さてポーランド第1日で首都ワルシャワで土砂降りに振り込められ、ビジネスシートとはいえやはり寝不足だったので、その晩は早寝した。


6時半の朝食前に1度、短時間散歩
 一夜明けると、快晴。さっそく朝食前に簡単なワルシャワ散策を試みた。
 ただ朝食は6時半からビュッフェ形式だ。遅くいくと、ろくなものが残っていないのが通例なので、6時半までにいったんホテルに戻れる範囲内でのミニ散歩とすることにした。
 朝食後、ホテルのチェックアウト前にまた散策に出かければよい。
 地図で見ると、我々の泊まった「カンパニーレ」ホテルは旧市街から遠い。ホテルをチェックアウトした後、我々はまずその旧市街を訪れる。
 早朝の太陽が登りつつあったので、絶対に迷わないように真東に道をとった。


すぐに見つかったカトリック教会
 右手(南側)にトラムの通る道路に沿って(写真下)、鉄道沿いの道を東に進む。


トラム

 我々の泊まった「カンパニーレ」ホテルは、駅近だが、その駅は落書きだらけでいかにも汚い(写真下の上)。ただし、アメリカの大都市のダウンタウンや路地裏のように街が汚いかといえば、そうではない。ゴミはほとんど散らかっていない。これは、落書きというよりもストリートアートの一種なのか(写真下の下)。


早朝のホテル

ストリートアート

 2、3ブロック行くと、右手(南側)に教会が見える。国民の95%がカトリック教徒で、先々代のローマ教皇のヨハネ=パウロ二世を出した国だけある。
 早朝の教会は、訪れる人もなく、静謐な中に沈んでいた(写真下)。リブパブリは、その教会の前を通って、水道施設らしい広大な施設前で、別ルートをたどって戻った。


早朝の教会


ワルシャワ蜂起博物館を目指したい
 朝食後にまた散策に出ることにしているのは、「ワルシャワ蜂起博物館」を訪れたいからである。地図で見ると、ホテルから北に1キロほどしかない。
 ワルシャワ蜂起博物館は、案に相違して、ワルシャワ中心街、旧市街にはない。
 旧市街は、世界遺産「ワルシャワ歴史地区」に登録されている。我々がチェックアウト後に訪れる観光地ともなっている。
 ただ「歴史地区」と言っても、元の市街は第2次世界大戦でドイツ軍に徹底的に破壊されてしまった。今日我々が観られる旧市街「歴史地区」は、古い絵画や写真を参考に、戦後に壊れたレンガ破片も徹底活用してほぼ正確に復元されたものだ。


強盗条約、すなわちモロトフ=リッベントロップ協定とその破綻
 ワルシャワ地区は、モロトフ=リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)の秘密議定書でヒトラーとスターリンの2人の強盗に東西に分割されたポーランドのドイツ側にあった(モロトフ=リッベントロップ協定については、10年1月11日付日記「ワイダ監督の『カティンの森』が描くスターリンによる2つの歴史の偽造:ポーランド国内軍、赤軍、独ソ不可侵条約」を参照)。
 第2次世界大戦の引き金となったドイツ軍のポーランド侵攻に伴い、ワルシャワ旧市街はナチ空軍によってかなり破壊されたが、1944年の8月~10月の「ワルシャワ蜂起」で、ポーランド亡命政権に呼応した市民と国内軍のレジスタンスを粉砕するため、ドイツ陸軍によって計画的に爆破され、ほぼ灰燼に帰したのだ。
 1939年8月23日に調印されたモロトフ=リッベントロップ協定で手を握ったヒトラー・ドイツとスターリン・ソ連の「強盗同士の平和」は、だが約2年後の41年6月22日に電撃的に開始されたナチ・ドイツ軍のソ連侵攻(「バルバロッサ」作戦)によって終焉した。


ドイツ軍に不意打ちされ、ソ連赤軍は総崩れ
 猜疑心にとんだ男だったが、不思議にもヒトラーを妄信していたスターリンは、不意をつかれ、ソ連赤軍は総崩れとなり、ヨーロッパ・ロシア深くまでドイツ軍に攻め込まれ、占領された(前掲日記を参照)。
 この過程で、スターリンの戦争犯罪である「カティンの森」虐殺事件がドイツ軍によって暴かれたことは、既に一連の日記「『カティンの森』の犯罪を読む」シリーズで述べた。
 その赤軍は、スターリングラート攻防戦で勝利した43年初めから反攻に転じた(14年1月1日付日記:「ソチ冬季五輪危うし、イスラム過激派のテロ相次ぐヴォルゴグラートとソチ周辺;スターリングラート攻防戦、ツァリーツィン、白軍、英雄都市」を参照)。


敗れて退却したドイツ軍にワルシャワ市民の総蜂起
 そして44年夏には、ゲオルギー・ジューコフ指揮下のソ連赤軍は、モロトフ=リッベントロップ協定で定めた国境近くまでドイツ軍を押し戻した。
「ワルシャワ蜂起」の起こったのは、このタイミングである。在ロンドンのポーランド亡命政府の呼びかけに応え、まさにワルシャワ市民は、老若男女も含めてナチ・ドイツ軍への抵抗戦に総蜂起したのである。
 しかし基本的に反共のポーランド亡命政府を敵視していたスターリンは、亡命政権や英米からの支援要請も無視して、「ワルシャワ蜂起」を傍観し、この間、ほとんど動かなかった。


ソ連赤軍は傍観、レジスタンスの約20万人虐殺される
 孤立無援のレジスタンス勢は、ナチ・ドイツの破壊と殺戮の前に殲滅され、あまつさえ旧市街の歴史的建造物の90%が破壊された。この「ワルシャワ蜂起」では、レジスタンスのワルシャワ市民と国内軍は、全市で20万人もの犠牲を被ったとされる。
 ソ連赤軍が西に進撃を再開したのは、ワルシャワ市街が破壊され、レジスタンス軍が敗北した後のことである。
 その赤軍には、戦後にポーランドを支配するスターリンの忠実な配下どもがついてきた。いかなる戦功もない彼らが、壊滅状態となっていたポーランド国内軍と在ロンドンのポーランド亡命政府に代わって、赤軍のコントロール下にポーランドの支配を始める。
 今回のパックツアーには、ワルシャワ蜂起の跡を訪ねるプランがない。
 だが幸いにもホテル「カンパニーレ」の近く(距離約1キロ)に「ワルシャワ蜂起博物館」があった。
(この項、続く)


昨年の今日の日記:「3大選挙に圧勝した安倍政権は、誰もできなかった構造改革に踏み出すべし」