神功皇后と大宰府万葉歌が織り成す物語

3年ぶりの「舁き山笠」に博多の町は燃えた!  「博多祇園山笠」は「動の舁き山笠」と「静の飾り山笠」が一体となって15日間を盛り上げる。

 

毎年、「飾り山笠」の中から好きな標題を選んでブログに綴っている。 飾り山笠は例年、NHKの大河ドラマが標題に使用されることが多いが、今年も「鎌倉殿の13人」をモチーフにした「(ながれ)」が多かった。 それでも僕が注目したのは、16番「西鉄ソラリア」の見送り「一飄風造御笠森(いちひょうふうみかさのもりをつくる)」だった。 神功皇后が登場するので、「香椎浪漫」の管理人としては通り過ぎることが出来ない。

 

16番「ソラリア」見送り 「一飄風造御笠森(いちひょうふうみかさのもりをつくる)」

(人形師 : 小嶋慎二)

飾り山笠」は美しさを鑑賞することが大切であるが、同時に背景にある物語(歴史)も楽しまなければならない。

 

 標題の「一飄風造御笠森」は「一吹きのつむじ風が御笠の森を造った」と解せる。 飾りの一番上に「御笠の森」が見える。 歴史に語られる人物が四人登場している。 まずは西暦200年(記紀による)、橿日宮(香椎)から熊襲征伐に出掛ける途中の神功皇后と大臣の武内宿禰。 風で飛ばされた皇后の笠を武内宿禰が手で押さえようとしている。 それとは時代が全く異なるが、西暦730年の大宰府政庁内で大宰府長官・大伴旅人に仕える大伴百代(おおとものももよ)と、もう一人の女性は大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の二人。 「御笠の森」の前に村の舞姫が居るが、彼女のことについては、これからの説明で触れる。

 

記紀」によると、仲哀天皇神功皇后は西暦200年、九州の熊襲を征伐するために橿日宮(香椎)に拠点を置いた。 

熊襲征伐の途中で崩御された仲哀天皇に代わって、神功皇后がその意志を引き継ぎ、総大将である武内宿禰と共に熊襲の前線拠点である甘木・朝倉へ軍を進める。

 

 

大和軍は現在の粕屋町に出て、大宰府方面から博多湾に流れる川に沿って南下した。 この川が後に「御笠川」と名付けられる。  神功皇后が進んだ道は、奈良時代には大宰府官道として整備され、江戸時代の日田街道から近代の国道3号線、そして現在の県道112号線へとつながっている。

 

上記地図のに「御陵中学」があり、学校の南側に「御陵宝満神社」が鎮座している。 祀られているのは初代神武天皇の母君であられる玉依姫(たまよりひめ)であり、「御陵」とは玉依姫のお墓とされている。 また、宝満山は山全体が玉依姫を祀る聖地とされ、人々に信仰されて来た。 

 

神功皇后玉依姫が眠る「御陵」に戦勝祈願をして軍列に戻った。 しばらく進んだところでつむじ風が吹いて、皇后の笠が飛んでしまった。 武内宿禰が手で摑まえようとしたが、更に後ろに飛んで行ってしまった。 その瞬間が飾り山笠の中で表現されている。 

 

風によって皇后の笠がぬげた場所が地図ので、この辺りは近年まで「笠抜(かさぬぎ)」と呼ばれていた。 現在の「笠抜橋」に名前が残っている。

 

笠は風に乗って舞い上がり、今まで進んで来た道の印まで飛んで行って、小さな森の中の木に引っ掛かってしまった。

 武内宿禰が家来に命じて取らせようとするが、あまりにも高すぎた。 事情を知って集まって来た村の衆が「森の神様にお願いしよう」と、村の舞姫に踊りを奉納させた。 そうすると、皇后の笠がスルスルと落ちて来たそうだ。 飾り山笠の上部で、踊っている舞姫が見える。

 

この話は「日本書紀」に書かれており、皇后の笠=御笠(みかさ)の由来となる。 明治29年(1896年)まで、この地域は御笠郡と呼ばれていた。 横を流れていた川は「御笠川」と名付けられ、には「御笠橋」が架かっている。

 

 皇后の笠が落ちた小さな森は、大野城市の有形民俗文化財「御笠の森」として印の場所で保存管理されている。   

大野城市山田3丁目の「御笠の森」

 

 現在は住宅地に囲まれていて、遠くからではなかなか探し出せないが、昭和25年当時は周りが水田地帯で何処からでも確認できたようだ。 奥が四王寺山だろうと思う。

 

 

神功皇后の「御笠の森」の出来事(西暦200年)から数百年の時が流れた。 奈良時代初期の720年に撰上された「日本書紀」の神功皇后の項に「御笠の森」の事が書かれていた。  その「日本書紀」撰上から10年経った730年に、大宰府政庁の長官(大宰帥)を務めていたのは大伴旅人(おおとものたびと)だった。  「令和」の元号の基となった「梅花の宴」で、時の人となった。 

博多人形による「梅花の宴」の再現 (大宰府政庁展示館)

 

天平2年(730年)正月13日(現太陽暦では2月8日)、大宰府長官・大伴旅人は自宅の庭に九州管内の国司と政庁の官人を招いた。 総勢32人は「梅花の宴」で、それぞれが歌を詠った。 その時の32首の歌は、大伴旅人の嫡男・大伴家持(おおとものやかもち)が後年、「万葉集」に「梅花の歌」として収めた。 「梅花の歌」を紹介する序文から「令和」の元号が生まれた。

 

初春の月にして 気は麗しく 風はらかに ・・・

 

大宰府政庁記念館」の博多人形「梅花の宴」は32名の内、12体が作品として並んでいる。

 その中の一コマが次になる。

 大宰府長官・大伴旅人の横に座っている人物が、飾り山笠に登場している大宰府の官人・大伴百代(おおとものももよ)。 大伴百代に酌をしているのが、遊行女婦(うかれめ)の児島(こじま)。 「遊行女婦」とは、現在で言うと、高い教養と舞踏・接待作法を身に付けた高級ホステスだろうか。 

 

大伴百代(おおとものももよ)は大伴一族ではあるが、旅人とは直接の親族ではない。 大宰府政庁内は官位によって装束の色が異なる。 長官である旅人は最高官位の紫色。 百代は三番目の位を示す緑色の装束を着ている。 

 

大伴百代は梅花の宴で詠った一首を含め七首の歌が「万葉集」に残っている。 恋の歌が多いのだが、その中の一首に、今回の「御笠の森」が詠われている。

 

(万葉集 巻四-561)

思わぬを 思うと言はば 大野なる 御笠の森の 神し知らさぬ

 

(想ってもいないのに 想っている と嘘を言うと、 大野城にある 御笠の森の神が怒って、 罰(バツ)を与えるだろう。 だけど 私は 本当に心から貴女のことを想っているので、 神を恐れてはいない) 

 

源氏物語」からも解るように、奈良時代・平安時代の恋愛は割とフリーだったようで、男女共に想いを大胆に伝え、行動も積極的だった。 羨ましい気がする(笑)。 

 

梅花の宴」が催された730年より6年前に遡った724年、奈良政庁(平城京)の意向によって神功皇后の霊を神聖化すべく香椎廟(香椎宮)が創建されている。 大伴百代の歌でも分かるように、「日本書紀」に書かれた「御笠の森」も、既に神功皇后を神聖化したスポットになっていたようだ。 

 

さて、大伴百代はこの歌を誰に詠ったか・・・・その相手が、飾り山笠に出ている大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)なのだが・・・・彼女は何と、大伴旅人(おおとものたびと)の異母妹なのだ。 旅人坂上郎女の父親は、大和朝廷の大納言を務めた大伴安麻呂​​​​​​(おおとものやすまろ)だった。  安麻呂​​​の娘として坂上郎女も教養が高かった。大伴旅人は大宰府赴任直後に妻が病気で亡くなった。 子供の家持(やかもち)は未だ少年だったので、異母妹の坂上郎女(さかのうえのいらつめ)が大宰府に来てしばらくの間、異母兄の家のお世話をしていたのだ。 坂上郎女は2度の結婚歴があり子供もいたが夫とは死別している。 それでも、いつも恋心を持って人生を楽しんでいたようだ。 大伴百代大伴坂上郎女に「御笠の森」の恋歌を詠んだのは、二人が大宰府で知り合ったこの頃のことである。 

 

御笠の森」の中に、大伴百代大伴坂上郎女に詠った万葉歌の碑が建っている。

思わぬを 思うと言はば・・・の万葉歌碑

 

しかし、上司の妹に恋歌を詠うとは・・・・大伴旅人はそのことを知っていたのだろうか? いやいや、大伴旅人もその頃は、遊行女婦(うかれめ)の児島(こじま)とお互いに恋心を募らせていたのだ。 

旅人児島のロマンスについては、ブログに私本物語を投稿しているので覗いてほしい。

大伴旅人と遊行女婦・児島 (1)」 ~ 「大伴旅人と遊行女婦・児島 (4)

 

いづれにしても、当時の恋とか結婚感については、現在とは違った。 兄妹同士は兎も角も、従兄妹同士の結婚は多かったらしい。 旅人の嫡男・家持(やかもち=万葉集編纂者の一人)には、今回飾り山笠に登場した旅人の異母妹・坂上郎女の娘が嫁いでいる。 つまり、大伴家持にとって坂上郎女は叔母であり姑でもあった。 兄である旅人の死後、坂上郎女は当時台頭して来た藤原家に負けない強い大伴家一族を目指していた。 家持は万葉集の中に、叔母・姑である坂上郎女の歌を84首収めている。 女性歌人の中では一番多いのではないだろうか。

 

 

さて、ソラリア(西日本鉄道)は、NHK大河ドラマ(鎌倉殿の13人)を飾り山笠に組み入れずに、何故「御笠の森」を標題にしたのだろう。 

僕の勝手な想像だが、大牟田線の新駅(仮称:雑餉隈新駅)が来年新規開設されることに関係していないだろうか?  ブログ最初の地図(マピオン)の中で、西鉄大牟田線雑餉隈駅と春日原駅の間に新駅(印)予定地を記した。 「御笠の森」とは直線距離で600mの近さになる。 観光名所とその最寄り駅として周知させたい思惑があったのではないか。 今年の夏、新駅の名称が発表されるとのことなので既に決定しているのだろうが・・・「御笠の森駅」はダメかな~(笑)

 

御笠」とは神功皇后の笠のこと・・・その笠が風で舞い上がり、木に引っ掛かった場所が「御笠の森」。 それが聖地化されただけの事だろうか? 僕にはもっと浪漫が隠れているような気がする。 何故かと言うと、近辺の地理や地名に色々と気になることが多いのだ・・・。

 

地理・位置についてだが、「御笠の森」の北東に初代神武天皇の母君であられる「玉依姫」の墓(陵=御陵宝満神社)があること。 逆の南西には奴国の王墓(須玖・岡本遺跡)があること。 奴国・邪馬台国・神武東征に結び付くような気がしてならない。 昭和25年に撮られた「御笠の森」の写真を見て思った・・・これは、もともと「円墳」ではなかったか?

 

玉依姫」は志賀島の海神・綿津見大神の娘であり、神話に出て来る「山幸彦」の子供と結婚して神武天皇を産んでいる。 御陵がある大野城市には幾つかの宝満神社があるが、いずれも「玉依姫」が祭神である。 宝満山は山全体が玉依姫を祀る聖地とされ人々に信仰されて来た・・・その宝満山は、過去に「御笠山」と呼ばれていた。 山の形が「」を伏せたように見える。

笠を伏せたような宝満山=御笠山

玉依姫」の実家である志賀島にも御笠山がある。 安本美典氏が「邪馬台国」と比定した甘木・朝倉にも御笠山があり、神武天皇が東征した奈良大和にも、三笠山(御笠山)があるのだ。

これらの「御笠山」と神功皇后の「」はどう絡むのか?

 

日本書紀によると、神功皇后は仲哀天皇亡き後、橿日宮(香椎宮)近くの山田村に斎宮を造り、祭祀を執り行ったとある。 黒田藩の学者・貝原益軒は、その場所を久山町の山田としている。 

久山町山田の斎宮

久山町山田には、現実に斎宮が鎮座していて皇后の屋敷跡(聖母屋敷)とされている。 そして、「御笠の森」も大野城市山田3丁目にあるのだ。 山田の地名は「邪馬台国」の甘木・朝倉にもあり、奈良大和でも確認できる。 

 

これらのことは偶然であろうか?・・・僕にとっては、いろいろと仮説を組み立てていく過程が浪漫なんだけど・・・。

来年、西鉄大牟田線の新駅がオープンしたら、是非とも「御笠の森」を訪ねて下さい。 そして、古代へタイムスリップして、浪漫を膨らませよう。 

 

 うっちゃんの関連ブログ

● 「神功皇后伝説 (第三話) 天皇の死と熊襲征伐

● 「神功皇后の斎宮と聖母屋敷

● 「御笠川の神功皇后を訪ねて

 

 参考文献 : 大野城市教育委員会資料

 

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