講談社学術文庫読書記録 No.61 『アレクサンドロスの征服と神話』 | BLOGkayaki1

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『興亡の世界史 アレクサンドロスの征服と神話』森谷公俊 2016.2
 
 なぜ、アレクサンドロスは東の彼方、インドまで領土を広げようとしたのだろうか。
 マケドニア軍の進撃ルートや敗走ルートまで事細かく記録された資料はあるのに、肝心の「目的」がよく分からない。
 インドの香辛料などの交易品を手に入れたかったのか?新しい世界を見てみたかったのか?歴史に名を残そうと励んだのか?それとも思いつくがままだったのか。
 アレクサンドロスにかかる「歴史書」は数多あれど、目的についての推測は時代時代によって異なる。つい2世紀前の研究では、「成熟した高度な文明が東洋に広」げるがために行ったという、植民地支配の全盛期ならではの解釈を採っている。
 
 アレクサンドロスの出身地マケドニアは、当時は古代ギリシャの北部にある小国に過ぎなかった。(なお、現代の「マケドニア」は近年成立した国家であり、古代マケドニアとの連続性はない。むしろギリシャに反対されて国名に「旧ユーゴスラビア」を付すことを妥協を余儀なくされた。)
 このころの世界情勢は、アカイメネス朝ペルシアが時代を謳歌していた。エジプトはすでに支配下にあった。ギリシャのポリス連合はまとまりがなかった。ローマはまだイタリアの一小国に過ぎなかった。
 だから、ペルシアさえ倒せば、エジプトも、リュディア(現在はトルコの領土)も、ペルシアも手中におさめ、ゆくゆくは隣国のインドをも制覇することができる。そういう野望があったのだろうか。
 
 一番知りたいのは大王が東方遠征に挑んだ動機であるし、本書も一切の「伝説」を排して信用しうる歴史書や研究成果を持ち出しては読者の期待に応えようとしている。
 だが結局、わからずじまいなのだ。本書のあとがきにも「最大の難問」と認めている。
 

 わからないことは、この「最大の難問」だけではない。ほかにも難問がある。
 アレクサンドロス最大の謎の一つとして、なぜペルセポリスを焼き払ったのか、という問題がある。
 これにもさまざまな説が唱えられており、また当時の記録にも辻褄合わせみたいなものがあったりしてますますよく分からない。
 ペルセポリスにたどり着く前のスーサ、いわばペルシアの政治的首都では略奪だとか破壊行為などは一切なく、ペルシア式の礼儀に則ってペルシア側の高官と謁見している。
 
 この、ペルシア文化に迎合するマケドニア国王の妥協、「堕落」が大いに批判されたと歴史書には書かれている。いつの時代も異文化に非寛容な国粋主義者はいるものだ。それゆえ、その不満を逸らすために、ペルセポリスでは略奪破壊行為を解禁したのだろうか。
 政治的首都がスーサとなれば、ペルセポリスはどういう立ち位置だったのか。その点が、アレクサンドロスのこの残虐な行為たらしめた理由ではないだろうか。ペルセポリスは、宗教的首都であったのだ。
 自らを神格化しようとした王にとって、絢爛豪華な宮殿があっては太刀打ちできない。そこで燃やすことによって、王自らが新たなペルシアの王として喧伝する必要があったのではなかろうか。本書にそう書いているわけではないが、個人的にはそんな予想を立てている。
 
 だが、アレクサンドロスが東方遠征を企んだ目的が分からなくなってしまったのは、なによりも王本人が早死にしてしまったからに他ならない。
 結局広大なアレクサンドロスの大帝国は一旦4つに分割統治され、一部は瓦解してしまったもののシリアやエジプトは比較的安定して続くこととなった。
 しかし、カルタゴとのポエニ戦争に勝利したローマ共和国が帝国となり情勢は一変、ササン朝ペルシア(現在のイラン)を除いてはすべてがローマ帝国の支配下となってしまった。もはやこの時代には、エジプトもギリシャも現トルコも無かった。(だから現在、ギリシャとトルコが事あるたびに外交問題を起こしているが、元をたどれば意味のない喧嘩である。)
 
 多くの謎を残したまま、アレクサンドリアは志半ばに世を去った。しかし、24世紀を経て今もなお大王の伝説が読み継がれているところを見ると、大王は歴史に名を残したかった、という野望を持っていたとしたならば十分に果たされたといえよう。