大伴 旅人 と 遊行女婦・児島 (1)   旅人児島の出会い
令和元年」にちなみ、「梅花の宴」と「旅人児島の水城のロマンス」をテーマに短編の物語を書いてみました。 物語りは(1)~(4)まで続く予定。               
             梅花の宴  博多人形師 山村延燁 作 
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物語は大伴旅人(おおとものたびと)の祖先・・・仲哀天皇神功皇后に仕えた大伴 武持(おおともたけもつ)から始まります。
 
 香椎宮の春季大祭では、偶数年に御神幸式が執り行われ、御祭神が乗られた神輿の列を、仲哀天皇神功皇后に仕えた5人の重臣が先導する
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 先頭右側から武内 宿禰(たけうちすくね)、中臣 烏賊津(なかとみいかつ)、大三輪大友主(おおみわおおともぬし)、物部 胆咋(もののべいくひ)、そして最後が、大伴 武持(おおともたけもつ)。 大伴 武持が大伴姓を名乗った最初の人物とされている。 四世紀後半のこの頃から、大伴氏は朝廷の軍事を任され、以後は軍人として政治に携わる家系が続く。
 
継体天皇の時代(527年)、大和朝廷と九州を治めていた筑紫君 磐井(ちくしのきみいわい)との間で戦争が勃発。 筑紫君 磐井を討つために、天皇から派遣されたのが大伴 金村(おおともかなむら)らだった。
 
大伴 金村の曾孫が大伴 安麻呂(おおともやすまろ)。 安麻呂の時代の天智2年(663年)、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に破れた大和政権は、本土防衛の為に福岡平野に水城を築く。 =東門跡=西門跡
               水城跡  (画像:大野城市教育委員会)
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                               (写真右側=太宰府方面、左側=博多方面)
 
天智4年(665年)、水城の内側に、九州に於ける政治の中心となる大宰府を置き、その大宰府を護るために大野城基肄城が築かれた。 この年、大伴 安麻呂の家に男の子が誕生。 後の大宰府長官となる大伴 旅人(おおとものたびと)だった。 大伴 安麻呂壬申の乱(672年)で天武天皇方につき活躍・・・後に、大納言及び軍事を掌する大将軍まで上りつめた。 若きころの大伴 旅人については、父親の活躍の影に隠れて記録がない・・・しかし、安麻呂の教育の下、官人・軍人の基礎を鍛えられ、名門・大伴家の嫡男として順調に昇進して行った。
 
時代は流れ・・・大宝元年(701年)、大宝律令が発令され、中央集権化による国家づくりが進められた。 和銅3年(710年)、平城京が完成し、奈良時代が始まる。
養老4年(720年)、大隅国隼人が反乱を起こす。 大宝律令による租・庸・調の税制及び兵役義務の強化に反抗しての乱だった。 56歳で中納言に昇進していた大伴 旅人は、征隼人大将軍に任じられ、九州に遠征。 豊前国宇佐に軍事拠点を置いて、見事に乱を鎮圧。 奈良本朝から高い評価を得たのであった。 
 
この頃、太宰府は「遠の朝廷(とうのみかど)」と呼ばれ、9国2島(筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隅・薩摩・対馬・壱岐)の内政統括の他に、外交、防衛、貿易の責任をも負う、奈良本朝にとって最も重要な役所となっていた。
 
          大宰府政庁 復元ジオラマ  (九州歴史資料館)
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 大宰府政庁は、約2km四方に渡って条坊制をしいた大都会だった。 大野城山を背に、北に政庁を配し、南北中央に朱雀大路が走り、南北22、東西24の路で碁盤の目状の街が形成されていた。
 
              大宰府条坊街 (二日市中央通り商店街H・P)  
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 神亀4年(727年)、大伴 旅人は、その大宰府の長官に任命された。 大宰府長官の任命を「左遷」とする説があるが・・・そうではない。 内政・外交が落ち着いた平安時代と違って、奈良時代初期はまだまだ防衛問題など、課題が残っていた。 能力ある人物が求められていたことからすると、自然な人事であったろうと思われる。 加えて、旅人は揉め事が嫌いだった。 朝廷内で力を付けて来た藤原一族との対立から身を引き、混乱を避けたい気持ちもあったのかもしれない。
                     大伴 旅人   
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神亀4年(727年)の暮れ、63歳の大伴 旅人は妻の大伴 郎女(いらつめ)、嫡男・家持(やかもち)、次男・書持(ふみもち)の家族を伴って大宰府に赴任する。 のち後に「万葉集」を編纂する嫡男・家持(やかもち)は未だ10歳であった。 奈良時代に於いては、諸国に派遣される官人は単身赴任が原則だったが、旅人は妻子を伴って赴任している。 何よりも家族を大切にしていた
 
大宰府の上級官人の住居は、政庁東側の月山地区に軒を連ねていた。 大宰府長官である大伴 旅人の邸は、丘の上の大きな屋敷が充てられた。 旅人がこの家で気に入ったのは、広い庭に10本ほど植えられた梅の木だった。 梅は中国から渡来したばかりで、高貴で上品な花が咲くことから上流階級の人々に愛された。 奈良の都でも大宰府でも、まだまだ珍しい植物だった。
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年が明けた神亀5年(728年)、九州諸国の国司や官人達の挨拶が続いて、長官としての業務が始まった。 九州内の事情が分からない点は、2年前に筑前守(国司・現在の県知事)として赴任していた山上 憶良(やまのうえおくら)が助言してくれた。 
                                       山上 憶良   
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山上 憶良が務める筑前国府は、大宰府条坊街の二日市エリアにあったとされ、筑前守は大宰府政庁の業務も兼務していた。 彼は毎日のように大宰府政庁の執務室に来てくれた。 山上 憶良の方が年上だったが、奈良の本朝に勤めていた時代からお互いの実力を認め合い、親交が深い仲だった。
 
旅人はお酒が好きだった。 酔うのではなく、飲んで皆と楽しく語らうのが好きだった。 諸国の官人が大宰府を訪ねると、必ず自宅に招いて宴を開いた。 月夜の時は、自慢の庭で宴を楽しむこともあった。 妻の大伴 郎女(いらつめ)は、いつの時でも笑顔で客人達をもてなし、旅人を助けた。 しかし、大伴 郎女は赴任前から体調が優れなかったのだが、大宰府での疲れも加わり・・・春先に倒れて寝込んでしまった。 大伴 郎女病床の布団の中で、気丈に笑顔をつくっていたが・・・旅人には、日々、妻の状態が悪くなっていくのが分かっていた。 
 
2ヵ月後の5月の中旬、庭先では橘(たちばな)の花が咲き、梅の枝でホトトギスが鳴くころ・・・大伴 郎女は身体が回復することなく、旅人に手を握られたまま眠るように息をひきとった。 
 
橘(たちばな)の 花散る里の ほととぎす 片恋しつつ 鳴く日しそ多き
(巻八・1473 大伴旅人  橘の花が散ってしまった 散った花に恋い焦がれて 里山のホトトギスが鳴いている 私も亡き妻を偲んで 泣く日が多いのです) 
橘の花を亡くなった妻に例え、ホトトギスを自分に例えて、悲しみを詠っている。
 
悲しみの中、葬儀を終えた旅人であったが、大宰府長官としての公務が滞っていた。 それを公私共に横から支えたのが、山上 憶良だった。 そして旅人になりきって悲しみの気持ちを挽歌詠んだ。
 
妹が見し 楝(おうち)の花は 散りぬべし 我が泣く涙 いまだ干(ひ)なくに
(巻五・798 山上憶良   妻が好きだったセンダンの木の花は もう散ってしまいそうです  私の悲しみの涙は 未だ乾きもしていないのに
 
     山上憶良 日本挽歌 万葉歌碑   歌碑場所①  
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旅人は友人に心から感謝した。 しかし、悲しみは簡単には癒えず・・・夜は妻を偲んで、一人ぼっちの酒を飲むのであった。
 
夏になり・・・九州諸国の国司が集まる会議が行われた。 その夜、旅人は自宅での宴に国司を招くべく、従僕たちと一緒に準備をしていた・・・そこへ、山上 憶良がやって来た。 大伴 旅人が、ふっと顔を上げると、憶良の後ろに美しい女人が立っている。 
歳は30を過ぎた辺りだろうか・・・面長で切れ目の美人だった。 名は児島(こじま)で遊行女婦(うかれめ)だと、山上 憶良が紹介した。 
                    遊行女婦(うかれめ)児島   
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遊行女婦(うかれめ)」とは、現代の一言でいえば「ホステス」だろうか。 「ホステス」を日本語で捜せば、「酌婦」、「女給」・・・・う~ん、ちょっと違う。 「遊行女婦(うかれめ)」とは、「芸妓」と「酌婦」を合わせたような・・・そんな感じだろうか。 酒宴で酒の酌をし、舞を踊りながら、場を盛り上げる女性。 奈良本朝や大宰府政庁で開かれる酒宴は高級官人が集う。 その宴席に呼ばれる遊行女婦は、それら官人との会話に対応できるよう、高い教養が備わった限られた女性だった。 平安時代になると、「遊女」の言葉が現れるが・・・これが現代の「酌婦」、「ホステス」につながるのだろう。 遊行女婦(うかれめ)」の言葉の意味は、京都の「芸妓」に受け継がれているのだろうか
 
 
山上憶良万葉歌碑は次のの場所。 (太宰府万葉歌碑めぐりパンフより)            
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参考文献:■大宰府万葉の世界 前田 淑 著   ■万葉歌碑 梅林 孝雄 著
     ■古代を考える大宰府 田村 圓澄 著  
          
うっちゃんの歴史散歩