立花宗茂と香椎宮(私本香椎宮炎上)②
立花宗茂と香椎宮(私本香椎宮炎上)① の続きです。
 
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 1章 武内親子との出会い (宗茂9歳)       
  2章 立花道雪の跡取り (宗茂15歳)       
 3章 養父立花道雪の死 (宗茂19歳)       
  4章 嗚呼壮烈岩屋城 (宗茂20歳)       
 5章 立花城決戦(立花城・御飯の山城)       
 6章 香椎宮炎上       
 7章 柳川十三万石領主 (宗茂21歳)       
  8章 肥前名護屋城 (宗茂26歳) あとがき
 
● 3章 養父・立花道雪の死
 
1585年(天正13年)、宗茂は19歳になった。筑後へは豊後(大分)から本体が出動し、筑前からも大軍を率いた道雪と紹運が出発した。筑後の高良山に拠点に置き、島津軍との攻防を繰り返していた。
 
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筑後の星野吉実(ほしのよしざね)は星野地域一帯(現八女市星野村)を治めている豪族である。高橋紹運とも面識があり、筑後に於ける大友の重要な砦の一つとして星野城を守っていた。しかし大友宗麟のキリスト教への改宗に疑問を持っていた一人でもあった。そんな時、島津忠長から九州制覇の夢に誘われ、また領地安堵と恩賞の約束を条件に城を明け渡し屈服してしまった。同じように反大友派となった筑紫、原田そして筑豊の麻生、宗像などの豪族も次々と島津に通じ、立花城宝満城は完全に遠まわりに囲まれ、孤立した状態になりつつあった。
 
その間、立花城は宗茂、宝満城は高橋直次(宗茂の弟)が僅かな兵で守り抜きます。両城とも山頂に築かれた頑強な城だった。この年の6月、高良山の陣中で立花道雪が病に倒れた。高橋紹運は道雪の枕元で必死に看病を続けた。しかし・・・。9月11日の朝、紹運は道雪の小さな呻きで目が覚めた。
「紹運殿、いよいよお迎えが来たようじゃ。心残りは大友家のこと、なにとぞ主君(大友宗麟)のことよろしくお頼い申す」
「道雪様、お約束いたします。大友家への忠義は変わりませぬ。それより戦は未だ終わっておりませぬ。お気を確かにお持ちくだされ」
道雪はそっと紹運の手を握り、言った。
「立派な跡継ぎができたこと感謝しておる」
徐々に道雪の声が細くなってきた。紹運は道雪の口元に耳をあてて聞いた。
「紹運殿、豊後の大殿(宗麟)が直々に大阪へ出かけ、豊臣秀吉に援軍を頼みに行くようじゃ。もし援軍が来ることになれば、そのあいだ立花城と宝満城で出来るだけ島津軍を引き付け、時間を稼ぐのじゃ・・・。宗茂・・・、宗茂殿に・・・」
大友家が誇る名武将が一人、息をひきとった。73歳であった。
 
                           立花道雪  
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9月14日、立花軍と高橋軍は高良山の大友軍の陣を出発、道雪の亡骸を入れた棺を守りつつ立花城へ向かった。敵の追撃から棺を守るため、高橋軍がしんがりを務めた。しかし島津忠長は名武将であった立花道雪に哀悼の意を表し、それを追撃することはしなかった。
 
棺が到着した翌日、宗茂以下家臣一同、高橋紹運、武内氏永などが参列し葬儀が行われた。ご遺体は立花山口の梅岳寺に埋葬され、今もここで眠っておられる。
 
                            梅岳寺   
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葬儀の日、宗茂は名実ともに立花城の城督(城主)となった。ほとんどの家臣が道雪に育てられた武将達であった。 吉田右京、内田鎮家、綿貫左三兵衛、小野和泉、十時伝右衛門、彼らは宗茂を、若いが新しい城督(城主)として相応しいと心から従った。 宗茂がそれなりの資質を備えていたこともあるが、道雪に鍛え上げられた家臣団が素晴らしいということも言える。 
 
高橋紹運は葬儀が終え、宝満城に戻る馬に乗った。そして見送りに来た宗茂に言った。それは息子にでは無く、城主に対する言葉使いだった。
「立花城城督の宗茂殿に武将としてお教えすべきことはもうありませぬ。あとは大友家主君、そして立花家の為に何をすべきかはご自身で判断され行動されるよう」
馬上から最後に宗茂の眼を一瞬であるが、キッと見つめて去った。 立花宗茂はその後、使者を通じて紹運と連絡は取りあっていたが、高橋紹運の姿を直接見たのはこの時が最後だった。 紹運は途中、香椎宮に寄り戦勝祈願をした。横に控えていた武内氏永は紹運が祈願している小さな声のなかに、「・・・宗茂・・・」と確かに聞いた。祈願の後、紹運が氏永に言った。
「武内殿のことは宗茂や道雪様から良く聞いておったが、一つだけお願いがある。それは・・・」
二人で暫く話をしていたが終わると紹運は馬で駆け去った。
 
● 4章 嗚呼壮烈岩屋城(宗茂20歳)
 
年が明け、1586年(天正14年)宗茂は20歳になった。筑後は豊後(大分)からの大友軍が懸命に戦っていたが、6月までの攻防は敗北に終わった。筑後をほぼ押さえた島津軍の次の目標は高橋紹運護る宝満城岩屋城(いわやじょう)だった。岩屋城は宝満城から南西の四王寺山(しおうじやま)中腹にある支城で、紹運は二つの城の利点を生かした攻撃と防御が得意だった。 7月の初め島津軍は筑後から北上を開始した。そんな中、豊後の大友宗麟から書状が届いた。 内容は、豊臣秀吉が島津征伐を決定され、秀吉自身もいずれ九州に出陣する。 その前に黒田官兵衛を軍監(総大将)とした小早川隆景ら毛利軍の援軍が送られる。 それまで何としても筑前国を守れ、という命であった。
 
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高橋紹運は黒田官兵衛率いる援軍が到着する日を逆算していた。どんなに急いでも30日はかかる。紹運は考えた。 宝満城と立花城は山頂に造られた頑強な城であり、島津の大軍といえど二つの城を落とすには、それぞれに15日はかかる。 岩屋城は山の中腹であり、この城に自分が入れば、まずここを攻めてくるだろう。 次男の直次を宝満城に移し、ここ(岩屋城)で15日間耐えれば何とか宝満城と立花城の二つの城が助かるかもしれない。紹運は岩屋城をおとりにして、自らの命と引き換えに二人の息子を救おうと考えた。 そのことで立花家、高橋家が存続し、大友家への忠義が果たせる。 死んだ道雪様にも顔向け出来る。
                 
島津軍の総大将は島津忠長(しまづただなが)、島津2万の兵と龍造寺派など服従してきた各地の豪族兵1万を従えて迫ってきた。紹運は主な家臣に決意を話し、岩屋城に残る意思のある者を尋ねた。紹運に心酔し、死を覚悟した者が我も我もと争って名乗りを上げた。この中には立花城から派遣されていた立花道雪の家臣(吉田右京など)も含まれていた。 紹運は嬉しさに涙を流しながら、岩屋城に残る763人を選んだ。家老の伊藤源右衛門に幼い次男の直次を託し、2000名の兵と共に宝満城に移動させた。
 
7月12日、紹運以下763人が守る岩屋城に島津忠長(しまづただなが)率いる3万の大軍が押し寄せた。「岩屋城の戦い」である。「嗚呼壮烈岩屋城」と本丸跡の石碑に残っているように、戦国史上に残る激戦であった。高橋紹運と言う名武将の名は島津軍にも知れ渡っている。戦えば損害が大きくなることも島津は分かっていた。島津忠長は観世音寺の近くに本陣を置き、13日朝、降伏を勧める使者を出した。使者は八女星野村の星野吉実(ほしのよしざね)であった。大友家に従っていた時に、紹運とも面識があった。
「紹運殿、今や大友も島津もない、九州は一つにならないと秀吉に征服されてしまう。道雪様も亡くなり、ここで紹運殿を討つのはしのびない。もう充分に大友には尽くされたではないか、後世に恥じることはない」
星野吉実は紹運を死なせたくない思いから、必死に説得した。しかし紹運の気持ちが変わるはずはない。紹運は拒否の回答をわざと翌日に延ばした。1日でも時間を稼ぎたかったのだ。 
 
そして16日、島津の総攻撃は朝から夜まで続いた。紹運の的確な指揮とそれに従う武将たちの働きに、島津軍の兵は苦しめられた。次の日も次の日も、総攻撃は23日まで続いた。全員死を覚悟している岩屋城兵士の凄まじい気迫に、島津軍の死傷者が増えた。しかし岩屋城内でも日々討ち死にする者が増えていった。25日は背後からの攻撃が加わり、ついに外郭の砦が破られ城内に島津の兵が流れ込んできた。紹運は残った鉄砲隊と弓隊を二の丸に退却させ次に備えた。26日、紹運はこの日が最後の戦いと覚悟していたが、懸命に戦いその日も耐えた。しかし二の丸に続く南門が破られ、そこを守っていた54名全員が討ち死にした。
 
27日夜が明けると前後左右からの総攻撃が始まった。鉄砲の弾も弓矢も昼前に尽きていた。二の丸に残った兵士は10名毎の斬り込み隊を組織して白兵戦に打って出たが昼過ぎには二の丸の全員が壮絶な戦死を遂げた。 紹運も本丸の柵を越えて来た島津兵と交戦、十数人を切り倒したが、自身も背中と腹に傷を負った。
もはやこれまでと、本丸の最上階に登り、
「宗茂・・・、直次・・」とつぶやくと「エーィッ」、
気合とともに割腹して果てた。残った兵士40名は紹運の最後を確認すると、掛け声とともに一斉に大軍の中に切り込んで行った。岩屋城の763名全員が玉砕した。まさに壮絶の15日間であった。そして計画通り、島津軍を15日間釘付けにした。
  
                 岩屋城本丸跡 嗚呼壮烈岩屋城     
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                   高橋紹運の墓(二の丸跡) 
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勝利した島津忠長は、
「この15日間、紹運殿は戦神の化身のようであった。類まれなる名将を殺してしまった」
と後日談にある。島津はこの戦いによって3500人以上の兵を失った。これより後、島津軍が立花城方面と宝満城方面に軍を分ければ更に時間が稼げる予定だったが、宝満城があっさり降伏したのである。家老の伊藤源右衛門は、紹運の次男である幼い直次の命を何とか助けようとの思いから、降伏の勧めにのってしまった。8月6日、無血開城にはなったが、直次は島津の捕虜となってしまった。 
 
 
参考・引用させて頂いた文献・資料
「立花宗茂」   河村哲夫
「香椎東校区35周年記念誌」
「立花城興亡史」  吉永正春
「香椎宮史」
「香椎町史」
「立花宗茂と立花道雪」  滝口康彦
 
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