第三章「学校に関わりを」
授業で発言しない子は積極性がないのかーその(1)
授業で手を挙げて発言しない子どもを、「積極性がない」とする風潮がある。発言の回数をチェックして、それを通知表(通信簿)の成績に反映させ、発言の多い子にプラス、手を挙げる回数が少ない子にマイナスの評価をする教師もいる。
先生から「もう少し積極性があるといいんですがねぇ。」などと言われると親も、子どもの尻をたたいて「どんどん手を挙げなさい。」と叱咤する。小学校低学年では、言われるままに「ハイ!ハイ!」と手を挙げたものの、実は何をどう発言していいのか分からず指名されても答えられない、などという可愛いらしくも珍妙な現象が起こる。そこは教師もうまくしたもので、子どもが「忘れましたぁ」と答えれば許される仕組みになっている。なんともおかしな光景である。
やたら「ハイ!ハイ!」と挙手をする生徒が多い中学校の授業に、驚かされたことがある。確かに見た目には、ずいぶん活発な授業であり、積極的な生徒ばかりの教室という印象だった。が、「本当に分かっている子は右手」、「分かっていないけれどとりあえず挙手をする子は左手」という取り決めが事前になされていたというのだ。
2002年度からの学習指導要領の改訂が、この「積極性」への評価に拍車をかけたと思われる。教師が児童生徒を評価・評定する場合、「関心・意欲・態度」「思考・判断」「技能・表現」「知識・理解」の4観点で総合的に数値化しなければならない。
「思考・判断」「技能・表現」「知識・理解」の3項目はペーパーテストでも測れるが、「関心・意欲・態度」という子どもの内面を点数化するのは難しい。そこで一部の教師は苦肉の策として、この授業中の「挙手や発言」を「関心・意欲・態度」の根拠としようとしたわけである。
国際化社会のために、との目的もある。西洋では自分の意志や意見を明確に言うことができるが、日本人は自分の意志や意見を他人に伝えることが得意ではない、という前提に立てば、国際化された地球規模の競争に負けてしまう。だから積極的に発言する子どもを育てる必要がある、となるわけだ。
中学校の私の授業で、こちらが指名しない限りほとんど発言しない女子生徒がいた。しかし常に私の方をしっかりと向き、うなずいたり考え込んだりする。私のくだらない冗談にも笑顔を見せながら反応する。それでも自分からは挙手しない。
さてこの子に積極性はないか。そんなことはない。ペーパーテストで、ほぼ90点以上を維持するばかりでなく、的確に自分の心の動きや意見を文章にしっかりまとめる力がある。中学3年生のときに山本周五郎の『深川安楽亭』を読んで、その感想文をコンクールに出品したいと申し出る。残念ながら、新聞社が主催するその読書感想文コンクールには入選できなかったが、今でも私は彼女の感想文を優秀だったと信じている。
一方、授業中に必ず発言したがる生徒は、どのクラスにもいる。なぜか男子生徒に多い。授業する側としては、授業を盛り上げたり深めたりするために、とてもありがたい存在だ。その意味で、そういう生徒に私は感謝しつつ大事にしてきたが、発言とテストの点数は比例しない場合が多い。文章も、口でしゃべる程にはうまくまとめることができない。周囲から笑いをとろうとして、「ウケねらい」の子もいた。チャラチャラとして周囲を笑わせるのが人気者、という雰囲気も増えた。テレビのお笑いばやりの影響を受けている。
この現象は、現在の大学の授業でも全く同じことが言える。私は一方的な講義を避け、できるだけ双方向の授業を模索しているので、学生に意見を言わせる時間と場を設定している。その場合にも、積極的に発言する学生が、必ずしも優れたレポートや小論文を書くとは限らないのである。もちろん発言の積極性と提出文章の出来栄えが一致するケースはあるが、例としては少ない。
常に一番前の座席に座って、静かに講義を聞き、こちらが指名しない限り自ら意見を決して言わない学生が、文章では着実な調査に基づいて、実に鋭い論理展開を示すことがある。大学では、常に一番前に座るということ自体、積極性の表れと言える。

