戸惑う子どもたち
ドメスティックバイオレンスーその(2)
「ドメスティック」とは「家庭の」とか「家族の」という意味だそうだ。英和辞書には「『家の主』が原義」とある。おそらくそこから、家族の主(ぬし)たる配偶者からの暴力を、子どもから親への「家庭内暴力」や「児童虐待」とは区別して「ドメスティックバイオレンス」と呼ぶようになったのだろうと思われる。だが、家庭の中のことは、他人からは見えない。
だから、家庭の「中」を知らない周りの大人は、たとえば子どもの非行について「小学生の時にはあんなにいい子だったのに、中学生になって悪くなったのは中学校のせいだ。」と考える場合がある。小学校の先生でさえ同じような見方をしてしまうこともある。
授業エスケープ、タバコ、深夜徘徊、家出。「あんな子が、どうして非行仲間に?」と周囲の誰もが不思議に思う中学生の女の子が、実はその根っこに「父親が母親に暴力を振るう日常的光景の目撃」があった。彼女は、父親の暴力を見て育ったのである。
しかもその父親は、地域活動をしていて外からは「いい父親」と見られていたので、子どもとしての心に整理がつかず、父親への反発心からも、非行の道に入らざるを得なかった、ということになる。「中学生になって悪くなったのは中学校のせいだ。」とそんな評判を立てられた中学校側はいい迷惑なのだが、家庭内のことに関わるので大っぴらな反論もできず、問題処理にばかり追われるというケースも、けっこうある。
梶山寿子氏の著作『子どもをいじめるな』の中で言う「母を守れなかった無力感。父に対する愛憎。絶望と混乱の中で、子どもたちが抱えてしまう生きづらさ。だが多くの場合、子どもたちはその辛さや苦しみを訴えるすべを知らない。」という見解にピタリと当てはまる。子どもは非行という形において加害者となるが、大元をたどれば被害者なのだ。
従って梶山氏も「広義で捉えればこれもりっぱな虐待」としている。そこまではその通りであろう。しかし「子どものいる家庭の場合、夫婦間にドメスティックバイオレンスがあれば、同時に子どもへの虐待も起こっているとみなすことができよう。」と推定されると、ちょっと待てよ?という気にさせられる。この著作全体のトーンに感じられる「児童虐待の背景には、ほとんどドメスティックバイオレンスがある。」というメッセージには疑問を抱かざるを得ない。児童虐待の原因は夫婦間のDV?それほど単純ではなかろう。あるいは、著者は児童虐待というものを「暴力」としてのみとらえているのかもしれない。
この著作は、事例となるさまざまな人たちへのインタビューを通して得た労作とは思う。だが、別掲で述べるように、暴力だけが虐待ではないし、夫婦間に暴力がなくとも、児童虐待は起きているのである。
小説はフィクションにすぎない、と言ってしまえばそれまでだが、たとえば下田治美『愛を乞う人』では、主人公は母親から一方的なすさまじい暴力的虐待を受けているが、母親は夫からドメスティックバイオレンスを受けているわけではない。あるいは、3人の児童虐待を主軸とした天童荒太『永遠の仔』ではどうだろうか。現実的な日常でも私は、父親によるDVを伴わない児童虐待を見てきている。
大人の暴力が、児童虐待の背景にあることは否定できない。DVが、児童虐待の一つの重要なファクターとなることも否定しない。しかしそれは要素であって全部ではない。児童虐待には、もっと複雑な、もっといろいろな要素がからまりあっていると思えてならないのである。
DVには前章で述べたような「男の責任」が大きく関与する。男の身勝手な所有欲が暴力を生むのだろう。
だが最近では、女性による男性へのドメスティックバイオレンスがあると聞くと、驚きと共に別の考え方もしなければならない。2005年の内閣府の調査では、女性が加害者で男性が被害者のケースは、17.4パーセントにも及ぶという。男性の方が女性よりも力が強いという「常識」も崩れつつある。草食系男子の増加(などという言葉は誰が作り出したのか?実態と即応しているかどうか疑問はあるが)による傾向なのだろうか、それとも女性が強くなりつつある結果なのだろうか、理解に苦しむところである。
社会的には、まだ女性は弱者の立場にあると思われる。しかし小学校の教室でも「な~にグダグダ言ってんだよぉ!」などという女子児童の「強い」声が聞かれるようになった。中学校では男の子に向かって、あるいは教員に向かって「てめぇ!」と叫ぶ女子生徒の声が聞かれる。これも基本は家庭の問題だろう。それでいいのか。


