大友家の家臣が、なぜ須恵村に移住して来たのか?

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田原眼科医院 ② 高場順世の謎

田原眼科医院 ③ 須恵町を訪ねる

田原眼科医院 ④ 須恵の田原眼治療院

田原眼科医院 ⑤ 田原養柏と黒田長溥」 の続きです。

 

須恵町歴史民俗資料館(須恵町教育委員会)の説明、或いは他の資料でも「田原眼科の祖は豊後大友家の家臣」となっている。  歴史が好きな人で、戦国武将の名前は知っていても、主な家臣の名まで言える人は地元以外では少ない。

 

昨年12月、大分に住む息子に長男が生まれた。 僕にとっては初孫で、先日、大分市の春日神社で「初宮参り」を済ませて来た。 嫁の実家は杵築市なので、何の気なしに、先方のお父さん・お母さんに「大友家の家来で田原って知ってますか?」と聞いてみた。  「田原家は大友家の家臣の中でも最も勢力が強く、本拠地は自分たちが住む杵築市でお城もある」と言う。 田原の読み名も「たわら」と言っていた。

 

「初宮参り」から博多に戻って、色々と調べてみた。 大友家の家臣だった田原家が、なぜ糟屋郡須恵町に移住して来たのか、浪漫が解けそうな気がした。

 

田原眼科の祖は豊後大友家の家臣」に間違いはないが、只の家臣ではなかった。 大友家田原家の関係は、江戸時代の徳川家に於ける親藩・御三家(水戸・尾張・紀伊)のようなつながりに近い。 つまり、田原家は大友三家(田原・志賀・詫摩)の一つで名門である。 田原家は大友宗家の血族集団の庶家と言われる。 庶家とは分家と同義であるが、分家の場合は本家と同姓を称し、庶家の場合は別姓を称する。 鎌倉時代に始まるこの大友家の血族関係は、戦国時代の頃には主従の関係にありながらも勢力争いに突入することもあった。 

 

豊後の田原家は、その中でも庶家・分家が多く、福岡の田原眼科の祖がどの流れなのかを判断するのは難しいが、まずは関連する主な大友家庶流の系図をまとめてみた。 しばらくは田原眼科からは離れて、関ケ原の戦い前後までの豊後大友家・田原家の流れを、この系図に沿って説明する。

 

 

鎌倉幕府の命により、九州守護職として東国武士団の中から島津(薩摩)、大友(豊後)、少弐武藤(筑前)の三家が下向した。 豊後大友家初代・能直の庶子・泰広の家系が豊後国国東(くにさき)地方の地頭職を命じられ、国東郡田原に定住し田原氏を称した。 以後、田原本家と分家(沓掛田原家武蔵田原家)・庶家(吉弘家、田口家など)の拠点は国東半島内に置かれ、大友家一番の血族勢力となる。

 

国東半島の観光で熊野摩崖仏を訪れた人は多いと思う。 その摩崖仏から東に約1kmに田原山がある。 その麓から北方の沓掛(くつかけ)一帯が田原家の拠点となった場所だ。 

この沓掛地区には田原家の丸山墓地が残る。

 

田原家丸山墓地

 

 白髭田原神社は田原家が定住する前から鎮座する田原地区の産土神社だ。 田原家もこれを敬い奉仕した。

白髭田原神社

 

田原家3代・直貞の時、本家の本拠地を海辺の豊後飯塚城に移した。 大友家全体として海からの攻撃を重視したと思われる・・・元寇の影響か?  沓掛(くつかけ)には、分家として沓掛田原家がこの地に残った。 

 

室町時代の後期、田原本家は居城を飯塚城から安岐城に移す。 現在の大分空港の近くで、本丸・天守を備えた本格的な城だった。 同時期の鞍縣(くらかけ)城は大内氏からの攻撃を見据えて田原家の支城として築城された。

安岐城  (現地説明板)

安岐城址

 

4代・貞広の時、庶家として吉弘正堅が独立し、吉弘城を築いた。 また、6代・親直の時、武蔵田原家が分家した。 他にも田口家など幾つかの庶家が独立しており、室町時代後期の国東半島は、田原一族が絶対勢力で支配していた。 庶家の吉弘家の末裔に宝満城 城督の高橋紹運、立花城 城督の立花宗茂 親子が現われる。 この浪漫は後の話しにつなげる。

 

何れにしても、田原家の勢力拡大は、宗主大友家との力のバランスに影響を与えた。 戦国時代の大友宗麟の時代になると、田原家は大友家一番の有力家臣として各地を転戦し武功をあげた。 しかし、宗麟にとって田原家の強大な勢力は憂うべき気懸りの一つだった。 宗麟は家臣・奈多氏の娘を正妻としていて、その兄を武蔵田原家の養子として入れ、田原親賢(ちかかた)と名乗らせ大友家政務で重用した。 宗麟は力を増す田原家本体に楔を打ち込みたかった。 元々、庶家・分家とは男子の血統をつなぐものであったが、この時代はそんな決まり事も薄れていた。 武蔵田原家養子の田原親賢の能力は高かったようで、天正6年(1578年)の「耳川の戦い(対島津軍)」では、宗麟から総指揮官を任されるなど、田原紹忍の名で大友家の歴史に名を残している。 

 

大友宗麟

 

しかし、耳川の戦い」で敗戦すると、宗麟を中心とする大友家内では家臣たちの不満が立ち上り、内紛も起きた。 大友宗麟は田原本家の跡継ぎに、次男の親家(ちかいえ)を送り込むべく画策したが田原本家の親貫(ちかつら)は反抗した。 宗麟は田原家の拠点である安岐城を攻めた。 親貫(ちかつら)は安岐城から鞍縣(くらかけ)まで退却して戦ったが、ここで自決している。 これらの内紛の間に、島津軍の筑後・筑前侵攻を許し、大友家はかっての勢いを失くしていった。

 

島津軍の筑前侵攻豊臣秀吉の援軍によって追い返した。 宗麟が亡くなり家督を継いだ義統(よしむね)の時、朝鮮出兵(1592年 文禄の役)の時の失態によって領地没収の改易となった。 その後、大友義統(よしむね)と田原親賢(紹忍)は関ケ原の戦いで西軍に付き、毛利家から武器の援助を得て再興を図る。 別府で軍を挙げるが、東軍に付いた中津城黒田官兵衛の軍に敗れる(別府石垣原の戦い)。 九州で最大五国をも治めていた大友家も江戸時代を迎える事はなく、ここに消滅した。 

 

関ケ原の戦い(慶長5年=1600年)後の大友家領地は、幕府領として管理され、一部は小藩や各藩の飛び地として封じられた。  国東半島の田原家の領地も、江戸時代は豊後高田藩杵築藩幕府直轄など幾つかの統治を繰り返した。

 

さて、資料によると、香椎の田原眼科の始祖・田原貞俊は豊後大友家の有力な家臣で明暦年間(1655~1658年)国東より筑前糟屋郡須恵村に移住と確認出来るのだが・・・・もう一度、最初の大友家・田原家の系図に戻ってみよう。 始祖・田原貞俊は、どの流れに属していたのだろう?

 

田原家の本家・分家・庶家の中で「田原姓」を称していたのは、安岐城の本家の他、武蔵田原家沓掛(くつかけ)田原家の三家だ。 大友宗麟の次男・親家(ちかいえ)が内紛によって、田原家本家の家督を継いでいるが、改易前の混乱時であり一時的なものだった。 親家は後に熊本の細川藩預かりの家臣となり、子孫はそのまま明治を迎えていて、田原姓は使っていない。 本家は親貫(ちかつら)の死によって途絶えている。 武蔵田原家は養子の田原親賢紹忍)が継いだが、石垣原の戦いの後、他の戦で戦死している。 

 

僕は、田原眼科の始祖である・田原貞俊は、沓掛(くつかけ)田原家の末裔だと思う。 田原家が定住を始めた最初の本拠地である田原山(沓掛)の周りは、摩崖仏を始め真木大堂富貴寺両子寺など六郷満山(山岳信仰)の中心地だった。 ここに長いあいだ拠点を置いた沓掛田原家が山岳信仰の影響を受けたことは間違いない。

沓掛田原家 五重塔(高さ4m)

 

沓掛田原家大友家内の政務にはあまり関わらず、軍事勢力は他の血族よりも小さくなっていた。 その為、大友家改易の影響もあまり受けなかった。 また、山岳信仰の中心地だったこともあり、沓掛田原家徳川幕府の直轄地として保障された中で、農業で細々とした生活を続けた。 

 

時は過ぎ、大阪冬の陣・夏の陣(1615年)で豊臣家が滅び、島原・天草の一揆(1637年)が収まると世の中は一気に平和になった。 明暦年間(1655~1658年)の頃になると、沓掛田原家では従僕たちの数も減り、一族のみとなっていた。 当主の田原貞俊は国東での農業を打ち切り、どこか大藩(黒田・細川など)の城下町での商売を決意したのだろう。 

 

話は逸れるが、この頃の豊後府内(現在の大分市)は、幕府直轄地の他、小藩の飛び地などが入り混じっていた。 その直轄地の中には、大友宗麟がポルトガル人の医師ルイス・アルメイダに設立させた日本初の西洋医学の病院が残っていて活動を続けていた。 国東の田原貞俊が、福岡の糟屋郡須恵村に移住する前に、この病院で医術を学び医者を目指そうと考えたとしても、無理な想像ではない。

 

それはそうとして、田原貞俊はどうして筑前福岡の移住先を糟屋郡須恵村としたのか? これは、たまたまとか偶然ではないと思う。  世界各地にチャイナタウン(中国人街)があるが、その地に先に住む中国人がいたから、後から来る中国人も安心感からか、そこに住んだのである。 

 

 室町末期、この地図の中に、大友家が支配していた博多部と大友家一の猛将・立花道雪の立花城、同じく大友家の忠臣・吉弘鎮種(=高橋紹運)の宝満城・岩屋城が見える。 この二つの城に挟まれた糟屋郡は大友家の領地と同じで、両家に従って付いて来た家来や従僕の家族が多く住んでいたのだ。

 

 

立花道雪は男子がいなくて、高橋紹運の長男・統虎(むねとら)を養子に迎え、立花城城督として立花宗茂を名乗らせている。 よって、薩摩の島津軍が筑前に侵攻してきた時には、宝満城・岩屋城の高橋紹運と立花城の立花宗茂の親子で戦ったことになる。

 うっちゃんのブログ  島津軍侵攻、高橋紹運玉砕 「立花宗茂と香椎宮 ① ~ ⑤」

 

広い糟屋郡の中で、何故、須恵村だったのか? これも想像だが説明が付く。  ブログ最初の「大友家・田原家 系図」に戻って頂きたい。 高橋紹運立花宗茂 親子の始祖は、吉弘正堅で田原家4代の貞広から分家した庶家であった。 つまり、田原家と同血族なのだ。 高橋紹運が僅か763名で島津軍を迎え、大友家のために岩屋城で玉砕した話は有名で、田原貞俊にも聞き伝えられていた。 離散した高橋家家臣や従僕の家族の一部が、宝満城岩屋城に近い須恵村にそのまま住み着いていて、田原貞俊一族は須恵村の人々から温かく迎え入れられたのだと思う。

 

田原貞俊須恵村に移住してからの系図は以下である。 現在、香椎田原眼科は本家17代目、9代:養柏の時に弟の田原養明が分家し、現在は志免田原眼科の6代目に継がれている。

 

初代:田原貞俊(1671年没) ➡ 2代:田原順貞 ➡ 3代:田原養朴 

➡ 4代:田原養柏 ➡ 5代:田原養全(1789年没) ➡ 6代:田原養柏 

➡ 7代:田原養全 ➡ 8代:田原養朴 ➡ 9代:田原養柏(1849年没) 

➡ 10代:田原養全 ➡ 11代:田原養朴 ➡ 12代:田原養全(1890年没)

➡ 13代:田原養朴 ➡ 14代:田原養柏 ➡ 15代:田原養全(昭和21年没)

➡ 16代:田原龍彦 ➡ 17代:田原昭彦(現:香椎田原眼科医院院長)

 

 

 「田原眼科医院 ⑦ 香椎宮参道の薬師堂」に続く

 

 

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