ワルシャワ――現代史ファンなら、これで思い出すのは3つ。ワルシャワ蜂起、ワルシャワ労働歌、そしてワルシャワ条約機構、だ。


非共産勢力と市民をナチ・ドイツに虐殺させるスターリンの陰謀
 後の2つは記述が複雑になるのでここでは触れないことにする。リブパブリが目指したのは、「ワルシャワ蜂起」の記念物である。この蜂起については、昨日の日記で触れた。
 スターリン・ソ連の赤軍は、ワルシャワ市民の蜂起を軍事的に圧倒的に優勢なナチ・ドイツ軍の殺戮のままに任せた。スターリンにすれば、いずれ自分の手下のポーランド・スターリニストに傀儡政権を作らせたいから、邪魔になる在ロンドンの亡命政権の指導下に蜂起した国内軍とワルシャワ市民のレジスタンスをナチ・ドイツに殲滅してもらいたい、という思惑があった。
 スターリニストに誠意を期待するのは、男に子を産ませるよりも不毛な願望だ。このことは、これまでの日記で折に触れて繰り返し述べているが、ワルシャワ蜂起もまさにすぐ近くまで進撃しているスターリンのソ連赤軍を期待したことの不毛性を表している。


朝食後、ワルシャワ蜂起博物館を目指して、再度の街歩きに
 ガイドブックの地図で、そのワルシャワ蜂起博物館が泊まったホテル(カンパニーレ)の南約1キロの場所にあることを把握していた。10分もあれば、行ける距離である。
 ただし旧市街などの観光のバスは、ホテルを9時に出発する。早朝の散歩を切り上げてホテルに戻り、6時半からの朝食を食べ終わったら、もう7時に近かった。
 大急ぎでスーツケースのパッキングを済ませ、外に出た。早朝に出た時は快晴だったのに、もうドンヨリとした雲に包まれていた。途中、新市街なのに、思わぬデザインのよいのっぽビルなどを観る(写真=右はトラム)。


のっぽビル


時間は30分もない
 知らない土地のうえ、不十分な地図なので、道に迷った。行き過ぎたと気が付いた時は、もう8時だ。安全を見越して、8時半にはホテルに戻るには、30分しかない。
 そして、やっと探し当てた。行きすぎてしまったのも無理はない。博物館は、大通りから1本裏道に入った所にあったのだ(写真)。


ワルシャワ蜂起博物館

 開館は、8時から、となっているのでオープンしていた(写真)。


ワルシャワ蜂起博物館2

ワルシャワ蜂起博物館3

 しかし入ったところで、すぐ出てこなければならない。おそらく展示の説明は、ポーランド語であろう。それは、全く理解できない言語だ。


ポーランド語の説明は理解できないと諦める
 ポーランド語は、ロシア語と近いスラブ語系の言語であるが、外国人が学習するのは世界一難しい、とされている言語だ。名詞の格変化は7格もあり、さらに表記はスラブ語系なのにキリル文字ではなく、ラテン文字だ。そのうえ日本では自主労組「連帯」の指導者として名高い元大統領のレフ・ワレサは、実際は「レフ・ヴァウェンサ(Lech Wałęsa)と発音されるように、ローマ字風の読みが通じない(この発音は、ポーランド人現地ガイド氏から直接教えてもらった)。
 ポーランド語の表記には、「Wałęsa」のように英語にはない文字もある。子音の「l」に斜め線が引かれたような「ł」は、ポーランドに行ってから現地ガイド氏から「ウァ、ウォ」などと発音されることを教えてもらったくらいだ。
 入館したところで、展示内容は理解できないだろう。


入館断念も、午後に「記念碑」に
 あれこれ考えた末、思い切って入館を諦め、外観を撮ることに専念することにした。
 そして8時20分には、帰路についた。まことに残念だったが、しかたない。
 博物館の近くは、銀行の本店がいくつもあり、ちょうど出勤ラッシュであった。
 ただこの時の無念さは、その日の午後、思わぬことで少しだけ癒された。
 旧市街探訪後にクラシンスキ公園脇に停まっていた我々のバスに戻る途中、日本からついてきてくれた添乗員氏が、全体がガラス張りの超モダンな最高裁判所の裏側に「ワルシャワ蜂起記念碑」がある、と教えてくれたのだ。それは、日程表には載っていない。


記念碑所在地は博物館とかなり離れた場所
 それでもリブパブリが観たい、と強く希望したので、ほんのちょっとだけ、と言って案内してくれたのである。リブパブリに付いてきたのは、他に1人だけ。他の同行者は、バスに戻って乗って待っていてくれることになった。
 添乗員氏に案内されて大急ぎでワルシャワ蜂起記念碑の方向に走った。
 その場所は、朝、訪れたワルシャワ蜂起博物館と直線距離で4、5キロも離れていた。


昨年の今日の日記:「メキシコ周遊:グラン・ビラミッド上の最高の眺望をエンジョイ;追記:ボケ菅処分騒動」