『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起』神田千里 2018.8
大学時代、レポート作成にウィキペディアの記述をコピペする行為が問題となった。
それが大々的に世間に知れ渡ることとなったのが、アメリカの大学で起こった「島原の乱」誤記コピペだった。(調べてみたら、2007年の出来事でした。)
アメリカで「島原の乱」を教えているんだなぁということに当時は驚いたが、今になって思えばキリスト教圏からすればその後の日本の厳しい弾圧が始まったわけだから、「大事件」である。世界の常識だったのだ。
さて、このコピペ騒動で、注目したいのはその「誤記」の内容だ。
「イエズス会が反乱軍を支援した」「マカオから援軍を送ろうとしていた」というものだ。
史実では、イエズス会は反乱軍に武器の提供をしていなければ、マカオから応援団が出発したという記録はない。完全なる誤記である。
しかし、どうしてそのような「誤記」が生じてしまったのか。それを検証するために、本書を熟読することとする。
結論をズバリ言ってしまおう。
まずはイエズス会の関与について。
イエズス会は島原の乱には関与していないが、それより前の安土桃山時代、九州には大村純忠などのキリシタン大名が存在した。その大名を支援していたのが、イエズス会だった。
キリシタン大名がイエズス会の布教を認めたのは、南蛮貿易が目的だったとか諸説ある。その見返りにイエズス会が大名に求めたのは、「異教徒」の迫害である。
偶像つまり仏像を破壊し、寺院を焼き討ちした。まさに廃仏毀釈である。天草や島原、その他キリシタン大名が治めた土地の仏教は、明治時代も含めて2度も憂き目にあっていたのだ。
その後、江戸時代に入り「伴天連追放之文」を交付してキリスト教徒を取り締まり、多くの人が見かけ上は仏教徒に戻ったが、深刻な飢饉と非情な重税によりキリスト教に「立ち帰った」人々が一揆を起こした、というのが本書の主張である。
以上の流れを見ると、きっかけはイエズス会の廃仏毀釈であったことから、それが島原の乱に影響を及ぼしたと言えなくもない。
次にマカオからの援軍説について。
原城に籠城したのは3万人から4万人と言われている。ただし中には無理やりキリスト教に改宗させられた人や、反乱軍が勝つだろうと勝ち馬に乗ろうとした人もいたようで、戦況が不利と見るや逃げ出した人々が1万人以上いたらしい。
いずれにせよ、2万人もの軍勢が最後まで籠城戦で挑んだのである。果たして原城はそんなに人を収容できるほど広いのか?と疑問に思って実際に原城跡に行ってみた。意外と広かった。確かに、2,3万の軍勢が住めるくらいの広さはあった。
しかし、いつまで続くか分からない籠城戦に、なぜ軍勢は士気を維持することが出来たのか。どうやら「指導者が南蛮から援軍が来る」と呼びかけていたらしい。
その情報を掴んだ幕府軍は、その希望を逆手にとって、平戸のオランダ船に依頼して原城を砲撃した。しかし反乱軍が臨んだ援軍はカトリックのポルトガルであり、プロテスタントのオランダではなかった。
しかも反乱軍から、外国に頼るとは「日本の恥」だと強く非難し、幕府軍はすぐにオランダ船を撤退させた。この時代に「日本」という概念というか国家観があったというのは驚きであるが、反乱軍から却って弱腰と非難されるとは、幕府軍も面目がずいぶんと潰されたことだろう。
以上のことから、少なくとも指導者は「援軍が来る」と主張し、幕府軍もその声が聞こえていたということは事実だ。当時のマカオはポルトガルの拠点であり、日本に来るイエズス会の宣教師たちはマカオを経由してやってきた。これらの話が混ぜ合わさって、先のウィキペディアの「誤記」を生んだのだろう。
しかし…マカオからの援軍は、本当に無かったと言い切れるのだろうか?
残念ながら本書にはその話には全く言及していない。無理もない、本書の原本である中公新書版は2005年発行である。
日本とマカオの縁は深い。朱印船貿易はマカオに寄港していた。また、天正遣欧使節の伊藤、中浦はマカオへ留学しており、原は晩年マカオへ流刑された。(島原の乱より前の話である。)
ここからは全くの妄想であるが、もしかしたら使節がマカオへ派遣されていたかもしれない、しかしポルトガルの敵であり幕府の味方であったオランダがそれを阻んだのかもしれない…。
島原の乱について、世界史的観点に基づいて、もっと研究の余地があるのではないだろうか。研究が進むことを期待したい。