原理講論和訳研究154
「終末論」の「第五節 終末と新しいみ言と我々の姿勢、(二)終末に際して我々がとるべき態度」において、
「復帰摂理歴史の流れを見ると、古いものが終わろうとするとき、新しいものが始まるということを、我々は発見することができる。従って、古いものの終わる点が、すなわち新しいものの始まる点ともなるのである。それゆえに、古い歴史の終末期が、すなわち新しい歴史の創始期ということになるのである。そして、このような時期は同じ点から出発して、各々その目的を異にし、世界的な実を結ぶようになった善と悪との二つの主権が、互いに交差する時期となるのである。ゆえにこの時代に処した人間たちは、内的には理念と思想の欠乏によって、不安と恐怖と混沌の中に落ちこむようになり、外的には武器による軋轢と闘争の中で戦慄するようになる。従って、終末においては国と国とが敵対し、民族と民族とが相争い、家族たちが互いに闘いあうであろう(マタイ二四・4~9)と聖書に記録されているとおり、あらゆる悲惨な現象が実際に現れるに違いない。
終末において、このような惨状が起こるのは、悪主権を清算して善主権を立てようとすれば、どうしても起こらざるを得ない必然的な現象であるからで、神はこのような惨状の中で、新しい時代をつくるために、善主権の中心を必ず立てられるのである。ノア、アブラハム、モーセ、そしてイエスのような人々は、みなそのような新しい時代の中心として立てられた人々であった。それゆえに、このような歴史的な転換期において、神が願うところの新しい歴史の賛同者となるためには、神が立てられた新しい歴史の中心がどこにあるかということを、探しださなければならないのである。
このような新しい時代の摂理は、古い時代を完全に清算した基台の上で始まるのではなく、古い時代の終末期の環境の中で芽生えて成長するのであるから、その時代に対しては、あくまでも対立的なものとして現れる。」
という訳文があるが、ここに掲載した文の最後の文章を問題にする。
「基台」と訳している箇所は、ハングル原文では「터」という単語が使われており、その意味は「いしずえ、基礎」である。
「基台」をハングル表記すれば「기대」であるが、この単語は韓国語辞書にはない。原理講論独自の造語である。
ここではその「기대」という単語を使っていないので、「土台、基盤」と訳しておくのがいいのではないか。
それから、「あくまでも」という言葉は原文にはない。和訳者が挿入した語句である。
「終末論」の「第五節 終末と新しいみ言と我々の姿勢、(二)終末に際して我々がとるべき態度」において、
「復帰摂理歴史の流れを見ると、古いものが終わろうとするとき、新しいものが始まるということを、我々は発見することができる。従って、古いものの終わる点が、すなわち新しいものの始まる点ともなるのである。それゆえに、古い歴史の終末期が、すなわち新しい歴史の創始期ということになるのである。そして、このような時期は同じ点から出発して、各々その目的を異にし、世界的な実を結ぶようになった善と悪との二つの主権が、互いに交差する時期となるのである。ゆえにこの時代に処した人間たちは、内的には理念と思想の欠乏によって、不安と恐怖と混沌の中に落ちこむようになり、外的には武器による軋轢と闘争の中で戦慄するようになる。従って、終末においては国と国とが敵対し、民族と民族とが相争い、家族たちが互いに闘いあうであろう(マタイ二四・4~9)と聖書に記録されているとおり、あらゆる悲惨な現象が実際に現れるに違いない。
終末において、このような惨状が起こるのは、悪主権を清算して善主権を立てようとすれば、どうしても起こらざるを得ない必然的な現象であるからで、神はこのような惨状の中で、新しい時代をつくるために、善主権の中心を必ず立てられるのである。ノア、アブラハム、モーセ、そしてイエスのような人々は、みなそのような新しい時代の中心として立てられた人々であった。それゆえに、このような歴史的な転換期において、神が願うところの新しい歴史の賛同者となるためには、神が立てられた新しい歴史の中心がどこにあるかということを、探しださなければならないのである。
このような新しい時代の摂理は、古い時代を完全に清算した基台の上で始まるのではなく、古い時代の終末期の環境の中で芽生えて成長するのであるから、その時代に対しては、あくまでも対立的なものとして現れる。」
という訳文があるが、ここに掲載した文の最後の文章を問題にする。
「基台」と訳している箇所は、ハングル原文では「터」という単語が使われており、その意味は「いしずえ、基礎」である。
「基台」をハングル表記すれば「기대」であるが、この単語は韓国語辞書にはない。原理講論独自の造語である。
ここではその「기대」という単語を使っていないので、「土台、基盤」と訳しておくのがいいのではないか。
それから、「あくまでも」という言葉は原文にはない。和訳者が挿入した語句である。






