立花宗茂と香椎宮(私本香椎宮炎上)①
 
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 1章 武内親子との出会い (宗茂9歳)       
  2章 立花道雪の跡取り (宗茂15歳)       
 3章 養父立花道雪の死 (宗茂19歳)       
  4章 嗚呼壮烈岩屋城 (宗茂20歳)       
 5章 立花城決戦(立花城・御飯の山城)       
 6章 香椎宮炎上       
 7章 柳川十三万石領主 (宗茂21歳)       
  8章 肥前名護屋城 (宗茂26歳) あとがき
 
              香椎宮参道から眺めた立花山
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天正14年(1586年)、九州統一を狙った島津軍が立花城を攻めます。 この時の城を護り切った城主・立花宗茂香椎宮大宮司父子の物語です。
 
● 登場人物
 立花道雪(たちばなどうせつ)  立花城城主  
 高橋紹運(たかはしじょううん) 宝満城・岩屋城城主  
 立花宗茂(たちばなむねしげ)  高橋紹運の長男  
 武内氏永(たけうちうじなが)  香椎宮大宮司  
 武内氏続(たけうちうじつぐ)  武内氏永の長男  
 島津忠長(しまづただなが)   島津義久(当主)の従兄弟  
 星野吉実(ほしのよしざね)   八女星野の領主
 内田鎮家(うちだしげいえ)   立花道雪の家臣  
 黒木正信(くろきまさのぶ)   立花道雪の家臣(架空名)  
 大友宗麟(おおともそうりん)  
 小早川隆景(こばやかわたかかげ)   
 黒田官兵衛(くろだかんべえ) 
 豊臣秀吉(とよとみひでよし)
   
立花道雪・高橋紹運・立花宗茂は何回も名前を変えています。本物語では便宜的に晩年の名乗りで統一しています。
 
 1章 武内親子との出会い(宗茂9歳)
 
1575年(天正3年)の穏やかな春の日、香椎宮領地内の武内屋敷は神人達が立花城のお殿様を迎えるため、準備に慌しく動いていた。鎌倉時代の元寇以来、香椎宮は神人達を武装化し有事の時のために体制を整えていた。多い時には200人以上の神人武装兵がいたと言う。それは過去の元寇など、異賊の攻撃に備える事のみならず、立花城が催す儀式の際の見守り、城や村の見張りなどにも借り出されていた。今日は、その軍労に対するお礼の感状を大友家立花城の城督(城主)である立花道雪(たちばなどうせつ)が直々に授けに来たのである。
 
香椎宮大宮司の武内氏永(たけうちうじなが)は部屋の上席に座った立花道雪から恭しく感状を受け取った。 道雪は礼の言葉の後に続けて言った。
「武内殿、九州の情勢は肥前の龍造寺、薩摩の島津などいよいよ険しくなっていくであろう。豊後(大分)の大殿(大友宗麟・おおともそうりん)から、どのような事態にも筑前国と香椎宮の神領を守るように、との命を受けておる。しかしワシももう歳(道雪この時63歳)じゃ。武内殿のご意見番としてのお知恵添えと香椎宮の武装力を今まで以上にお願いしたいが、よろしいかな」
武内氏永は答えた。
「道雪様、ありがたきお言葉、もとより香椎宮の神威と我々の力の限りお努めいたす所存でございます」
道雪は「ウムッ」と頷いた。
武内氏永が尋ねた、
「ところで道雪様、お連れのご家来衆と庭で遊んでおられるお子はどなた様であられますか」
道雪はその子供を手で招き、部屋に上げると言った。
「武内殿、紹介しておこう。同じ大友家の武将、宝満城の城督である高橋紹運(たかはしじょううん)の長男 宗茂(むねしげ)殿じゃ。今9歳だが、ときどき立花城に遊びに来ておる。来ておると言うより、遊びに来てもらっているのじゃワシに男の子がいないのでな。今日は香椎宮を見たいと言うので連れて参った」
すると宗茂武内氏永を見つめて挨拶した。
高橋紹運の長子 高橋宗茂と申します。よろしくお見知りおき下さい」
子供とは思えぬしっかりした口調に氏永は一瞬たじろいでしまった。しかし次の言葉が、「武内様にはお子はおられないのか?」
それでも未だ子供だった、遊び相手が欲しいらしい。武内は答えた、
氏続(うじつぐ)という男の子がおりますが、未だ3歳でございます。来年になれば少しはお相手が出来るでしょう」
高橋宗茂とは後の立花宗茂、氏続とは後に父の後を継ぎ、香椎宮大宮司となる武内氏続である。宗茂と武内親子は、今日の出会いから激動の戦国時代に流されて行く。
 
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 2章 立花道雪の跡取り(宗茂15歳)
 
天正年間(1580年代)になると、九州は豊後の大友宗麟(おおともそうりん)、肥前の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)、薩摩の島津義久(しまづよしひさ)によるみつどもえの勢力争いが続くことになる。大友宗麟はキリスト教に改宗した為に、神仏を信じている大友派領主の間に混乱が起きていた。島津領の日向(宮崎)への進軍に失敗した(耳川の戦い)後には、勢力圏としていた豊前と筑後の領主に反大友派が増え、龍造寺や島津へ通じて行く者もいた。そして日向の守りを固めた島津軍は肥後から北上を開始した。みつどもえの重要拠点が筑後であり、ここに大友・龍造寺・島津による争奪戦が始まった。このころ関西では大阪城の築城が始まり、秀吉の政権確立が着々と進んでいた。
 
筑前国における大友勢力は二人の武将によって支えられていた。立花城の立花道雪(たちばなどうせつ)と宝満城の高橋紹運(たかはしじょううん)である。立花道雪は大分戸次(べっき)から、高橋紹運は豊後高田から大友宗麟の命により移り住んでいた。二人とも終生、大友家に忠誠を尽くした人物として戦国歴史愛好家に知らない者はいない。道雪の方がかなり年上であるが、武士の義を重んじる者どうしお互いに信じあい、尊敬し合っていた。
 
ある日、息子がいない道雪が、紹運に言った。
「いま大友家の力も弱くなってきた。今後も両家で大友家を支えて行く為には、私に跡取りが必要じゃ。貴殿は二人の息子に恵まれている。どうだろう、長男の宗茂殿を養子にいただきたいのだが」
突然の事に慌てた紹運はこの時は断ったが、何回も訪ねて来て大友家の将来を説く道雪に根負けし、ついに承諾した。 1581年(天正9年)、宗茂が15歳を迎えた元服の年であった。小さい時から何回も立花城に遊びに来ていた高橋宗茂に、道雪は大器の片鱗を感じていたのである。
 
歳若い跡取りを迎えた立花城では盛大な酒宴が開かれた。数日後、宗茂は立花宗茂として香椎宮を訪れた。宗茂は立花城に遊びに来るたびに香椎宮に立ち寄り、武内氏永に会い、氏続とも遊んでいた。体つきも立派に成長し、今日は立花城の若殿である。その沈着な態度に感服し、武内氏永はひれ伏して言った。
「宗茂様におかれましては、元服の義、まことにおめでたくお祝い申し上げます」
宗茂は、
「今日は私の方よりご挨拶に参ったのです。実の父、高橋紹運から聞き及ぶに、武内さまのご先祖は武内宿禰大臣とのこと、仲哀天皇、神功皇后を支え、政(まつりごと)もさることながら武術にも長け、中国の蜀(しょく)の諸葛孔明(しょかつこうめい)にも並ぶ戦略家だったとも聞いております。養父の立花道雪の話では武内殿もその大臣の秀でた血を引き継がれておられ、何かと相談事に対し的確なご指導をいただいていると申しておりました。私に対しても無礼は構わぬ故、厳しく接してお教えいただきたくお願い申します
氏永は初めて顔をあげ宗茂に答えた。
「光栄に存じます。かしこまり、承知いたしました」
そして宗茂を神木綾杉の下に案内すると、宗茂の体を紙垂(しで)でお祓いして言った、「この綾杉は聖母大菩薩(神功皇后)そのものです。宗茂様の武運長久をお祈りしましょう」
宗茂は低頭し長い時間祈っていた。お祈りが終わると、隣に男の子がチョコンと立っていた。9歳になった武内氏続である。父の武内氏永
「氏続、若殿に失礼であろう」
宗茂が
「宜しいではないか、私の遊び友達だ」
氏続は水が入った小さな桶を持っている。
「宗茂様、喉がお渇きかと思い、冷たい水をお持ちしました」
武内屋敷内に湧き出る天下の名水不老水である。 氏永が付け加えた
武内宿禰大臣の頃より不老長寿の神威があると伝えられております。武運も開けるでしょう」
宗茂が柄杓の一杯を飲むと、
「ウーム、氏続殿、旨い!力が出てきたゾ、ハッ、ハッ、ハッ」
綾杉の下で三人の笑顔がはじけていた。この時期、武内氏永は既に大宮司職を香椎4党の次の代(三苫氏)に譲っていた。しかし香椎宮の実力者として宮内でも立花城内でも一目置かれた存在であった。
 
香椎4党香椎宮の大宮司は天皇が命じた職で四家が6年交代で務めることに定められていた。 四家は神功皇后が朝鮮出征の時に、功のあった者の子孫を当てるとされ、武内家、中臣家(三苫家)、大伴家、清原家を言う。
 
実の父高橋紹運から武士の心得を徹底的に教え込まれた宗茂を、養父の道雪は筑後への戦いに同行させた。それまで大友方であったが島津に通じた秋月を討つため、立花城、宝満城の両城から5千人の軍勢が出発した。宗茂は150人の兵を任され、2人の父親と共に戦いに参加、秋月軍を破って初陣を飾った。初めての指揮権を冷静に判断し兵を統率した宗茂を遠くから眺めていた紹運は、冑の中で誰からも見られる事なく喜びの涙を流していた。
 
その後、数回の出陣を重ね、宗茂は逞しく育っていった。暫くの間、筑後の争奪攻防戦は膠着状態が続いていたが、龍造寺島津に折れ、均衡が破れた。肥後をほぼ手中に収めた島津の大勢力が筑後方面に拡大してきた。島津軍の総大将は島津忠長(しまづただなが)、当主島津義久の従兄弟である。 島津の北上を懸念した豊後の大友宗麟は失地回復に焦っていた。
 
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● 参考・引用させて頂いた文献・資料
 
「立花宗茂」   河村哲夫
「香椎東校区35周年記念誌」
「立花城興亡史」  吉永正春
「香椎宮史」
「香椎町史」
「立花宗茂と立花道雪」  滝口康彦
 
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