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読書記録、環境問題について

『日本の職人』吉田光邦 2013.7

 

 数年前、ツイッターか何かのSNSにおいて、キヨスクで「職人技」を持つ店員が激減し、サービスの質が低下したと話題になった。

 東京都内の駅はごった返している。通勤の経験はないが、旅行や帰省等で東京に寄った時うっかりラッシュアワーにぶつかったことがあり、行きたい方向へ進めないほどの混雑を身をもって体験した。

 そんな大混雑の中において、キヨスクで買い物をするためには、要領も手際もよく十数人のお客さんをいっぺんに対応することができる「職人技」を持った店員が欠かせない。

 しかしながら「組織の効率化」が求められた結果、長期勤務の「職人」たちは排除され、代わりに安い労働力のバイトが導入された。

 

 キヨスクでさえこのような状況であるのだから、いわんや伝統工芸職人をや、である。

 

 

 

 本書は1960年代に角川新書から刊行された『日本の職人』を底本とし、1970年代の情勢を加え1976年に改めて刊行された本の文庫版である。

 1950年代から70年代までのさまざまな伝統工芸職人の現状を報告するるポタージュである。

 青銅鏡、墨、箪笥、鯉のぼり……。様々な職人が列挙されている。

 

 だが2020年代の現在において、どれだけの職人が減ったであろうか。いや、どれだけの物が、日用品から姿を消したであろうか。

 日用品として使われる焼き物や漆塗りなどは今もなお数は少ないなれど比較的多くの職人が日本にいる。しかし、扇子や傘などはプラスチック製のうちわやビニール傘に替わってしまった。箪笥も衣類ケース、瓦も屋根用パネルに替わっている。

 日用品として排除された伝統工芸品は、淘汰されるか、美術品や嗜好品としての道を歩まざるを得なくなった。

 

 本書では挙げられていないが、大工や左官、織物や染物についてもそれぞれツーバイフォーやパネル、ポリエステルなどに替わった。ほかにも探せばいくらでもあるだろう。

 

 環境保護の観点からできなくなった分野もある。本書には長崎のべっ甲細工職人が紹介され、1970年代当時はタイマイ(ウミガメ)を東南アジアから輸入できていたが、今では取引が禁止されている。

 そうでなくとも、べっ甲風のプラスチック製品が安価で流通している現代である。タイマイ売買云々にかかわらず、美術品や高級品としての道を歩まざるを得なかっただろう。

 

 ただし、現在においては希望もある、と一読者は考える。

 本書のエピローグでは焼き物の「窯」について、電気やガスが導入され機械化が進み、職人は重労働から解放された代わりに、「共同体」としての窯を廃止したことによる職人同士のネットワークの破壊、およびコミュニティの崩壊を、著者は問題として警鐘を鳴らす。

 しかし、それから50年を経過した2020年代においては、SNSの全盛期だ。再び、職人同士の連携や消費者とのつながりを復活させることができるチャンスがある。

 だがそれも、インターネットに明るくなければならない。日本の職人を支持する若い世代は、これらのネットワークやコミュニティ復活の手助けを行うことで職人技の継承に貢献できるのではないだろうか。

『興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話』森谷公俊 2016.2
 
 なぜ、アレクサンドロスは東の彼方、インドまで領土を広げようとしたのだろうか。
 マケドニア軍の進撃ルートや敗走ルートまで事細かく記録された資料はあるのに、肝心の「目的」がよく分からない。
 インドの香辛料などの交易品を手に入れたかったのか?新しい世界を見てみたかったのか?歴史に名を残そうと励んだのか?それとも思いつくがままだったのか。
 アレクサンドロスにかかる「歴史書」は数多あれど、目的についての推測は時代時代によって異なる。つい2世紀前の研究では、「成熟した高度な文明が東洋に広」げるがために行ったという、植民地支配の全盛期ならではの解釈を採っている。
 
 アレクサンドロスの出身地マケドニアは、当時は古代ギリシャの北部にある小国に過ぎなかった。(なお、現代の「マケドニア」は近年成立した国家であり、古代マケドニアとの連続性はない。むしろギリシャに反対されて国名に「旧ユーゴスラビア」を付すことを妥協を余儀なくされた。)
 このころの世界情勢は、アカイメネス朝ペルシアが時代を謳歌していた。エジプトはすでに支配下にあった。ギリシャのポリス連合はまとまりがなかった。ローマはまだイタリアの一小国に過ぎなかった。
 だから、ペルシアさえ倒せば、エジプトも、リュディア(現在はトルコの領土)も、ペルシアも手中におさめ、ゆくゆくは隣国のインドをも制覇することができる。そういう野望があったのだろうか。
 
 一番知りたいのは大王が東方遠征に挑んだ動機であるし、本書も一切の「伝説」を排して信用しうる歴史書や研究成果を持ち出しては読者の期待に応えようとしている。
 だが結局、わからずじまいなのだ。本書のあとがきにも「最大の難問」と認めている。
 

 わからないことは、この「最大の難問」だけではない。ほかにも難問がある。
 アレクサンドロス最大の謎の一つとして、なぜペルセポリスを焼き払ったのか、という問題がある。
 これにもさまざまな説が唱えられており、また当時の記録にも辻褄合わせみたいなものがあったりしてますますよく分からない。
 ペルセポリスにたどり着く前のスーサ、いわばペルシアの政治的首都では略奪だとか破壊行為などは一切なく、ペルシア式の礼儀に則ってペルシア側の高官と謁見している。
 
 この、ペルシア文化に迎合するマケドニア国王の妥協、「堕落」が大いに批判されたと歴史書には書かれている。いつの時代も異文化に非寛容な国粋主義者はいるものだ。それゆえ、その不満を逸らすために、ペルセポリスでは略奪破壊行為を解禁したのだろうか。
 政治的首都がスーサとなれば、ペルセポリスはどういう立ち位置だったのか。その点が、アレクサンドロスのこの残虐な行為たらしめた理由ではないだろうか。ペルセポリスは、宗教的首都であったのだ。
 自らを神格化しようとした王にとって、絢爛豪華な宮殿があっては太刀打ちできない。そこで燃やすことによって、王自らが新たなペルシアの王として喧伝する必要があったのではなかろうか。本書にそう書いているわけではないが、個人的にはそんな予想を立てている。
 
 だが、アレクサンドロスが東方遠征を企んだ目的が分からなくなってしまったのは、なによりも王本人が早死にしてしまったからに他ならない。
 結局広大なアレクサンドロスの大帝国は一旦4つに分割統治され、一部は瓦解してしまったもののシリアやエジプトは比較的安定して続くこととなった。
 しかし、カルタゴとのポエニ戦争に勝利したローマ共和国が帝国となり情勢は一変、ササン朝ペルシア(現在のイラン)を除いてはすべてがローマ帝国の支配下となってしまった。もはやこの時代には、エジプトもギリシャも現トルコも無かった。(だから現在、ギリシャとトルコが事あるたびに外交問題を起こしているが、元をたどれば意味のない喧嘩である。)
 
 多くの謎を残したまま、アレクサンドリアは志半ばに世を去った。しかし、24世紀を経て今もなお大王の伝説が読み継がれているところを見ると、大王は歴史に名を残したかった、という野望を持っていたとしたならば十分に果たされたといえよう。
 

『カルタゴ人の世界』長谷川博隆 2000.3

 

 「カルタゴ人」と聞いて、そんな民族いたっけか?と思った。試しに20年前に発行された高校教科書「世界史A」を読み返してみた。
 わずか1行、「(共和制ローマは)ポエニ戦争などで、カルタゴにかわって地中海全体を支配下におさめていく」と本文に触れられていたのみであった。
 なおポエニ戦争の注釈に「フェニキア人の植民地カルタゴとのあいだにたたかわれた戦争」と書かれていた。「ローマ人はフェニキア人をポエニとよんだ」とも書いてある。
 ということは、カルタゴを治めていたのはフェニキア人であり、ローマもカルタゴの連中はポエニつまりフェニキア人であると認識していたわけだ。

 

 では、著者はなぜ敢えて「カルタゴ人」という括りを持ち出したのか、著書を読んでいてもいまいちよくわからなかったので、ここは世界史Aの副教材で調べてみた。
 フェニキア本国(現在でいうとレバノンあたり)はバビロニアやアカイメネス朝(アケメネス朝)ペルシアの勢力に取り込まれ、ポエニ戦争のころにはすでにアレクサンドロスが征服しヘレニズム文化圏に属してしまった。
 それゆえ、本来のフェニキア人とは時代区分も違うし実質的な「カルタゴ国」となってしまったから、本国を失い植民地で航海貿易により繁栄し共和制ローマと対峙した時代のフェニキア人を「カルタゴ人」と呼び分けているようだ。
 本書にはそこまで詳しく言及していないが、そこのところがよく分かっていないと混乱をきたすため、ここでは補足的に書いた。というか読みながら調べた。つまりこの本は、古代地中海の歴史に精通した人向けの上級者向けの本なのだ。

 

 無謀にも上級者向けの本を手にしてしまったが、本書で述べられている「カルタゴ人」の謎については、いたって簡単なことである。
 カルタゴ人についてよく分かっていないのは、歴史書に記載されているカルタゴ人は残虐であり嘘つきであるなどと偏見に満ち満ちて書かれており、それも後の時代の「歴史家」によって編纂されているものである。
 おそらくカルタゴ人が反映していたころの時代を記述した書物はあったのだろうが、戦争に敗れて焚書されただろうし、大図書館も紛争や放火により消失してしまった。今に残るカルタゴ人の伝承は「勝者の歴史」に他ならない。国が亡びるとは、歴史をも歪められてしまうのだ。

 

 ならば実像のカルタゴ、およびカルタゴ人はどのようなものであったのか。本書は歴史書の断片的な記述を収集したり、2000年当時の発掘調査をもとに明らかにできるところまでやってみようという意欲作なのである。

 面白い記述があった。凡人にはどうしても、3度にわたる共和制ローマ対カルタゴによる「ポエニ戦争」に目が行きがちだから、カルタゴとローマの制海権をめぐる2大大国の争いを想像してしまうが、実態はそんな単純な1対1の構造ではなかったらしい。
 まだ帝国制を採っていなかったローマは、西側のスペイン(ヒスパニア)に度々侵略され、それを抑え込むために兵力を陸側に向けていた。一方でカルタゴも、南側のヌミディアに常々脅かされていた。さらに両国にとっての脅威、東側はアレクサンドロスが築いたヘレニズム文化圏の超大国が陣取っていた。
 これだから世界史は、高校時代にはややこしくて難しくてめんどくさいとペンを投げたくなるところだが(かく言う自分もペンを投げた一人である)、大人になって読むと実に面白い。この微妙な大国・小国の駆け引きが渦巻く外交の世界。2300年前から現代にいたるまで変わってないではないか。

 

 現代に置き換えると、超大国アメリカと中国の2大国の覇権争いだと考えがちだが、カルタゴを通した歴史を学んでいれば、その周囲にはロシアがおり、欧州連合がいたり、独立して勝ち馬に乗ろうとするイギリスがいて、さらにはこの混沌を更に引っ掻き回そうとするユダヤ人のロビー活動がある。
 勝者となったローマはその後帝国制を採り、欧州の旧西欧ほぼ全土と地中海沿岸を制したが、その後イスラーム勢やモンゴル勢に押され、内紛し東西に分裂してしまいいつしか「古代」と称されてしまったのはご存じの通り。栄枯盛衰のお手本のようだ。挙句にネロ皇帝は「暴君」と後の歴史家に書かれてしまう。歴史は何度も何度も繰り返す。
 歴史を学ぶとはそういうことなのだろう。特に小国日本は、古代ローマ帝国や古代エジプトの歴史を学ぶのも大事だけれども、小国だが制海権をもって商業的繁栄に成功したカルタゴに学ぶところが多いのではないか。
 カルタゴの歴史について、今後も研究が進展することを切に願いたい。

 

『グリム童話考 「白雪姫」をめぐって』小澤俊夫 1999.11
 
 「イソップ物語」の次は、「グリム童話」だ!
 そんな単純な理由で次に読む本を選んだ。昔話がどうやって蒐集され編纂されていくのか、その過程を垣間見るのが大変面白く感じるようになってきた。
 
 グリム童話(『子どもと家庭のメルヒェン集』)は、ドイツの言語学者・グリム兄弟(兄はヤーコプ、弟はヴィルヘルム)が口承の物語を聞いて集めて編纂された書物だ。
 本書を読む前は、ドイツ語辞典を編纂するための資料収集として数量がたまったメルヒェンを本にまとめた副産物的な著作物が「グリム童話」である、と聞いたことがあったのだが、どうも違うらしい。
 どちらが正しいのか、他のグリム兄弟研究の本を読んで判断するしかないが、少なくともこの「グリム童話」を初版(1812年)から数えること45年、第7版まで手を加え続けて質の向上を目指していたこの執念を考えると、確かに「副産物」では片づけられないものがある。
 
 さて、前回の「イソップ物語」は、時代や編纂者によって一つの話が他の動物に置き換えられたり結論が代わっていくところが見ものであり、二千年以上の風雪を耐えるに致し方のない変遷があったと理解した。
 しかし今回の「グリム童話」は、同じ著者が45年の間に一つの話に色々と手が加えられたり割愛されたり、脚色されたりしているのを比較するのが面白い。
 売れるために、読みやすくするために、芸術的に昇華させるために変えていったのだろうが、一番は、どうしたら子供たちの「ためになる」かを試行錯誤したことだろう。
 
 「手が加えられた」とはいっても、話の筋は聞き取り調査の本筋(つまりは初版)を貫き通しているから、別に改変したりましてや捏造したりしているわけではない。そこは言語学者の矜持として許さなかっただろう。
 ではどうして、手が加えられる必要があったのか。それは、時にはグロい描写があるからだ。ひと頃流行った、「本当は怖いグリム童話」みたいなことで、子供に読み聞かせるのに適か不適かという葛藤があったようだ。
 しかし著者は、残虐な行為はむしろメルヒェンにはつきものだ、と断言する。魔女は悪い奴だから殺さなければならない。「灰かぶり姫(シンデレラ)」の継母と義理の姉はひどい仕打ちをしてきたのだから目を刳り貫かれなくてはならない。それが悪を憎む精神を育むのだ、と。
 一方でこれをそのまま今の時代に適応するには問題があるとも著者は説く。目を刳り貫かれた義理の姉たち、つまり盲目者は哀れなのか?これは障碍者に対する偏見につながりかねない。魔女は悪という思想に至っては、中世の魔女狩りという欧州の狂乱時代を思い起こす。
 
 歴史的事実として、当時の物語(それこそ本当は怖い童話)を記録に残すことは、当時の時代的背景や空気を知る上でも大事だ。
 一方で、今の子供たちにはいかにして物語を咀嚼して誤解や偏見を取り除いて語るべきか。
 そう考えると、大人になった今こそ、子供向けの本の内容に一層の興味を覚えるのである。
 
『イソップ寓話 その伝承と変容』小堀桂一郎 2001.8
 
 「古典」とは長年の風雪を耐えて生き永らえてきたものであるから、価値のあるものである。だから古典文学や哲学書などを読もうとか言われるけれども、いまいちピンとこなかった。
 それを「イソップ物語」を通してみれば、以下に奇跡的に現代まで残り、そして磨き上げられてきたものであるか、ということがよく分かった。
 
 作者イソップは、紀元前5世紀にトロイ付近(ということは現在のトルコ西部)で生まれ、サモス島(トルコのそばの島だがギリシャ領)で奴隷として働いていたらしい。
 おそらく話し上手な人物であったのだろう、その比喩話が口承で広まっていった。イソップ物語はイソップ本人が書いたわけではなく、後の時代に伝承をまとめて文字に起こして編まれたわけだ。丁度、プラトンが師匠ソクラテスの言葉をまとめたように。
 そのプラトンの著書の中でも、ソクラテスがイソップの寓話を引き合いに論じる場面が書き残されている。プラトンの弟子であるアリストテレスもまた、イソップの寓話を引用している。
 ということはアリストテレスが家庭教師だったアレクサンドロス大王も、イソップ物語に触れていただろうし、大都市アレクサンドロスの図書館にはきっとイソップ物語に関する本も並んでいたかもしれない。
 
 しかし、ここで終わってしまったら、後世にまでイソップ物語は伝わらない。かつての図書館は現在、1冊の本も無いのだ。
 せっかく蔵書に収められても、災害や戦争、時には独裁政権による焚書によって、数多もの本が世の中から葬り去られてしまった。今となっては知ることのできない伝承や歴史がもっと沢山あったはずなのだ。
 ここで、「古典」と後に呼ばれるための“選別”が行われる。これは重要だ、または面白いと思った人が、その本を筆記で写し取る。当然コピー機なんてなく、印刷技術も15世紀まで待たねばならないから、全ては「写本」が頼りとなる。(ちなみに15世紀に大量の本が発行され、イソップ物語は再度、広く知れ渡ることとなった。)
 
 それだけではない。今度はこれをラテン語から自分たちが使う言語に翻訳しようというものも現れなくてはならない。
 中世ヨーロッパは魔女狩りや焚書などの暗黒時代を迎えていたからギリシャ文明時代の哲学や数学、天文学などの本がほとんど残っていなかった。それがアラビア語訳でトルコなどに残っていたので、ヨーロッパに逆輸入されルネサンスが花開いた。
 イソップ物語もラテン語からさまざまな言語に翻訳され写本され続けて、世界各地に残ることが出来た、まさに優れた「古典」なのだ。
 
 さて、古典ならぬ「古文」といえば、『伊曽保物語』が思い出される出版は江戸時代初期とされ、日本初の西洋文学の翻訳本だ。イソップ物語は江戸時代の子供たちも知っていた、と思うと実に感慨深いものがある。
 さらに少し遡れば、天正年間に天草で発行されたローマ字版『イソポのハブラス』(『天草版伊曽保物語』とも称されるが作者はこの表現を嫌っている?ようだ)も思い出される。時は本能寺の変が起きた後の豊臣政権のころだ。(余談だが、政権が信長時代、秀吉時代のどちらとも、元号は天正なのだ。)
 本書では、古文で書かれたイソップ物語が転載されているわけだが、古文で読むと妙に味がある。説得力があるのか、古文のリズムが良いのか、とにかく「声に出して読みたい」物語である。
 試しに読んで味わってもらいたい。本書191頁から。(※読みやすいよう改行した。繰返し文字は横書き及び文字化けの都合上変更した。)
 

  蝉と、蟻との事。
 
 或る冬の半(なかば)に蟻ども数多穴より五穀を出いて日に曝(さら)し、風に吹かするを蝉が来てこれを貰うた、蟻の言ふは、
「御辺(ごへん)は過ぎた夏、秋は何事を営まれたぞ?」
 蝉の言ふは、
「夏と、秋の間には吟曲にとり紛れて、少しも暇(いとま)を得なんだによつて、何たる営みもせなんだ」
と言ふ、蟻
「げにゞゝその分ぢや、夏秋歌ひ遊ばれた如く、今も秘曲を尽されてよからうず」
とて、散々に嘲(あざけ)り少しの食を取らせて戻いた。
 
 下心。
 
 人は力の尽きぬ中(うち)に、未来の務めをすることが肝要ぢや、少しの力と、暇(ひま)有る時、慰みを事とせう者は必ず後に難を受けいでは叶ふまい。
 
 
 いわゆる「アリとキリギリス」だが、日本には幸い蝉は身近な昆虫だったので、原典通り蝉が採用されている。
 それにしてもどうだろう、2500年前の人生訓、今の我々はちゃんと心得ているであろうか?