平成6年3月の週末、金沢行き夜行急行「能登」は、上野駅16番線を23時58分に発車した。
上野駅の古びて煤けた通路を乗り場に急いだことや、「能登」が構内を抜けないうちに日付が変わったことなど、奇妙な既視感を覚えながら、僕は、漆黒の闇に包まれた車窓を茫然と見つめていた。
母がいる長野市の実家に寄ってから、金沢市に住む弟を訪ねる用件が急に持ち上がったので、慌ただしい旅支度に、くたくたになっていた。
それだけではなく、10年前の昭和59年の夏、全く同じ時刻に上野駅を発つ夜行急行「妙高」に乗ったことを、どうしても思い出さざるを得ない。
そのことだけで、時を超えた酩酊の中に放り出された気分だった。
昭和4年に772・773列車の列車番号がが601・602列車に変更され、昭和14年に信越本線・北陸本線経由の上野-大阪間に延長されたが、昭和18年に上野-金沢間に短縮、その後、再び上野-大阪間に延長されたにも関わらず、太平洋戦争の戦局悪化により全国で急行列車が削減される情勢下で、急行601・602列車も昭和19年に廃止された。
戦後の昭和22年に、上越線経由の上野-金沢・新潟間に夜行急行601・602列車が復活し、翌年に上野-金沢間の単独編成となり、昭和24年に運転区間を上野-大阪間に延長した上で、昭和25年に「北陸」と命名された。
昭和31年に急行「北陸」は上野-福井間に短縮され、昭和34年には金沢止まりとなる。
同じ年に運転を開始した、東海道本線米原回りの東京-金沢間の夜行急行列車に、初めて「能登」の愛称が登場している。
昭和40年に信越本線経由で上野- 福井間を結ぶ夜行急行「越前」が運転を開始する一方で、昭和43年に米原経由の「能登」が廃止される。
2往復が運転されていた夜行急行「北陸」は、昭和50年に1往復が寝台特急に昇格し、残り1往復は上野-金沢間を上越線経由で結ぶ寝台・座席混成の夜行急行となり、そこに「能登」の名が復活する。
上越新幹線が開業した昭和57年のダイヤ改正では、「越前」が廃止された代わりに、「能登」が信越本線経由に変更された。
昭和62年の国鉄分割民営化でも、「能登」は大きな変化もなく運転を続けていたが、平成5年に、寝台車と普通座席車連結の14系客車を廃し、上野と金沢を信越本線経由で結ぶ昼行特急「白山」と共通の489系特急型電車の編成に置き換えられたのである。
同時に廃止された、上野-長野間の夜行急行「妙高」の運転ダイヤに移行したのも、この時点だった。
この頃の「能登」の乗車率は平均5割程度とされていたので、要は、「能登」と「妙高」を合わせて1本の列車で事足りると判断されたのだろう。
僕が「能登」に初めて乗り込んだのは、この時期である。
金沢で生まれ、長野で育った鉄道ファンとしては、「越前」と「妙高」、そして「能登」に至る信越本線の夜行急行列車の変遷を、固唾を呑んで見守ってきた。
「能登」が上野を発車する時刻が「妙高」を踏襲しているのだから、既視感は当たり前である。
JRにしてみれば、「妙高」の運転ダイヤが集客に有利であっただけという理由だろうが、僕にとっての「妙高」は、「能登」にも増して思い入れが強い列車であるから、面食らってしまう。
10年ひと昔と言うけれど、自身も世の中も少なからず変化を重ねているのだから、せっかくの「能登」の車中が、ほろ苦さを伴う回想ばかりで過ぎてしまうのではないか。
僕が乗っているのが寝台車ではなく座席車という点も、気分が沈みがちになる一因だったかもしれない。
「能登」に用いられているボンネット型の489系車両が、国鉄時代から見慣れたベージュ色に赤いラインの特急色ではなく、白地にピンクや青、紺色のラインを纏ったけばけばしい外観になっていて、幻滅したことを言っているのではない。
僅か5時間たらずに過ぎなかったが、10年前に、上野から長野まで「妙高」の寝台車を体験できたのは、僕にとって宝石のような思い出だった。
「妙高」は、「能登」より一足早い昭和61年に寝台車を廃し、昼間の特急「あさま」と共用する189系特急型電車を使用していた。
今回の旅の前年に、「能登」の寝台車まで外された時には、心底落胆した。
ベッドに横になって故郷へ帰る機会は二度となくなったのか、と一抹の寂しさが込み上げてきた。
夜行列車の衰退は、長野だけに限らず、全国的な風潮であることは理解していた。
けれども、子供の頃から、寝台列車は旅心をそそる特別な存在であり、走っているだけでその街が格上に思えるような、一種のステータスを感じていたのだ。
同じダイヤで走っているのに、この夜の「能登」が往年の「妙高」と最も異なっていたのは、凄まじい混み具合だった。
僕は指定席を確保していたので、発車の10分ほど前に「能登」に乗車したのだが、前方の自由席車両の乗降口には多数の利用客が群がり、座席は満席、立ち客も見受けられた。
大半が、ネクタイ姿にビジネスバッグを手にした通勤客のようである。
高崎線の最終普通列車が「能登」の10分ほど前に上野を発車しているので、「能登」が終列車の役割を果たさざるを得ない。
この日は金曜日であったから、ますます夜更かしの通勤族が押し寄せて、指定席車両のデッキにも乗客がひしめいている。
1杯引っ掛けて来たのだろう、すっかり聞こし召した赤ら顔で、恨めしそうに客室を覗く人もいる。
昭和60年代にお目見えし、後のバブル崩壊とともに死語となった「花金」なる言葉が、盛んに使われていた時代であった。
『この列車は23時58分発の急行「能登」号、金沢行きです。赤羽、大宮、上尾、桶川、鴻巣、熊谷、高崎の順に停まります。その他の駅には停まりませんので御注意下さい。後ろ寄り1号車から3号車までが普通車指定席、4号車がグリーン席、前寄り5号車から9号車までが自由席です。この列車には乗車券、定期券の他に急行券が必要です』
上野を発車するまで、このような案内放送が頻りに繰り返され、飛び乗ってくる通勤客は急行券など購入していないのだろうな、と思う。
これほど騒々しい夜行列車の旅立ちは、東京と大垣を結ぶ357M「大垣夜行」以来だった。
あちらは普通列車であるから、近郊区間の通勤利用はやむを得ないが、急行列車ですら、最終になるとこのような有り様になってしまうのか、と多少うんざりした。
27にも及ぶ停車駅を2度繰り返す丁寧な案内だったが、13分後に停車する赤羽までに終わるのか、と気を揉んでしまう。
それでも、何度も訪れたことのある懐かしい地名が多く、他の夜行列車とはひと味もふた味も異なる趣があって、やっぱり信越・北陸方面の列車に乗るのはいいな、と思う。
前の車両から逃れて来た乗客が、指定席の通路をひっきりなしに行き来する様子を見れば、自由席は立錘の余地もない混み具合になっているのだろうか。
空席探しを諦めて、通路に立つ乗客も少なくない。
あいていた僕の隣席にも、ネクタイを緩めた男性客がドスン、と腰を下ろして、ふうっと大きく吐息をついた。
次の大宮駅の騒ぎは赤羽駅の比ではなく、車室の通路にはぎっしりと客が立ち、
『金沢行き急行「能登」発車します。発車時刻を過ぎています。扉が閉まります。無理な御乗車は危険です。お止め下さい。扉、閉めさせていただきます』
と、駅員の金切り声が外から聞こえてくる。
お止め下さい、と言われても、後続の列車がないのだから諦める利用客などいるはずもないのだが、どのように騒ぎを収めたのか、定刻より2~3分ほど遅れて発車した「能登」から眺めたホームには、駅員以外の人影が綺麗さっぱりと消え失せていた。
あれだけの人数がこの列車内に入り切ったのか、と目を見張った。
本来は、信州や北陸方面に向かうための長距離急行列車なのだから、その後にもう1本、普通列車もしくは通勤ライナーを増発すべきではないか、と思う。
それとも、通勤客を拾わないと、遠距離客だけでは収支が成り立たない利用状況なのだろうか。
車両基地に回送する特急・急行用車両を流用する有料定員制通勤ライナーの嚆矢は、昭和59年に上野-大宮間で運転を開始した「ホームライナー大宮」と、東京-津田沼間に登場した「ホームライナー津田沼」と言われている。
2つの「ホームライナー」は瞬く間に人気列車となり、昭和61年には東海道線に「湘南ライナー」が、また阪和線に「はんわライナー」が運転を始め、国鉄末期からJR発足初期にかけて、首都圏や関西圏をはじめ、札幌、仙台、新潟、長野、静岡、名古屋、北九州、福岡、宮崎、鹿児島地区、更には大手私鉄各線にも、有料定員制の通勤ライナーが拡充したのである。
「コーヒー1杯分の料金で特急車両に乗れる」との謳い文句で持て囃された通勤ライナーには興味津々だったが、早朝の上り列車と夕刻から深夜の下り列車という運転形態であるため、僕は、大学時代に1回「湘南ライナー」を試乗しただけである。
東京駅のホームの券売機で300円の「ライナー券」を購入し、東京と伊豆を結ぶ特急「踊り子」で使われていた185系車両の1席でくつろげば、向かいのホームでぎゅうぎゅう詰め合っている普通列車より遥かに快適だった。
勤め帰りのビジネスマンばかりが占める車内の、ピリッと張り詰めた雰囲気も、大人になったような気分がして悪くなかったが、深夜の小田原駅に降り、上り列車で折り返した時には、自分はいったい何をしているのだろう、と侘しい心持ちにさせられた。
我が国が高度経済成長期を迎えた昭和40年前後は、首都圏の爆発的な人口増加により、高崎線沿線にマンモス団地が次々と建設され、中でも総戸数9000戸に及ぶ公団住宅を抱えた上尾市は、僅か5年間で住民が5万人から11万人に倍増、人口の伸び率が全国一だったと言う。
一方、当時の高崎線は、上信越・北陸方面と首都圏を結ぶ旅客列車や貨物列車が多数運転されて、線路容量が限界だった上に、国鉄の慢性的な赤字のために収容力の大きな通勤型・近郊型車両を増備できず、車両の前後に2つの扉しかなく、吊革も備わっていない急行型車両を、ラッシュ時の普通列車に投入せざるを得なかった。
通勤型車両よりも加減速の性能や乗降の効率が劣るために、ピーク時でも7分おきの運転が限度で、増発もままならず、朝夕の乗車率が300%を超えるという凄まじい混雑が慢性化していたところに、賃金の引き上げや労働環境の改善、合理化反対を唱え、スト権がなかった労働組合が、必要以上に運転規則を遵守してダイヤの遅れを招く「順法闘争」を繰り返していたのである。
昭和48年3月13日の朝は、「順法闘争」の影響により、通常37分で行ける上尾から上野まで、3時間を要していたらしい。
上野で急行列車として折り返すために、169系急行型電車12両で編成された籠原発上野行き832Mが、定刻より16分遅れの午前7時10分に上尾駅に到着した時には、「順法闘争」による運休の影響で、始発列車の後に1時間も列車が来ず、ホームは5000人もの待ち客で溢れ返っていた。
840人の定員に対して既に3000人以上が乗り込んでいた832Mは、上尾からの利用客を全く収容できず、何としても乗車しようとする乗客と、列車を発車させようとする職員との間で小競り合いが発生する。
832Mが立ち往生している間に、こちらも165系急行型電車12両編成の前橋発上野行き1830Mが、52分遅れで到着したが、こちらも944人の定員を遥かに超える4000人以上が詰め込まれて、上尾駅の利用客を乗せられるはずもなかった。
そこに、832Mより先に1830Mを出発させ、どちらの列車も2駅先の大宮で運転を打ち切る、という案内放送が流れたのである。
怒りが頂点に達した乗客たちが、832Mと1830Mの運転室の窓ガラスを叩き割って運転台の機器を破壊し、運転士が逃げ込んだ駅長室にも雪崩れ込んだ。
駅の分岐器や信号などの施設も壊され、上尾駅の手前で立ち往生していた上野発新潟行き特急「とき」2号にも石が投げつけられて、運転席の窓ガラスやヘッドマークが割られてしまう。
「上尾事件」の勃発である。
この時点で事態の収拾が図られるべきであったが、労使双方とも歩み寄りの姿勢を見せず、「順法闘争」が継続されたため、国鉄や労組に対する人々の怒りは収まらず、同年4月24日の帰宅ラッシュ時に、赤羽駅を皮切りとして、上野駅や新宿駅など38駅で、「上尾事件」と同じく一般乗客による破壊行為が再現された「首都圏国電暴動」が起きてしまう。
労使紛争と赤字体質を自力で解決できなかった国鉄は、この事件の20年後に、政府によって分割民営化されるのだが、その目的の1つが労組の解体であることがあからさまであっても、強い反対が国民から挙がらなかったのは、これらの暴動事件で、誰もが国鉄と労組を見離していたから、と言えるだろう。
「ホームライナー」という妙案を打ち出し、高崎線の通勤事情の改善に乗り出したのは、「上尾事件」の教訓をJRが誠実に受け止めている表れと好意的に解釈していたのだが、最終の通勤ライナーを夜行急行列車に肩代わりさせるようでは台無しである。
「ホームライナー鴻巣」を「能登」の後に1本走らせれば一件落着ではないか、などとJRに八つ当たりしたくなったのも、僕の隣席の男性が酒臭く、何度も大きな溜め息を繰り返した挙げ句、大宮に着く頃には大鼾をかいている、という最悪の道連れであったためかもしれない。
僕も夜行高速バスで鼾をかいて、隣席のおじさんに苦笑された経験があるので、人のことは言えないのだが。
無邪気な寝姿を横目に、何処まで行くのだろう、と気を揉んでいるうちに、車掌が検札に現れた。
通路の人混みに軽く仰け反ったようにも見えたが、さすがはプロで、立ち客も含めて小まめに急行料金を徴収し始めた。
隣席の男性も容赦なく揺り起こした車掌は、
「お休みのところ畏れ入ります。急行券は、定期券と同じ赤羽から桶川でいいですね?520円になります。0時40分の到着です。この席の指定券をお持ちのお客様がいらしたら、席をお譲り下さい」
と、極めて事務的な口調で急行券を発行し、僕が差し出した乗車券と急行券は、「あ、長野ですね」と一瞥しただけで、次の乗客に向き直った。
「これで急行料金を取るつもりか」
と、キレてしまう立ち客がいるのではないかと、首をすくめながら車掌の後ろ姿を見守っていたが、「上尾事件」ほど殺人的な混雑ではないためか、それとも昭和40年代の「政治の季節」よりも日本人が大人しくなったというべきなのか、車掌に食って掛かるような人物は1人もいなかった。
その時の上野-熊谷間では、週末ではないにも関わらず、座席数288席の普通車自由席に444名が乗り込んで乗車率155%となり、座席数192席の普通車指定席にあらかじめ指定券を購入していた客が85名、座席数56席のグリーン車に指定券購入済みの客が18名で、全車両の座席総数536席に対して乗車率102%となる547名が利用した、という検札結果が記録されている。
自由席車両に444名が収容しきれたとは思えず、溢れた乗客は指定席に着座したのだろうが、高価な追加料金を徴収されるグリーン車を敬遠したとすれば、グリーン車の空席38席を差し引いた座席総数が498席、グリーン車の利用者を除く乗客総数は529名で、乗車率は106%に跳ね上がる。
ロングシートで吊革付きの通勤車両ではないのだから、この数字は立たされた客には酷であろう。
自由席に坐れなかった156名のうち、あいていた107席の普通指定席に坐れた客を除いても、49名が立って過ごした計算になる。
僕が「能登」に乗り込んだ金曜日は、利用客が更に多かったものと推察される。
目の前に疲れた顔の立ち客がいれば、こちらは指定席料金を支払っているのだから、と開き直ったとしても、やっぱり気づまりである。
大宮の次に停車した上尾では、乗客がどっと降りて、かなりの立ち客が腰を下ろすことが出来た時には、心底ホッとした。
ホームに眼を向けると、大勢がひしめき合いながら一目散に改札を目指し、タクシーの順番を競うのか、駆け出す人も見受けられる。
「能登」の大宮と高崎の間で、最も降車客が多かったのが上尾であり、「上尾事件」の当時と変わらず、首都圏有数のベッドタウンであり続けているのだろう。
僕は、毎日長時間を乗り物に揺られて職場に通う経験はないのだが、長距離通勤とは戦争みたいなものだな、と気の毒になる。
鉄道経営のモデルとして、後に他の私鉄や分割民営化後のJRが倣うところとなり、高度経済成長期からバブル期にかけての地価高騰によるドーナツ化現象に伴って、遠距離通勤はピークとなり、鉄道事業者は通勤ライナーという商機を見出だすことになる。
自宅と職場の間で1~2時間を満員の電車やバスに揺られる我が国の大都市圏の生活スタイルを、小林一三が創造し、回り回って、「上尾事件」を起こして国鉄解体のきっかけを作り、帰省で「能登」を利用する僕の旅に多大な影響を与えているとすれば、因果なものだ、と苦笑いが浮かんでくる。
バブルが弾けて地価が下がり、人々の都心回帰の風潮によって、遠距離通勤は減少し、高崎線でも、定期券の利用が可能な新特急「あかぎ」「草津」や、普通列車に連結されるようになったグリーン車、そして平行する上越新幹線に通勤客が移行したため、「ホームライナー鴻巣」の利用客は年々少なくなったと聞く。
平成26年に登場した特急「スワローあかぎ」への置き換えを理由に、「ホームライナー鴻巣」は廃止された。
隣席の男性は桶川駅に到着しても鼾がやまず、堪りかねた僕が肘をつつくと、目を開けて訝しげにあたりを見回すなり、「うお!」と声を上げて、脱兎の如く車室を飛び出して行った。
その後に隣席に来る客はなく、僕はゆったりと身体を伸ばした。
特急用車両であるから背もたれはリクライニングするし、座席もすっぽりと尻を包み込むバケットシートに置き換えられているから、寝台車がないのは残念であるけれど、座り心地は悪くない。
宴の後のような虚脱感が、車内に漂っている。
モーター音を轟かせながら突き進む「能登」の走りは、あたかも特急列車のように勇ましく、窓外の闇にぽつり、ぽつりと浮かぶ灯が、光の尾を引きながら矢のように流れていく。
『御乗車ありがとうございます。信越線長野回り金沢行きの急行「能登」号です。次は高崎に停まります。高崎1時33分、横川1時56分、軽井沢2時21分、小諸2時40分、上田2時53分、長野3時18分、妙高高原3時55分、新井4時13分、高田4時22分、直江津4時31分、糸魚川5時02分、泊5時22分、入善5時27分、黒部5時36分、魚津5時42分、滑川5時49分、富山6時02分、小杉6時13分、高岡6時20分、石動6時31分、津幡6時42分、終点の金沢は明朝6時55分です。お休みの際、貴重品、財布等は必ず肌身につけてお休み下さい。なお、深夜でございますので、これから先、明朝、魚津到着の10分ほど前まで、放送による御案内は控えさせていただきます。途中でお降りの方、寝過ごしなどなさいませんよう、御注意を願います』
お休み放送をする車掌の声も、心なしか安堵しているように聞こえた。
ふと気づけば、僕が降りる長野まで2時間と残されていない。
そもそも「能登」は、夜行列車にしては忙しいダイヤで、上野-長野間が3時間20分とは、日中の特急「あさま」と大して変わりがない俊足である。
いや、そのように断言しては「あさま」が不服かもしれない。
平成6年当時の「あさま」は、上野-長野間を最速2時間44分で結んでいたから、「能登」と30分以上の差をつけている。
ただし、昭和50年代を振り返れば、東北本線と高崎線で普通列車を増発するために、「あさま」をはじめとする特急・急行列車が減速して普通列車との運転間隔を詰め、上野-長野間で3時間10分~20分を費やした時代もあったのである。
ちなみに、上越線回りで上野と金沢を結ぶ寝台特急「北陸」は、当時、「能登」より50分以上も早い23時03分に上野を発ち、金沢着が6時31分、かろうじて「能登」より早く到着するものの、所要時間は7時間28分と「能登」より長い。
「能登」が機関車牽引の客車であった時代には、50km近い遠回りをしながらも「北陸」の方が所要時間が短かったことを思えば、「能登」が電車になってからの特急と急行の相違は、速度や所要時間の大小ではなく、寝台の有無をはじめとする車内設備の良し悪しなのだと解釈できる。
ベッドに横になっていれば、少しくらい所要時間が長くても気にならないであろうし、そちらの方が優雅な旅である。
「能登」が「妙高」のスジをなぞったとは言え、「妙高」は上尾、桶川、鴻巣には停車しなかったので、熊谷までの「能登」は、客車時代の「妙高」よりも時間が掛かっている。
ところが、高崎には7分、横川には36分と、「妙高」時代と比べて到着時間がどんどん早まっていく。
軽井沢は「妙高」より33分早いだけなので、さすがの「能登」も、碓氷峠では余計な時間を費やしているのだが、小諸は51分、上田は1時間01分も早まって、戸倉や屋代、篠ノ井は通過し、長野着は1時間31分も早くなっている。
午前1時過ぎともなれば、猛烈に眠いけれど、ここで熟睡してしまえば乗り過ごすかもしれない。
このまま起きていた方が安全かな、と迷ったものの、徹夜では長野での所用に差し支えるし、容赦なく襲い掛かって来る睡魔にはどうしても勝てなかった。
それでも、高崎駅のホームの煌々とした照明が眩く差し込んできた時や、横川駅でEF63型補助機関車を連結する僅かな衝撃で眼を覚ましてしまうような、浅い眠りだった。
千曲川に沿って佐久平、塩田平、善光寺平と、山あいの盆地を縫うように進む「能登」の道行きは、訥々と繰り返される加減速や、カーブの曲がり具合まで、「あさま」で慣れ親しんだ懐かしい乗り心地だった。
車窓が暗闇に包まれていても、列車が何処を走っているのか、ありありと思い浮かぶ。
通過する駅の、ぼんやりと灯に浮かび上がる駅名標の地名も馴染みである。
故郷を走っているのだな、とすっかり安心して、揺り籠のように過ごした信濃路の鉄路だった。
何処か遠くで故郷の名を連呼する声が聞こえて、うつらうつらしていた僕は、びっくりして身体を起こした。
時計を見れば、定刻通りの3時18分である。
既に列車は停まっていて、降りていく客の後ろ姿がデッキに消えるところだったので、慌てて列車を飛び出した。
「うお!」と叫んだかもしれない。
2時間前の桶川氏と同じ慌てぶりではないか、と苦笑しながら、改めて暗いホームを見渡せば、数十人の降車客が改札に向かって黙々と歩いている。
上野を出る時には、あれほど既視感に悩まされたのに、このような深夜帯に利用したことがないためなのか、暗闇の底に沈んでいる構内や駅前の佇まいに、全く見覚えがないような違和感がある。
深呼吸をすれば、ひんやりと喉に滲みていく冷気だけが、春なお寒い信州に来ていることを告げていた。
「能登」を降りた24時間後に、僕は深夜の長野駅へと舞い戻ってきた。
実家での所用を片づけ、幾許かの仮眠を取ったのだが、前夜の寝不足が祟って危うく寝過ごしそうになり、改札を駆け抜けた時には、長野で3分間停車する金沢行き夜行急行「能登」は、すっかり客を降ろし終わって、ひっそりと停車していた。
前夜に僕が乗り捨てた「能登」の489系は、金沢に到着後、金沢7時44分発・上野14時03分着の特急「白山」に運用されたはずだから、昨日と同じ編成かもしれない、と思う。
座席番号は違っていたけれども、指定された号車は前夜と同じで、座席に落ち着いて天井を見上げてみれば、かすかな汚れや染みに見覚えがあるような気もする。
1本の夜行列車を途中下車して乗り直すような使い方は初体験だったけれど、またよろしく、と思う。
中には、前の座席を回転させて足を投げ出し、4つの席を独り占めしている客もいる。
5時42分着の魚津の手前まで案内放送がないことは分かっているので、何の前触れもなく列車が動き出しても驚きはしないつもりだったが、長野駅は律儀に発車ベルを鳴らし、
『3時21分発の金沢行き急行「能登」が発車します。御乗車の方はお急ぎ下さい。お見送りの方は白線の内側までお下がり下さい』
と、駅員が拡声器で放送する騒々しい発車風景に、思わず苦笑した。
人影のないホームが後方に流れ去って、窓外が暗転すると、僕は列車に間に合った安堵感に一息ついて、リクライニングを倒した。
午前3時を回っているので、明かりを灯している建物は皆無であるけれども、市役所の脇をすり抜けて、昭和通りとの立体交差を越えていく故郷の街並みが、ありありと目に浮かぶ。
ふと、長野から列車で北に向かうのは何年ぶりだろう、と思った。
父が金沢の大学に入り、大学院時代に母と結婚して僕が生まれ、3歳で長野市に引っ越すまでを過ごした縁もあって、年に1~2回は家族で金沢に出掛けたものだった。
大抵の場合は、往復とも特急「白山」の世話になったのだが、最後に家族揃って金沢に出掛けたのは中学生の頃だったから、もう30年が経っていることになる。
父が1人で金沢に向かうこともあり、その時は、信越本線経由で上野と福井を結んでいた夜行急行「越前」を往復で利用したようである。
昭和50年の時刻表によれば、
下り「越前」:上野20時51分-長野1時15分-金沢6時00分-福井7時12分
上り「越前」:福井20時32分-金沢21時41分-長野2時25分-上野7時04分
という運転ダイヤで、長野の発着時刻が深夜だったのは、昭和57年に「越前」の経路を継いだ「能登」と同じである。
電車化された下り「能登」の上野発が、「越前」より3時間も繰り下げられたのに、長野到着が約2時間、金沢到着が1時間弱しかずれていないのは、客車との走行性能の違いであろうが、父の方が多少は利用しやすい時間帯だなあ、と思う。
僕が長野から金沢へ「能登」を選んだのは、金沢での所用を午前中に済ませたかったのと、父が行き来した行程を僕も辿ってみたかった、というのが最大の理由である。
父が寝台車を使っていたと聞いて、幼心に羨ましかった覚えがある。
新幹線も高速道路もなかったあの頃、旧式で寝台が狭い10系客車に、真夜中の長野駅から乗り込む父の姿を想像すると、何となく切なくなる。
どのような思いを胸にして、父は「越前」に乗り込んだのだろうか。
その時代の長野駅も、今と同様に、賑やかな発車風景だったのだろうか。
もっと楽な旅をさせてあげたかったな、と思う。
一緒に連れて行って貰えないことは恨めしかったが、朝に目覚めれば、旅疲れの表情が窺えたものの、父に会えるのが嬉しかった。
我が家における金沢土産の定番は、金沢駅で売っている「源」の富山名産「ますのすし」、老舗「森八」の銘菓「長生殿」や「小出」の「柴舟」、「園八」の「あんころ餅」と決まっていて、それも無上の楽しみだった。
「越前」が廃止された2年後に急逝した父が、最後に金沢を訪れたのは、いつのことだったのだろう。
長野から先の「能登」は、新潟県境の先の妙高高原まで、長野県内には1駅も停まらない。
市街地を抜ければ一面のリンゴ畑の中を走り抜け、豊野駅の先で左に弧を描きながら、戸隠、黒姫、妙高と信越国境に連なる山々の懐深く分け行って行く。
列車の左側には鬱蒼と木々が繁る山の斜面が線路際まで迫り、右側は、千曲川の支流の八蛇川が刻む谷を挟んで、対岸の山腹を走る国道18号線を行き交うヘッドライトが、時折、こちらを照らし出す。
右に左にきつい曲線が続き、俊足を誇る「能登」も、ここではなかなか速度を上げられない。
他の夜行列車に比べれば減光の度合いは大きいように感じられたが、それでも、客室を照らし出す天井の明かりが情け容赦なく目に差し込んでくる。
少しは眠ったらしく、ふと気づけば、「能登」は4時31分着の直江津駅に停車していた。
ここで5分停車し、進行方向が変わるのは、「白山」で何度も経験済みである。
勝手知った乗客は、起き上がって座席を回転させているが、ひたすら眠りを貪って身じろぎ1つしない人もいる。
座席の向きを変えたいけれども、後ろの席の客が目を覚まさず、どうしたものか、と思案顔の乗客も見受けられる。
僕は、後席があいていたのをいいことに、さっさと座席を回し、しばらく誰も乗って来ないものと見切りをつけて、4席を向かい合わせにしたまま前の座面に足を投げ出して、再び眠りに落ちた。
糸魚川から親不知にかけて、「能登」は、信越本線とは見違えるような、小気味の良い高速運転になる。
海岸近くまで張り出す頸城山地を、連続するトンネルで抜けていくあたりで、ぐいぐいと身体がスピードに乗っていく気配を感じて、うっすらと目を覚ました。
トンネル内の蛍光灯が、真っ暗な窓の外を線状に流れていく。
勇壮なモーター音が壁に反響し、車体が風を切るのか、それとも車輪が奏でるのか、コーッと甲高く物悲しい音色が車内に伝わってくる。
特急「白山」でも体験したことで、何処のトンネルでも聞かれる現象かもしれないが、僕は、この音を耳にすると、北陸本線を走っているのだな、という感慨が湧いてくる。
家族で金沢に向かう時は、父の仕事が終わったあと、長野を夕刻17時39分に発車する「白山」3号を使うことが多かったので、信越国境を越えるまでに、とっぷりと日が暮れた。
僕の金沢への汽車旅の導入部は、いつも闇の中だったのである。
夜を突いて走り込む「能登」の旅路は、幼い頃に馴染んだ「白山」3号の忘れ難い記憶を呼び覚ます。
いつしか、向い合わせの4席に両親や弟が揃っているかのような甘酸っぱい幻想に浸りながら、僕は、童心に帰った心持ちで、リクライニングシートに身を任せていた。
富山平野も砺波平野も倶利伽羅峠も、眠っている間に通り過ぎ、魚津のおはよう放送も全く気づくことなく、ひたすら眠りを貪っていたようである。
最後の案内放送で重い瞼をこじ開けると、いつの間にか、カーテンの隙間から白々と光が漏れていた。
さっとカーテンを開け放つと、窓が雨で濡れている。
平成2年に完成したばかりの真新しい高架に列車が駆け上がると、黒瓦の屋根が連なる古い家並みに囲まれた卯辰山に、薄く靄が掛かっていた。
垂れ込めた雲に覆われている暗い空を見上げながら、北陸に来た、という実感が湧いて来た。
金沢駅に降り立ち、明るい光の中で、改めて奇抜な色合いの「能登」を振り返ると、ところどころ小さく凹みがあり、塗装も剥げ掛かって、489系も僕と一緒に歳をとったのだな、と思う。
子供の頃から、生まれた土地に僕を運び続けてくれた489系車両に乗るのは、今回が最後となるような予感があった。
当時の金沢駅は、平成17年に「鼓門」と「もてなしドーム」を備えた新駅舎に改築される前の、鉄筋コンクリート4階建てだった。
冷たい雨が降りそぼる古都の街並みを眺めながら、夜行急行「越前」を降りた父も、この光景を見たのだろうか、と思った。
弟に会って用事を済ませた僕は、午後の特急列車で福井まで足を伸ばし、京福バスターミナルを14時30分に発つ名古屋行き「北陸道特急バス」で、春雨に煙る北陸自動車道と名神高速道路を走り抜け、東京行きの新幹線に乗り継いだ。
福井に寄ったのは、もちろん、未乗の高速バス路線に乗りたかったという動機であったが、父が愛用した夜行急行「越前」の終点まで行ってみたい、との思いも強かった。
この年に「能登」が上野-福井間に延長され、「越前」の運転区間が復活したのは嬉しかったものの、乗る機会はなかった。
平成9年の長野新幹線開業に伴い、信越本線横川-軽井沢間が廃止され、軽井沢-篠ノ井間が第三セクターになったため、「能登」は12年ぶりに上越線経由に戻され、東京と長野を結ぶ夜行列車は全て姿を消した。
奇しくも、この年は、長野を発着する列車で唯一寝台車を連結していた大阪-長野間の夜行急行「ちくま」が、昼行特急「しなの」と共通の383系電車に置き換えられ、僕の故郷から寝台車を連結した列車が姿を消した年でもあった。
その「ちくま」も平成15年に臨時運転となり、平成17年以降は運転されないまま、信州から、定期運転の夜行列車は消滅した。
平成20年に、「能登」の上野発車時刻が23時33分に前倒しされ、高崎線の下り最終列車という重荷から解き放たれた。
平成22年に寝台特急「北陸」が廃止され、「能登」は臨時列車になった。
その寸前に、金沢駅で、『ありがとう「能登」号~「北陸」号「能登」号運転終了~』という看板を見掛けた。
消えていく2つの夜行列車への惜別を謳い上げながらも、謝意を表する対象として、寝台特急ではなく急行列車を表題に掲げていることに少しばかり驚いたが、それだけ「能登」の存在感が大きかったのだな、と頷いた。
臨時列車になった「能登」も、平成24年以降は運転されなくなり、40年に及ぶ歴史にひっそりと幕を下ろしたのである。