東京発寝台特急の挽歌 第4章 ~南宮崎行き「富士」80年の足跡を偲ぶ 前編~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

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紀行作家宮脇俊三氏に『「富士」の哀れ』と題したエッセイがある。
 
『列車に愛称名がつけられたのは、いまからちょうど50年前の昭和4年9月、東京‐下関間を走っていた1・2等特急を「富士」、3等特急を「櫻」としたのが最初であった。
翌昭和5年10月には東京‐神戸間に特急「燕」が新設され、これら3本の列車が戦前の日本を代表する優等列車として君臨した。
とくに「富士」は、速度の面では「燕」に1歩を譲ったものの、寝台車、洋食堂車、展望車を連結して格式が高く、列車番号も下りが1列車、上りが2列車であった。
私がはじめて「富士」を見に東京駅へ行ったのは、小学校2年生のときであったから、たぶん昭和9年であったと思う。
要人でも乗っているのか展望車のあたりは見送り人と警官が遠巻きにして物々しく、私は恐る恐る人垣のうしろを回って、富士山をかたどったテールマークを覗きに行った。
それは後光がさしているかのように、まぶしかった。
 
戦争が終わり、戦後の混乱が一段落すると、特急が続々と復活しはじめた。
けれども「富士」だけは復活しなかった。
“走るホテル”と銘打たれた博多行寝台特急こそ「富士」にふさわしいと思われたが、「あさかぜ」と名づけられた。
その名にふさわしい超優等列車が新設されるまで「富士」の名は温存されるのだとも噂された。
なるほど、と私は納得していた。
ところが、昭和36年10月、東京‐宇野間のビジネス特急電車として「富士」が復活した。
「富士」に四国の相手をさせるのかと私は慨嘆した。
 
しかし、これは一時的なもので、新幹線が開通すれば「富士」になるとの情報が流れた。
「富士」のイメージは新幹線にそぐわないが、それならそれで結構と思っていると、新幹線は「ひかり」と決まり、「富士」は日豊本線回りにされてしまった。
国鉄は何をしておるのか、と私はまた嘆いた。
 
昨年の12月、私は日豊本線を走る「富士」を見た。
食堂車も連結せず、たった7両で単線区間を走る「富士」の姿に、往年の栄光を偲ばせるものは何もなかった』
 
 
「富士」の歴史と氏の思い入れを端的に描き切った、昭和50年頃の掌編である。
四国や九州東海岸の人々が読めば怒り出しそうな言い回しが見受けられるけれども、宮脇氏も香川県の出身であるから、内心、嬉しさを伴う複雑な心境だったのではないかと推察する。
 
僕も、平成19年に、同じような「富士」の姿を見たことがある。
宮崎から福岡へ向かう途中、日豊本線の特急列車を乗り継いだ大分駅で、こぢんまりとした編成の下り「富士」と出会った。
宮脇氏のエッセイを思い出すと同時に、それより10年ほど前の平成9年10月の週末の記憶が、鮮やかに脳裏に蘇ったのである。
 
 
「行きますか?」
「行くよ。どうして?」
「まだ発車まで2時間以上ありますよ。早過ぎませんか」
「乗り遅れるよりはマシじゃないかなあ」
 
S君は快活な高校生で、彼といるとさえずるようなお喋りが止むことがないけれど、話題が面白いので煩わしく感じたことがない。
僕が大学生時代にバイト先で知り合い、「機動戦士ガンダム」と「こちら葛飾区亀有公園前派出所」のファンであるが、鉄道ファンではない。
ところが、列車の長旅を苦痛に感じないという希少な人種であったため、僕が社会人になってからも、気軽に誘って北海道や四国などへ出かけるような付き合いが続いていたのである。
 
時間があるなら何処かでお茶でもしようか、と返せば良かったのかもしれないけれど、この日の僕は旅立ちを前に心が逸っていて、そこまで気配りできる余裕がなかった。
1ヶ月前に東京発西鹿児島行きの寝台特急「はやぶさ」に乗り通したばかりだったが、今度は、東京発南宮崎行き寝台特急「富士」に乗ろうと言うのである。
 
東京を発着する「九州特急」の旅を短期間で2回も企てたのには、もちろん訳があった。
 
 
「富士」が寝台特急として東京と大分を結んで運転を開始したのは、昭和39年10月のことである。
昭和31年に登場した東京発博多行き「あさかぜ」、昭和33年登場の西鹿児島行き「はやぶさ」、昭和35年登場の長崎・佐世保行き「さくら」、そして昭和37年登場の熊本・長崎行き「みずほ」と出揃っていた「九州特急」の中では、最後発であった。
昭和40年10月に、日豊本線を経由して西鹿児島駅(現鹿児島中央駅)まで運転区間が延伸され、1574.2kmを24時間26分と丸1日以上をかける我が国で最長運転の列車となる。
 
当時の「富士」の運行ダイヤは以下の通りであった。
 
下り:東京18時00分-横浜18時27分-熱海19時32分-浜松21時27分-名古屋22時54分-福山4時27分-広島6時01分-柳井7時02分-防府7時55分-宇部8時31分-下関9時13分-門司9時26分-小倉9時37分-中津10時23分-別府11時31分-大分11時51分-佐伯13時01分-延岡14時19分-日向市14時40分-宮崎15時48分-都城16時52分-霧島神宮17時32分-隼人17時50分-鹿児島18時19分-西鹿児島18時26分
 
上り:西鹿児島9時41分-鹿児島9時48分-隼人10時21分-霧島神宮10時49分-都城11時27分-宮崎12時36分-日向市13時39分-延岡14時03分-佐伯15時07分-大分16時27分-別府16時40分-中津17時48分-小倉18時36分-門司18時48分-下関19時00分-宇部19時37分-防府20時13分-柳井21時05分-広島22時12分-福山23時42分-岡山0時29分-名古屋5時13分-浜松6時33分-熱海8時38分-横浜9時42分-東京10時10分
 
 
西鹿児島に着くのが翌日の宵の口、そして発車が午前9時台とは、日本の夜行列車とは思えないスケールの大きさを感じさせる。
別の言い方をすれば、かなり浮き世離れした運転ダイヤだった。
 
当時の日豊本線は末端部分で電化されておらず、「富士」はディーゼル機関車に付け替えて運転されていた。
東京駅を発着する寝台特急で非電化区間まで足を伸ばすのは、「富士」と、山陰本線に乗り入れる「出雲」だけであり、東京-下関間の直流電気機関車、関門トンネル専用の交直流電気機関車、日豊本線の交流電気機関車とディーゼル機関車と4つの機関車が牽引する列車は「富士」だけで、それも最長距離を走る寝台特急らしくて面白いじゃないかと僕は思うのだが、宮脇氏は格落ちに感じたのかも知れない。
 
ちなみに鹿児島本線経由で東京と西鹿児島を結ぶ「はやぶさ」の走行距離は1515.3km、下り列車が東京駅発16時45分・西鹿児島駅着14時42分着、上りが西鹿児島発12時96分・東京着10時30分であった。
 
 
僕が鉄道ファンになったのは小学4年生の時で、寝台特急は憧れの的だった。
僕の故郷には寝台特急が通っていなかったから、見果てぬ夢を追い求めているように恋焦がれていた。
今振り返ると、百花繚乱だった昼間の特急よりも、乗ってもいない夜行列車をどうして好きになったのだろう、と我ながら不思議であるけれど、1000kmを超える運転距離にロマンを感じたのだろうか。
 
家に置いてあったのは昭和45年12月の交通公社の大判の時刻表で、僕が最初に開くのは、寝台特急が載っているページと決まっていた。
時刻表は深夜の運転停車を記載しないので、通過を示す「レ」点がずらりと並ぶだけの区間も少なくない。
ページを次々とめくりながら列車が進む線区を追っているうちに、未知の土地へ旅する寝台特急の客となった気分に浸ったものだった。
続いてめくるのは、巻末に掲載されている列車の編成表である。
寝台特急は、「A」マークのA寝台、「☆」1つの客車3段式B寝台、「☆☆」2つの電車3段式B寝台、「☆☆☆」3つの客車2段式B寝台、そして個室寝台の「個」と表示された車両がずらりと並ぶ。
心底、乗ってみたかった。
寝台特急が走る町に引っ越したかった。
 
 
当時、男の子で鉄道ファンは少なくなかった。
家族旅行で東京に連れて行って貰った友達が、寝台特急の写真を撮って来ようものなら、羨望の的となって、みんなで群がって見せて貰ったものだった。
中でも、「富士」は日本一の長距離を走る列車として大人気を誇っていたし、僕にとっても別格の列車だった。
 
ただし、鹿児島本線経由で東京駅と西鹿児島駅の間を22時間あまりで結ぶ寝台特急「はやぶさ」が運転されていたから、鹿児島へ行くのに「富士」を使う乗客は少なかったのだろう。
昭和55年に運転区間が宮崎駅まで短縮され、平成2年に1駅先の南宮崎駅に変更されたものの、この旅から2ヶ月後には、大分駅止まりに短縮されることが発表されていた。
このダイヤ改正では、「はやぶさ」も西鹿児島駅へ行くのを止めて熊本止まりになる予定であったから、僕はいささか慌て気味に「はやぶさ」に乗り通し、「富士」にも今のうちに乗っておかねば、と時間を捻出した次第である。
 
 
「でも、どうして『富士』なんですか?もう日本一の列車ではないんですよね」
 
「特急富士 17:05 南宮崎」と書かれた頭上の掲示板を見上げながら、S君が聞く。
前の月に「はやぶさ」に乗った話もしたから、S君は最長距離列車の方に誘って欲しかったのかも知れない。
 
東京駅に着いたのは、S君の言った通りに時間を持て余す早めの時間で、他にすることもなく、僕らは所在なさげに10番線に立っていた。
「富士」の発車は17時05分、土曜日で平日よりは少ないけれども、目の前を発車していく東海道本線の近郊電車には人々が足早に乗り込んでいく。
「富士」を待っているとおぼしき装いの客は少ない。
 
「本当は『富士』が西鹿児島まで行っていた時に乗りたかったんだよ。でも、宮崎止まりになる前には乗れなかった」
 
昭和55年と言えば、僕はまだ高校生で、とても寝台特急に乗るために鹿児島まで行ける身分ではなかった。
 
 
発車の20分ほど前になると、
 
『お待たせしました。間もなく10番線に、南宮崎行き寝台特急「富士」が入線します。黄色い線の内側までお下がり下さい。列車は品川寄りの先頭から1号車、2号車、3号車の順で、神田寄りの1番後ろが14号車です。後部の7号車から14号車は途中大分までの車ですので御注意下さい。前寄りの1号車から6号車が、終点の南宮崎まで参ります』
 
案内放送の末尾を掻き消すかのように、武骨な面構えのEF66型電気機関車を先頭にしたブルートレインが、風を巻き込みながら猛烈な勢いで進入してきた。
僕らが立っていたのはホームの品川寄りの隅であったから、姿を現した列車は、思わずS君が後ずさりする程の速度だった。
 
 
きちんと止まるのか、との心配をよそに、車体が軋む音が響き、目の前を流れていく無数の窓の形がだんだんとはっきりして来て、最後はコマ送りのフィルムのようにゆっくりとなり、僕らの目の前に指定された車両の乗降口がぴたりと停まった。
 
「おお、停まりましたね。さすがですねえ」
 
感に堪えないといった口調でS君が呟いたので、同じ事を懸念していたか、と頷くと、
 
「1つ1つの窓に続き絵を描けば、アニメになりますね」
 
と続けたので、思わず吹き出しそうになった。
 
「入って来た時の速さにはびっくりしましたよ。列車って1両が何mあるんですか」
「20mだったかな」
「さっき、14両って言ってましたよね。とすると、機関車も合わせて、あのスピードの列車が300mで止まるもんなんですねえ」
「お客さんを乗せていないから、強めのブレーキを掛けたかも」
「なるほど」
 
 
隣りの1段高いホームに停車中の新幹線の、スマートながらどこか冷たい外観と比べれば、遥かなる南国へ旅立つ「富士」の青い車体には、懐かしい汽車旅の風格が漂っている。
 
寝台用客車独特の折戸が開くのを待ち兼ねたように、S君と僕は車内に足を踏み入れた。
僕らが乗るのは2段式B寝台の車両で、櫛型に並んだ寝台の脇の通路を、寝台券を確かめながらたどり着いた区画では、僕とS君が向かい合わせの下段を占拠できるように指定されている。
 
「なかなかいいじゃないですか。両方とも下を使っていいんですか。上には人が来ないんですかね」
 
と下段のベッドに腰を下ろしてクッションの弾み具合を試しながら、S君は嬉しそうである。
上段は固定されているものの、背もたれに寄りかかって深く座っても頭がつかえるようなことはなく、圧迫感も感じられない。
上段の客が来れば、寝るまでは下段のベッドに2人ずつ座ることになるが、4人で過ごすとしても充分過ぎるほど広い空間であるから、昼間の特急列車よりも豪勢な気分を味わえる。
S君にとっては、「富士」が初めての寝台列車のはずである。
 
「分からないけど、来ない可能性が高いかな」
 
と、僕は少なかったホームの人数を思い浮かべながら、最近の「九州特急」の乗車率が20%程度まで減少していることを話した。
 
「20%って言えば、この4つのベッドを独り占めしている客ばかりってことですか。それも寂しい話ですねえ」
「うん、先月乗った『はやぶさ』もガラガラだった」
「宮崎からの飛行機って、どれくらい時間が掛かるんですか。僕、飛行機に乗るのも初めてなんですよ」
「2時間も掛からないよ」
 
帰りは宮崎から航空機でとんぼ返りする予定であった。
 
「うわあ、この列車の10分の1ですかあ!それじゃ勝負にならないですね」
 
 
発車〇分前です、お見送りのお客様はホームからお願いします、と繰り返していた車内放送が途切れ、ホームの発車ベルが車内にも聞こえ始めると、僕らはどちらからともなく口をつぐんで窓の外に目を遣った。
ピョーッと甲高い汽笛が黄昏の空に響き、定刻きっかりに、鈍い衝撃とともに「富士」が動き出した。
向かいの9番線に停車中の湘南電車やKIOSKの明かりが窓外を流れ始め、無数の窓に明かりを灯しながら林立するビル街に変わる。
 
列車が速度に乗るにつれて、僕やS君の身体にも非常な勢いが加わってくる。
鉄道が好きだから乗りに来ているのであって、その乗り心地、走り具合、窓の外の景色などがいちいち気になる。
東京駅からしばらくの東海道本線の車窓に映る都市景観は、都内を発着する各方面の車窓の中でも、最も面白い部類に入ると思う。
国電で見馴れた沿線風景であるけれど、長距離列車の走り出しで、馴染みのビルや道路や立ち木がすっすっと窓外を滑っていく趣は、目を離すことが出来ない。
 
 
『お待たせ致しました。本日はJRを御利用下さいましてありがとうございます。特別急行「富士」号、南宮崎行きです』
 
右手を有楽町駅のホームが過ぎようという時点で、早くも「ハイケンスのセレナーデ」のメロディが流れ、車掌の案内放送が始まった。
これまで「あさかぜ」「みずほ」「はやぶさ」をはじめ幾つかの寝台特急を体験していたが、「寝台特急」と言う車掌はいても、「特別急行」と言った車掌は初めてだったので、僕は思わず通路の天井のスピーカーを見上げた。
分割民営から10年以上が過ぎているが、国鉄時代から乗務しているベテランであろうか。
錆の効いた、よく通る声の車掌である。
 
『最初に車の順序を御案内申し上げます。前の方から1号車、2号車、3号車の順で、1番後ろが14号車です。1号車から14号車までございます。そのうち、13号車はA個室寝台、12号車はB個室、その他はB寝台です。なお、1号車から6号車までが南宮崎行きです。前1号車から6号車までが南宮崎行き、7号車から後ろの14号車までが大分行きでございます。どなたも、寝台券をよくお確かめの上、お間違いのないようお座り下さい。1号車は禁煙車です。1号車でのお煙草は御遠慮下さい。ロビーカーは9号車、公衆電話は8号車に備えております。なお、食堂車の連結はございません。車内販売が乗務しておりますので、そちらを御利用下さい』
 
国鉄時代ならば『○号車がA個室寝台、○号車が食堂車、その他はB寝台です』と言えば済んだのであろうが、寝台特急の編成も種類が豊富になったものである。
 
 
『それでは停車駅と到着時刻を御案内申し上げます。次の横浜の到着は17時27分、熱海に18時24分、沼津18時42分、富士18時57分、静岡19時24分、浜松20時19分、名古屋21時34分、京都23時23分、大阪23時52分、三ノ宮0時19分、岩国に4時42分、小郡6時09分、厚狭6時40分、下関7時10分、門司には7時19分、小倉7時35分、日豊線に入りまして、行橋の到着は7時56分、中津8時18分、宇佐8時37分、別府9時23分、そして大分9時36分、臼杵10時15分、津久見10時33分、佐伯10時56分、延岡11時59分、日向市12時23分、高鍋13時ちょうど、宮崎13時28分、終点の南宮崎には13時32分です』
 
通路の壁に折り畳まれている簡易座席を引っ張り出して放送に聞き入っていたS君が、溜息をつくように口を開いた。
 
「28回も駅に停まるんですね」
「日本って広いと思わないか。アメリカやロシアや中国は別としても、20時間も列車に乗ってまだ国内って国は、そうそうないはずだよ」
「なるほど、そういう見方もありますねえ。学校では、日本は小さい国だって教えられて来ましたから」
「昔、ヨーロッパの地図に日本列島を重ねた本を見たことがあって、案外日本は大きいもんだって思ったよ。広い、というよりは長いと言うべきかな」
 
日本は広い、と言うのは宮脇俊三氏の著作によく出てくる文句の受け売りであるけれど、僕自身、蒙を啓かれた解釈であった。
鉄道が遅いだけなのではないですか、などと野暮なことは言わないのが、S君の良いところである。
 
 
『お願いを申し上げます。長い御旅行でございますので、どなた様もお手回り品、お荷物をお間違えのないよう、特に現金類の管理は充分に御注意を願います。またどの車にも、洗面所の近くに屑物入れがございますので、屑物はそこにお捨て下さるようお願いします。また洗面所を御利用の際には、腕時計、指輪など置き忘れのないよう、充分に御注意を願います。洗面をされます際に、お忘れ物をなさいませんよう、充分御注意を願います。また小さなお子様の車内での1人歩きは大変危険でございますので、小さなお子様には充分御注意を願います。特別急行「富士」号、南宮崎行きです。早速ですが、どの車にも乗車券、特急券、寝台券の拝見に伺っておりますので、よろしくお願い致します』
 
噛んで含めるような車掌の放送が終わると、間髪を入れずに女性の声がスピーカーから流れ出した。
 
『こちらは日本食堂車内販売でございます。毎度御利用いただきまして誠にありがとうございます。車内販売では、お弁当にお茶、サンドイッチにホットコーヒー、冷たいお飲み物、週刊誌、沿線のお土産品などを持ちまして、皆様のお席まで販売に伺います。通りました際には、どうぞお声をお掛け下さい』
 
マニュアルをそのまま読んでいるかのような、紋切り型の文言はどの列車も共通であるが、車掌ほどマイクに向かうことに慣れていない女性従業員が懸命に喋っているためであるのか、ところどころ文末が聞こえにくくなる朴訥な口調が微笑ましい。


食堂車が、平成5年に「九州特急」から姿を消したことは知っていた。
昭和60年に電車特急として最後まで連結されていた「雷鳥」と「白山」の食堂車が消え、昭和61年には北海道のディーゼル特急「おおとり」と「オホーツク」の食堂車も廃止された。
東海道・山陽新幹線でも平成12年に食堂車が廃止となり、唯一食堂車が残されていた寝台特急「北斗星」と「カシオペア」も、前者が平成27年、後者が同28年に、列車そのものが廃止となって、我が国の定期列車から食堂車の姿は消えたのである。
 
鉄道紀行の第一人者である内田百閒先生の「阿房列車」や宮脇俊三氏の著作には、食堂車で過ごす描写が多く、読んでいるだけで羨ましくなってくる。
僕も、初めて体験した寝台特急「あさかぜ」では、食堂車の夕餉を大いに楽しんだ。
食堂車が連結されていた頃の案内放送は、今でもありありと思い浮かべることが出来る。
 
『ただいま食堂車では、お好みの料理、冷たいお飲み物などを用意致しまして、皆様のお越しをお待ち申し上げております。食堂車は列車中ほど〇号車でございます。御利用のお客様は、どうぞお越し下さいませ』
 
ここまではどの列車も大差ない内容だが、寝台特急では続きがあった。
 
『なお、食堂車御利用の際、下着姿、お寝間着姿での御利用は、固くお断り致します』
 
 
百閒先生が旅をした昭和20年代の長距離列車では、食堂車の放送がなかったらしい。
 
『食堂車を連結した汽車で旅行すると、時々座席の間へ食堂車の女の子が出張して来て、只今御定食の用意が出来たとか、間の時間で一品料理の御註文に応ずるとか云う事を、少し節をつけた口調で並べ立てる。
その仕舞いに必ず、「皆様どうかお出で下さいませ。只今食堂はよくすいて居ります」と云う。
 
この「よくすいて居ります」がいつでも気になって仕様がない。
「この列車はよくこんでいる」なら、混雑していることがしばしばあると云う意味で、おかしくない。
従って、「よくすいている」も、すいていることがしばしばあると云う意味なら、それでいい。
「食堂車は只今よくすいて居ります」の「よく」はそうではない。
十分に。頗る。非常に。随分。申し分なく。皆様がおくつろぎ下さる程度に。
色々パラフレーズして置き換えて見ても、しっくりしない。
「よく」と云う副詞の奇想天外な用法で、類例を思いつく事もむずかしい。
非常に耳ざわりで、不愉快で、女の子が口上を始めると、又それを云い出しはしないかとひやひやする。
そうして彼女は必ずその文句をつけ足し、云わずに済ませる事はない。
東海道線、山陽線、東北本線、常磐線、どこでも食堂車のついている列車では、皆そう云う。
 
今までは全線の食堂車の経営を、日本食堂会社が一手に請負っていたから、食堂車に勤務する女の子達を、日本食堂所属の養成所の様な所で教育し訓練するのだろう。
その養成所に日本語が余りよく出来ない、語感のいい加減な先生がいて、右の様なへんな語法を幹線の走る限り到る所に散らかして廻らせる。
そこで可憐なる彼女達は、教わった通りに、「よくすいて居ります」と云い、山系君は「よくすいていますね」と薄笑いする(雷九州阿房列車)』


子供の頃に家族旅行でしばしば利用した上野と金沢を結ぶ特急「白山」をはじめ、食堂車を何回か利用した折りに、
 
「ただいま食堂車はよくすいております」
 
という言葉を、僕も耳にした記憶がある。
ただし、内田百閒の「阿房列車」を読んだのは大学卒業間近か社会人になってからのことで、確かめながら聞いた訳ではない。
百閒先生も、我が国から食堂車が消える日が来ようとは夢にも思わなかったに違いないが、少しくらい言葉遣いがおかしくても、それもまた印象深い旅の一景だったと思う。
 
試しに、S君に聞いてみようと思い立った。
S君は、発車直後から通路の簡易座席に座りっ放しで、
 
「おおお、この駅、大井町ですか?○○さん(僕のこと)が住んでいる街ですよね。てえ事は、この次の、この駅、大森ですね。こっちから見ると、こんな風に見えるんですねえ。僕、大森を通過するの、初めてなんですよ!」
 
などと騒いでいる。
彼は、大森駅からバスで埋立地の方に行った団地に住んでいる。
旅に出て、見馴れた街並みを通過するのは、なかなか得難い経験であり、大いに興趣が湧くことだろう。
 
 
「この列車、よくすいてると思うかい」
「そりゃあ思いますよ。旅行する人が少ない季節なんですか。それともみんな飛行機で行ってしまうんですかね」
「飛行機だろうね。10月は紅葉狩りとかで、旅行者が多い季節らしいよ。飛行機なら、似た時間に東京を出て、今日中に宮崎に着くから、明日は朝から遊べるんだぜ」
「僕たちが宮崎に着くのは明日の昼過ぎですものねえ」
「ところでさ、今、僕が言った『よくすいてる』って言葉、どう思う?」
「え?どういうことです?」
「いや、どうやら『よく』って言葉は、頻りにって意味で使うのが正しいらしいんだ。夏目漱石の弟子だった内田百閒という作家が、昔、東京から九州に向かう列車の中で、食堂車がよくすいているって従業員の言い回しに文句をつけたことを思い出してね」
「へええ、じゃあ、国語のテストで『この電車はよくすいている』って解答したら、バツをつけられちゃうんですかあ?」
「うーん、今では国語の先生だって気づかないくらい、意味が変わっているのかもしれないけどね」
 
 
百閒先生の言葉への拘りを示すエピソードとして、長崎まで出掛けた時のこと、一献している老舗の料亭の箸袋に書かれている端唄「春雨」の歌詞の一節を見て、気になって仕様がなくなる。
 
春雨に しっぽり濡るる鶯の
羽風に匂う 梅が香や
花に戯れ しおらしや
小鳥でさえも ひと筋に
寝ぐら定めぬ 気は一つ
わたしゃ鶯 主は梅
やがて身まま気ままになるならば
サァ 鶯宿梅じゃないかいな
サァーサ なんでもよいわいな
 
『「春雨にしっぽり濡るる鶯の」はこの家で出来た歌だそうである。
だから箸袋にもその文句が書いてある。
何の気なしに読んでみると、その次が「葉風ににほふ梅ヶ香や」となっている。
おかしいなと思う。
ここがこの端唄の本場だと云うから考えて見た。
梅の花が咲く時に、葉はまだ出ていない。
葉風が起こる筈がない。
矢張り鶯の羽風だろう。
君はどう思うかと、傍にいる芸妓に尋ねた。
それは歌の事だから、それでそう云う気持ちをあらわしたのでしょうとわけの解らぬ事を云う。
後で持って来た唄本には、羽風となっていた。
箸袋の方は書き違えたのだろう。
それで納得したが芸妓の方で不思議がって、なぜそんなつまらない間違いがすぐ気になるのでしょうと云う。
彼女は私共が校正恐る可き暮らしをしている事を知らない(長崎の鴉)』
 
「よくすいております」談義には後日談がある。
「阿房列車」福武文庫版の解説によると、掲載されていた雑誌に、日本食堂の職員から、決して間違いではないし、それなりに意味が通るではないか、と反論が寄せられたのである。
百閒先生は投書欄に、以下のように回答する。
日本語として通じないと言ったのではなく、「よく」の使い方がおかしくて、ヘンで、いい日本語ではないという修辞の点を気にしたからだ。
「よく働いております」はいいが、「よく死んでおります」はヘンだし、「雨がよく降っています」はいいとしても、「雨がよくやんでいます」はおかしい。
 
『そう思いませんか。列車食堂の口上は、ヘンでおかしい後者の部類でしょう』
 
その解説は、「内田百閒は、生涯、ただ1つの技術、つまり、『いい日本語』で書くという技術で過ごした人だ。この点、なかんずく強情であり、わがままだった」と締めくくっている。
美しい日本語に拘り抜いた作家の点描は、汽車旅を記した紀行文であっても劃然とした趣があり、古き良き時代を彷彿とさせる。
 
 
さて、当面の問題は食堂車のない「富士」に乗った僕らの夕食である。
まだ午後6時にもなっていない時間帯とは言え、手持無沙汰であるためか、列車に乗ればお腹がすいてくる。
 
日本食堂の案内放送のおかげで、きちんと車内販売が乗っていることには安心したけれども、ますます腹の虫が気になってしまう。
僕らの座席に車内販売が来るまでに、弁当が残っているのだろうか、とちょっぴり心配でもある。
1ヶ月前の「はやぶさ」では、幕ノ内弁当1種類しか残っていなかった。
東京でも買えるような駅弁ではなく、S君に車内販売の駅弁を食べさせたくて、東京駅では敢えて売店に寄らなかったのだ。
僕1人の旅ならば、売り切れでも空きっ腹を抱えていれば済むことであるが、S君にそのような思いをさせる訳には行かない。
 
車内販売の基地は、未だに連結を続けている8号車の食堂車に置かれていて、ちょうど編成の真ん中であるが、車内販売が僕らのいる前半分の宮崎編成の方から売りに回るのか、それとも後部の大分編成からなのか、その順番によっては売り切れもあり得る。
それとも、複数のワゴンが巡回するのだろうか。
そのような僕の心配など知らぬげに、S君は、当然夕食にありつけるものと疑いもせず、涼しい顔で窓外に見入っている。
 
「お弁当にお茶、コーヒー、紅茶、ビール、おつまみは如何ですか」
 
聞きなれた台詞と共に僕らの車両に車内販売が現れたのは、横浜駅を発車して間もなく、保土ケ谷隧道をくぐり抜けているあたりで、この早さならば弁当はかなり残っているだろう、と期待できる頃合いだった。
 
 
車内販売員が苦笑する程にあれこれ品定めをした挙げ句、2人とも釜飯弁当とお茶を購入し、ささやかな晩餐が始まった。
1人旅を愛する僕だけれど、こうして2人で談笑しながら過ごす車中も悪くないと思う。
 
「さっき言っていた内田なんとかって作家のことですけど」
「百閒」
「百閒さんが長崎に行ったのは、やっぱり寝台特急なんですか?」
「いや、昭和20年代だからその頃は急行しかなかったんだよ。長崎行き急行『雲仙』。長崎まで27時間かかったって書いてあったなあ」
「27時間!長崎に行くだけで1日と3時間が経っちゃうんですか!長崎って宮崎より遠いんですか」
「いや、近い。今も寝台特急「さくら」が東京から長崎まで走っているけれど、この『富士』より短い18時間だからね」
「SLが牽いていたんですか」
「うん、東京から名古屋は電気機関車、浜松か名古屋から先が蒸気機関車という時代だったと思う」
「そうか、飛行機なんてなかったでしょうしねえ」
「あっても高嶺の花だったと思うよ。たぶん『雲仙』が最速の乗り物だったんじゃないかな」
「そうかあ、そうやって、みんなが長い時間をかけて遠くまで頑張って出掛けていた時代があったんですねえ」
 
と、S君は箸を止めて遠くを見る目つきをした。
 
 
百閒先生はメジロが好きだったらしく、「阿房列車」でも宮崎駅で列車の出発を待っている間に、鳴き声を耳にしたメジロの記述がある。
 
『明るくなったばかりの構内のどこかそこいらの立ち樹の枝で目白が啼いている。
東京の私の家にも宮崎目白が1羽いる。
東京で不通に手に入るあの近辺の目白の内、伊豆の大島の大島目白と云うのは身体が大きくて面白くない。
その大島目白と対照させる様に身体の小さい九州の豊後目白を珍重する。
私は去年豊後目白がほしくなって、その手蔓に頼んでおいたところが、九州では豊後目白よりも宮崎目白の方を珍重する、目白は日向に限りますと云って宮崎目白が届けられた。
東京まで飛行機に乗って来て、澄まして私の家に落ち着いている(列車寝台の猿)』
 
僕の印象に残ったのは、早朝の宮崎駅でさえずる目白の風情でも、苦虫を噛み潰したような頑固親父だったと伝えられる百閒先生にも小鳥を愛する可愛げがあったという意外性でもなく、昭和20年代から航空貨物輸送が行われていたという部分だった。
旅客の航空輸送の大衆化は、貨物より数十年遅かったのか、と思う。
 
「『富士』だって長崎に行っていた時代があるよ」
「へえ、どうして長崎なんですか?」
「戦前の話だけどね。さっき、車掌さんが『特別急行』って言っていたのに気づいた?」
「いいえ、でも、特急って特別急行の略ですよね」
「うん。『富士』は、日本で初めての特別急行列車だったし、戦前は国際列車でもあったんだ。当時は、今みたいに特急ばかりの時代じゃなくて、特別急行は3種類しかなかったから、まさに『特別』だったんだね。『富士』が最初は下関まで運転されて、次に長崎に行先が変わったのも、国際列車だったことと関係があると思う」
「国際列車?『富士』が外国まで走っていた時代があるんですか?海はどうやって渡ったんです?」
 
 
「富士」の歴史は、遠く明治期にまで遡る。
明治45年に新橋-下関間に、1・2等車のみで編成された我が国初の特別急行列車として、1・2列車が運行を開始した。
下関から、当時は日本領だった朝鮮の釜山まで、鉄道省による鉄道連絡船が運航され、朝鮮総督府鉄道と連絡し、更には満州鉄道やシベリア鉄道などを経由して、フランスのパリやイギリスのロンドンに至る国際連絡運輸が開始されたのである。
昭和4年に特別急行列車の愛称を鉄道省が公募により初めて決定することになり、1・2列車は「富士」と命名され、最後尾の1等展望車にはテールマークが取り付けられた。
 
この時、大正12年から東京‐下関間に運転されていた3等車専用の特別急行3・4列車は「櫻」と名づけられている。
 
 
昭和初期の時刻表を開けば、「富士」に始まる欧州連絡の時刻が掲載されていたから、見ているだけで心が踊る。
 
①特別急行「富士」:(1日目)東京15時00分-横浜15時28分-名古屋20時32分-京都22時48分-大阪23時27分-三ノ宮23時55分-(2日目)下関9時30分
②関釜連絡船1便:下関10時30分-釜山18時00分
③満州鉄道急行「ひかり」:釜山19時20分-(3日目)京城3時15分-奉天16時20分-新京21時09分
④北満鉄道南部線4列車:(4日目)新京9時20分-哈爾浜14時40分
⑤北満鉄道西部線3列車:(5日目)哈爾濱8時30分-(6日目)満州里7時10分
⑥シベリア鉄道:満州里13時10分-知多22時40分-(7日目)イルクーツク22時29分-(8日目)ノウオシビルスク18時07分-(10日目)オムスク6時35分-(11日目)スウェルドロフスク2時31分-(12日目)莫斯科(モスクワ)17時00分
⑦北急行:莫斯科22時45分-(13日目)ストロブツェ14時05分‐ワルソー(ワルシャワ)22時50分-(14日目)伯林(ベルリン)9時23分-リェージ23時45分-(15日目)巴里(パリ)6時43分
 
満州里と莫斯科で5~6時間の待ち時間があり、新京や哈爾濱では1泊を費やす必要があってもどかしいけれども、列車が大幅に遅れた場合に備えているのだろうか。
今の世ならば、北極圏を回る国際線旅客機に搭乗して15時間程度でひとっ飛びである花の都パリまで、延々15日間、気の遠くなるような所要時間であるけれど、船舶ではスエズ運河経由の西回り航路で50日以上を要し、また太平洋航路‐北米大陸横断鉄道‐大西洋航路でも25日間が必要とされていた時代であるから、2週間あまりでユーラシア大陸を横断する「欧亜連絡鉄道」が、我が国と欧州を結ぶ最短の交通機関だった。
 
 
また、神戸-大連航路を使って、上記のルートに奉天で合流する方法もあった。
 
①特別急行「燕」:(1日目)東京9時00分-横浜9時27分-名古屋14時22分-京都16時26分-大阪17時02分-神戸17時37分
②日本郵船:(2日目)神戸12時00分-門司(3日目)12時00分-(5日目)大連9時00分
③満州鉄道13列車:大連12時00分-奉天18時00分-新京22時30分
 
大英帝国の首都ロンドンへ行く場合は、伯林で半日を過ごす羽目になるけれど、
 
(東京から下関経由で14日目)伯林21時13分-(15日目)リェージ7時19分-オステンド10時43分-倫敦16時55分
 
という行程であった。
 
オステンドは、北海に面した港町である。
古くからオランダとスペインの係争地であり、八十年戦争においてスペインからの独立を支持した城塞都市オステンドは、1601年から1604年までスペイン軍に包囲され、解放されるまでに8万人以上の死傷者を出すという古戦場にもなった。
1838年にブリュッセルからの鉄道が繋がり、1846年から英国へ向けてフェリーが就航していたことで、日英連絡は現在の英仏海峡航路や英仏トンネルとは異なる経路になったのである。
 
東京から倫敦まで1万3686km、地球を3分の1周する距離となり、運賃は1等795円、2等560円、3等390円と時刻表に記されている。
当時の銀行員の初任給が70円、コーヒー1杯15銭という時代である。
 
 
欧亜連絡の一翼を担う栄誉を与えられた特別急行「富士」は、大日本帝国の威信をかけ、当時の最高水準とも言える設備を備えていた。
1等車と2等車のみから成る編成で、最後尾の展望車にはソファーや書棚が置かれた上に貴賓用の特別室が設けられ、他の列車の食堂車が和食であったのに対して「富士」は洋食堂車を連結していた。
昭和5年には、それまでの木造客車が鋼鉄製の客車に置き換えられ、1等展望車の洋式内装は、同じ時期に新築された白木屋百貨店の内装に似ていることから白木屋式と呼ばれた車両と、漆塗りを用いた桃山式の装飾が施された2種類が存在したという。
 
 
宮脇俊三氏の幼少時の体験を著した「時刻表昭和史」には、昭和10年に両親の郷里である四国へ旅行した際に、特別急行「富士」か「櫻」を利用できないものかと画策したものの、どちらも四国への乗換駅である岡山を深夜に通過してしまうことへの恨み節が書かれていて、寝台特急のない街に生まれ育った者として大いに共感した。
 
『私が不満を抱いたのは「富士」や「櫻」のダイヤではなかった。
これらの特急のダイヤが妥当なものであることは私にもわかっていた。
せっかく特急があるのにそれを利用できないような中途半端なところに父や母の故郷があるのが怨めしかったのである』
 
『けっきょく私たちは東京発午後9時00分の二三等急行下関行で行くことになった。
これもまた私には不満だった。
午後11時00分発の急行があるのに、なぜ9時のに乗るのかと思った。
11時発ならば名古屋の手前で夜が明けるが、9時発では米原あたりまで行かなければ外が見えないからであった。
しかも、11時00分発の7列車は一等寝台車連結の各等急行なので、洋食堂車の記号がついている。
山陽本線の列車で洋食堂がついているのは「富士」とこの7列車だけであった。
二三等急行で和食堂の9時00分発5列車は7列車より見劣りがした』
 
この急行7・8列車は東海道本線・山陽本線・呉線を通って東京と下関の間を直通する、「富士」と「櫻」を補完する列車であった。
下関駅では関釜航路と接続して欧亜連絡が図られていたほか、呉を拠点とする帝国海軍連合艦隊の士官の足としても重宝されたという。
 
 
3等客は相手にしていなかった「富士」であるが、我が国の大陸政策と日中戦争の激化により満州への輸送量が増大したことに伴い、昭和9年の丹那トンネル開通を期に3等車が連結された。
関門トンネル開通を受けて、運行区間が東京-長崎間に延伸されたのは、昭和17年のことである。
長崎港からは上海航路が発着していて、上海-浦口-天津-奉天-北京への鉄道も敷かれていた。
上海航路の船が到着する日には、上り列車だけとは言え、長崎港駅を始発にして運転されたという。
 
しかし、戦局の悪化に伴い、昭和18年に特別急行列車は第1種急行という種別に変わり、「富士」の運転区間は東京-博多間に縮小、昭和19年に運転が中止されるという事態を迎えたのである。
 
 
「日本が国際列車を走らせていた時代があったんですね。夢があるなあ」
 
と、S君は釜飯を頬張りながら目を輝かせた。
 
「『富士』から船と列車を乗り継いでヨーロッパか。1回経験してみたかったですね」
「運賃が給料10ヶ月分では乗りたくても乗れなかったと思うけどね。僕が知っている限り、欧亜連絡を利用した有名人は、『放浪記』で有名な女流作家林芙美子が昭和6年にパリへ向かった時と、昭和7年に日本が国際連盟を脱退した際に渡欧した外務大臣松岡洋右くらいしか思い浮かばないな」
「『放浪記』って、森光子が80歳過ぎても舞台をやってる作品ですよね」
「よく知ってるなあ。初演が、確か昭和26年だったよね」
「『放浪記』にも『富士』とかシベリア鉄道が出てくるんですか」
「いや、『放浪記』が書かれたのは昭和3年だからね」
 
 
『私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。
更けゆく秋の夜 旅の空の
侘びしき思いに 一人なやむ
恋いしや古里 なつかし父母
私は宿命的に放浪者である。
私は古里を持たない。
父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。
母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。
母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処であった。
私が生れたのはその下関の町である。
故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。
それ故、宿命的に旅人である私は、この恋いしや古里の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった』
 
という一節で始まる「放浪記」は、林芙美子自身の自伝的小説と言われ、極貧でも前向きに力強く生きていく女性像は、当時の読者の圧倒的な支持を得てベストセラーとなった。
金銭の余裕ができた林芙美子は、満州事変下の中国や欧州など、当時とすれば無鉄砲とされた単独行を繰り返したと言われているから、何だか身に詰まされる話である。
林芙美子が現在の鉄子の元祖などと言うつもりはないけれど、欧亜連絡によるパリ行きでは紀行文を出版社に送り続けたと伝えられているから、鉄道紀行文学の祖と言われる百閒先生の20年前に、遠大な鉄道紀行が活字になったことになる。
 
戦争の時代など経験したくはないけれど、鉄道趣味が海外旅行に繋がるならば、やっぱり羨ましいと思わざるを得ない(後編に続きます)。
 
 
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