ブルーバックス読書記録 No.24『科学とはなにか』 | BLOGkayaki1

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『科学とはなにか 新しい科学論、いま必要な三つの視点』佐倉統 著、2020.12

 久々に科学ものの本を読んでみようと手にとったのだが、いきなり関心は、別のところに向いてしまった。
 「はじめに」の中で、大正12年に発刊された北海道陸別村(現・陸別町)の広報誌における青年の主張が紹介されているのだが、その内容が実に良い。著者も評すとおり、「農村の若者の矜持とが伝わってくる」のだ。

 主張文は挿入図で掲載されていたのだが、読みにくいこともあり、せっかくなので以下に全文を書き出した。その矜持たるものを噛みしめたい。
 著者は小利別青年会長・高橋京二氏、題は「余は敢て靑年諸君に讀書を勸む」、地方の者こそ読書がいかに大事かを説いている。

 

 

 

 

 古諺(こけん)に曰く『人世字を知る慮(うれひ)の始め』と……然りとせば目に一てふ字を解せざる者には、慮無かるべき筈である。
 が却って是等の人々に慮の多きを見受くるに至つて、子(じ)を知る者のみ慮の所有者でない事が證明される。

 勿論淺學無才の余の到底諺の真理を解する能はざるは當然であるが、然し彼(か)のニユートン以來一人(にん)として不審としなかつた物理の一端が、幾百年かを經過した今日、アインシユタインに依つて、其の理論を根底から破壊されるに到つた事實に徴して、余の考へ強(あなが)ち理なしとは云へぬ筈である。

 余は且つて北海靑年論壇に於て、某靑年會員の『農村靑年の讀書不必要』論を見て、其の謬見(びうけん)の甚だしきに呆れたのである。
 それに對して、他の會員から反駁論の出た事も未だ記憶に新(あらた)なる所である。

 讀書は決して都會靑年の專有ではないのみならず、都會靑年より以上吾人(ごじん)農村靑年は讀書の必要を感ずるべき筈である。
 如何となれば文明進歩の源泉地を遠く離れて居る、吾人は讀書を放(はな)れて、果して都會靑年と伍して遜色のない靑年となり得るであらうか?
 特別に講師を招聘して講演でも乞ひば格別であるが、然しそれは理想であつて、經費の關係上からも、實施甚だ困難な筈である。
 余は斯(か)ふした見地から吾人靑年の智識向上は一も二も讀書に俟(ま)つ事の大なるを常に深く感ずる次第である。
 故に余は淕別(りくんべつ)靑年會が率先して、村の爲(た)め、各團体の爲め、物質的にも精神的にも多大の犠牲を拂(はら)つて、本會報を發行するに到つたその精神を諒としその努力を崇敬して止まないのである。

〔『広報りくべつ復刻版Ⅰ(大正12年~昭和38年)』大正12年5月20日第4号「淕別青年会会報」、
  一部新字体で表記(例:強、進)、一部ルビ省略〕

 


 なお、新書ではこのうちアインシュタインの記述に関して「この認識は不正確だ」と評し、科学と世間のイメージとのずれを探っていくことになる。

 けれども、今からおよそ100年も前に、地域振興やそれを担うものの心構え、東京一極集中に抗う態度というものを見つけることができ、嬉しく思う。
 たまには「科学」ものの本を読んでみるものだ。

 ところで、主題である科学と世間のずれについて、どのように克服すればよいのだろうか?
 ひとつには、岩波新書は創刊時の頃のようにもっと科学ものを充実させなさい、というふうに読み取ったのだが。