第40章 平成25年 2つの故郷・信州と北陸をめぐる旅と東北最後の寝台特急「あけぼの」との邂逅 | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

【主な乗り物:夜行高速バス秋葉原・さいたま・群馬-金沢線、特急「はくたか」、快速「信州リレー妙高」、長野新幹線「あさま」、寝台特急「あけぼの」】



蛍の光は 遠い日の送り火か
小さく見える景色は 陽炎か
出会いも別れも夕暮れに預けたら
自分の影を探しに 西へ行く
ああ 日本のどこかに私を待ってる人がいる
いい日旅立ち 憧憬は風の中
今も聞こえるあの日の歌を道連れに


地下鉄の出口を出ると、近くのカラオケ屋から不意に聞こえてきた歌に、僕は思わず足を止めた。
切ない曲調と歌詞が胸を打つ。
「いい日旅立ち 西へ」とは、この夜の道連れに相応しい歌だった。 

僕も、様々な思いを胸に抱いて、これから西へ旅立つ。
病気療養中の母を見舞うための金沢への旅が始まろうとしていた。


平成25年11月、3連休初日の土曜日の宵の口に、僕は、若者で賑わう秋葉原へ向かった。
秋葉原を発着する夜行高速バスに乗るのは初めてだったから、乗り場を探すのに手間取り、余裕で着いたはずが、スマホで日本中央バスのHPを確認しながら、入り組んだ敷地を右往左往する羽目になった。

午後8時20分、汗だくになった僕の目の前に、白地に黄金色のラインが入ったバスが、ロータリーをぐるりと回って姿を現した。
どこかで見たことがあるような気がするけれど、一風変わった外見の車両だな、と思いながら、乗り込んでみて目を見張った。


シート配列が左側1列・右側2列の横3列であるのは嬉しいことで、3列とも独立しているタイプと比して通路が1本少ない分、座席がゆったり広いことが多い。
座席が布製ではなくレザー張りで、大きな楕円形のヘッドレストが目立つ。
背もたれが最初から後ろへ倒れ気味の角度になっているのも、どことなく異質だった。
シートベルトは太く、装着部分もごつい。

日本中央バスの乗車券には座席番号が記載されず、乗車の際に運転手さんから座席番号を告げられるので、どんな席が当たるのか、少しばかりスリルがある。
僕が指定されたのは前から7列目の左側独立席で、その点は申し分なかった。

トイレは右側の最後部に設置されている。
他の車種では通路側に開くことが多い出入口が、前側にあるというのも珍しい構造で、すぐ前の座席の背もたれを倒したら、用足しに出入り出来なくなるのではないか、と心配になった。
これまで、外国産のバスに乗った経験は何度かあり、その殆んどがベンツやネオプランなどのドイツ製だったが、この日の金沢行き夜行高速バスには、韓国製のヒュンダイ・ユニバースが投入されていたのである。
思いがけず、初めての韓国車体験となった。


走り出してしまえば、どこの国のバスだろうがそれほど乗り心地が異なる訳もなく、物珍しさもすぐに慣れてしまう。
眠るには早過ぎる時間で、閉め切られたカーテンの隅をめくり、身体を起こして外を眺めたいと思っていた僕にとって、背もたれの元々の傾きが深いことが、若干不便に感じられたくらいだった。
もう少し背もたれが立つと、外が見えやすいのに、と思う。

バスは靖国通りを西へ進む。
煌々とまばゆいビルや駅の明かりが、外堀に映し出されてキラキラ輝いている。
僕と一緒に秋葉原から乗車した若い男性は、早々と身体を丸めて寝息を立てている。
それが夜行高速バスの正しい時間の過ごし方なのであって、外を眺めたいなどと考える方がおかしいのだろう。


煌びやかなネオンに照らされて人や車がひしめいている歌舞伎町や、ひっきりなしに電車が行き交う新宿大ガードをくぐり抜け、高層ビル群の一角にあるヒルトンホテル東京で乗車扱いをした。
日本中央バスには、新宿のターミナルとしてヒルトンを使う路線が少なからず見受けられるが、連絡バスが走っているとは言え、あまりにも駅から遠すぎるのではないかと思う。

混雑するホテルの玄関から離れて停車したバスから、運転手が降りていき、乗客がいないか探している様子だったが、22時40分に発車するまで乗って来た客は1人もいなかった。


山手通りを北上し、高松ランプから首都高速中央環状線の高架に駆け上がって、板橋JCTで首都高速5号線に合流、高島平を経て荒川を渡れば、東京としばしのお別れである。

うつらうつらと過ごすうちに、大きく左へカーブして新都心西ランプを降りると、間もなくさいたま新都心駅だった。
東口にある真っ暗なバスターミナルは閑散としていたが、乗ってくる利用者は多く、21時30分の発車時刻には3分の2程度の席が埋まっていた。
網棚に書いてある座席番号が薄暗い照明で見にくく、目を凝らしながら乗り込んでくる人々は、自分の席を見つけると、さっさと腰を下ろして背もたれを傾け、目を瞑ってしまう。
如何にも旅慣れた風の客が多い。

バスは東京環状国道16号線に乗り、再度荒川を東から西へ渡ると、23時00分発の川越駅で乗客を拾う。
乗り場は「西口自由広場前」となっているが、駅舎が何処にあるのかさっぱり分からず、自転車置き場だけが目立つ空き地だった。
秋葉原を発って3時間近くが経過し、川越ICから関越道に入ると、ようやく高速バスらしい颯爽とした走りっぷりになる。



ところが、大して距離を稼がないうちに、上里SAで休憩時間となった。
バスを降りれば、頬に当たる空気がひんやりと冷たい。

池袋や新宿から北信越・北陸方面へ向かう高速バスの多くが休憩を取る大きなサービスエリアだが、他に高速バスは見当たらなかった。
新潟、富山、金沢方面への夜行高速バスが上里SAまで来るのは、もう少し後の時間帯である。
僕が乗っているバスは色々と寄り道をするために、他の路線より早く出発している。



上里SAを出て間もなく群馬県に入り、バスは上信越自動車道へ舵を切ったかと思えば、すぐ先の藤岡ICで一般道に降りてしまう。

23時05分、藤岡IC停留所。
23時25分、高崎駅東口乗り場。
23時50分、新前橋駅乗り場。
23時53分、nパーキング新前橋バス停。
23時59分、前橋駅南口乗り場。

と、群馬県中央部に小まめに停車するためである。

藤岡ICはインター流入路に属したバスストップ、高崎駅はロータリーに面した家電量販店の前で、東京から到着したばかりの日本中央バスとすれ違った。
新前橋駅と前橋駅の停留所も、駅前広場に置かれた専用乗り場である。
案外に乗客が多く、群馬県内だけで10人ほどが乗ってきたのではないだろうか。
改めて、このバスは埼玉と群馬の県民が北陸へ向かう路線なのだと思った。


もともと、日本中央バスは前橋市に本社を置く群馬県の会社である。
なかなかユニークな路線展開をする会社で、平成13年に群馬県内各地から名古屋・関西方面を結ぶ夜行高速バス「シルクライナー」の運行を開始した際に、北陸自動車道を経て富山駅と金沢駅に停車し、更に京都・大阪に向かう所要14時間ちかい系統を設けて、僕の度肝を抜いたものだった。
バスファンにとって大変に食指をそそられる路線であり、僕も平成18年の真夏に乗車した。

平成25年9月に「シルクライナー」北陸系統は運行を終了し、10月1日から、もともと別に運行されていた東京・埼玉-富山・金沢線が、群馬県内の停留所を経由する形に改められたのである。
この夜、東京から乗車したのは僕も含めて2人だったが、残りの乗客は、埼玉・群馬地域からの利用で、この路線が北関東と北陸を結ぶニーズに支えられていることがよくわかる。

東京から埼玉・群馬の主要都市に停車して北陸に向かう運行形態は、前年の春に姿を消した寝台特急「北陸」や夜行急行「能登」の系譜を引き継いでいるかのように思える。



韓国の人々は室温に鷹揚なのか、暖房の効き過ぎで寝苦しかったり蒸し暑かったりして、何度か目を覚ましたけれども、ふと気づくと、バスが停まっている。
乗降口を開けているらしく、外の気配がかすかに洩れてくる。
乗務員交代のために数ヶ所で休憩するものの、特にアナウンスはしない、と消灯前に運転手さんが案内していたのを思い出し、そっと座席を立った。

か細い青色灯だけが鈍く光る暗がりの車内で、殆どの乗客がぐっすり眠っている。
時刻は午前5時を過ぎている。
湿った冷たい風が鼻をくすぐる、夜明け前の有磯海SAだった。
もう富山まできたのか、と感動して、僕は真っ暗な夜空を見上げた。


眩い明かりが寝不足気味の目に刺さるようだったが、懐かしかったのは、駐車スペースで翼を休めている同じ金沢行きの夜行バスだった。

近くに駐まっていたのは、前の月に金沢からの帰路で利用した渋谷・八王子発金沢行きの西東京バスで、消灯前の休憩で有磯海SAで休憩したのが、まるで昨日のことのように思い浮かぶ。
少し離れた位置に停泊している「Nakanihon Highway Bus」と書かれた黄色い塗装のバスは、金沢に本社を置く中日本エクスプレスの高速乗合バスであった。

ともに前後しながら、東京からの数百キロを走り抜けて来たのだな、と思う。


もうひと眠りした後、数人が下車していった午前6時着の富山駅前は、まだ深い夜の帳に包まれたままだった。

残り1時間をとろとろと過ごし、金沢到着のアナウンスで本格的に目を覚ませば、開け放たれたカーテンの外は、すっかり明るくなっていた。
曇天の金沢駅東口ロータリーに到着したのは、午前7時前であった。
1ヶ月前に訪れた時よりも、空気はひんやりと張りつめて、秋は確実に北陸の古都にやってきたようだった。


母を見舞った帰りに、僕は長野に立ち寄る用事を抱えていた。
前月に長野と富山、富山と金沢を結ぶ高速バスを乗り継いだが、その方法では長野への到着が遅くなるので、久々に鉄道を利用することにした。


金沢と長野、僕の2つの故郷を結んで列車で旅するのは何年ぶりだろうか?
子供の頃は、家族で何度も行き来したことがある。
当時は、上野と金沢を長野経由で結ぶ特急列車「白山」があった。

東京に住むようになってからは、長野をすっ飛ばして、航空機や高速バスで行き来することが多くなった。
学生時代に、「白山」や寝台特急「北陸」、夜行急行「能登」を、東京と金沢の間で乗り通したこともある。
僕は、特急「白山」から眺める北陸本線の車窓が大好きだったから、今でも、印象深い幾つかの光景が、ありありと瞼に思い浮かぶ。

平成9年の長野新幹線開業と引き換えに「白山」が消えてから、直通する列車はなくなってしまったので、直江津で乗り換える必要があった。



第1走者は、12時07分発の特急「はくたか」13号越後湯沢行きである。

金沢駅の高架ホームは積雪に備えてすっぽり線路ごと大屋根に覆われ、重厚すぎて昼間でも薄暗く感じてしまうのだが、ひっきりなしに出入りする電車は華やかだった。
名古屋と富山・和倉温泉を結ぶ特急「しらさぎ」、大阪と富山を結ぶ特急「サンダーバード」といった上り下りの列車が、短い間隔で次々とホームに滑り込んでくる時間帯で、そのたびに乗降客がホームで入り乱れている。
北陸本線が最後の在来線特急街道と呼ばれているのを、納得させられる光景だった。
富山、福井方面や能登へ向かう普通列車も、特急の合間を縫って出入りする。



程なく、681系特急電車の「はくたか」が、のっぺりとした顔を現した。
久方ぶりの北陸本線の旅に、僕は心を躍らせながら乗り込んだ。

「はくたか」の愛称は、奇しくも僕と同い年である。
その起源は、大阪-金沢-直江津-長野-上野と大阪-金沢-直江津-青森の2区間を走るディーゼル特急「白鳥」が、大阪-直江津間で併結して運転されていた時代に遡る。
当時は需要に比して車両が不足していたことから、全国でこのように大胆な分割・併合運転が行われていたと聞く。
昭和40年10月、金沢-直江津-長野-上野系統が独立した時に、「はくたか」と命名された。
列車名の由来は、立山の開山にまつわる白鷹伝説である。
昭和44年に「はくたか」は電車特急となったが、碓氷峠を越えられない車両であったため、金沢から長岡を経由して上野に向かう上越線回りに変更された。



一方、金沢-長野-上野を結ぶ信越本線経由の列車は、昭和29年から運転されていた急行「白山」が、昭和47年に特急に格上げされている。
僕が3歳の時に、金沢から長野への引っ越しで利用したのが、急行時代の「白山」だったと両親から聞いた。

4人向かい合わせのボックス席で撮影した家族の白黒写真が、今でも実家に残っている。



「はくたか」は、上越新幹線が開業した昭和57年にいったん廃止されたものの、第3セクター北越急行線が開業した平成9年3月に、越後湯沢と金沢を結ぶ新幹線接続特急として復活した。
平成27年に開業予定の北陸新幹線の愛称として採用されることも、決定していた。

栄えある伝統を誇る「はくたか」ではあるけれど、乗ったのは1度だけだった。
子供の頃に家族で金沢へ出かけた時、「白山」の座席が取れなかったのか、時間が合わなかったのか、長野から急行「妙高」で直江津に出て、下り「はくたか」に乗り換えたのである。
当時の僕は、どっぷりと鉄道ファンになっていて、遠回りをする「はくたか」の方が、故郷を通る「白山」よりも所要時間が短いことを、子供心に悔しく思っていたものだった。
現金なもので、「白山」以外の特急に乗れることに心が踊った記憶もある。

乗ってしまえば、同じ路線を走る特急の乗り心地が異なるわけもなく、「はくたか」の車内のことは殆んど印象に残っていない。



越後湯沢行き「はくたか」13号の座席に落ち着いてから、今回の旅は逆方向だけれども、幼少時の乗り継ぎの再現になるのだと気づいて、何となく胸が熱くなった。
あれから40年近い歳月が流れている。
僕の人生も、僕らの国のあり方も、大きく変わった。

確かなのは、定刻に金沢駅を出発した「はくたか」13号の走りっぷりが堅実であることと、40年前の485系特急車両に比べれば、681系列車の座席の座り心地も車内設備も、遥かに進化しているということである。
前月に高速バスで走った昼下がりの北陸路を逆に走るだけなのだが、鉄道と高速道路では乗り心地も沿線風景も、随分と違いが際立つ味わいだった。

その筆頭が、金沢を発車した直後、能登半島の付け根を横切るあたりで越えていく倶利伽羅峠であろう。
南側を迂回している北陸道は、北陸本線の線路に比べて敷地を大きく切り開いているためなのか、大して険しい地形に感じられないのだが、鉄道は線路際まで山肌が迫り、カーブもきつく、煉瓦積みの古びたトンネルも含めて峠越えの雰囲気が満載である。



紀行作家の宮脇俊三は、処女作「時刻表2万キロ」の第1章で、富山発米原行きの特急「加越」を利用して倶利伽羅峠に差し掛かる。

『トンネルを出て2キロほどの地点に倶利伽羅駅がある。
北陸本線屈指の小駅で、急行券なしで乗れる列車にさえ通過される気の毒な駅である。
が、駅名の魅力においては北陸本線随一だと私は思っている。
だから、いつもながら駅名標をしかと見ておきたい。
右側の窓に頬を近づけて待機していると、下り線との間隔が少し広くなったなと思うまもなく、特急電車は一気に通過する。
飛び去る駅名に合わせてすばやく首を振るようにすると、「くりから 倶利伽羅」という文字がはっきり見えた。
1つ、2つ、もう1つ見たいと思ったら、もう駅はなかった』

鉄道ファンには有名な一節であるが、北陸本線を旅する者にとって、源平の古戦場としての歴史や、独特の漢字を当てた地名であることなど、強く印象に残る区間であるのは間違いない。



峠を抜ければ、広大な砺波平野に散在する集落を次々と通過していくだけの単調な眺めが、眠気を誘う。
この日の立山連峰は分厚い雲に覆われて、僅かに山裾が覗くだけだった。

周囲をこんもりと屋敷林に覆われた、この地方独特の散居村が、田園の中に点在している。
山ぎわを走る高速道路と鉄道の車窓が大きく異なるのは、鉄道が街の中を貫くことだろう。
窓外の線路際を、建物が櫛の歯を引くように過ぎ去っていく目まぐるしい感触は、スピード感を殊更に煽る。
間近に街の佇まいを見ることができる楽しさは、高速バスなど及びもつかない特急列車の魅力と言えるだろう。



いつしか、緑の山並みが右側からぐいぐいと近づき、北陸本線は海辺へ追いやられていく。
幾つかの短いトンネルをくぐれば、富山と新潟県境の名勝、親不知である。

「白山」で往来した子供の頃から、ここの車窓が最も強烈な印象を残しており、金沢と長野の間の車窓のハイライトだと思っている。
個々のトンネルの長さが増していき、逆に間隔が短くなる。
トンネルの合間に見える海面が、少しずつ眼下に遠ざかり、断崖の上を走っていることがありありと想像できる。
無数の白い波頭の上を海鳥が舞う、晩秋の日本海の眺望に、心まで冷え切るような気がした。



親不知では、無粋なことに、北陸自動車道の巨大な高架橋が視界を遮って、海上にそびえ立っている。
高速バスでこの区間を通ったことが何度もあるのだが、北陸道の開通後に鉄道で通るのは初めてだった。

歌にも詠まれた難所の興趣は殺がれてしまうけれども、途轍もない道路を造ったものだ、という驚嘆の方が遥かに大きかった。
無骨な工場ばかりが目立つ姫川の河口に開けている糸魚川を過ぎれば、再び長いトンネルが続く。

糸魚川と直江津の間は、フォッサマグナと糸魚川静岡構造線が交わる複雑な地形であり、親不知と同様に山塊が海ぎわに張り出しているため、幾度も土砂災害に悩まされたという。
そのため、この区間を一気にトンネルで貫く新線が昭和44年に完成した。



浦本トンネル・木浦トンネル、頸城トンネル、名立トンネルと4つのトンネルをくぐり抜け、その合間に、能生、谷浜といった、多くの長野県民が訪れて「信州の海」と呼ばれる海水浴場は、いずれも駅から近い。

初めてここを訪れたのは、小学生の時に家族で海水浴に来た能生海岸で、高校の臨海学校も能生だった。

僕が通っていた信州大学附属長野小学校と中学校が「海の鍛練教室」と古めかしく命名した臨海学校は、谷浜海水浴場だった。

中学では2kmの遠泳があり、海水浴場を周回するだけであったが、一緒に泳ぐ先生が、


「エーンヤコーラ」


と繰り返し拍子を取り、みんなで和するのが面白かった。

あれは、遠泳で決まっている掛け声だったのだろうか。


懐かしい海と砂浜を眺めながら頚城平野に飛び出すと、北陸本線の終点である直江津は間もなくだった。
ホームは団体客で賑わっていたが、「はくたか」が越後湯沢に向けて発車していった後は、旅の余韻が混じった静けさだけが、僕を包みこんだ。



直江津駅に降りるのは何年ぶりだろうか。


40年前に急行「妙高」と特急「はくたか」を乗り継いだ時は、初めてホームに降りた直江津駅の、如何にも交通の要所といった雰囲気の構内風景が、今でも記憶に鮮明である。

その時は広い構内に圧倒されたけれども、改めて見回してみれば、古びたホームや、何本も敷き詰められた線路に大きな変わりはない筈なのに、直江津駅ってこんなものだったっけ、と拍子抜けした。
子供の頃は、何でも大きく見えたのだろう。

外に出てみれば、駅舎も小ぢんまりと瀟洒な建物に建て替えられているが、駅前の閑散とした街並みには昔ながらの面影が残されているように思えた。



僕が次に乗る第2走者は、直江津発長野行き「妙高」である。

この列車を、何と分類すればいいのだろうか。
時刻表で見る限りは、全ての駅に停まる各駅停車であるが、使用車両は往年の特急「あさま」で使われていた189系であり、塗装もそのまま、指定席もある優等列車である。

「妙高」という愛称も、昭和33年に上野-長野-直江津を結ぶ夜行準急列車以来の伝統がある。
昭和37年に急行に昇格し、昭和40年代には昼夜6往復が信越本線を行き交っていた。

「妙高」は特急「あさま」の本数が増えるに従って徐々に本数を減らし、昭和57年に夜行1往復だけになった。



夜行急行「妙高」は、2度ほど世話になった。
上野駅を23時58分という、まさに日付が変わる寸前に発車して、長野駅に着くのは早朝の4時台だった。
寝台車を連結していた客車列車の時代に、狭い3段式B寝台で短くも贅沢な一夜を満喫したことも、また189系特急用電車を使った座席夜行の時代に、なかなか寝つけない一夜を過ごしたこともある。

貧乏学生であったから、特急より安いという理由だけで「妙高」を選んでいた当時は、夜が明け切らない長野駅に降り立つと、何となく惨めな気分だったことも、今となれば懐かしい。



平成9年の長野新幹線開業と同時に、夜行急行「妙高」は廃止されたが、同時に長野-直江津間の快速「信越リレー妙高」として、不要となった特急「あさま」用の189系車両を使い、8往復が新幹線接続列車として走り始めた。

ところが利用者数が低迷し、現在は1日3往復のみが「妙高」の名を冠して運転され、朝1番の上りは停車駅を絞った快速運転をしているが、残りは各駅停車という体たらくなのである。

列車の方向幕には「普通 妙高号」と書かれている。

普通列車であっても指定席を設けているため、発券時に列車が指定しやすいように愛称をつけて、他の普通列車と差別化を図っているものと思われる。



直江津での乗り換え時間は1時間近くあった。
14時50分発の「妙高」は、金沢方面よりも新潟方面からの接続を重視しているようで、14時46分に向かいのホームに到着する新潟発金沢行き特急「北越」を受けて出発する。

首都圏から直江津と金沢の間の駅に向かう客は、長野新幹線と「妙高」など使わず、上越新幹線から越後湯沢で「はくたか」に乗り換えるのだから、「妙高」が「はくたか」に接続する必要はあまりない。


客室に足を踏み入れれば、さすがに懐かしさがこみ上げてきて、胸がいっぱいになった。
在来線特急「あさま」が廃止されて以来、16年ぶりに乗る189系だった。
緑の塗装も、客室の色調や設備も、「あさま」時代のままである。
温水と冷水のコックがある洗面台や、ペダルを踏んで水を流す和式のトイレまで、昭和の国鉄時代の設備が、そのままの形で残されている。


子供の頃、和式便器にしゃがんで、目の前の手すりにつかまって懸命に列車の揺れに耐えながら用足しをしたことや、洗面台のコックが固定されないので湯や水を出しっぱなしに出来ず、どうやって手を洗うのか戸惑ったことが、懐かしく脳裏に蘇る。



各座席の背もたれには、特急時代であれば白いシーツが掛けられていたはずだが、普通列車は不要とされているのだろう、シーツを固定するマジックテープだけが点々と残り、この車両の凋落を物語っている。

それでも、直江津駅のホームで189系を眺めれば、特急「あさま」として上野に向けて発車してもおかしくない堂々たる風格がある。



直江津を定刻に発車すれば、床下からギシギシと台車の軋み音が聞こえて、189系も僕と同様に歳をとったな、と思う。
春日山、高田、南高田、脇野田、北新井、新井……と、頸城野の町に置かれた駅が、のんびり窓外を過ぎていく。

スイッチバックがある二本木駅では、引き込み線に分岐していったん停止し、バックで構内に進入する。

冠着山の山腹にある篠ノ井線の姨捨駅のスイッチバックを知る者としては、頸城平野の真ん中にどうしてスイッチバックを設けたのか、と首を傾げてしまうのだが、この前後の信越本線は25‰の勾配があり、ホームを水平に設置するために必要な構造だった。

それを知った時には、このあたりから、早くも信州の高みに連なる地形になっているのだな、と理解した。


普通列車と一緒にホームにおさまっている189系の姿を目にすれば、かつて特急列車として君臨し、二本木など見向きもせずに通過していた時代を思い起こすと、栄枯盛衰が心に滲みる。



それでも、189系「妙高」が残っていることを、良しとせねばならないのだろうと思う。
北陸新幹線が開通すれば、直江津と長野の間の鉄路は第3セクターとなることが決まっていた。
「はくたか」と違い、「妙高」の名は、それまでの命運かもしれない。

木々の合間から妙高山と黒姫山の雄大な山容が見え隠れするようになると、線路は明らかな登り勾配になり、少しずつ高度を詰めていく。
視界が広々として、高原の趣が増していく一方で、刈り取りが終わった田圃と線路際に生い繁る白いすすきが、深まりゆく秋を感じさせる。


昭和53年の白田切川の決壊をきっかけに建設された新線区間を走るため、地形は険しくても乗り心地はかえって滑らかになり、連続する高架橋とトンネルにより、「妙高」は呆気なく信越国境を越えてしまう。


黒姫駅を過ぎれば、再び速度が落ち、北信濃の奥深い山あいを縫って、右に左にきついカーブが連続する。
線路際にぎっしりと繁る木々と、急傾斜の山肌に視界を遮られて、暗い車窓ばかりである。
このあたりは線形が悪く、特急「白山」や急行「妙高」でもなかなか速度が上がらず、もどかしく感じたことを思い出した。



牟礼駅を過ぎると、折り重なる山裾の向こうに、明かりが散りばめられた善光寺平が広がった。
終点の長野まで、残すところ30分である。

いつしか、黄昏が駆け足で車窓を覆い尽くそうとしていた。
下り坂に差しかかった「妙高」の足取りは、次第に軽やかになっている。

信越国境から連なる山岳地帯を抜けて、枝を密に伸ばすリンゴ畑の中を走る頃には、189系が特急として走っていた時代を彷彿とさせる見事な走りっぷりになっていた。
車輪がレールの継ぎ目を噛む走行音も、踊っているかのように心地良く耳を打つ。
古びた台車の軋みは、相変わらずだった。

「はくたか」から「妙高」へ、2つの故郷を結び、40年の時を超えた懐かしのリレーは、定刻に滑り込んだ長野駅で終わりを迎えた。



長野で所用を済ませた僕は、翌日に、長野新幹線の上り最終「あさま」534号へと乗り込んだ。

このまま終点まで乗り通せば、日付が変わる前に東京に着けるのだが、僕は、これから東北へ寄り道をしようと企んでいるので、高崎駅で降りた。

北陸の帰路に東北へ回るのは、寄り道の範疇を大きく超えているのかもしれないが、他の表現が思い浮かばない。

それでも、僕は、どうしても行ってみたい土地が東北にあった。

いったん自宅に帰ってしまえば、再び出掛けるのは、敷居が高くなる恐れがある。


時計の針は午後10時半を過ぎようとしている。

翌日の旅程に合わせて、前橋市内で1泊する予定であったから、両毛線の電車に乗り換えようと在来線ホームへの階段を降りていると、静まり返っていた構内に、不意に拡声器のアナウンスが響き渡った。


『次の3番線は、22時48分発の寝台特急「あけぼの」青森行きです』



最初は耳を疑った。

「あけぼの」と言えば、福島・山形を通る東北・奥羽本線経由、と子供の頃から頭に刷り込まれていたので、高崎駅に停まるとは、意表をつかれた。

ついている、と胸が高鳴ったのも事実である。
奇しくも、「あけぼの」の来春3月の廃止を知ったばかりであった。

東北最後の寝台特急列車を見ることが出来るとは、思ってもみなかった展開である。



寝台特急「あけぼの」が運転を開始したのは、昭和45年のことで、当初は、東北本線と奥羽本線を経由し、上野から福島、山形、新庄、秋田、弘前を経て青森を結んでいた。

最盛期には、青森へ2往復、秋田止まり1往復の計3往復が運転されていた「あけぼの」であったが、昭和62年の青函トンネル開通で登場した寝台特急「北斗星」の車両を捻出するため、2往復に減便されている。

平成2年に、山形新幹線の改軌工事の影響で奥羽本線の福島-山形間が使えなくなり、「あけぼの」は、1往復が東北本線を小牛田まで足を伸ばしてから、陸羽東線で新庄に出て、奥羽本線を秋田へ向かう経路に変更となり、1往復は、高崎線・上越線・羽越本線を経由する寝台特急「鳥海」に分離された。

平成9年3月の秋田新幹線開業に伴い、陸羽東線経由の「あけぼの」が廃止される一方で、「鳥海」が「あけぼの」に改称されていた。


何故そこまで拘るのか首を傾げたけれども、ともかく「あけぼの」の名は残ったのである。



僕が初めて「あけぼの」を利用したのは、大学生時代の昭和62年の冬で、奥羽本線を全線走破して上野と青森を結んでいた時代である。
高校以来の友人と出掛けた北海道旅行の帰路であったが、当時、何本も走っていた東北本線の寝台特急「はくつる」や「ゆうづる」ではなく、奥羽本線経由の「あけぼの」を選んだのは、鉄道ファンとして未乗の寝台特急に乗りたい、という理由であった。
周遊券を所持していたので、奥羽本線経由で差額が発生する訳でもなく、少しでも長い時間、汽車に揺られていたかったのだろう。

ただし、北海道をひと回りした疲れでひたすら寝込んでしまったらしく、せっかく奥羽本線を乗り潰したのに、途中の停車駅や沿線風景は何にも頭に残っていない。

それでも、友人と過ごした車中のひとときは懐かしいし、憧れの寝台特急に乗っているという心の昂ぶりは、今でもはっきりと覚えている。

その後は音沙汰もなく、高校の同期生のSNSにも参加していないけれど、あいつは元気かな、と思う。


以後30年間、僕が「あけぼの」と関わりを持った記憶はない。

そもそも「あけぼの」は地味な列車で、同じ区間を走っていた夜行急行「津軽」の方が、「出世列車」「出稼ぎ列車」などと呼ばれて東北の人々に親しまれていたようで、「あけぼの」は特急であるにも関わらず、裏方のような半世紀を送ってきた印象がある。

ただ、世の中から次々と寝台特急が姿を消していく中で、粘り強く生き残っているな、と注目はしていた。



高崎駅で、秋の深まりが感じられる肌寒い空気に震えていると、ホームの先の闇に、眩い前照灯が浮かび上がった。
明かりはみるみる近づいて、モーターの重々しい唸りが静寂を破り、紺色のEF65型電気機関車がこちらにのしかかるように向かってきて、思わず後退りした僕の前を、これで止まれるのか、という勢いで通過していく。
機関車より明るい青色を纏った24系客車が、少しずつ速度を落とし、かすかにブレーキを軋ませながら停止した。


乗降扉が一斉に開いたが、上野発の下り夜行列車を高崎で降りる乗客はいないと見切っているのか、『たかさきー、たかさきー』という駅名の連呼はなかった。
乗り込む客の姿も見受けられず、ホームを右往左往しているのは、カメラを手にした鉄道ファンらしき数人の男性だけだった。



停車時間は僅か2分である。

窓から半身を乗り出した車掌が短くホイッスルを吹きならし、客車の扉が一斉に閉まった。

直立不動で挙手の礼を交わす駅員と、返礼する車掌の姿は、いつ見ても絵になると思う。

ゴトリ、と機関車に引き出された客車が動き出す。
カーテンを閉めた大きな窓が、次々と僕の前を過ぎていく。

鈍重な滑り出しだったが、「あけぼの」はすぐに軽やかな足取りに変わり、律動的に線路を鳴らしながら、矢のように僕の視界を流れ去っていく。



この日まで、特に思い入れが深い訳でもない「あけぼの」だったが、深夜の高崎駅での思いがけない邂逅に胸が高鳴ったのは、まさに時代の成せる業であろう。

機会に恵まれれば出来るだけ寝台特急を利用するように心掛けていたものの、寝台特急列車が次々と廃止されていく現状では、乗りたくても乗れなくなり、寝台特急はこれが最後、と常に思い定めるような情勢だった。

万感の思いをこめて、僕は、青森へ向かう「あけぼの」を見送った。

テールランプが、ホームの外れの暗がりの中に、ふっ、と消えた。

夢のような数分間だった。
乗って行きたかった。
「あけぼの」とは、これでお別れなのだな、と思った。



子供の頃から憧れ続けた対象が消えていく。
それが容赦ない時の流れであり、時代とは個人の感傷に構うことなく流れていくのだろう。

廃止が報じられた直後に、「あけぼの」に出会ったという偶然は、僕の胸を少なからず熱くした。


今回の旅は、北陸から信州を経て東北に向かうという遠大な旅程なのだが、その途上における「あけぼの」との邂逅は、まさに、みちのくへの「寄り道」の序章に相応しかった。




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