薩・長・・土・肥  (3)  加藤司書(かとうししょ)
 
 
戦国時代の「軍師 官兵衛」が大河ドラマとなり・・・あとは、幕末・維新の大河ドラマで、福岡藩が」の一藩として加われば・・・福岡市民として嬉しい。 
もしも、もしもですよ・・・今回の大河ドラマ「西郷どん」で、福岡藩の加藤司書が活躍するような歴史になっていたとするならば・・・数年前の大河ドラマ「軍師 官兵衛」の脚本は一部が少し変っていたでしょう。
 
                                       加藤司書 
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戦国時代と幕末・・・時代が異なるのに、黒田官兵衛加藤司書に関係が???
 
 次の写真の博多人形は、福岡城跡三の丸スクエア内に展示されています。 数年前、福岡市博物館で一度見かけた後、展示が無くなって気になっていたんです。 6月、偶然に三の丸スクエアで見つけました。
 
                               土牢一年一失・活命を識る景   
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 博多人形師・熊谷 強高山 高夫 の合作による作品タイトルは「土牢一年一失・活命(いのち)を識(し)る景」です。 歴史ファンはお分かりですね。 黒田官兵衛有岡城の土牢に幽閉されていたときの図です。 
 
天正6年(1578年)、織田信長より摂津国を任されていた荒木村重は、突然信長に対して反旗を翻し、有岡城に篭城します。 羽柴秀吉は荒木村重と旧知の仲である黒田官兵衛に説得させるため、有岡城に派遣します。 しかし、黒田官兵衛は逆に捕らえられ、有岡城の環境劣悪な土牢に投獄されたのです。 その時の牢番を務めていたのが、荒木村重の家臣・加藤重徳(かとうしげのり)でした。 加藤重徳は徐々に官兵衛の人間味を慕うようになり、なんとか死なせぬようにお世話をしたのです。
 
                           軍師 官兵衛  (NHK大河ドラマより)
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NHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」の中では、加藤重徳が登場しました。 その時、子犬を追いかけて、牢前に入り込んできた子供がいたのですが・・・それが、加藤重徳の次男・玉松(当時9歳)です。 現実的には、子供が牢の前に現れることは有り得ないのですが・・・ドラマですから・・・玉松も差し入れを持ち込みながら、お世話をした様子を表したのが博多人形の「土牢一年一失・活命を識る景」でしょう。
 
約1年後、信長軍の攻撃によって有岡城が落城する際、加藤重徳助けに来た官兵衛の家臣・栗山善助と共に官兵衛を抱えて城外まで連れ出します。  そして、官兵衛に言いました。 「それがしは荒木村重の家臣として最後まで仕えます。 願いを聞いて頂けるのであれば、次男の玉松だけは救っていただけないでしょうか」
NHK大河ドラマでは、加藤重徳は有岡城で討ち死にします。 子供を生かして自身が死ぬのはドラマになりますから・・・でも、この辺はあまりにも史実を曲げ過ぎています。 有岡城は落ちますが、加藤重徳は討ち死にしていません。長男の吉成(よししげ)を連れて脱出し、後に小西行長に仕えています。 
この長男の吉成(よししげ)については、後ほど・・・その前に、「AKB 48」を紹介しましょう・・・おっと、間違った・・・「KRD 24」です。
      
                                         KRD 24     
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KRD 24」とはKURODA 黒田24騎のことです。 黒田24騎については、改めて紹介する必要はないと思います・・・写真の「KRD 24」は大手門の「ふくおかフィナンシャルグループ本社ビル」の1階に展示されています。
 
 24騎の中でひと際バカでかい大水牛脇立兜をかぶった武将がいます。 
 
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 これが、有岡城の牢番・加藤重徳の次男・玉松です。
 
黒田官兵衛加藤重徳の次男・玉松を預かり、嫡男の長政と同様に、自分の子供として勇猛な武将に育て上げます。 多くの武功を上げた玉松は黒田の姓を与えられ、黒田一成(かずしげ)と名乗ります。 そして、兄弟のようにして育った初代福岡藩主・長政の側に付いて活躍します。 筑前入国後、朝倉の三奈木に居を構えたので三奈木黒田家と呼ばれ、代々筆頭家老を務めて幕末に至っています。 はは~ん、幕末に家老を務めた加藤司書は、この黒田一成の血筋の子孫だったのか・・・と、思われたでしょうが、少し違います。
 
有岡城を脱出した加藤重徳と長男の吉成(よししげ)は、後に小西行長に仕えました。 文禄・慶長の役では、長男の吉成(よししげ)は小西行長に従い、次男の一成(かずしげ)は黒田長政に従って朝鮮半島に入り、兄弟其々大いに武功を挙げたのです。 
 
ところが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、小西行長は西軍に付いて敗北し処刑されます。 加藤吉成(よししげ)は年老いた父親の重徳(しげのり)を連れて浪人の身になりますが・・・東軍の黒田家に仕えていた実弟の一成(かずしげ)は、藩主・黒田長政に父と兄の迎え入れを頼みます。 
 
長政は父・官兵衛が有岡城の土牢に幽閉されていた際に世話になった恩人とその長男を心から歓迎したのでした。 官兵衛如水が未だ存命中でしたから当然です。 父の加藤重徳(しげのり)は博多の聖福寺筥崎宮の間の吉塚辺り?に居を構え、野菜作りをしながら隠居します。
 
     筥崎宮放生会 新しょうが
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加藤重徳官兵衛如水が投獄中に悪くした足の関節がいまだに痛むことや、老いで血液循環が悪くなり身体が冷えることなどを聞いて・・・早速、それらに薬用効果がある生姜を自宅の畑で栽培し始めていたのです。 
ある日突然、官兵衛如水筥崎宮にお参りに来ることを聞いて、慌てて畑から生姜を抜き・・・葉が付いたままの新生姜を、筥崎宮に居た官兵衛如水まで届けたのです。 二人は時が経つのも忘れて、久しく語り合いました。 この逸話から、夏疲れ対策のお土産として、新生姜が筥崎宮放生会の名物になったのです。
 
新生姜のことなどで、父親の加藤重徳(しげのり)の話が長くなりました。
さて、長男の吉成(よししげ)には中老の要職と1,000石(後に3,000石まで加俸)が与えられ、幕末まで続きます。 
 
福岡藩では中老職の中から家老に抜擢する仕組みになっていて・・・もう、お分かりでしょう。 幕末の家老・加藤司書(ししょ)は加藤吉成(よししげ)の子孫になります。 三奈木黒田家加藤家は両家で力を合わせ、幕末まで福岡藩を支えて来たのです。
加藤司書が歴史の中に残っていたのであれば・・・NHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」の有岡城土牢前のシーンに子供時代の長男・加藤吉成(よししげ)も加わり、兄弟で登場する脚本になっていたでしょう。
 
 
慶応元年(1865年)10月25日の深夜、加藤司書(ししょ)は聖福寺の末寺である天福寺で切腹・・・享年36歳でした。 まだ若い!・・・明治を任せたかった。
 
天福寺は、昭和58年に油山に移転し、跡地には大きなオフィスビルが建っています。
 
                                   天福寺跡に建つビル  
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1階に中国国際航空福岡支店(AIR CHINA)が入居しているビルで、矢印の場所に「天福寺跡」と彫られた石板があります。
 
                                     天福寺跡石碑  
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その石板には加藤司書の歌皇御国すめらみくに)」と辞世の句が彫られています。
辞世の句                 
ため盡(つく)す赤心(まごころ)今よりは、尚いやまさる武士の一念
 
最後まで勤皇の志士として・・・立派な辞世の句です。
 
福岡藩加藤家の始祖・加藤重徳(しげのり)と加藤吉成(よししげ)の菩提寺である聖福寺の塔頭(たっちゅう)・「節信院(せっしんいん)」に加藤司書の墓があります。
 
                                         節信院  
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                                    加藤司書の墓   
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                                                       合掌
 
うっちゃんの青年期に明治維新100年を迎えました・・・そして明治維新150年・・・遠くになりました。 明治維新、それは近代日本国へ突き進んだスタート地点でした。
日本国を良くしよう、と同じ目的に向かっていたのに、多くの血が流れました。 その血の塊りを土台にして、150年後の今を脈々と造り上げてきました。 
 
現在、「薩・長・筑・土・肥」と呼ばれることはありませんが、しかし、福岡・博多の町には筑前勤皇党の魂が今でも残っているように感じます。 だって、「薩・長・・土・肥」の中で、一番大きく発展しましたから・・・。 これからも、アジア・世界への玄関口として、日本を支える重要な大都市に育っていくことでしょう。 
 
うっちゃんの歴史散歩