江戸時代の須恵村に、二つの有名な眼科治療院があった

田原眼科医院 ① 360年の歴史

田原眼科医院 ② 高場順世の謎」  の続きです。

 

島原・天草の乱(1637~1638年)が終わり、寺沢唐津藩は断絶した。 藩士だった高場順世天草で浪人となったが、ポルトガル人の医者ルイス・アルメイダが育てた天草の医術指導者から眼治療術を学んだ。 また、独自に「目薬」の研究にも努力を重ね、福岡藩内での診療所開業を目指した。

 

福岡藩初代藩主 黒田長政

 

高場順世が福岡藩に足を踏み入れたのは慶安年間の1650年前後だと思う。 藩主は初代 黒田長政から二代 忠之の時代になっていた。 福岡藩では初代から三代 光之までの時代は、政策の一つとして、藩内の医療体制の充実を目指していた。 高場順世は藩領内(福岡部または博多部)で眼科医として開業し、上手く行けば藩医として仕官できる道を狙っていた。 まずは眼科治療院開業の許可を得るべく、福岡部の町奉行所を訪ねた。 高場順世は心象を良くするために、自身の眼治療術のレベルの他に、黒田家を救った「目薬」のことなど、黒田藩について学んだことを慎んで話した。 

 

しかし、高場順世の話しは裏目に出た。 黒田家家伝の「目薬」の話しになると、奉行所役人の顔が曇った。 どう言うことなのか説明を加える。 秀吉に仕えて出世する黒田官兵衛は、周りからやっかみの目で見られて、「あの目薬売りの成り上がり者が・・・」と陰口を叩かれることが多かった。 格式ある武家出身の戦国武将達からすると身分の違いがあったのだ。 堺商人の息子だった小西行長も同じように言われていた。 官兵衛は隠居した後、息子の長政が一国の藩主になった時にこの事を話した。 以後、黒田藩の中で、「目薬」の話はタブーとなっている。 三代・光之の時、医者であり儒学者であった貝原益軒が「黒田家譜」の編纂を命じられが、この「黒田家譜」の中に「目薬」の話はカットされて見当たらない。

 

「黒田家譜」を編纂した貝原益軒

 

高場順世は福岡部・博多部での眼科治療院開業は認められなかったが、それでも滅入ることなく、郡部を探し歩き、粕屋町内橋で眼科治療を始めたのだ。(これは僕の仮説)  治療の傍らで三名の弟子(田原 貞俊高場(岡)正節中村 正宅)を立派な眼科医に育て上げた。 中村 正宅は粕屋内橋で、田原 貞俊高場(岡)正節は須恵で、それぞれが眼科治療院の基礎を築いた。 三家とも後の世代が福岡藩の眼科藩医に召し抱えられているので、高場順世の夢は叶ったのだろう。

 

田原眼科岡 眼科があった須恵町を訪れた。        (地図はマピオン使用)

 

須恵町の中の移動には、自家用車で来るのが便利だと思うが、僕はまち歩きとウォーキングが好きなのでJR九州香椎線DENCHAで来た。 

 須恵中央駅で降りる。 

 

岡 眼科跡 ⇒ 須恵町歴史民俗資料館田原眼科跡、を点線のように訪ねたいと思う。

 

岡 眼科跡へは駅から徒歩で約700mの距離。 手前に宝満宮が鎮座しているので、是非、お参りして行きたい。 由来は古く、須恵村の産土神社(うぶすなじんじゃ)だ。 何故か、拝殿の扁額が筥崎宮と同じ「敵国降伏」となっていた。

宝満宮

 宝満山の女神・玉依姫を祀っていて、「鬼滅の刃」で有名な竈門神社の末社にあたる。

 

 宝満宮の南西側の里道を進むと、白壁塀の先に長屋門が見えた。 長屋門は旧岡 眼科診療所の表門が現存しているもので、趣がある。 岡 眼科診療所跡、と言っても、現在は個人住宅になっているので、あまり周りをウロウロしてはいけない。 

 

 旧岡 眼科診療所跡から「須恵町役場」まで戻り、91号線を東に歩く。 途中、左側に「岡 医院(クリニック)」の建物が見える。 岡眼科を廃業した後、岡 家は須恵で「岡医院」を開業している。

 

須恵町歴史民俗資料館は、ここから約2km程の皿山公園の中にあり上の地図内からは外れる。 黒矢印➡のもっと先になるのだが、道が上りになり複雑で分かりにくいのでスマホのGPS地図を利用すると良い。 距離があるので、やっぱり自家用車で来るのが一番いいかも・・・。

 

 歴史民俗資料館入り口で、SL蒸気機関車が出迎えてくれる。 須恵町が良質の石炭産出地だった頃、この機関車が西戸崎港まで石炭を運んでいた。

 

入館料は無料で、須恵町の暮らしの歩みを展示品から知ることが出来る。 二回訪れたが、立派な資料館だ。 資料館としては九州初らしい。 一度訪館されることをお奨めします。

 

 

僕らの年代にとって懐かしい生活用具の数々が展示されている。

 

 資料館の2階に「須恵の眼科」のコーナーがある。

目薬・眼科治療に興味がない来館客は、このコーナーを通り過ぎるだろう。 でも田原眼科岡眼科のことを学んで来館すると、展示品の前で足が止まり、食い入るように見てしまう。

 

 「正明膏(しょうめいこう)」とは、田原眼科岡 眼科にとって眼治療に欠かせない「目薬」のことです。 全国で販売された。 ブログ「田原眼科医院 ② 高場順世の謎」で書いたように、高場順世が天草で研究開発した秘伝の目薬製法が田原・岡 両家に伝授されたと考えられる。

 

 上は「正明膏」の看板です、 商標が「米俵(たわら)」になっているので、田原(たわら)眼科系の「正明膏」だと判る。 「眼病一切によし」とあるので、万能目薬なんだろう。 「本舗 田原禰三製」・・・田原家の一族が委託されて製造販売していたのかな。 「冨士谷文蔵」は、徳島の特約薬販売店らしい・・・「正明膏」が全国に知れ渡った「目薬」だったことが解る。

 

 麝香(じゃこう)、白蜜練、寒水石、辰砂、滑石、龍脳、樟脳、甘石などの原料を練り上げて作る。 

 

 

 練り薬は紅絹(もみ)に包まれ、ハマグリの殻に入れて販売された。 ハマグリの殻にぬるま湯を入れ、紅絹(もみ)で軽くこね混ぜて練り薬の養分を溶かす。 その溶液を目の中に滴らす。

「正明膏」

 

田原眼科本家が須恵から香椎へ移転した後も、「正明膏」は昭和戦後の20年代まで須恵で製造・販売されていたそうだ。 「正明膏」ではないが、ハマグリに入った軟膏薬は小さい頃に見た記憶がある。 ハマグリの殻は薬の容器として利用されていたのかな。

 

 「(伝)田原養全 使用器具」と書かれている。  

 

 明治23年に亡くなった第12代目・田原養全が使用した器具だと思う。 鹿の角は目薬の原料を粉にして練る時に使用する。 針のような器具がある。 須恵の田原眼科では江戸時代の後期には、既に白内障の手術を得意としていた。 「針立て法」と呼ばれる手術法で、「角膜から針を刺し入れて、混濁した水晶体を硝子体中に落とす法」とあるが、痛そー。 この時代に麻酔はあったんやろか?  敢えて申し上げておきます。 僕も昨年、白内障の手術をしましたが、現在の医術ではまったく痛みは感じません。

 

第12代目・田原養全

 

色々と勉強できた。 須恵歴史民俗資料館の「須恵の眼科」コーナーの全ては紹介出来ない。 

資料館を出て、坂道を下って上須恵の「田原養全宅(眼科治療院)跡」に向かった。 

 

 上須恵には治療院の建物は無い。 眼科治療院の石垣と井戸だけが残り、敷地に「旧筑前国糟屋郡上須恵村 史跡 眼療名医 田原養全宅跡」と彫られた碑が立っていた。

 

しかし、この碑の前に佇んでいると、全国から眼治療に訪れた人々で賑わっている頃の上須恵の村が見えて来た。

 

田原眼科医院 ④  上須恵の田原眼治療院」に続く。

 

 参考文献 : 須恵町歴史民俗資料館解説、西南大学・上園慶子氏 地域史料研究会報告資料

 

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