大伴旅人 と 遊行女婦・児島(2)     児島、和歌を学ぶ!
 
山上 憶良旅人に紹介した遊行女婦(うかれめ)児島は、太宰府政庁の官人たちが催す酒宴にも、度々呼ばれていた。 児島が、大宰府条坊街に住む遊行女婦の中でもトップクラスだと言うことは、先に赴任していた山上 憶良が良く知っていた。 大伴 旅人の亡くなった妻に代わって、宴席を盛り上げてもらおう、と・・・加えて、旅人の沈んだ気持ちを少しでも癒そうと、山上 憶良が企んだのだった。
 

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その夜の大伴 旅人邸での酒宴で、児島は臆することなく、諸国の国司達に酌をして楽しく語らい、そして華麗な舞を踊って宴席を盛り上げた。 楽しそうに酒盃を傾ける大伴 旅人を、少し離れた席から眺めていた山上 憶良も思わず顔が和んだ。
 
夏が過ぎ、秋の気配が近づいていた。 その後の旅人邸での酒宴や、政庁から離れた駅家(うまや=休憩・宿場)での酒宴にも必ず児島が着いてくれた。 児島、自ら、奈良の都や新羅など諸外国の事情・文化を学び、良く精通していた。 それを高慢に話すのでなく、相手の話に合わせて上手く応える接客に、旅人は大いに感心させられた。 
 
山上 憶良は、児島に対して、宴席の接客のみならず別の想いも頼んでいた。 それは、大伴 旅人の長男・家持(やかもち)と次男・書持(ふみもち)のことだった。 二人の子供も母を亡くして、旅人と同様に悲しんでいた。 二人の子供の話し相手や、家事についても何かと気を遣ってもらうように頼んでいたのだった。
                      山上 憶良
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山上 憶良筑前の守として各地を視察し、防人の家族や税の納付に苦しむ多くの農民の生活を見て廻っていた。 そして、妻を亡くし幼い子供を残して任務に出向く防人、生活苦から子供を売る親、病気で親を亡くした孤児など・・・に、心を痛めていた。 そんな苦しむ親や子供を詠った歌が多く、社会派の歌人として知られている。 憶良国家が豊かになるためにも、子供は大切だと説いていた。
 
銀(ろかね)も金(くがね)も玉も 何せむに まされる宝 子にしかめやも  
(巻五・803 山上 憶良  銀・金・真珠などは 何になろうか 子供以上に尊い宝はありませんよ  
      山上 憶良 万葉歌碑   歌碑場所②   
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旅人邸での酒宴の時、児島は接客が終わっても邸宅に残り、二人の子供たちと後片付けなどをしながら時間を過ごすことが多くなった。 
                     児島    
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家持(やかもち)と書持(ふみもち)の年齢からすると、児島は歳が離れたお姉さんの感覚であろうか・・・児島の後片付けを楽しく手伝う二人の子供を、旅人は、奥の襖の陰から目を細めて覗いていた。
 
秋も深まり、11月になって、奈良の本朝から人事の通知が届いた。 その中に、豊前(宇佐)の守である宇努 男人(うぬのおひと)が本朝に戻る栄転の知らせが入っていた。 宇努 男人(うぬのおひと)は、養老4年(720年)、大隅国の隼人反乱の時、征隼人大将軍だった大伴 旅人に従い、鎮圧に活躍した部下だった。 豊前国宇佐に軍事拠点を置いていたことから、そのまま豊前の国司(豊前守)を任されていた。 宇努 男人(うぬのおひと)は、戦死した兵達を敵味方に関係なく、毎年、宇佐八幡宮その霊を慰める神事を執り行ってきた。 それが、殺生を戒める「放生会(ほうじょうえ=筥崎八幡宮では”ほうじょうや”と言う)」の始まりとされている。 
 
 香椎うっちゃんのブログ  「放生会の起源と由来
 
当時、大宰府の上級官人が着任した時、或いは本朝に帰る時には香椎宮に参拝することが慣わしであった。 
                 香椎宮
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香椎宮は奈良本朝の発願によって、養老8年(724年)仲哀天皇神功皇后の霊を祀る「(びょう)」として建立された。 地方の村で祭られた来た産土神社(うぶすなじんじゃ)と異なって、営の神社だったと言える。 廟司(宮司)も本朝が任命した者が派遣されていた。 大伴 旅人も着任後、香椎廟に参拝している。 
 
今回は、長官(帥)の大伴 旅人と次官(少弐)の小野 老(おののおゆ)、本朝に帰る豊前守・宇努 男人(うぬのおひと)を連れて香椎宮に参拝し、挨拶を終えた。 3人は大宰府への帰路、香椎潟が望める丘に立ち寄り、馬を駐めて、めいめい想いの歌を詠んだ。
 
いざ児ども 香椎の潟に白妙の 袖さえぬれて 朝菜つみてむ 
(巻六・957 大伴 旅人  さあ みんな 香椎の潟で 着物の袖までぬらして 海藻を摘もう
 
時つ風 吹くべくなりぬ香椎潟 潮干の浦に 玉藻刈りてな 
(巻六・958 小野 老  海からの風が吹き出しそうだ 潟の潮の引いている入り江で 早く藻を刈ろう
 
往き還り 常に我が見し香椎潟 明日ゆ後には 見むよしも無し 
(巻六・959 宇努 男人  太宰府の往き帰りに 見慣れた香椎潟 もう見納めで 明日からは見れません
 
      香椎潟 万葉歌碑   歌碑場所:香椎参道踏み切り
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大伴 旅人は、赴任しての1年間に妻亡く、公務も忙しく、なかなか海を見る機会無かった。 久しぶりに潮風にあたり、気分が爽やかになった様子が歌から伺える。 
 
香椎宮から帰る途中、3人は糟屋の酒殿(さかど)に寄った。 当時、大宰府政庁の官人達が飲む酒は、糟屋の酒殿で造られていた。 蒸した米を 噛んで醗酵させた濁り酒(どぶろく)であった。 酒殿の地名はそのことに由来する。 大伴 旅人児島から、酒を買って来るように頼まれていた。 この頃になると、児島は大伴 旅人邸の台所の事情を把握していた。 酒の蓄えが少なくなっていたので、旅人に頼んでいたのである。 旅人は従僕の荷車に幾つもの酒の甕(かめ)を積ませて帰って来た。 旅人邸では山上 憶良遊行女婦児島が3人の帰りを待っていて、その晩は、宇努 男人の送別の宴が開かれた。 
 
次官(少弐)の小野 老(おののおゆ)は、豊前の守・宇努 男人(うぬのおひと)が奈良の都に帰れることを喜びつつも、羨ましい気持ちが湧き出した。 大都市として栄える奈良の都を懐かしみながらも誇りに想い、その情景を歌に詠んでいる。 小野 老(おののおゆ)は、遣隋使小野妹子と同血族にあたる。
                       小野 老    
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あおによし 奈良のみやこは 咲く花の 薫ふが如く 今盛りなり
(巻三・328 小野 老  麗しく大きく開いた花が 都の繁栄を喜んでいるように 今 奈良は真っ盛りの喜びに包まれているだろう
 
         小野 老 万葉歌碑     歌碑場所  
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数日後、宇努 男人(うぬのおひと)は皆に送られて、大和路を奈良の都に帰って行った。 年が明けて、天平元年(729年)、大宰府政庁での政(まつりごと)は、9国2島の内政統括の他に、外交、防衛など多忙の毎日が続いた。 しかし、本朝からの赴任者は夜になると奈良が恋しくなって、時には大伴 旅人の邸宅に集まって来るのであった。 
                      大伴 旅人 
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教養の高い者の集まりだから、酒を飲みながら故郷を懐かしむ雰囲気の中で、その想いを歌で披露する楽しみが増えて来たのは自然の成り行きであった。
 
山上 憶良は大宝2年(702年)、第8回の遣唐使団の一員に選ばれ、中国「」の都・長安(現・西安)で2年間を過ごしている。 彼の場合は特別だが・・・九州の国司、或いは大宰府事務官に任命された者は、全てが国際感覚に優れた人材が選ばれている。 そんな高官ばかりだから、山上憶良は勿論、漢詩を詠む位の教養は全員が持っていた。 しかしながら誰が提案したのか・・・大伴旅人邸では、あえて和歌で詠んだ。 大宝律令の発令とともに、「日本」という国名が発表された。 美しい日本の風景、日本人の想いを日本の言葉で詠いたい・・・そんな意識が奈良の都と大宰府政庁の官人達に強かった
            太宰府政庁近辺復元図 (九州歴史資料館)  
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大伴 旅人邸の酒宴を中心に、大宰府政庁内に和歌を詠む者が増えてきた。 万葉集の中に残る筑紫の歌の大半が、この年から数年の間に詠まれている。 
 
天平元年(729年)の夏頃・・・大伴邸での宴席の後片付けが終わった児島が、帰前に旅人の部屋を訪れ、自分にも和歌を教えてほしいと言ってきた。 その目は真剣だった。 最近の宴席で必ず披露される和歌について、客人の応対のために、自分も理解を深めておきたいとの想いのようだ。 児島の教養の高さを旅人は充分承知しているが、それを更に極める心意気に驚いた。 
 
  万葉歌碑の場所       (太宰府市パンフレットより)
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参考文献:■大宰府万葉の世界 前田淑 著    ■万葉歌碑 梅林孝雄 著
       ■古代を考える大宰府 田村圓澄 著         
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