大伴旅人と遊行女婦(うかれめ)・児島(3)   梅花の宴
 
 
大伴旅人に和歌を教わりたい児島には別の想いがあったのだ。 酒宴に呼ばれ始めた頃、大宰府長官という立場の旅人には畏れ多くて近寄り難い雰囲気を感じていた。 客人を応対する立場だったので、宴席で主催者の旅人と会話をすることは無く、どんな人物かも分からなかった。 ところが、宴に招いた客人達に対する旅人の優しい話ぶりから、児島は徐々に不思議な感情を感じ始めていた。 旅人とは父親ほどの歳の差があるが、それは、ゆるやかでふんわりした愛しい気持ちだった。 旅人は、和歌を教わりたいと言ってきた児島に、早く邸に帰って来た時には、12歳になった嫡男の家持(やかもち)に和歌を教え始めたばかりなので一緒にどうかと薦めた。 
                                      遊行女婦児島       
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それからは、児島は宴に呼ばれることが無い日は、家持と一緒に旅人から和歌を教わった。 児島は内心はドキドキするほど嬉しかったのだが、それとは関係なく、家持の顔もほころんでいた。 家持は姉のように接してくれる児島が好きだった。
 
天平元年(729年)も暮れになった。 家持(やかもち)は流石に名門・大伴家の嫡男・・・父の教えの下、歌を詠む力が付いて来た。 その事を旅人は大いに喜んでいのだが・・・児島にしては、それ以上に驚きを隠せなかった。 僅かな期間で、これほど上達するのであろうか。 情景や心情の表現女性ならではの細やかさ児島の歌には感じられた。 
 
実は・・・児島は宴席で官人達が詠む歌を聞きながらも、自身の心の中で、その意味を解釈しながら学習していた。 山上憶良が多くの遊行女婦(うかれめ)の中から、児島を選んだのは、彼女が持っているそんな能力だった。 しかし児島にとっては、旅人からその事を褒めてもらうことなどは、どうでも良かった。 宴席での仕事以外の時間を、旅人親子・・・強いて言えば、旅人と・・・過ごせることが何よりも幸せに感じていたのだった。 
 
天平2年(730年)の年が明けた。 昨年は奈良政庁内で色んな揉め事が起きた。 旅人は揉め事が大嫌いであった。 そんな出来事は早く忘れて、今年は良い年にしよう、と・・・大宰府長官・大伴旅人は官内の国司全員と政庁の幹部官人32名を自身の邸宅の庭に招いて盛大な新年会を催した。 接客のため児島も呼ばれた。 正月の13日。 現在の太陽暦では2月の8日にあたる。 旅人は主催者として、庭の「梅の花」を題目に各自の歌を詠おうと提案した。 例年だと梅の開花はまだまだ先ではあるが、この年は何故か早く咲き始めたので、「梅の花」を題目に選んだ。
 
                              梅花の宴   博多人形師 山村延燁 作 
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わが園に 梅の花散る ひさかたの 天より雪の 流れくるかも
(巻五・822  大伴旅人  私の家の庭に 梅の花が散っている これは 空から雪も降ってきているのであろうか) 歌碑場所④
 
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 梅の花を空から降る雪に例えていることから、中国から渡来したばかりの梅は「白梅」のみ、だったとされている。
 
春されば まず咲く屋戸の 梅の花 独り見つつや 春日暮らさむ
(巻五・818  山上憶良  春が来ると真っ先に 庭先に咲く梅の花 のどかな春の日に ただ一人で この花を眺めて暮らしている) 歌碑場所⑤
 
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 この歌を詠む時に、山上憶良の心の中を、妻を亡くして2年も経っていない大伴旅人の気持ちが過ぎった。 32人も集まった歌宴に独り見つつやは、皆に共感しないことは分かっていたが、どうしても旅人の気持ちに成りきりたかった。
 
梅の花 今咲ける如 散り過ぎず 我が家の園に ありこせぬかも
(巻五・816  小野 老  真っ盛りに咲いている梅の花よ 散り急ぐことなく この庭に 今のまま ずっと咲いていておくれ )  
 
 ひんやりした夜空に月がくっきり浮んでいた。 ゆっくりと時間が流れ、酒の盃を交わしながら、32人が歌を詠んだ。 児島が客人達の席を回り、酒を注ぎながら談笑している。 
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旅人児島の横顔を眺めながら・・・児島にこの場で歌を詠ませてあげたい、と思った。 旅人と憶良だけは彼女の能力を知っていたが・・・官人と、遊行女婦(うかれめ)では身分の違いが大き過ぎる・・・叶わぬことだった。 この時に詠われた歌三十二首は、後に、有名な「梅花の宴」として「万葉集」に収められた。 
 
大伴旅人山上憶良など、この時代に大宰府で歌を詠んだ著名な歌人集団は、のちに「筑紫歌壇(ちくしかだん)」と呼ばれた。 13歳の大伴家持は、庭で繰り広げられる梅花の宴」を部屋の中から、食い入るように見つめていた。 自分もこのような歌を詠えるような立派な官人になりたい・・・家持の歌人としての芽生えは、この「梅花の宴」だった。 家持は後に成人し出世して、越中守(富山県高岡市)に任ぜられるが、5年間の任期中が家持にとって和歌の全盛期となっている。 家持とその仲間達は「筑紫歌壇」に対して、越中歌壇」と呼ばれた。
 
天平2年(730年)、春が過ぎ、梅雨のジメジメした6月の頃・・・旅人は急に足に瘡(はれもの)ができ、痛くて歩けなくなり、数日後には、高熱が出て病床に臥せてしまった。 奈良政庁から派遣されている薬師(くすし)に診てもらうが、原因が良く分からない。 児島は毎日まいにち大伴邸に通って・・・冷たい水に浸した手拭いで頭を冷やしたり、身体を起して食事の介助をした。 数週間後の梅雨が空けた頃、身体の熱も足の腫れも治まって、痛みも徐々に無くなったきた。
 
児島は、旅人が病床で苦しんでいる間は、心配で心配で必死で看病する以外に何も考えられなかったのであるが・・・旅人が元気になり、政庁に出仕するようになると・・・その姿を見ながら、自分が旅人の傍に居るだけで幸せだと思っていた想いは、本当は淡い恋だということが判った。  大宰府長官遊行女婦(うかれめ)である自分との身分の違いを考えると、想うことすら許されないものだと解っていても、熱い塊りが身体のなかで膨らんで行くのだった。 
      大伴旅人                遊行女婦 児島   
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大伴旅人が、亡くなった妻・郎女(いらつめ)と夫婦の契りを交わしたのは遅い年齢だった。 幸いにも長男と次男を授かったが・・・実は娘(姫)も欲しかった。 児島が酒宴を盛り上げてくれたり、家事を助けてくれたり、家持(やかもち)と書持(ふみもち)の相手をしてくれたり・・・そんな児島を、旅人は娘のような愛しさで見ていた。 そんな旅人も、足の痛さと高熱で病床に臥せていた時、毎日のように看病に来てくれる児島に対して・・・娘のような、とは異なった感情を抱いている自分に気がついた。  
 
天平2年(730年)の夏が過ぎ、秋の気配が近づいた頃、筑紫館(ちくしのむろつみ=後の鴻臚館こうろかん)の事務官(通訳)が新羅使二人を連れて大宰府政庁を訪れた。 筑紫館の運営・管理も大宰府政庁の大切な業務だった。 夜は三人を大伴邸に招いた。 新羅使二人は、児島の酌を受けながら、新羅の都・金城(現在の慶州)の様子などを話した。 情報交換をしながら、有意義な酒宴が続いた。 旅人は体調も良かったのか、楽しく飲んでいる。 夜も更けて、筑紫館の事務官と新羅使二人は従僕に命じて、条坊街の朱雀大路にある客館に送らせた。
 
        太宰府条坊街●印は客館跡 (二日市中央通り商店街H/Pより)
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旅人は後片付けが終わった児島に、部屋まで酒を届けさせた。 今日は楽しかったので、もう少し一緒に飲んで欲しいと頼んだ。 二人だけで飲む酒は初めてで、お互いに心地よい時間が流れている。 深夜になっても、児島旅人の部屋から出て来なかった。・・・そして、部屋の灯りが静かに消えた。 ・・・早朝、まだ薄暗いなか、人目に触れないように大伴邸を出て行く児島の姿があった。
               
その後も、大伴邸で酒宴が催された時、あるいは家持(やかもち)と和歌を教わった日の夜は・・・児島は酒の準備をして、旅人の部屋に入り、そのまま過ごすことが多くなった。 朝早く大伴邸を出て行く児島のことを、家持は気が付いていた。 男と女が夜を過ごす意味も知っている。  父に対しても、児島に対しても、複雑な気持ちを抱いたことについては・・・ただただ、家持が若過ぎたのである。 
 
旅人児島もお互いに、自分の気持ちを伝えたり、確認しあったりすることはなかった。 それを言うことは、全てが終わることを二人は知っている。 ただ、運命を変える知らせは、突然にやってきたのだった。 秋が深まる頃、例年の様に人事の知らせが届いた。 書面を開いて、旅人は驚いた。 自身の大納言への昇進の文字が目に飛び込んで来た。 やっと、父・大伴 安麻呂に追い着いた。 旅人にとって、父は偉大な尊敬すべき先輩でもあった。 その父の最高官位であった大納言に並んだ。 ただ、書面には続けて本朝への帰国命令が書かれてあった・・・。
 
  万葉歌碑の場所       (太宰府市パンフレットより)
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