江戸時代の日本4大眼科医と黒田藩の眼科医

田原眼科医院 ① 360年の歴史

田原眼科医院 ② 高場順世の謎

田原眼科医院 ③ 須恵町を訪ねる

田原眼科医院 ④ 須恵の田原眼治療院」の続きです。

 

福岡藩10代藩主・黒田斉清(なりきよ)は、父の9代・斉隆(なりたか)が19歳の若さで亡くなったので、生後9カ月で藩主を継いでいる。 斉清(なりきよ)6歳の時の享和元年(1801年)、香椎宮本殿が焼失した。 6歳では政(まつりごと)は出来ない。 家老たちの評定で決まったのだろうが、斉清(なりきよ)の名で、本殿を再建して頂いた。 それが、現在の本殿だ。 

 

斉清(なりきよ)は、幼い頃から弱い眼病を患っていた。 斉清27歳の時(文政5年=1822年)、世継ぎを心配して薩摩島津家から12歳の長溥(ながひろ)を養嗣子として迎えた。 その後、藩財政が悪化し、眼病の重症化によって政務が滞ることを危惧した斉清(なりきよ)は、天保5年(1834年)、家督を24歳になった長溥(ながひろ)に譲って隠居した。 当時の斉清は、ほぼ失明状態だったという。

 

この頃までの斉清の眼病を診ていたのは藩医(侍医)・須恵の田原眼科8代の田原養朴だった。 当時、福岡藩には約120名の藩医がいた。 医師は「士・農・工・商」の身分制度から外れていたので、藩の評定所(合議機関)に於いて、医学を心得た者の中から藩医が選ばれていた。 120名の藩医の約5割が本道(内科医)で、他に外科医・小児科医・鍼灸医・眼科医・歯科医と続く。 藩内の眼科藩医は5名いた。 藩医の中で藩主の身体を直接診れる医師は特に侍医と呼ばれ、それぞれの分野から1名~2名が選ばれていた。 眼科藩医5名のなかでは、上須恵の田原眼科が侍医を務めていた。 本道・外科医の原 三信(現在の原三信病院)も初代から侍医を務めている。 侍医は他の藩医よりも待遇が良く、知行(俸給)も高かった。

 

当時の福岡藩眼科藩医5名のうち4名を記す。 地名の後は、藩召し抱えの知行(俸給)を示す。

田原眼科=上須恵=120石

岡 眼科  =下須恵=10人扶持

中村眼科=粕屋内橋=3人扶持

白水眼科=早良内野=3人扶持

田原眼科は侍医として、中級家臣並の知行だった。 侍医・藩医の地位の他に福岡部・博多部には町医者が、郡部には村医者がいた。 田原中村の3眼科は先のブログで記したように、元唐津藩家臣で江戸時代初期に福岡藩で眼科治療を確立した高場順世の流れに組する。 

 

早良内野の白水眼科・白水養禎(しろうずようてい)も上須恵の田原眼科に弟子入りした同じ流れの眼科医なので少し触れる。 白水養禎の「養」の一字は田原養朴・養柏・養全の「養」の使用を認められたものだ。 

福岡藩10代藩主・黒田斉清(なりきよ)の時代の全国的な出来事が「天保の改革」だ。 福岡藩も凶作に加え、長崎港の警護などで費用が重なり、財政が悪化した。 福岡藩は財政再建を図るため、景気回復策の意見を一般公募した。 多くの公募の中から早良郡内野村の眼科医・白水養禎(しろうずようてい)の意見書が採用されたのだ。 大量の藩札(銀札)を発行させ、流通させることによって景気を盛り上げる積極的なプランだったが、改革は失敗し白水養禎は謹慎させられた。 しかしながら、一人の眼科医が藩財政の再建に挑戦したことは、褒めるべき出来事であったと思う。 

 白水養禎に関するうっちゃんの過去ブログ  「市川海老蔵と中州繁栄の仕掛け

 

さて、眼病が悪化した10代藩主・黒田斉清(なりきよ)の隠居に伴ない、島津薩摩藩から養嗣子として迎えられていた黒田長溥(ながひろ)が24歳で福岡藩11代藩主となった。 彼は江戸の薩摩藩邸で生まれ育っているので、福岡には身近に気楽に話せる家臣が居なかった。 ただ、養父・黒田斉清(なりきよ)の眼治療往診のために、田原眼科8代の田原養朴の助手として連れだってお城に来る従兄弟の田原貞一(後の9代養柏)に興味を持っていた。 田原貞一は誰からも好かれる明るい性格で、過信的なところも無く、眼治療の医術も高いので城内の家臣達からも信頼されていた。 長溥(ながひろ)が11代藩主となった24歳の時(天保5年=1834年)、田原貞一は29歳で比較的に年齢が近かったこともあり、長溥(ながひろ)は貞一に急接近した。

 

 田原養柏と黒田長溥

黒田長溥(ながひろ)は同血族である甥の島津斉彬に似て、西洋趣味が高く、福岡藩内の近代化を模索していた。 医術を高めるために長崎の情報にも長じていた田原貞一にも率直な意見を求めた。 長溥(ながひろ)が11代藩主となった翌年(天保6年=1835年)、田原貞一は上須恵の田原眼科9代目養柏を継ぎ、長溥の侍医となった。 福岡城に上るのは、長溥本人の眼定期検査よりも、藩政の相談相手や単なる話相手として呼ばれることの方が多くなった。 しかし、上須恵の診療所を訪れる眼患者も多い。 治療を怠る訳にもいかないので、弟を分家し、田原養明として上須恵の診療所を守らせた。 この田原養明が、現在、志免町田原眼科の初代となる。

 

田原養柏は乗馬が得意だったので、長溥(ながひろ)の遠乗りにも付き合わされた。 二人(勿論警護付き)で香椎宮に遠乗り参拝に来た記録も残っているようだ。 また、藩領内の視察や行事にも同行している。 ここまで来れば、藩主と侍医の関係というよりも気心の知れた家臣・友人・家族のようなものだったのではないだろうか。 長溥(ながひろ)には藩主として参勤交代の義務があり、養柏ら侍医団も同行して江戸の黒田藩邸に赴く。 

 

ただ、田原養柏の場合、侍医として江戸藩邸(千代田区霞が関)に待機することは少なかった。 長溥(ながひろ)のスケジュールに従って江戸城や他藩の藩邸をお供することが多かった。 長溥(ながひろ)は田原養柏の眼病医術の高さや人物の良さを得意げに周囲に話した。 養柏は他藩の藩主や家臣から眼病の相談を受けると、気軽に治療を施してあげた。 そして、その治療の上手さと人間性の良さは徐々に噂として広まった。 ある日、江戸城の大奥から長溥(ながひろ)に養柏を登城させるよう使いが来た。 実は長溥(ながひろ)の姉・島津茂子は11代将軍・徳川家斉(いえなり)の正室として嫁いでいて、養柏の噂は茂子の耳や大奥にも届いていたのだ。 長溥(ながひろ)の江戸滞在中に、田原眼科の名は江戸城内や各藩邸に知れ渡った。

 

翌年、参勤交代の江戸勤務が半年で終わり藩主一行は福岡に帰って来た。 福岡藩は長崎警護の任があるため他藩より藩主の江戸滞在日数が半分と短いのだ。 田原養柏が帰って来てからの須恵村がどうなったのかは想像出来る。 全国から治療に訪れる眼病者が増えて、眼病人宿場が形成されていったことは、前回のブログ「田原眼科医院 ④」で触れた。

 

全国からの眼病治療人は増え続け、加えて目薬の販売も拡大し、須恵村は大いに栄えた。 田原眼科の名とその治療術のレベルの高さは、全国に知られることとなり、当時の日本4大眼科の一つに数えられるまでになった。

天保年間(1830~1844年)に於ける日本4大眼科とは・・・

① 田原眼科  筑前糟屋

② 馬嶋眼科  尾張海部

③ 竹内眼科  信州諏訪

④ 土生眼科  江戸(将軍家御典医)

 

しかし・・・

明治時代になると、眼科も含む各県ごとの医術レベルと病院の体制は格段に向上する。 須恵の眼病人宿場を利用する患者は徐々に減少していった。 明治時代後期になって、田口参天堂(現:参天製薬)や山田安民薬房(現:ロート製薬)が、日本初の点眼方式の目薬を全国で販売開始すると須恵の目薬はシェアを落としていった。

山田安民薬房(ロート製薬)の点眼方式目薬

 

明治37年(1904年)、西戸崎/須恵間に博多湾鉄道(現:JR九州香椎線)が開通した。 上須恵の田原眼科は、糟屋郡の中でも将来の発展が期待される鹿児島本線との接続地である香椎村への移転を考えたのではないかと思われる。 (当時の香椎は糟屋郡)

 

 黒田長溥(ながひろ) と 乙丑(いっちゅう)の変

福岡藩11代藩主・黒田長溥(ながひろ)のその後について触れる。 天保の改革後、長溥(ながひろ)は若い藩士を長崎に派遣し、積極的に西洋技術を学ばせた。 それらの技術を中洲の福岡藩精錬所(理化学研究所)に集約し、産業技術の基礎を築いて近代化を図った。 しかし、時代は幕末の動乱を迎え、福岡藩内も佐幕派勤皇派に分かれ対立した。 

 

黒田長溥公 (明治時代の撮影)

 

長溥(ながひろ)は筑前勤皇党の加藤司書を家老に抜擢するなど、尊王攘夷運動に理解を示す時期もあったが・・・如何せん、島津家が公武合体派であったことと、姉の島津茂子が将軍・徳川家斉(いえなり)の正室だったことから身動きが取れなかった。 結果、幕府に恭順の意を示し、加藤司書らに切腹を命じた。 また、野村望東尼らを姫島に流すなど140名を処罰して筑前勤皇党を壊滅させた。 これが福岡藩の悲劇「乙丑(いっちゅう)の変」だ。 多くの優秀な人材を失い、福岡藩明治維新の波に乗り遅れたとされている。 この歴史的事実には色んな見方があるようだが、僕はどの角度から見ても止むを得ない状況だったと思う。 明治時代になり廃藩置県の後、黒田長溥(ながひろ)は福岡県の人材育成・教育・医療の普及に尽力している。

 うっちゃんの関連ブログ  「加藤司書 ① 薩・長・筑・土・肥」~「加藤司書 ③

加藤司書

 

 幕末の女眼科医・高場 乱(たかばおさむ)

乙丑(いっちゅう)の変」によって、加藤司書は切腹を命じられ、慶応元年(1865年)10月25日の夜、城近くの部屋牢から冷泉町の天福寺(切腹場所)まで駕籠で移送された。 深夜にも関わらず道路の両側には、加藤司書を慕う多くの人々がお別れに集まっていた。 

天福寺に移送される加藤司書の駕籠

(福岡市博物館所蔵「旧稀集」より)

駕籠が祇園の萬行寺を通り過ぎようとした時、眼科診療所の前で一人の男が道路に正座して深々と頭を下げた。 この男、実は女で名を高場 乱(たかばおさむ)と言う。 父の眼科医・高場正山(おさむ)に眼科診療所を継がせるために、子供のころから男として育て眼療医術を教えた。  藩への医者登録も男として(おさむ)の名で報告されている。 剣術にも優れて、男装帯刀して町なかを歩いていたそうだ。

 

高場 乱(たかばおさむ)

 

父の高場正山は須恵の眼科医・岡 正節の三男で、父から眼療医術を学ぶと博多の瓦町(萬行寺前)で診療所を開いた。 須恵の岡 眼科の初代は高場(岡)正節(代々、正節・正安の名が継がれる)で、田原眼科と同じく天草から来た高場順世の弟子であった。  須恵の岡 正節は博多で眼科診療所を分家開業する三男坊の正山に、初代の高場の姓を与えたのだろう。

 

高場正山の妻、つまり高場 乱の母と筑前勤皇党野村望東尼の母は、実家が須恵で姉妹だった。 高場 乱野村望東尼は従姉妹関係になる。 史料では確認できないが、従姉妹同士で幕末の筑前勤皇党の考えや動向を情報交換していただろう。 乙丑の変での加藤司書の切腹や従姉妹である野村望東尼の島流しの処分に、高場 乱は身体の中に熱い大きな塊が膨らんで来るのを覚えた。

野村望東尼

 

亀井昭陽の亀井塾で学んでいた高場 乱は、これからの福岡を支える人材の育成のために明治6年(1873年)興志塾(通称:人参畑塾)を開いた。 乙丑の変で処罰された筑前勤皇党の子息たちに入門を誘った。 明治7年、後に明治から昭和にかけて活躍する福岡の政治結社「玄洋社」の総帥となる頭山 満が19歳で入門志願して来た。 一説では、頭山 満高場 乱に出会ったのは眼の治療に来たのだ、とも言われている。 いずれにしても、興志塾玄洋社から多くの優秀な人材が輩出された。

遠山満

 うっちゃんの関連ブログ  「頭山 満と玄洋社 ② クスノキと人参畑

 

江戸期から明治にかけて、福岡では眼科医が活躍したことは間違いない!

 

 参考文献: 西南大学・上園慶子氏 地域史料研究会報告資料から多くを引用しています。

 

 

田原眼科医院 ⑥ 国東半島の大友家一族」に続く。

 

 

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