須恵村は全国から眼治療を求める人々で賑わった

田原眼科医院 ① 360年の歴史

田原眼科医院 ② 高場順世の謎

田原眼科医院 ③ 須恵町を訪ねる」 の続きです。

 

須恵町歴史民俗資料館を出て、徒歩で坂道を下り91号線から須恵川を渡り、上須恵に向かう。 

の方向 須恵歴史民俗資料館、 上須恵 田原眼科跡、 下須恵 岡 眼科跡)

 

歩きながら眼科 田原家の系図をまとめておこうと思う。 現在、香椎の田原眼科は本家17代目、初代は江戸時代初期に上須恵からスタートした。  3代から15代までは、養朴・養柏・養全の三つの名を交代で襲名している。

 

初代:田原貞俊(1671年没) ➡ 2代:田原順貞 ➡ 3代:田原養朴 

➡ 4代:田原養柏 ➡ 5代:田原養全(1789年没) ➡ 6代:田原養柏 

➡ 7代:田原養全 ➡ 8代:田原養朴 ➡ 9代:田原養柏(1849年没) 

➡ 10代:田原養全 ➡ 11代:田原養朴 ➡ 12代:田原養全(1890年没)

➡ 13代:田原養朴 ➡ 14代:田原養柏 ➡ 15代:田原養全(1946年没)

➡ 16代:田原龍彦 ➡ 17代:田原昭彦(現:香椎田原眼科医院院長)

 

9代:養柏の時代が江戸期の全盛と言われ、この時、志免田原眼科が分家し、現在は6代目。

 

 上須恵田原眼科跡地に着いた。 跡地には草が生え、石垣と井戸以外は何も残っていない。 石碑には、「旧筑前国糟屋郡上須恵村 史跡 眼療名医 田原養全宅跡」と彫られている。

 

そのまま周りを見渡しても、江戸時代の眼科診療所周辺をイメージ出来ない。 近くに須恵町教育委員会が立てた解説板が数基あって、それを読んでいると徐々に往時の上須恵の賑やかさが目の前に浮かんで来た。

 

 上須恵 田原眼科 9代~10代の江戸期全盛の頃、この地を奥村玉蘭(おくむらぎょくらん)が訪れている。 彼が残した「筑前名所図会」の中に上下須恵村が描かれている。 

 一番奥に若杉山。 その手前に皿山とあるが、福岡藩の御用窯だった須恵焼きの窯だ。 下方に二つの眼科診療所が描かれている。 左が上須恵の田原眼科。 右は下須恵の岡 眼科。 岡 眼科の右上に宝満宮も確認できる。 両診療所の周りに多くの民家(農家)が描かれているが、ただの民家ではない。 後に触れる。

 

奥村玉蘭の「筑前名所図会」にはそれぞれの絵に解説が付いているのだが、この絵には「此の須恵村は『正明膏』あるがゆへに繁昌す」と書かれている。 診療者が多くて賑わっているが、同時に「目薬(正明膏)」の製造販売で村全体に活気があると言っているのだ。

 

 

須恵村では上須恵の田原家・下須恵の岡家の了解を得た目薬の二大製造販売元が出来上がっていた。 田原眼科系統を「田原玄洋堂」、岡眼科系統は「吉松正明堂」と言う。 「正明膏」が第一ブランド、或いは目薬の総称(代名詞)みたいなもので、それぞれに第二ブランドが販売されていたようだ。

 

目薬広告チラシ版木   (須恵町歴史民俗資料館 蔵)

 上のチラシは、田原眼科系の「田原玄洋堂」のもので、登録商標の米俵が描かれ、「田原彌水」と言う目薬と、「カイネツ」と言う解熱薬を広告している。 

 

田原系統と岡系統の広告チラシには、それぞれに「上須恵」、「下須恵」と明確に書かれていて、いい意味でお互いに切磋琢磨しながらも両家に競争意識があったことが感じられる。 結果的には、そのことが「須恵村」の名を全国に知らしめることにつながった。

 

 江戸時代文政・天保年間のころ、田原眼科9代:田原養柏(1849年没)は、日本四大眼科名医の一人として全国にその名が知られていた。 田原眼科9代・10代の頃の「眼目療台帳」が残っている。

眼目療台帳     (須恵町歴史民俗資料館 蔵)

 

 それによると、治療(養生)に訪れた人は福岡藩内を除いても年間千人以上。 薩摩(鹿児島)や西日本各地はもとより、遠くは松前(北海道)から来た人も確認できている。

 

現在では、白内障も日帰り手術が当たり前になって来た。 当時、9代 田原養柏も白内障手術を行っていたが、経過症状を確認するためには最低でも75日間の滞在が必要であった。 洗眼・点眼のみの治療でも、効果確認のために数週間の滞在が求められた。  近所の農家が宿屋を兼業したり、目薬の製造販売、行商をするようになった。 全国からの治療人が多くなるにつれ、宿屋は兼業から本業となり、屋号を持つようになった。 これを眼病人宿場と言う。 「筑前名所図会」に描かれた診療所近くの民家とは眼病人宿場だった。

 

上須恵の眼病人宿場    (現地 須恵教育委員会 説明板)

 

 現在地が「史跡 眼療名医 田原養全宅跡」の碑が立っている場所。 須恵川の辺りまで「眼病人宿場」が形成されている。 最盛期には60軒近くの宿屋・目薬製造家があったそうだ。 「近江屋」、「肥前屋」、「長門屋」など、地名にちなむ屋号が多い。 同郷の人達と方言で楽しく語り合いながら、治療に専念したんやろか。

 

宿場跡を歩いてみた。 

 

須賀神社

 

 

ちょっぴりだけど、往時の情景を感じることは出来た。

 

9代 田原養柏が4大眼科医になったのは、本人の努力と黒田のお殿様の応援による。

田原家豊後大友家の家臣だった・・・もっともっと、浪漫が膨らみそー。

 

 参考文献 : 須恵町歴史民俗資料館解説(須恵町教育委員会)

          西南大学・上園慶子氏 地域史料研究会報告資料

 

 

原眼科医院 ⑤  田原養柏と黒田長溥」に続く。

 

 

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