戸惑う子どもたち
「自分の時間がほしかった」-その②
もう20年以上も前のことである。私の勤める中学校に、よく電話を寄越す母親がいた。当時30代のいわゆる専業主婦である。「息子を電話口に出してほしい」という要望だった。急病とか親が危篤とかのケースならまだしも、さすがに、「それはできない」と丁重にお断りした。「息子を電話口に出してほしい」という要望そのものが非常識なのだが、「それなら息子を早退させてほしい」と言う。
保育園に妹を迎えに行かせたい、というのが本音である。そもそも、保育園とは「保育に欠ける子ども」を預かる施設だから、いわゆる専業主婦の家庭の子どもが保育園に通うことはおかしな話なのだが、それは解明できていない。今にして思えば、ウラで何かうまくやったのではないか、と想像する。現にそのころ、私の娘が通う保育園には、テニスラケットを持ったまま子どもを迎えにくる親がいたし、子どもを預けたその足で、毎朝喫茶店に行ってしまう母親もいた。「保育に欠ける」状況とは思えない。
妹を迎えに行かせたくて「息子を早退させてほしい。」とたびたび電話を寄越したその母親は、どうしていたのか。昼間からパチンコに興じていたのである。中学生として息子は何をどう感じていたのだろうか。戸惑いながらも、親の指図に従わざるを得なかったのではないかと推察する。
母親はたぶん、今は50歳代だろう。テニスの帰りに保育園に寄った親も、保育園に預けたあとにすぐ喫茶店に直行の親も、現在ではもう50歳はとうに超えている。「今の若い親は・・」と嘆くいわゆる「世代論」にくみしたくないのは、そんな経験があるからである。
誰もが「自分の時間がほしい」と願っている。深夜まで働き、土日の休みもままならないという人もたくさんいる。「サラリーマンは~♪気楽な稼業ときたもんだ~♪」と歌われた時代は、ずっとずっと昔の話になってしまっている。「企業戦士」と呼ばれた、いわゆる高度成長期よりももっと過酷な働きぶりが今あるだろう。企業の倫理が追及されるべきではあるが、たとえそのような多忙の中にあっても、家庭として親として「子どもと共有する時間」「子どもの心理的欲求に応える時間」を考える必要はないか、と思うのである。
「自分の時間がほしい」のは何も母親だけではない。駅のホームで小学生が、父親の袖を引っ張って何か話しかけている。しかし当の父親はメールか何かケータイの画面に夢中である。メールでなくゲームかも知れない。ケータイやスマートフォンを使ったゲームの顧客は、30代40代が主流と言われているから、そんな光景はそう珍しいことではない。親にとっては、「自分の時間がほしい」のであろう。邪険に扱われた子どもの心はどうなるのか。子どもは戸惑うばかりである。
「子どもといっしょにいることも『自分の時間』の一つだ」「子どもと過ごす時間は、なんて楽しいんだ」そう言える親でありたい。家庭も学校も地域社会も、多くの人がそう言える世の中でありたいものである。
『文芸春秋』3月号に「日本の自殺」と題する興味深い論文が掲載されている。「自殺者年間3万人の日本」という意味ではない。このまま行ったら日本全体が滅んでしまう、という警告の文章である。ローマ帝国滅亡との比較を歴史的に振り返りつつ、
「過去のほとんどすべての没落した文明は、外敵の侵入、征服、支配などのまえに、自分自身の行為によって挫折してしまっていた。ほとんどすべての事例において、文明の没落は社会の衰弱と内部崩壊を通じての‘自殺‘だったのである。」と説く。
この論説の中で私が最も注目したのは、「(現代日本人の)思考力、判断力の全般的衰弱と幼稚化傾向」というフレーズである。
「現代人に見られるこの思考力、判断力の全般的衰弱と幼稚化傾向は、一体なにによってもたらされたのであろうか。実に憂慮すべきことに、驚くべき技術の発達、物質的豊かさの増大、都市化、情報化の進展と教育の普及など高度現代文明がもたらした恩恵それ自体が、このような精神状態を副作用として惹き起こしていたのである。」「ボタンを押すだけでパンが焼け、飯が炊け、洗濯物が仕上がり、部屋が涼しくなる」「ボタンを押すだけで煙草や缶ジュースや週刊誌が飛び出し」「押しボタンで切符を買うだけで、飛ぶ機械や走る機械が自動的にどこへでも連れて行ってくれる」時代になったというわけだ。
こんな生活では、確かに思考力、判断力は退化してしまうだろう。「現代人はこの便利な技術世界にあって、文字通り子供のように振舞っている」のである。さまざまな子どもを見ていると、私はこの論に納得させられる。
第一章「戸惑う子どもたち」で書いてきたことは、大人の「思考力・判断力(これは中教審答申など文部科学省が説くキーワードなのだが)の欠如の表れであり、大人たちの、あるいは社会そのものの「幼稚化傾向」に由来するのではないかと思われてくる。「自分の時間がほしかった」親も、まさにその例ではなかろうか。
第二章では、引き続き「戸惑う子どもたち」を見つめつつ、世の中を衰退させないためにも、「親の態度で子どもは変わる」ということを、具体的事例に沿って考えていきたい。

