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第三章「学校に関わりを」

学力低下?体力低下?その(2)

 

どうやら体力・運動能力でも、「二極化」が進んでいるようだ。従来なら家庭教師と言えば、算数・数学・英語が主流だったが、なんと現代では「体育の家庭教師」が登場し、小学生にけっこう需要が多いらしい。走り方や鉄棒などを教えてくれるそうだ。それはそれで歓迎すべき一面もあるが、経済的余裕のない家庭では難しい。




元校長先生のブログ-学力低下?体力低下?その(2)




 また、サッカーや野球など、地域のクラブに入っている子どもは、場合によっては、「過剰」とさえ言えるほど運動しているが、地域のクラブにも入っていない子どもは、全くと言っていいほど運動をしていない。中学校や高校でも、スポーツ系の部活に入っている生徒と入っていない生徒との運動量の差は歴然としている。


 さらに、どんなスポーツでも「一流選手になれば、勉強なんてどうでもいい」という声を聞く。大相撲の著名なある横綱には、中学生時代の通信簿が「オール1」だったというエピソードが残っている。しかし「オレは横綱を目指しているんだから、それでいいのだ。」と本人は断言したそうだ。中学校時代に全然勉強しなかった者が、相撲協会の運営に携わっていいのだろうか。また、このような価値観は相撲界だけかと言えば、決してそうではない。


 教え子の中にも、「この生徒なら、内申書がたとえオール1でも入学させますよ。」と私立高校から誘われた中学生がいる。リトル・シニアで活躍していた野球選手である。頭脳の回転も速く、性格も温厚な生徒だった。朝のランニングは熱心に欠かさなかったが、授業中に居眠りするなど勉強に取り組む姿勢は欠けていた。学力面では「もったいない」とさえ思う。


 プロ野球選手になれるのは、3万人のうちの1人、プロサッカー選手になれるのは、2万人のうちの1人だそうだ。ケガなどで競技を中断せざるを得ない状況になったら、その後の人生をどうするのだろう。外国では、弁護士資格を持つプロ野球選手がいたり、医師の資格を持つバスケット選手がいたりする。どうやら日本は、学力でも体力でも、極端から極端に走る傾向があるようだ。学力面でも体力面でも二極化の土壌は、こんなところにもあるのかもしれない。


 もちろん、通信簿・内申書の数値だけが「学力」とは言えない。体力も大事、学力も大事、これも「生きる力」の範疇だろう。子どもの将来を見据えたバランスある力を育てる観点を持ちたいものである。

 


 「学力」については、「基礎的・基本的な学力」と、それを「応用し活用する力」とがある。「基礎的・基本的な学力」は、つまりは「読み書き・計算の力」であり、全国学力調査の結果で、ある程度把握できる。文科省は調査結果を「基礎的学力は低下していない」と分析するが、ここに浮かび上がった大きな問題点の一つは、テストの回答欄に何も記入しないなど、意欲のない子どもが平均点を下げていることである。


 一つの学年の人数が150人規模の中学校で、試算をしたことがある。ある教科の学年平均が70.00点としよう。ここに、不登校生徒および不登校傾向生徒5人は加わっていない。そこで、仮にその5人がその調査(試験)に参加していたらどうなるだろう、という数値を計算してみたわけだ。すると例えば5人がそれぞれ20点ずつ取ったとしても、学年平均点は70.00点から68.38点にまで下がってしまうのである。もし仮にこの5人がみな0点だったとしたら、その落差はもっと広がることになる。


 教員という職業に就いている人は、こういうことを本能的に感じとっている。その感覚がいつの間にか巷間に伝わり、過度の学校間競争や地域間競争が生まれた場合、「成績の悪い子ども」を欠席にしてしまって平均点を上げている、などという噂が出回ることになる。校長みずから教室に出向いて答えの合否をこっそり教えてしまう、というとんでもない事件が東京都の小学校で現実に起きているから、その噂はいっそう現実味を帯びてしまうわけだ。


 出来る子をさらに伸ばす手立てはもちろんだが、底辺にいる子どもの底上げをどうするか、勉強に対して意欲の湧かない子どもの「心」と、それを支える「体」をどうするかが重要な課題であると思う。「基礎的・基本的な学力」が身に付かなければ、「応用する力・活用する力」も発揮できない。


 皮肉なことに(当然のことにと言うべきか)、文部科学省の全国学力調査で高得点を上げて常にトップクラスにいる秋田・福井などの県は、全国運動能力調査でも最上位にいる。ここに相関関係はないのか。基礎的体力は学力を向上させる力になっているのではないか?




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