大伴旅人と遊行女婦・児島(4) 水城の袖振り涙!
大伴旅人と遊行女婦・児島(3)の続きです。
本朝(奈良)への栄転帰国も、瞬間的には喜んだ。 大納言として、最後の仕事は本朝で執りたい・・・家持の出世の為には、本朝で経験を積ませたい・・・それに、何よりも自身が奈良の都が恋しい・・・でも、妻のお墓を置いたまま帰ってよいものだろうか・・・それに、もう一つ辛いことが・・・・。 色々な想いが複雑に交差した。 旅人は、ゆっくりと気持ちを整理したかった。 今日・明日の業務を次官・事務官に任せ、2日間を「吹田(すいた)の湯」で過ごした。 現在の「二日市温泉」である。 旅人は山上憶良を呼び、二人で湯に浸かりながら、人事の書面を報告した。
大伴旅人 山上憶良
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/72/d2/j/o0601059514543150553.jpg?caw=800)
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/ab/d0/j/o0553055914543150560.jpg?caw=800)
憶良は旅人の大納言昇進と本朝への栄転を心から喜んだ・・・しかし、顔色が変らない旅人から直ぐに悟った・・・憶良も旅人と児島の関係に気が付いていたのだ。 二人はその日の夜は、酒の盃を交わしながら遅くまで話し合った。
年内に帰国しなければならない。 どのように児島に話すか、迷っていた旅人は意を決した。 2日後の夕刻、西の空が赤く染まる頃、旅人は邸宅に児島を呼び、いつものように部屋に酒を用意させた。 横に座った児島から酌を受けた盃を一口で飲み干すと、旅人はフーッと溜め息をついて、斜め前方の宙を見つめている。 旅人の様子が少し変だな、と思った児島が二杯目の酒を注ぐと、庭からチロチロッと虫の音が聞こえた。 今度はその盃をゆっくりと飲み干して、重い口を開いた。 旅人は奈良への帰国命令が出たこと、それに関して考えたこと、思ったことを丁寧に話した。 その間、児島はじっと下を向いたまま話を聞いていた。
遊行女婦・児島
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/e4/bc/j/o0504051614543150563.jpg?caw=800)
暫く沈黙が続いた後、児島は袖で目頭をそっと拭いて、旅人の前に座り直した。 そして両手を着いて、遊行女婦(うかれめ)として何度も宴席に呼んでもらった礼と、栄転の祝い言葉を述べると、静かに部屋を出て行った。 その後、児島が大伴邸を訪ねることはなかった。
家持(やかもち)と書持(ふみもち)は家財荷物と共に、先に奈良へ向けて出発している。 引継ぎの業務を終了した旅人は、従僕が手綱を引く馬に乗って、政庁の門を出て水城の東門に向かった。
現在の水城 ●=東門 ●=西門 (大野城市教育委員会)
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/f1/d4/j/o0463046314543150569.jpg?caw=800)
奈良に帰る官人を見送る場所は、水城の土手(堤)の上が慣例になっていた。 水城には東門と西門があった。
水城・博多間の官道 (水城館資料)
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/ff/6c/j/o0972072814543150575.jpg?caw=800)
西門からの官道は筑紫館(ちくしのむろつみ=鴻臚館)に至る。 その先の港から海路を使用する場合は、西門から出る。 東門からの官道は粕屋町にあった夷守(ひなもり)の駅家(うまや=休憩・宿場=現在の日守神社付近)に至り、そこから香椎を抜けて陸路で大和路に向かう。 大伴旅人もこの東門から陸路で奈良に向かった。 大宝律令の発令と共に、地方に赴任する官僚達の旅程細則も定められた。 大宰府帥(長官)・大弐(次官)は陸路を取るべしとの規定があり、政庁の重要人物として、リスクが少しでも考えられる海路ルートは使用出来なかったのである。
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/d6/b7/j/o0880062514543150583.jpg?caw=800)
(太宰府市教育委員会資料)
冬の晴れた日、大伴旅人は東口から、従僕が手綱を牽く馬に乗り、ゆっくりと官道を博多の方向へ進んだ。 山上憶良を初め、百人以上の大宰府の人々が旅人との別れを惜しみ、土手の上から手を振っている。 児島は来ていない・・・。 旅人は何度も振り返り、手を振って皆に別れを告げた。 ・・・と、その時、多くの人々が手を振っている中、端の方で一人だけじっと立ち続けている女人を見つけた。
遊行女婦・児島
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/9f/84/j/o0598065114543150592.jpg?caw=800)
旅人は直ぐに児島だと分かった。 遊行女婦(うかれめ)の立場なので、元太宰府長官である旅人の名前を呼んだり、手を振る訳にはいかない。 ただただ、 悲しみを必死に耐えている児島だった。
凡(おほ)ならば かもかもせむを畏(かしこ)みと 振りたき袖を忍びてあるかも
(巻六・965 児島 貴方様が普通の人だったら 自然体でお別れの袖を振るけれど 畏れ多き身分の方ですし 今日は人目もあるので じっと見つめるだけで 悲しみに堪えています) 歌碑場所⑥
しかし、児島はその悲しい気持ちを、とうとう抑えきれなくなった。
大和道は 雲隠りたり しかれども 我が振る袖を 無礼(なめし)と思ふな
(巻六・966 児島 奈良までの道は遠く 貴方は雲の向こうに行ってしまって もう二度と会えないのですよね 大粒の涙が出て もう堪え切れなくて 袖を大きく振ってしまいました どうかお許し下さい) 歌碑場所:岡山県JR西日本児島駅前
旅人がこれに応えた。
大和道の 吉備(きび)の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 思はえむかも
(巻六・967 大伴 旅人 奈良に帰る道筋の 吉備国・岡山の児島を通り過ぎる時に 児島のことが思い出されて悲しむだろうな)歌碑場所:岡山県JR西日本児島駅前
気丈に歌を詠んだが、旅人も、とうとう涙を抑えることが出来なかった。
大夫(ますらを)と 思へる我や 水くきの 水城の上に 涙拭(のご)はむ
(巻六・968 大伴 旅人 自分のことを 涙など見せない 強い男だと 思っていたが やはり 悲しい別れに耐え切れない 水城で 流れる涙を 拭ってしまった) 歌碑場所⑥
大伴 旅人(おおとものたびと)と遊行女婦 児島(うかれめ こじま)は、水城の東門が最後の別れとなり、2度と会うことはなかった。
水城の旅人と児島の万葉歌碑
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/7c/d6/j/o0643048214543150595.jpg?caw=800)
児島の歌 旅人の歌
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/f9/4a/j/o0286028814543150600.jpg?caw=800)
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/d7/e9/j/o0284028514543150604.jpg?caw=800)
岡山県JR西日本児島駅前の旅人と児島の万葉歌碑
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/6f/37/j/o0568043114543150609.jpg?caw=800)
時が経ち、大伴家持(やかもち)も名門・大伴家の長として出世して行った。 天平18年(746年)、家持28歳で越中守に任じられ国府(富山県高岡市)に赴任する。 越中守任期中の5年間が、家持にとっての和歌の最盛期となり、万葉集に多くの和歌を収めた。 家持と彼の仲間は「越中歌壇」と呼ばれる。 その後、因幡守などの任務を経て・・・767年、49歳の時、大宰府次官(大宰少弐)として着任した。 家持にとって、37年ぶりの懐かしい街だった。 しかし、政庁内も条坊内(街中)も大きく変っていて、当時の面影は少ない。 家持は酒宴の時に、席に着いた何人もの遊行女婦(うかれめ)に児島の行方について聞いた・・・或いは、自らも街中を訪ね歩いたが、その後の児島の消息はとうとう分からなかった。
家持は大宰府任期中に、父や山上憶良ら「筑紫歌壇」と呼ばれた歌人が詠んだ歌をまとめ始めていた。 後年、家持は平城京に戻り、60歳を過ぎてから万葉集編纂に携わっている。 大宰府で詠われた歌は一首一首を確認しながら整理した。 特に13歳の時、部屋の中から覗いていた「梅花の宴」の32首は、思い出を辿りながら丁寧に整理した。
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/ae/c8/j/o0478022414543150616.jpg?caw=800)
「梅花の宴」の序文は、父の友人であり、家持を可愛がってくれた、そして家持が尊敬していた山上憶良の漢文詩から選んだ。
于時初春令月 (しょしゅん の れいげつ にして)
気淑風和・・・ (き よく かぜ やわらぎ ・・・)
「人々が美しい心を寄せ合えば、文化が生まれ、平和が訪れる」の意味が込められているとのことだが、万葉集編纂から約1250年後に、「令和」の元号が生まれることなど、家持は知る由もなかった。
水城で詠まれた父と児島の4首を万葉集に収める時、家持は部屋の薄灯りの下で何度も何度も読み返しながら整理した。 少年時代、台所で児島と一緒に皿を洗った思い出が鮮明によみがえって来た。 「梅花の宴」の32首は全20巻の中の「巻-5」に収めたが、父・旅人と児島が詠んだ水城の4首は、あえて「巻-5」から離して「巻-6」に編集した。 家持は父を想う児島の歌2首を特別に大切に収めたかったのである。 そして何と、家持は他の編纂者にも、後世の読者にも解らない様、「巻-3」に、家持が一番大切に想ってきた児島の歌1首を内緒で隠し収めていた。
家思ふと 心進むな 風まもり 好くしていませ 荒しその路
(巻三・381 筑紫 娘子 故郷が恋しいと思いますが あまり心を急がせるといけませんよ 必ず風が治まってから 船を出航させなさい 冬の海は荒いですよ)
作者が筑紫 娘子(ちくしのおとめ)と書かれているが、児島のことである。 家持が誰にも分からないように名を変えている。 何故ならば、この歌は児島が水城の西の門で家持を見送った時の歌だからである。 家持兄弟は従僕達に連れられ、旅人より数日前に大宰府を出発している。 家財荷物を運ぶため、海路を利用して奈良に帰るので、水城の西口に向かった。 父や山上憶良やお世話になった人々には、邸宅前でお別れを言ったので水城西口には誰も来ていない・・・いや、そこには児島が一人で来ていて、兄弟を笑顔で見送ってくれた。 そして、海路で帰る兄弟の無事を祈り、愛情がこもった歌を家持に詠ったのである。
家持は歌を整理しながら、薄灯りの中で、父・旅人と児島の笑顔を何度も何度も思い出していた・・・。
大伴旅人 と 遊行女婦・児島 完
■ 万葉歌碑の場所 (太宰府市パンフレット)
参考文献:■大宰府万葉の世界 前田淑 著 ■万葉歌碑 梅林孝雄 著
■古代を考える大宰府 田村圓澄 著