさせる。
私が久しぶりに、童謡を作ろうと発心したのも、そうした実情が余りにも濁りきった流れの中に置き忘れられている現状である。
しかし、私は子どもたちを信じ、日本民族の飛躍と将来とを堅く信ずる。
この子どもたちが、やがて大人になる頃には(中略)全人類が一丸となって愛情と信頼と平和の中に、画期的な文明を現出する時代が来るであろう。
その時に当って、若い日本民族が世界に大きな役割を果たすことを信じ、いささかなりとも今日、子どもたちの胸に、愛情の灯をつけておきたいのである』

という当時の額田氏の言葉は、僕らの国の現在にも、そっくり当てはまるのではないだろうか。

 

 

原ノ町駅と広野駅。

2つの望まざる終着駅を訪れた旅で目の当たりにしたのは、この地を見舞った災害の大きさと、事態の深刻さだった。
取り返しがつかないことになってしまったと思う。
何とかしなければ、という焦燥感がつのる。

同時に、以前と変わらず四季折々の美しい表情を見せる山河と、原発事故で揺れる町に住みながらも、逞しく生活を立て直している人々の姿から、未来を信じる強さを教えられた気もするのだ。
それは、根拠のない楽観主義なのかも知れない。
原発事故がこれからどうなっていくのか、今の僕には想像もつかない。

しかし、旅を終えた今、パンドラの箱から最後に「希望」が飛び出したように、僕らの国が、この厳しい災厄を乗り越えて復興を遂げる日が必ず来ることを、信じていこうと思っている。

 

 


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