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読書記録、環境問題について

『興亡の世界史 人類文明の黎明と暮れ方』青柳正規、2018.6

 

 

 文明は、なぜ滅びるのか。
 古代の大きな文明は、自然災害や異文化・文明との衝突など、外的要因によってその崩壊理由を語られることが多い。もっとも、例えば森林伐採に伴う山林の崩壊が、都市部への災害や、木質資源を巡る他国との争いを招いたなら、自然災害は内的要因だとする考え方もある。
 しかし、本書は古代文明崩壊の理由を、内的要因に見出そうとする。古代の都市は、「自壊」したのである、と。

いくつかの文明の興亡をたどると、その文明を繁栄させた原因や要素こそが、同じ文明を衰退させる働きをすることがわかる。
 (本書358頁)


 著者は「文明は必ず滅びる」(359頁)と断言する。どういうことか。
 クレタ島のミノア文明 ギリシャのミケーネ文明、イタリア北西部のエトルリア文明。これらの文明は全て、後に反映する文明にとってかわられた。つまりミノア文明はミケーネ文明に、エトルリア文明はローマ文明という具合に変遷した。
 しかし支配者や構成する民族が変わっても、一部の文化は継承されたし、さらに発展を遂げた。全ての道はローマに通ずとされる幹線も、元はエトルリア文明から引き継いだものだ。
 こうしてみると、文明は滅びるどころか、後の新たな文明によって受け継がれているように見える。まるで生物の遺伝子のように。まさに文明の「進化」とも捉えられるではないか。
 この、文明の「進化」という考え方、「社会進化論」そのものに誤りがある、と本書は指摘するのだ。そして、今の文明が、過去よりも優れているという誤解が、「自壊」を招くことになる。
 ミノア文明からエトルリア文明までの膨大な遺産を引き継いだローマ文明は、どのような晩年を迎えたか。頭打ちとなった文明の「進化」に停滞を見出すと、さらに進化せねばならないという焦燥感や、もう進化できないという悲壮感が、ローマの人々の心に鬱積していく。
 拡大しすぎた幹線道路や都市を維持できなくなった。かくしてローマは滅びた。名前だけは「神聖ローマ帝国」など、うわべだけは残った。だが地中海の沿岸に点在するコロッセオは、その姿だけを残して、建築技術や興行などの文明・文化は消え失せてしまった。

 だが、文明が滅亡する理由を、一つの原因に収束するべきではない。「自壊」のみではない。
 上記のミノア文明からローマ文明まで、気候変動や戦争に伴う難民の流入がもたらされたことも滅亡の一因とされる。無論、異民族の流入が文明を崩壊させるわけではない。
 翻って現代社会ではどうか。ヨーロッパでは随分と移民問題の議論が喧しい。自国の文化や文明の危機だと煽る政治家もいる。過去の文明が衰退した歴史を学んでいれば、この政治家が移民問題を曲解し論点を矮小化させていることがよくわかる。
 また、本書は2018年に書かれた(原本は2009年)ものだが、著者は日本で将来「疫病」が問題にならないかを懸念している。歴史を学ぶということは、将来起こりうる問題を見通すことに繋がるのだ。

 

 

『円周率πの世界 数学を進化させた「魅惑の数」のすべて』柳田晃 著、2021.6

 「なぜ歴史を学ぶのか」という疑問がよく投げかけられている。
 特に、義務教育にかける時間の配分を巡って、理数に多く時間を割く代わりに、歴史を削ってしまえという旨の主張をする者がいるようだ。理数教育の大事さは理解できる。それゆえに、歴史を教えることも大事だと言える。

 本書の真のテーマは、「円周率の歴史」といえるのではないか。
 円周率πの算出をめぐって、紀元前26世紀のバビロニア時代の楔形文字が書かれた粘土板時代から話が始まる。それから古代エジプト、古代中国、古代インドと話が続いていく。
 そして古代ギリシャのピタゴラスやアルキメデスを経て、ようやく16世紀の微分積分に辿り着く。
 この間、三平方の定理や記数法(60進法から10進法になるまで)、三角関数、代数学と数学の技術が進化を遂げていく様子が描かれている。
 まさに数学の歴史は、「円周率の歴史」と共にあったと言っても過言ではない。

 この「円周率の歴史」抜きにしては、微分積分を必要とする理由、そして、微分積分を学校で学ぶ意義というものが見えてくる。
 微分積分が必要なのは、それぞれ「接線」と「面積」を求めるためだ……という説明では、駄目なのだ。それならば、微分積分を「使わなければならない」理屈とはならない。
 微分の逆は積分である、そのことを当たり前のように教わると何のありがたみも感じない。だが微分積分開発の歴史をたどっていくと、「接線の角度」と「面積」を求める計算行為が表裏一体であることを発見した数学者の、その喜びたるや、ほんの少しでも味わうことができるのではないか。

 このように歴史を紐解いていけば、数学の教科書に書かれた公式の意味を理解することがたやすくなる。
 また、数学が苦手な者でも、物語に興味があれば、歴史を「エサ」に数学の世界へ引き入れることができるのではないだろうか。

 やがて円周率の計算はコンピュータの時代に突入する。
 だがコンピュータの歴史は、戦争の歴史でもある。「大砲の弾道計算をおこなうために、高速計算ができるコンピュータが要求され」た背景があるのだ〔本書211頁〕。
 数学にとっても歴史は、決して切り離せるものではない。


 

『ビーグル号世界周航記』C・ダーウィン、荒川秀俊訳 2010.2

 

 1831年から36年までの5年間、南米および太平洋の諸島をビーグル号で航海した博物学者チャールズ・ダーウィンは、動植物及び地質の驚くべき見聞の数々を、精力的に著していた。

 それは『ビーグル号航海記』として刊行され、世に知れ渡り、180年くらい時を経た今もなお「古典」として読み継がれている。

 

 本書はその「お手軽版」とでも言うべき再編集版で、1880年にニューヨークで出版された本の邦訳である。

 ところで、「お手軽版」が出版されるというのも、後世に読み継がれ「古典」となるための一つの条件かもしれない。

 

 

 ダーウィンが南米滞在期間中に見たものは、当然ながら動植物や地質だけではなかった。

 そこにはたくさんの人間が住んでいたのだ。

 

 当時は植民地であった南米には、原住民と、欧米人、黒人奴隷、そして混血する人々がいた。

 現地部族と侵略者による激しい戦闘、そして虐殺。捕虜、黒人および混血奴隷の凄惨な扱われ方。

 

 ダーウィンは目の前で起きる事実を淡々と、そして怒りを込めて告発する文章の冒頭を次のように書きだした。

リオ・デ・ジャネイロの近くで、私は女の奴隷の指を押しつぶすためのネジをもっている老婆の家の向かい側に暮らしていた。  (本書122頁)

 それよりもっと極悪非道で残虐な話は割愛すると言っているのだから、いかに悍ましい歴史がこの地ではあったのかを、古典を読む現代人に覚らせてくれる。

現状のままであることを望むなんて、なんと面白くない考えであろう!  (中略)かりにも君の身の上におそいかかったと考えてみなさい!しかもこうした仕業(しわざ)が、隣人を彼ら自身のように愛すると告白する人々──神を信じ、神の御旨(みむね)が地上でおこなわれることを祈る人たちによってなされ、擁護されているのだ!  (本書124~125頁)

 ダーウィンは晩年、進化論を唱えることで教会と対峙していく(『種の起源』発表の頃にはすでに進化論は科学界において周知のものだったようだ)。

 しかし、ビーグル号航海時期からすでに教会や信者に対する怒りが沸き上がっていたのかもしれない。こんなことをするためにスペインやポルトガルは南米に宣教師を遣わしていたのか、と。

 そのようなダーウィンの姿を発見することができるのも、「古典」を読むからこそ、である。

 

『科学とはなにか 新しい科学論、いま必要な三つの視点』佐倉統 著、2020.12

 久々に科学ものの本を読んでみようと手にとったのだが、いきなり関心は、別のところに向いてしまった。
 「はじめに」の中で、大正12年に発刊された北海道陸別村(現・陸別町)の広報誌における青年の主張が紹介されているのだが、その内容が実に良い。著者も評すとおり、「農村の若者の矜持とが伝わってくる」のだ。

 主張文は挿入図で掲載されていたのだが、読みにくいこともあり、せっかくなので以下に全文を書き出した。その矜持たるものを噛みしめたい。
 著者は小利別青年会長・高橋京二氏、題は「余は敢て靑年諸君に讀書を勸む」、地方の者こそ読書がいかに大事かを説いている。

 

 

 

 

 古諺(こけん)に曰く『人世字を知る慮(うれひ)の始め』と……然りとせば目に一てふ字を解せざる者には、慮無かるべき筈である。
 が却って是等の人々に慮の多きを見受くるに至つて、子(じ)を知る者のみ慮の所有者でない事が證明される。

 勿論淺學無才の余の到底諺の真理を解する能はざるは當然であるが、然し彼(か)のニユートン以來一人(にん)として不審としなかつた物理の一端が、幾百年かを經過した今日、アインシユタインに依つて、其の理論を根底から破壊されるに到つた事實に徴して、余の考へ強(あなが)ち理なしとは云へぬ筈である。

 余は且つて北海靑年論壇に於て、某靑年會員の『農村靑年の讀書不必要』論を見て、其の謬見(びうけん)の甚だしきに呆れたのである。
 それに對して、他の會員から反駁論の出た事も未だ記憶に新(あらた)なる所である。

 讀書は決して都會靑年の專有ではないのみならず、都會靑年より以上吾人(ごじん)農村靑年は讀書の必要を感ずるべき筈である。
 如何となれば文明進歩の源泉地を遠く離れて居る、吾人は讀書を放(はな)れて、果して都會靑年と伍して遜色のない靑年となり得るであらうか?
 特別に講師を招聘して講演でも乞ひば格別であるが、然しそれは理想であつて、經費の關係上からも、實施甚だ困難な筈である。
 余は斯(か)ふした見地から吾人靑年の智識向上は一も二も讀書に俟(ま)つ事の大なるを常に深く感ずる次第である。
 故に余は淕別(りくんべつ)靑年會が率先して、村の爲(た)め、各團体の爲め、物質的にも精神的にも多大の犠牲を拂(はら)つて、本會報を發行するに到つたその精神を諒としその努力を崇敬して止まないのである。

〔『広報りくべつ復刻版Ⅰ(大正12年~昭和38年)』大正12年5月20日第4号「淕別青年会会報」、
  一部新字体で表記(例:強、進)、一部ルビ省略〕

 


 なお、新書ではこのうちアインシュタインの記述に関して「この認識は不正確だ」と評し、科学と世間のイメージとのずれを探っていくことになる。

 けれども、今からおよそ100年も前に、地域振興やそれを担うものの心構え、東京一極集中に抗う態度というものを見つけることができ、嬉しく思う。
 たまには「科学」ものの本を読んでみるものだ。

 ところで、主題である科学と世間のずれについて、どのように克服すればよいのだろうか?
 ひとつには、岩波新書は創刊時の頃のようにもっと科学ものを充実させなさい、というふうに読み取ったのだが。

 

 

『イザベラ・バードの旅』宮本常一、2014.4

 

 古典を読むのは骨が折れる。その点、抜粋版や解説書など「忙しい人向け」の本は大変重宝する。

 本書はイザベラ・バード著『日本奥地紀行』から一部を引用してはその背景等を解説するものであるが、改めて「解説」というものが古典を読むうえでいかに重要であるかを認識させられた。

 

 わたしが大変興味深く感じたのは、市井の人々が「外国人」を観たくてバードの宿にわっと押し寄せるところである。

 例えば、会津の大内村(現福島県下郷町大内宿)から高田(現福島県会津美里町)へ入った時のこと。

「外国人がほとんど訪れることもないこの地方では、町のはずれではじめて人に出会うと、その男は必ず町の中に駆けもどり、「外人が来た!」と大声で叫ぶ。すると間もなく、(中略)老人も若者も、着物を着た者も裸の者も、集って来る。宿屋に着くと、群衆がものすごい勢いで集ってきた(中略)。…大人たちは家の屋根にのぼって庭園を見下し、子どもたちは端の柵にのぼってその重みで柵を倒し、その結果、みながどっと殺到してきた。」  (本書95~96頁)

 これに宮本は解説する。

ペリーが日本へやって来た時、(中略)武装してペリーの艦隊の行動に神経をとがらせている。しかし一般民衆は、久里浜沖に泊った船の間を全然警戒なしに漕ぎまわっている。中には興味を持って船を見に来るのもいるし、全く武装しない帆前船が港を出て行くのもみられる。(中略)これと同じことがイザベラ・バードの東北の旅の中にうかがわれるわけです。  (本書188頁)

 つまり当時の日本人は、外国人に対する好奇心が旺盛だったのだ。

 これを読むと、幕末から明治にかけて日本の政(まつりごと)は開国派と尊王攘夷派がいがみ合っていたのとは裏腹に、一般庶民は外国人が来るたびに祭事(まつりごと)のように大はしゃぎだったのだ。

 改めて、「日本史」と庶民の歴史との乖離を認識させられるし、宮本の民俗学に対する眼差しというものが垣間見れて興味深いのである。

 

 最後に、当時の日本人がアイヌ人に対する偏見の記述について宮本が述べているのだが、解説の赤坂憲雄氏はこれに疑問を呈している。

 なお、アイヌ人差別問題についてここでは省く。

 興味を引いたのは、本書には「解説の解説」があるということだ。宮本の著書もまた、「解説」が欠かせない日本の古典になりつつある。