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戸惑う子どもたち

「自分の時間がほしかった」―その(1)

 

 2010年夏、大阪で23歳の母親が、3歳と1歳の子どもを置き去りにして餓死させるという事件が起きた。多くの児童虐待事件の中でも、特異な例として騒がれた。だが私は、驚きよりもため息ばかりが先に出る。中学校教員としての経験や養育家庭(里親)としてさまざまな事情の子どもと接してきている経験から、私は自分なりの現場感覚と想像力で、子どもに関わる事件について、いくつかの「予見」をしたことがある。





元校長先生のブログ-自分の時間が欲しかった(1)




たとえば1997年の神戸連続殺傷事件、いわゆる「酒鬼薔薇事件」の犯人は「中学生なのではないか?」という予測を立てたこともある。(ただしこの事件は後に「冤罪」という説も出ている)


 大阪の「乳幼児置き去り事件」は、私の中では、既におぼろげに成り立っており、杞憂が現実となって「ついに起きたか」という悲しみが先に立つ。児童相談所を責める意見も聞くが、それは矛先が違うのではないかと思う。私自身の経験では、児童相談所の職員のあまりの質の低さに唖然とさせられたことがあるにしても、この件で児童相談所を責めたところで、何も生まれはしないだろう。


 既にその前年の2009年には、千葉県松戸市で同じく23歳の母親(ここも母子家庭である)が、団地4階の部屋に子どもを残したまま外出しているその間に火災が起こり、子どもを焼死させてしまう、という悲惨な出来事があった。亡くなった子どもたちは、4歳児・3歳児・0歳児(6ヶ月)の3人である。6ヶ月と言えば、まだ歩くこともできない乳飲み子である。


 警察の事情聴取に対して、当初母親は「病院に行っていた」と答えていたが、病院には来院した形跡がない。警察の調査は行き届いている。よくよく聞いてみると「実はパチンコに行っていた」ということが判明したのである。大阪の「乳幼児置き去り事件」は、新聞・テレビ・週刊誌などで大々的に取り上げられたが、この千葉県松戸の出来事は、それほど大きくは取り上げられていない。しかし、親が自分の時間を優先させてしまったことによる結果という点では、全く同じなのである。


 ちなみに2006年には、埼玉県和光市のアパートで、2歳の子が一人で焼死してしまうという「事件」も起きている。これは母親がスノーボードに出かけていて留守の間の火災である。「一日くらい骨休めをしたかった」と母親は答えている。スノボで留守の時間は18時間。部屋には、おにぎり、菓子パン、牛乳、イチゴ等を置いていったというが、2歳の子どもの「心」はいかばかりであったのか。


 

 大阪の「乳幼児置き去り事件」では、母親が「子どもなんかいなければよかった。自分の時間がほしかった。」と答えている。自分の時間とは、遊ぶ時間のことを指している。それは、特殊な考えなのだろうか?


 そうとは思えない。子どもを寝かせつけたあと、その子を家においたまま夫婦でカラオケに出かけてしまう親を知っている。やっと1歳になったばかりくらいの、ヨチヨチ歩きの子どもを連れて、深夜の居酒屋に来る親もいる。大音響の「軍艦マーチ」が鳴り響く店で、乳飲み子を腕に抱えたままパチンコに夢中の母親も目撃している。そうした光景が、半ば当たり前のようになった世の中は何かがおかしい。そんな中で育つ子どもはどうなるのか。育児放棄への入り口と言ったら、言い過ぎだろうか。


 マスコミは、死に至る出来事を取り上げる。しかもその表層のみを伝える。しかしたとえ死に至らずとも、深く静かに、ある意味自然に、重大な事象が現実に進行していると私には思えてならない。


いずれも、「どうしてそれがいけないの?」という感覚であり、「自分の時間がほしい」のである。若さ=未熟という側面もあるだろう。親が「遊ぶ」ことによって、育児ノイローゼから救われたり、育児書頼みのマニュアルによるプレッシャーから解放されたりもするのだから、それはそれで受容すべき面もあろう。子育てに「息抜き」は必要であるし、母親ばかりが子どもの養育を担うものでもない。男親の責任が、もっと追及されて然るべきとも思う。


 だが、そのように捉え直してみたとしても現代では、理解しがたいほどの大人の言動が見受けられる。若い親の特徴としてとらえ、「世代論」で分析しようとする人もいる。しかし私には、世代論で片づけられない経験が、いくつかある。かなり前から、「自分の時間がほしい」親の兆候は出現していたと思えてならないのだ。



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