講談社学術文庫読書記録 No.58 『イソップ寓話 その伝承と変容』 | BLOGkayaki1

BLOGkayaki1

読書記録、環境問題について

『イソップ寓話 その伝承と変容』小堀桂一郎 2001.8
 
 「古典」とは長年の風雪を耐えて生き永らえてきたものであるから、価値のあるものである。だから古典文学や哲学書などを読もうとか言われるけれども、いまいちピンとこなかった。
 それを「イソップ物語」を通してみれば、以下に奇跡的に現代まで残り、そして磨き上げられてきたものであるか、ということがよく分かった。
 
 作者イソップは、紀元前5世紀にトロイ付近(ということは現在のトルコ西部)で生まれ、サモス島(トルコのそばの島だがギリシャ領)で奴隷として働いていたらしい。
 おそらく話し上手な人物であったのだろう、その比喩話が口承で広まっていった。イソップ物語はイソップ本人が書いたわけではなく、後の時代に伝承をまとめて文字に起こして編まれたわけだ。丁度、プラトンが師匠ソクラテスの言葉をまとめたように。
 そのプラトンの著書の中でも、ソクラテスがイソップの寓話を引き合いに論じる場面が書き残されている。プラトンの弟子であるアリストテレスもまた、イソップの寓話を引用している。
 ということはアリストテレスが家庭教師だったアレクサンドロス大王も、イソップ物語に触れていただろうし、大都市アレクサンドロスの図書館にはきっとイソップ物語に関する本も並んでいたかもしれない。
 
 しかし、ここで終わってしまったら、後世にまでイソップ物語は伝わらない。かつての図書館は現在、1冊の本も無いのだ。
 せっかく蔵書に収められても、災害や戦争、時には独裁政権による焚書によって、数多もの本が世の中から葬り去られてしまった。今となっては知ることのできない伝承や歴史がもっと沢山あったはずなのだ。
 ここで、「古典」と後に呼ばれるための“選別”が行われる。これは重要だ、または面白いと思った人が、その本を筆記で写し取る。当然コピー機なんてなく、印刷技術も15世紀まで待たねばならないから、全ては「写本」が頼りとなる。(ちなみに15世紀に大量の本が発行され、イソップ物語は再度、広く知れ渡ることとなった。)
 
 それだけではない。今度はこれをラテン語から自分たちが使う言語に翻訳しようというものも現れなくてはならない。
 中世ヨーロッパは魔女狩りや焚書などの暗黒時代を迎えていたからギリシャ文明時代の哲学や数学、天文学などの本がほとんど残っていなかった。それがアラビア語訳でトルコなどに残っていたので、ヨーロッパに逆輸入されルネサンスが花開いた。
 イソップ物語もラテン語からさまざまな言語に翻訳され写本され続けて、世界各地に残ることが出来た、まさに優れた「古典」なのだ。
 
 さて、古典ならぬ「古文」といえば、『伊曽保物語』が思い出される出版は江戸時代初期とされ、日本初の西洋文学の翻訳本だ。イソップ物語は江戸時代の子供たちも知っていた、と思うと実に感慨深いものがある。
 さらに少し遡れば、天正年間に天草で発行されたローマ字版『イソポのハブラス』(『天草版伊曽保物語』とも称されるが作者はこの表現を嫌っている?ようだ)も思い出される。時は本能寺の変が起きた後の豊臣政権のころだ。(余談だが、政権が信長時代、秀吉時代のどちらとも、元号は天正なのだ。)
 本書では、古文で書かれたイソップ物語が転載されているわけだが、古文で読むと妙に味がある。説得力があるのか、古文のリズムが良いのか、とにかく「声に出して読みたい」物語である。
 試しに読んで味わってもらいたい。本書191頁から。(※読みやすいよう改行した。繰返し文字は横書き及び文字化けの都合上変更した。)
 

  蝉と、蟻との事。
 
 或る冬の半(なかば)に蟻ども数多穴より五穀を出いて日に曝(さら)し、風に吹かするを蝉が来てこれを貰うた、蟻の言ふは、
「御辺(ごへん)は過ぎた夏、秋は何事を営まれたぞ?」
 蝉の言ふは、
「夏と、秋の間には吟曲にとり紛れて、少しも暇(いとま)を得なんだによつて、何たる営みもせなんだ」
と言ふ、蟻
「げにゞゝその分ぢや、夏秋歌ひ遊ばれた如く、今も秘曲を尽されてよからうず」
とて、散々に嘲(あざけ)り少しの食を取らせて戻いた。
 
 下心。
 
 人は力の尽きぬ中(うち)に、未来の務めをすることが肝要ぢや、少しの力と、暇(ひま)有る時、慰みを事とせう者は必ず後に難を受けいでは叶ふまい。
 
 
 いわゆる「アリとキリギリス」だが、日本には幸い蝉は身近な昆虫だったので、原典通り蝉が採用されている。
 それにしてもどうだろう、2500年前の人生訓、今の我々はちゃんと心得ているであろうか?