(この記事は「真夏の北海道長距離バス紀行(1)~旅の序章は豪華寝台特急北斗星の一夜~」を一部加筆・修正して「上野発の夜行列車への郷愁」シリーズに加えたものです)
── ◇ ── ◇ ── ◇ ──
平成15年7月の週末、札幌行き寝台特急列車「北斗星」1号は、まだ陽が高い上野駅 番線を16時50分に発車した。
ガタガタと身を震わせながら幾つもの転轍機を通過し、通勤電車や近郊電車が行き交う複数の線路のうちの1線に方向を定めると、列車は一気に速度を上げ始めた。
「本線進行、ヨシ!」
前方を見据え、指差し確認を行ったEF81型電気機関車の機関士が、ぐっと加速ハンドルを引く姿が目に浮かぶようである。
薄暗い構内を抜け出せば、右手は住宅や雑居ビル、アパートなどがひしめく下町で雑然としているが、左手は上野公園や谷中の墓地などを抱く台地の裾が続いていて、対照の妙が味わえる車窓が、北への鉄路の導入部である。
このあたりは昔は海岸だったのだな、と思わせる地形である。
急傾斜の斜面に、京都の清水の舞台のように古びた家が建っている所もあり、勇気がある住民だと思う。
新幹線ならば、高さ十数メートルの高架であたりを睥睨しながら走る区間である。
地平の在来線で走るのは久しぶりだったから、なかなか新鮮な眺めだった。
このように明るいうちに、上野発の夜行列車に乗るのは珍しい体験である。
これまでは、上野駅の構内を抜けた途端に、車窓が黒々と塗り潰された記憶しかない。
東京駅から西へ向かう「九州特急」ならば、16時台に発車する列車もあるけれど、上野駅では、「北斗星」が登場するまで、夜行列車がこのような黄昏時に発車することなど皆無だったのではなかったか。
それだけでも、遠くへ向かうのだ、という実感が湧いてくる。
尾久操車場の西側を進む新幹線や山手線、京浜東北線と別れて、東北本線の線路は東側に回り込み、尾久駅を過ぎた飛鳥山の麓で再び合流する。
赤羽駅付近の建て込んだビル街を抜け、轟々と鉄橋を鳴らして荒川を渡れば、東京としばしの別れである。
『本日はJRを御利用下さいましてありがとうございます。この列車は札幌行き寝台特急『北斗星』1号でございます。御乗車には乗車券の他に特急券と寝台券が必要になります』
「ハイケンスのセレナーデ」のメロディが鳴り、早くも車掌の案内放送が始まった。
『列車は10両連結しております。前寄りから10号車、9号車、8号車の順で、1番後ろが1号車です。3号車がお2人様用B寝台個室「デュエット」、4号車が「ロイヤル」個室とお1人様用B寝台個室「ソロ」です。後ろ寄り1号車、2号車、前寄り7号車から10号車が、2段式B寝台でございます。お手持ちの切符を御確認の上、お間違いのないようお願いします。中程の5号車はロビーカー、食堂車は6号車でございます。なお、食堂車の営業は、後程、係から御案内がございます。5号車にはシャワー室がございます。御利用のお客様は、食堂車で300円のシャワーカードを御購入下さい』
僕が乗っているのは4号車で、「ソロ」と呼ばれるB寝台の1人用個室である。
個室でもスピーカーが備わっていて、開放型寝台より内容が明瞭に聞こえる。
僕が個室寝台を予約することは滅多にないが、いつも不思議なジンクスがあった。
2階建ての車両ならば階下の部屋、進行方向に直角に個室が並んでいる場合は、後ろ向きに坐る部屋ばかりがなぜか当てがわれるのである。
「北斗星」の「ソロ」は、進行方向右側に、凹凸を組み合わせたような2階建てで、横長の部屋が櫛型に並んでいる。
指定された部屋のベッドに腰を降ろせば、やっぱり後ろ向きだったけれども、今回は、珍しく階上の部屋が当たったのである。
『それでは、この先の停車駅と到着時刻を御案内致します。次は大宮に停まります。大宮17時15分、宇都宮18時12分、郡山19時35分、福島20時10分、仙台21時12分、一ノ関22時20分、水沢22時40分、花巻23時04分、盛岡23時30分……』
列車に乗るって、車掌が並べ上げる駅名をぼんやりと聞いているだけでも、何らかの連想が浮かんでくる。
僕が初めて東北へ向かう寝台特急に乗車したのは、昭和59年のことで、583系寝台特急用電車の青森行き「はくつる」のグリーン車に揺られて、盛岡まで行った。
盛岡に到着したのは早暁4時55分だった。
僅かに減光するだけで、一晩中明かりが灯されている車内で過ごし、寝不足になっていた僕は、ふらふらしながら薄暗いホームに降り立った。
それが初めての東北旅行だったが、その盛岡を、「北斗星」1号は日付が変わる前に通過してしまうのだから、時代も変わったな、と思う。
大学生活を始めたばかりの当時は、寝台特急に乗車しても、終点まで行くことは贅沢で許されないような気がしていた。
その数ヶ月前に、生まれて初めて経験した寝台特急「あさかぜ」でも、僕は終点の博多ではなく広島で下車している。
歳月は流れ、僕も、たまには寝台特急を楽しむ余裕が持てるようになって、上野発の夜行列車のみならず、あちこちの寝台特急もひととおり経験することができ、今回、「北斗星」に乗るのは3度目であった。
1回目は、開通直後の青函トンネルをくぐりたいばかりに、開放型B寝台と新幹線や在来線特急のグリーン車が割引で利用できる、東京都区内-函館間の「グリーンきっぷ」を握りしめて、「北斗星」5号の2段式B寝台に乗り込んだ昭和62年のことだった。
初体験はやっぱり途中駅までだったか、と、今にして思えば苦笑いが浮かんでくる。
2回目は、大学時代のバイト先で知り合った高校生の友人を道連れとする北海道旅行の往路で、1回目と同じく開放型B寝台であったが、この時に初めて「北斗星」を札幌まで乗り通した。
当初は、仕事の都合で「北斗星」の発車時刻に間に合わない可能性が高かったため、東北新幹線で追い掛けて、盛岡で「北斗星」に乗り換える計画を立てていた。
幸いにも仕事を早めに切り上げられたので、新幹線特急券を上野駅で払い戻し、「北斗星」に乗り込んだのである。
楽しいお喋りだけで時間が過ぎ去っていったが、翌朝札幌駅に降り立った時には、乗り換えなしで札幌まで来ることが出来た、という感激が心に湧き上がってきた。
『──八戸0時52分、函館には明日の朝4時24分の到着です。森5時17分、八雲5時43分、長万部6時17分、洞爺6時39分、伊達紋別6時52分、東室蘭7時10分、登別7時25分、苫小牧7時55分、南千歳8時15分、終点札幌には明日の8時53分の到着です』
心に刻み込むような車掌の案内が、延々と続いている。
上野から札幌まで1175.5km、途中22の駅に停車して、所要16時間03分にものぼる長旅なのだから、その行程の案内に10分や20分掛かっても構わない。
次に停車する大宮までに終わるのだろうか、と少しばかり心配になるけれど。
上野発の列車で北海道の地名を耳にすれば、それだけでも旅情が湧いてくる。
それにも増して嬉しいのは、明日の午前9時近くまで、ゆっくりくつろげることだった。
これまでに乗車した上野発の夜行列車の大半では、早起きばかりさせられたからな、と宵っ張り朝寝坊の僕は、すっかり安心していた。
『皆様にお願いを致します。寝台でのお煙草は固くお断りしております。お煙草をお吸いの方は、通路に灰皿がございますので、そちらでお吸いいただきますよう御協力お願い致します。1番後ろの車、1号車は禁煙車両となっております。終点の札幌まで、車内でのお煙草は御遠慮下さい。また、盗難事故が大変多く発生致しております。お休みの際には、必ず、現金など貴重品は身体につけていただきます。食堂車やロビーカーの御利用など、長い時間お席を離れた時の盗難が大変多くなっていますので、お席を離れる時には、お荷物、貴重品、特に現金には充分御注意を願います。また、洗面所、お手洗いを御使用になられます際に、眼鏡、指輪、腕時計などの置き忘れが多くなっております。どうかお気をつけ下さい。なお、各車の出入口には屑物入れが用意してございます。お弁当の空き箱、お飲み物の空き缶、空き瓶など、お席をお立ちになりますついでで結構でございます、屑物入れを御利用いただき、綺麗な車内で楽しい御旅行が出来ますよう御協力をお願いを致します』
勤め帰りの客がホームに詰め掛け始めた大宮を過ぎると、ぎっしりと沿線を埋め尽くしていた建物が減り、青々とした田園が一面に広がる。
点在する集落や工場、倉庫が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
これまでに利用した上野発の夜行列車では、大宮を過ぎると、闇が深くなったような心持ちがしたことを思い出す。
決して大きな窓ではないものの、天井にはみ出すように上方へ湾曲しているから、まだ明るく晴れ渡った空がよく見える。視点が高いので、駅を通過する時はホームを見下ろす形になる。
ホームの屋根が窓のすぐ上にあるから、思わず首をすくめたくなる。
僕が初めて寝台車に乗車したのは、家族で長野から京都へ旅行した時に乗車した、急行「ちくま」である。
昭和36年に寝台特急「あさかぜ」に投入されてブルートレインのはしりとなった20系客車が、後継の14系や24系に追われるように、夜行急行列車で第2の勤めを果たしつつあった昭和50年前後、僕が小学生だった時代の話である。
20系の開放型B寝台は進行方向に対して直角に並ぶ3段式で、僕ら家族は、1段目に母と小さかった弟が添い寝し、2段目が父、僕は最上段をあてがわれた。
20系客車の最上段は、客車の屋根の丸みがそのまま内部にも反映した形状をしていて、まさに屋根裏そのものであったが、天井は高く、通路の天井裏の空間を利用した荷物棚がついて、3段のうちでは最も広々とした空間に思えた。
実際に、20系客車のB寝台は、上・中・下段とも長さ190cm・幅52cmで統一されていたものの、高さは上段が84cm・中段が74cm・下段が76cmと差が生じている。
窓は、開閉ができる金属製の蓋がついた小さな覗き穴が1つだけである。
覗き窓から外を眺めたり、仰向けになって丸く曲線を描く天井を眺めながら、とても幸せな気分で過ごしたあの一夜のことを、僕は一生忘れないだろう。
この頃の「銀河」は、2段式B寝台の24系寝台車に更新されて、上段は高さ95cm・長さ195cm・幅70cm、下段は高さ111cm・長さ195cm・幅70cmと、上半身を起こせる高さに改善されていたのだが、僕はそれを知らなかった。
「今日はすいていますから、下の段もあいていますけど?」
と怪訝な顔をされたものだった。
昼間は背もたれが直角で、4人向かい合わせの急行や鈍行列車のようなボックス席で、夜の寝台でも、下段は座席空間が維持されてかなり天井が高い反面、そのしわ寄せで中段と下段がかなり窮屈だったのである。
車体の高さは20系客車と変わりがないはずだったが、極端なことを言えば、客室高の2分の1を下段が占め、残りの半分を中段と上段で分け合っているようにすら感じられたのである。
僕は東北本線の特急「はつかり」で、583系の座席仕様を利用したことがある。
同行した高校時代からの友人は、リクライニングしないボックス席に不服そうだったが、そのうちに、寝台に組み立てられるよう座面が引き出せることに気づき、ベッドのように伸ばして、大いにくつろいだものだった。
この時、網棚を見上げながら、上段の寝台は網棚を使っているのだろうと了解した。
583系電車3段式B寝台の実際の寸法は、
上段が高さ70cm・長さ190cm・幅68cm
中段が高さ70cm・長さ190cm・幅68cm
下段が高さ106cm・長さ190cm・幅76cm
となっていて、上段と中段で変わりはない。
僕は上段に潜り込んだのだが、天井の丸みが身体にピッタリとフィットする円筒のような代物で、中段より圧迫感が感じられた。
中段を占めた友人は、北海道旅行の最後の夜を語り合いながら過ごしたかったらしく、幾度も声を掛けて来たのだが、
「こんな狭い寝台では寝るしかないではないか」
と、僕は朝まで不貞寝を決め込んでいた。
このようなB寝台の体験を振り返ると、「北斗星」の「ソロ」の空間は、まさに隔世の感がある。
長さ195cm・幅75cmと寝台の寸法は開放型2段式B寝台と変わりがないが、奥行き195cm・幅117cm・高さ143cmの部屋を、気兼ねすることなく独り占めできるのだ。
ちなみに、同じくB寝台個室を備えている、上野と秋田・青森を結ぶ寝台特急「あけぼの」では、
部屋の長さ:195cm
部屋の幅:1階98cm・2階100cm
部屋の高さ:1階135cm・2階145cm
寝台:長さ190cm・幅70cm
部屋の長さ:195cm
幅:1階87cm・2階95cm
高さ:1階183cm・2階185cm
寝台:長さ195cm・幅70cm
という具合になっている。
どの列車もそれほどの違いはないように思えるが、「あけぼの」と「サンライズ」は通路の両側に進行方向と平行して部屋が並んでいる構造が災いしているのか、「北斗星」の方が部屋の幅が圧倒的に広いことが判明する。
窓際に深々と腰を下ろし、肘掛けにもたれて窓に目を向ければ、たとえ進行方向に対して後ろ向きであっても、心が落ち着く。
「あけぼの」と「サンライズ」では、床が出入口にしかないので、そこに足を降ろして座ると、通勤電車のロングシートのように窓に背を向けた姿勢になってしまうから、代わりに、足をベッドの上に投げ出して、前後の壁に寄りかかるためのクッションが置かれている、という案配になっていた。
同じ4号車に豪華な「ロイヤル」個室を備えている「北斗星」では、「ソロ」など高級な部類に入らないのかも知れない。
これで、進行方向に座る個室でも当たった日には、僕は運を使い果たしたように感じて、逆に前途が心配になったことであろう。
関東平野では暮れなずむ夕景を映していた車窓が、奥羽山脈と阿武隈山地に挟まれた福島県の中通りに入ると、いつの間にか真っ暗になっていて、僅かに点在する灯だけが闇の中に浮かんでいる。
「北斗星」は軽快なリズムを奏でながら、北へとひた走る。
時折、ピョー、と甲高く物哀しいEF81型機関車の汽笛が、かすかに空気を震わせる。
全区間の表定速度が時速73kmとは、寝台特急として遅いのか速いのか判然としないけれど、瑣末なことである。
夜の闇を切り裂いて走り込む札幌行き寝台特急列車の勇姿を想像するだけで、心が弾む。
寝台に腰を掛け、茫然と外を眺めているだけで、何もすることがないという状態は、悪くない。
肘掛けを畳んでごろんと寝転ぶも良し、持ち込んだ本を読むも良し。
上野駅で買い込んだビールをチビチビと飲みながら夜景に目をやれば、時々、窓を明るく照らし出して、通過駅のホームが光の余韻を残しながら過ぎ去っていく。
21時過ぎに着く仙台の手前で、ふと思い立って、僕は個室を出た。
予約制のフレンチ・ディナーのフルコースを出すことで有名になった食堂車「グランシャリオ」が、ディナータイムを終えて、予約不要のパブタイムになる頃合いである。
食堂車は6号車だからロビーカーを通り抜けるだけの至近であるが、入口の連結部分では、数人の客が開店を待っていた。
薄暗く調光された食堂車の室内は、ホテルの高級レストランと見まごうような重厚な雰囲気を醸し出しているが、両側の窓の景色が動いているから、ここは紛れもなく列車食堂である。
小学生の頃に上野と金沢を結ぶ特急「白山」で利用して以来、僕は、かろうじて列車食堂を知る世代であるが、食堂車とはもっと無遠慮な照明に照らされて、喧噪に満ち、元気の良いウェイトレスが通路をきびきびと動き回る、町の洋食屋さんに似たイメージを抱いていた。
「グランシャリオ」で、分厚いテーブルクロスがかけられたテーブルに何となく場違いな気分で坐り、
「いらっしゃいませ」
などと正装のウェイターに深々と一礼されると、戸惑ってしまう。
パブタイムと言っても、アルコール類だけではなく食事も揃っていて、僕はハンバーグのセットを注文した。
食堂車が登場する映画は少なくないが、特に記憶に残っているのは、「オリエント急行殺人事件」の一場面で、エルキュール・ポワロが同席した鉄道会社の重役に、
「メニューを土産に持って帰りたいですな」
と絶賛している場面や、ジーン・ワイルダー主演の「大陸横断超特急」で、主人公が行きずりの女性と相席になり、
「どうして列車にしたの?」
と聞かれて、
「退屈したいから」
と答える場面、そしてアルフレッド・ヒッチコック監督の「北北西に進路を取れ」に出てくる食堂車の場面で、ヒロインが、
「I never discuss love on an empty stomach」
と話す場面である。
この台詞はもともと、
「I never make love on an empty stomach」
であったらしいのだが、倫理上の問題から差し替えられたという愉快なエピソードが伝えられている。
「オリエント急行殺人事件」では、別のテーブルに乗り合わせた侯爵夫人が、
「カレイでもいただこうかしら。新しいポテトを1つに、ドレッシングをかけないサラダを添えて下さらない?」
などと、飼い犬を脇に侍らせて独自に料理をアレンジしながら注文している場面を観て、外国の高級列車の食堂車とはこのようなものなのか、と目を見開いた記憶がある。
一方で、昭和29年出版の阿川弘之の「乗り物紳士録」では、
「古靴の底を焼いたようなビフテキを食わされた」
と、単一企業が独占していた日本の食堂車の有り様を嘆いた記述がある。
僕にとっての食堂車も悪かろう高かろう、車窓を楽しめることだけが唯一の利点という、似たり寄ったりの印象だった。
内田百閒の「阿房列車」にも食堂車の場面が少なくないが、百閒先生が一献を楽しむために利用することが多かったから、同行者との会話や従業員の立ち居振る舞いに筆が割かれて、味に言及した記述はなかったように思う。
松本清張原作の映画「砂の器」では、丹波哲郎演じる主人公の刑事と森田健作扮する同僚の刑事が、捜査で東北に出張した帰りに、急行「羽黒」の食堂車で話し込む場面がある。
注文したビールで乾杯はしているものの、2人が箸をつけるのは、食堂車に来る前に客席で網棚の鞄から取り出した駅弁なのだ。
「そろそろ始めますか」
「待て待て。隣りは食堂車だったな。ビールでも飲もうや。俺が奢るよ」
などと会話を交わしていたのだが、当時の食堂車は持ち込み可だったのだろうか。
いずれにしても、食堂車で駅弁を食べるとは、当時の食堂車に対する強力なアンチテーゼだったのかもしれない。
加藤剛が演じた、後に重要人物となる音楽家を食堂車内で見かける伏線もあったものの、2人がそれを知るはずもなく、進展がなかった捜査に慨嘆した挙げ句に、
「贅沢な旅行をさせてもらったよ」
という、丹波哲郎の溜め息混じりの呟きが印象に残った。
どの映画でも、登場人物の会話を彩る格好の舞台が食堂車だった訳で、僕のような1人旅ではどうにも扱いようがないから、誰かに声を掛けて一緒に連れてくれば良かったかな、と人恋しくなる。
しかし、北海道に着いてからは、長距離バスを乗り継いで道東をひと回りするという、他人を連れ回すことが躊躇われるようなマニアックな旅程を組んでいるので、そうもいかない。
それでも、黒澤明監督のサスペンス映画「天国と地獄」でも特急「こだま」の食堂車のシーンがなかったっけ、とか、自衛隊のクーデターを描いた山本薩夫監督の「皇帝のいない八月」で、寝台特急「さくら」の食堂車で山本圭と吉永小百合が会話を交わす場面では、背景の車窓は明らかに合成だったなあ、などと、焼きたてのふっくらしたハンバーグを平らげながら色々と空想をめぐらせるのは、実に楽しい時間である。
この「北斗星」1号の一夜が、僕にとって、食堂車の乗り納めだった。
寝台特急だけでなく、東海道・山陽新幹線や在来線特急・急行列車に連結されていた食堂車も、長距離・長時間乗車の客は航空機に移行し、廉価な駅弁やコンビニ弁当の普及で、乗客が食堂車を必要としなくなった風潮に押し流されるように、姿を消すことになる。
昭和60年3月に、特急「雷鳥」「白山」を最後に昼行電車特急の食堂車が廃止され、昭和61年11月には、北海道のディーゼル特急「おおとり」「オホーツク」をもって、昼行特急列車の食堂車が全廃となる。
東京から西へ向かう寝台特急列車でも、平成3年6月の「みずほ」「出雲」を皮切りに、平成5年3月までに全ての食堂車の営業が終了した。
東海道・山陽新幹線でも、昭和50年の博多開業を機に全ての「ひかり」に食堂車が連結されたものの、平成7年に0系「ひかり」の食堂車が営業を休止、平成12年に2階建て新幹線100系「ひかり」の食堂車も外された。
唯一残されていた「北斗星」と「カシオペア」でも、青函トンネル区間における北海道新幹線の試験走行が本格化するに伴って、平成27年8月に「北斗星」が運転を終了し、平成28年3月の北海道新幹線開業と引き替えに「カシオペア」が廃止されて、食堂車も共に消えることになる。
明治32年5月に、私鉄の山陽鉄道(現・山陽本線)が、京都と三田尻(現・防府)を結ぶ列車に連結した食堂付き1等車に始まった日本の食堂車は、117年の歴史を閉じたのである。
コース・ディナーではないけれども、「グランシャリオ」での夕食で満ち足りた気分になった僕は、自室に戻って寝台に身体を横たえた。
個室寝台のベッドは、座る場合に備えて背もたれが壁についているので、ともすればソファーで仮眠しているような気分になるが、寝心地そのものは開放型寝台と遜色はない。
時計の針は午後10時を回り、「北斗星」1号は、岩手県内の闇の中を軽快に走っている。
通過する小駅の、侘びしい電灯に照らし出されたホームに、人影が浮かび上がることは全くなくなった。
窓外の灯も殆ど見えず、東北らしくうら寂しい車窓である。
日付が変わり、青森県に入って八戸に停車した後は、時刻表の上では函館まで停車駅がないはずだが、客扱いをしない運転停車は幾つか設けられている。
室内灯を消し忘れ、カーテンも開けっ放しにしたまま、いつしか眠りに落ちていた僕は、ゴトリと列車が停車する衝撃で、目を覚ました。
外に目をやれば、青森駅である。
青函トンネルが出来るまでは、この駅が絶対的な終着駅で、嫌でも列車を降ろされて、青函連絡船の桟橋への通路を小走りに急いだものだった。
津軽海峡の船旅は情緒があったけれども、ベッドに横になったまま青森から先へ進むことが出来るとは、何という贅沢であろう。
しばらく停車してから、「北斗星」1号は、静かに反対方向へ走り始めた。
煌々と照明に照らし出されて、幾つもの線路が扇形に分岐していく構内を抜けても、列車の速度は上がらない。
ここからの津軽線は旧態依然としたローカル線のままで、さすがの「北斗星」も、高速道路から一般道に降りた車のように、遅々とした歩みを余儀なくされる。
青函トンネルまでは起きていたいな、と思いながらも、のんびりした走りっぷりは眠気を誘う。
うつらうつらと過ごしながら外ヶ浜町の中小国駅を通過すると、乗り心地が再び一変する。
ぴたりと揺れが治まり、列車の速度がぐいぐいと上がって、コーッとスラブ軌道特有の物哀しい走行音が響き始める。
新幹線規格で新設された津軽海峡線に入ったのだ。
本州側の最後の駅、青森から40kmほど離れた津軽今別を過ぎると、長さ1337mの大川平トンネル、160mの第1今別トンネル、690mの第2今別トンネル、440mの第1浜名トンネル、280mの第2浜名トンネル、170mの第3浜名トンネル、140mの第4浜名トンネルと、7つのトンネルを続け様にくぐる。
津軽半島とは山なのだな、と思いながらも、いつ青函トンネルに入るのか、気が気でなくなる区間だった。
「次が青函トンネルです」
という車掌の案内放送が流れたが、この夜の「北斗星」の車内は、寂として静まり返っている。
全長5万3850mの海底トンネルに進入する時は、それまでの短い地上トンネルとは趣を異にした、重厚な風格が感じられた。
列車が緩やかな坂を下り始め、口径の広いトンネルの入口部が後方へ過ぎ去ると同時に、窓が曇る。
一定間隔で横に流れる照明が、水滴に滲む。
湿気が多い海底へと続く空気の中に入ったことが感じられる瞬間だった。
青函トンネルの内部は温度が一定でレールの伸縮が少ないため、継ぎ目のない1本の超ロングレールで結ばれているという。
甲高い走行音を闇の中に反響させながら、高速でひたすら走り込む寝台特急列車は、揺らぎもしない。
果てしなく続く巨大な筒型の構造物を眺めていると、底なしの沼に吸い込まれていくような錯覚に襲われる。
何度くぐっても、途轍もないものを作り上げたものだと思う。
北前船以来の伝統を引き継いで、1日50本が行き来するという貨物列車が汽笛を交わしながらすれ違うと、黒々としたコンテナのシルエットが、長いこと車窓を塞ぐ。
青函連絡船が歌い上げていた旅情には及びもしないけれど、僕らの国の底力を誇らしく思う北への道筋だった。
世紀の長大トンネルをくぐっているという感動も、頭の中に幕を張るような睡魔には勝てず、僕は窓の覆いを閉めて目を瞑った。
午前4時になろうかという頃合いである。
眠りに落ちる頃には、身を横たえている寝台が僅かに揺れる感触だけでも、夜行列車に乗っている幸せに浸っていたのだが、目を覚ますと、一瞬、自分が何処にいるのか分からなくなった。
闇に包まれた寝台の中で、車輪が線路を噛むかすかな響きと、身体を揺らす律動的な振動に、自分は寝台列車に乗っているのだ、という記憶が蘇ってくるまで、少しばかり時間がかかった。
カーテンを開けると、眩い光が怒濤のように室内に押し寄せてきて、思わず目をしばたたいた。
窓外は、一面の海だった。
列車はとっくに函館を過ぎ、進行方向を元に戻して渡島半島を北上し、長万部のあたりの噴火湾の波打ち際を走っていた。
函館駅でDD51型ディーゼル機関車に付け替えられているはずで、速度は本州内ほど速い訳ではなく、行く手の線路上に架線も見当たらない。
鮮やかな緑色に染まった草むらと砂浜の向こうに広がる内浦湾は、ほとんど波が立たない凪であったが、空はどんよりと分厚い雲に覆われて、水平線の彼方は海と空の区別がつかなかった。
それにしても、何という暗い海であろうか。
東京から西へ向かう九州方面への寝台特急に乗っても、徳山のあたりで夜明けの瀬戸内海の眺望に接することが出来る。
優しい島影が朝靄の中に浮かび上がる暖かな内海の車窓は、僕がこよなく愛する「九州特急」の名場面だった。
寝台特急「出雲」でも、鳥取の手前の餘部鉄橋付近をはじめ、日本海が車窓いっぱいに広がる区間が続く。
「北斗星」に乗る僕を出迎えてくれたのは、西の海とは全く異なる様相の、真夏とはとても思えない寒々とした光景だった。
北国に来たな、としみじみ思う。
東京から九州へ向かう寝台特急列車で食堂車が廃止された後は、徳山駅で、手籠に駅弁を詰めた弁当屋が乗り込んできた。
種類も数も限られていたから、通路を弁当屋が通るのを見逃さないように、身構えて待っていたものだった。
寝台特急の食堂車で朝食を摂ったことはなかったな、と思い当たった僕は、食堂車に出掛けることにした。
あまりの高級感にたじろいだ前夜とは雰囲気がガラリと異なり、朝の光が差し込む「グランシャリオ」の室内は、開放的だった。
メニューも至ってシンプルで、洋風定食と和風定食だけである。
朝食を楽しみながら、窓外を過ぎ去る北の大地を眺めていると、時には寝台列車に乗るようなゆとりも大切だな、と思う。
小学4年生で鉄道ファンになってから、寝台特急列車は、常に僕の憧れだった。
故郷には寝台特急が通っていなかったから、見果てぬ夢を追い求めるように恋い焦がれていた。
友達が東京に行き、寝台特急の写真を撮って来ようものなら、みんなの羨望の的となり、我先に群がって見せてもらったものだった。
当時の僕が、家に置かれていた大判の時刻表で最初に開くのは、寝台特急が載っているページと決まっていた。
時刻表は深夜の運転停車を記載しないので、始発駅付近と終着駅付近以外は、通過を示す「レ」が縦にずらりと何ページも続いたりする。
ページを次々とめくり、列車が進んでいく線区を追っているうちに、未知の土地へ旅する寝台特急の乗客になった気分に浸ったものだった。
「A」マークのA寝台、「☆」1つの3段式B寝台、「☆☆」2つの電車3段B寝台、「☆☆☆」3つの2段式B寝台。
「個」のマークの個室寝台と、フォークとナイフが組み合わさった食堂車は、特に垂涎の的だった。
「出羽」上野-秋田(常磐線・羽越本線経由):同年「鳥海」に統合
「みずほ」東京-熊本・長崎:平成6年廃止
「はくつる」上野-青森(東北本線経由):平成14年廃止
「あさかぜ」東京-下関・博多:平成17年廃止
「さくら」東京-長崎・佐世保:同年廃止
「富士」東京-西鹿児島(日豊本線経由・後に宮崎、大分止まり)・「はやぶさ」東京-西鹿児島(鹿児島本線経由・後に熊本止まり):平成21年に廃止
「北陸」上野-金沢:平成22年廃止
「あけぼの」上野-青森(奥羽本線経由・後に上越・羽越本線経由):平成26年廃止
寝台特急の乗車時間の大半は、真っ暗で車窓を楽しむことなど叶わないし、客車の構造も全く変わらないから、乗ったからと言って格別変わった出来事があるわけではない。
それでも、車内での何気ない出来事であっても、その旅を象徴する思い出として、列車が消えた後でも、ありありと思い起こすことが出来る。
これまでに巡り会うことができた列車の愛称を思い浮かべるだけで、その夜の客車の揺れ具合や台車の軋みまでが脳裏に蘇ってくる。
僕は、関西発着の寝台特急に乗る機会にはなかなか恵まれなかったのだが、かろうじて乗ることが出来た大阪発新潟行き「つるぎ」、宮崎発大阪・京都行き「彗星」、函館発大阪行き「日本海」でも、夜行列車の旅情に変わりはなかった。
珍しく3度も乗ることになった「北斗星」にしても、これが乗り納めのような予感があった。
札幌が少しずつ近づいて来ても、「北斗星」は決して急ごうとはしない。
悠然と流れゆく車窓の向こうでは、厩舎やサイロが点在する牧場で、馬がゆったりと草を食んでいることもあれば、人の手が全く及んでいない原野が延々と続く区間もある。
容赦なく時は過ぎ行き、千歳線に入ると、東室蘭や苫小牧を境に赤土の原野が切り開かれて、建物の密度が少しずつ目立つようになる。
北海道の旅は、道都の100万都市が終点に鎮座しているのだから、少しずつ車窓がうるさくなるのはやむを得ない。
南千歳を過ぎれば、札幌近郊の街並みが連なって、一段と賑々しくなる。
「ハイケンスのセレナーデ」のオルゴールが鳴って、車掌が札幌での乗り換え案内を始めれば、16時間に及んだ長旅の終わりは近い。
僕の旅はまだまだ続くはずだったが、あたかも旅の終わりを迎えたような寂寥感がこみ上げてくる。
もう少し乗っていたい、と思う。
札幌には定刻の到着だった。
名残惜しいけれども、一夜を楽しませてくれた個室に別れを告げ、人々でごった返す札幌駅のホームに降りたった僕は、猛然とエンジン音を轟かせているディーゼル機関車の方に足を運んだ。
最後に、「北斗星」のヘッドマークを写真に収めたかったのだ。
しかし、機関車の停車位置はホームの先端ぎりぎりで、ヘッドマークを正面に捉えたり、機関車を先頭に列車の全てをアングルに入れることは難しく、以前に撮った写真があるから、と諦めるしかなかった。
乗客として乗ってしまうと、列車の写真がなかなか撮れないことは、よく体験することである。
「北斗星」のヘッドマークには、大熊座の一部を成す北斗七星がかたどられている。
僕は迂闊なことに、最近まで、北斗星が北斗七星を指しているとは知らなかった。
北斗星という名の小惑星が火星と木星の間の小惑星帯に存在するが、こちらは北海道北見市の天文家が平成元年に発見したもので、逆に寝台特急「北斗星」から命名されたという。
北斗七星の別名は七つ星である。
ならば、平成25年に登場したJR九州の豪華クルーズトレイン「ななつ星 in 九州」を思い出すではないか。
乗るだけで数十万円を要する周遊型臨時列車は、定期運転の公共交通機関である「北斗星」とは一線を画すものであり、僕には無縁の存在だと思っている。
けれども、世の中から寝台特急が消えつつある現在、「我が国初めての豪華寝台列車」と呼ばれた「北斗星」の命脈が、JR各社が競って走らせ始めたクルーズトレインに受け継がれていると考えるならば、もって瞑すべきであろう。