大伴旅人と遊行女婦・児島(4)   水城の袖振り涙!
 
本朝(奈良)への栄転帰国も、瞬間的には喜んだ。 大納言として、最後の仕事は本朝で執りたい・・・家持の出世の為には、本朝で経験を積ませたい・・・それに、何よりも自身が奈良の都が恋しい・・・でも、妻のお墓を置いたまま帰ってよいものだろうか・・・それに、もう一つ辛いことが・・・・。 色々な想いが複雑に交差した。 旅人は、ゆっくりと気持ちを整理したかった。 今日・明日の業務を次官・事務官に任せ、2日間を「吹田(すいた)の湯」で過ごした。 現在の「二日市温泉」である。 旅人山上憶良を呼び、二人で湯に浸かりながら、人事の書面を報告した。  
                    大伴旅人                   山上憶良   
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憶良旅人の大納言昇進と本朝への栄転を心から喜んだ・・・しかし、顔色が変らない旅人から直ぐに悟った・・・憶良旅人児島の関係に気が付いていたのだ。 二人はその日の夜は、酒の盃を交わしながら遅くまで話し合った。
 
年内に帰国しなければならない。 どのように児島に話すか、迷っていた旅人は意を決した。 2日後の夕刻、西の空が赤く染まる頃、旅人は邸宅に児島を呼び、いつものように部屋に酒を用意させた。 横に座った児島から酌を受けた盃を一口で飲み干すと、旅人はフーッと溜め息をついて、斜め前方の宙を見つめている。 旅人の様子が少し変だな、と思った児島が二杯目の酒を注ぐと、庭からチロチロッと虫の音が聞こえた。 今度はその盃をゆっくりと飲み干して、重い口を開いた。 旅人は奈良への帰国命令が出たこと、それに関して考えたこと、思ったことを丁寧に話した。 その間、児島はじっと下を向いたまま話を聞いていた。 
                  遊行女婦・児島  
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暫く沈黙が続いた後、児島は袖で目頭をそっと拭いて、旅人の前に座り直した。 そして両手を着いて、遊行女婦(うかれめ)として何度も宴席に呼んでもらった礼と、栄転の祝い言葉を述べると、静かに部屋を出て行った。 その後、児島が大伴邸を訪ねることはなかった。
 
家持(やかもち)書持(ふみもち)は家財荷物と共に、先に奈良へ向けて出発している。 引継ぎの業務を終了した旅人は、従僕が手綱を引く馬に乗って、政庁の門を出て水城の東門に向かった。 
     現在の水城   =東門 =西門  (大野城市教育委員会)
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奈良に帰る官人を見送る場所は、水城の土手(堤)の上が慣例になっていた。 水城には東門西門があった。 
                  水城・博多間の官道   (水城館資料) 
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西門からの官道は筑紫館(ちくしのむろつみ=鴻臚館)に至る。 その先の港から海路を使用する場合は、西門から出る。 東門からの官道は粕屋町にあった夷守(ひなもり)の駅家(うまや=休憩・宿場=現在の日守神社付近に至り、そこから香椎を抜けて陸路で大和路に向かう。 大伴旅人もこの東門から陸路で奈良に向かった。 大宝律令の発令と共に、地方に赴任する官僚達の旅程細則も定められた。 大宰府帥(長官)・大弐(次官)は陸路を取るべしとの規定があり、政庁の重要人物として、リスクが少しでも考えられる海路ルートは使用出来なかったのである。     
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              (太宰府市教育委員会資料)
 
冬の晴れた日、大伴旅人は東口から、従僕が手綱を牽く馬に乗り、ゆっくりと官道を博多の方向へ進んだ。 山上憶良を初め、百人以上の大宰府の人々が旅人との別れを惜しみ、土手の上から手を振っている。 児島は来ていない・・・。 旅人は何度も振り返り、手を振って皆に別れを告げた。 ・・・と、その時、多くの人々が手を振っている中、端の方で一人だけじっと立ち続けている女人を見つけた。 
                  遊行女婦・児島   
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旅人は直ぐに児島だと分かった。 遊行女婦(うかれめ)の立場なので、元太宰府長官である旅人の名前を呼んだり、手を振る訳にはいかない。 ただただ、 悲しみを必死に耐えている児島だった。 
 
凡(おほ)ならば かもかもせむを畏(かしこ)みと 振りたき袖を忍びてあるかも
(巻六・965 児島  貴方様が普通の人だったら 自然体でお別れの袖を振るけれど 畏れ多き身分の方ですし 今日は人目もあるので じっと見つめるだけで 悲しみに堪えています 歌碑場所⑥ 
 
しかし、児島はその悲しい気持ちを、とうとう抑えきれなくなった。
 
大和道は 雲隠りたり しかれども 我が振る袖を 無礼(なめし)と思ふな 
(巻六・966 児島  奈良までの道は遠く 貴方は雲の向こうに行ってしまって もう二度と会えないのですよね  大粒の涙が出て もう堪え切れなくて 袖を大きく振ってしまいました どうかお許し下さい) 歌碑場所:岡山県JR西日本児島駅前
 
旅人がこれに応えた。
 
大和道の 吉備(きび)の児島を 過ぎて行かば 筑紫の児島 思はえむかも
(巻六・967 大伴 旅人  奈良に帰る道筋の 吉備国・岡山の児島を通り過ぎる時に 児島のことが思い出されて悲しむだろうな)歌碑場所:岡山県JR西日本児島駅前 
 
気丈に歌を詠んだが、旅人も、とうとう涙を抑えることが出来なかった。
 
大夫(ますらを)と 思へる我や 水くきの 水城の上に 涙拭(のご)はむ
(巻六・968 大伴 旅人  自分のことを 涙など見せない 強い男だと 思っていたが やはり 悲しい別れに耐え切れない 水城で 流れる涙を 拭ってしまった) 歌碑場所⑥ 
 
大伴 旅人(おおとものたびと)と遊行女婦 児島(うかれめ こじま)は、水城の東門が最後の別れとなり、2度と会うことはなかった。 
               水城の旅人と児島の万葉歌碑   
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         児島の歌                 旅人の歌
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        岡山県JR西日本児島駅前の旅人と児島の万葉歌碑   
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時が経ち、大伴家持(やかもち)も名門・大伴家の長として出世して行った。 天平18年(746年)、家持28歳で越中守に任じられ国府(富山県高岡市)に赴任する。 越中守任期中の5年間が、家持にとっての和歌の最盛期となり、万葉集に多くの和歌を収めた。 家持と彼の仲間は「越中歌壇」と呼ばれる。 その後、因幡守などの任務を経て・・・767年、49歳の時、大宰府次官(大宰少弐)として着任した。 家持にとって、37年ぶりの懐かしい街だった。 しかし、政庁内も条坊内(街中)も大きく変っていて、当時の面影は少ない。 家持は酒宴の時に、席に着いた何人もの遊行女婦(うかれめ)に児島の行方について聞いた・・・或いは、自らも街中を訪ね歩いたが、その後の児島の消息はとうとう分からなかった。 
               
家持は大宰府任期中に、父や山上憶良ら「筑紫歌壇」と呼ばれた歌人が詠んだ歌をまとめ始めていた。 後年、家持平城京に戻り、60歳を過ぎてから万葉集編纂に携わっている。 大宰府で詠われた歌は一首一首を確認しながら整理した。 特に13歳の時、部屋の中から覗いていた「梅花の宴」の32首は、思い出を辿りながら丁寧に整理した。        
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梅花の宴」の序文は、父の友人であり、家持を可愛がってくれた、そして家持が尊敬していた山上憶良の漢文詩から選んだ。
 
于時初春  (しょしゅん の れいげつ にして
気淑風・・・ き よく かぜ やわらぎ ・・・
 
「人々が美しい心を寄せ合えば、文化が生まれ、平和が訪れる」の意味が込められているとのことだが、万葉集編纂から約1250年後に、「令和」の元号が生まれることなど、家持は知る由もなかった。
 
水城で詠まれた父と児島の4首を万葉集に収める時、家持は部屋の薄灯りの下で何度も何度も読み返しながら整理した。 少年時代、台所で児島と一緒に皿を洗った思い出が鮮明によみがえって来た。 「梅花の宴」の32首は全20巻の中の「巻-5」に収めたが、父・旅人児島詠んだ水城の4首は、あえて「巻-5」から離して「巻-6」に編集した。 家持は父を想う児島の歌2首を特別に大切に収めたかったのである。 そして何と、家持は他の編纂者にも、後世の読者にも解らない様、「巻-3」に、家持が一番大切に想ってきた児島の歌1首を内緒で隠し収めていた。 
 
家思ふと 心進むな 風まもり 好くしていませ 荒しその路 
(巻三・381 筑紫 娘子  故郷が恋しいと思いますが あまり心を急がせるといけませんよ 必ず風が治まってから 船を出航させなさい 冬の海は荒いですよ
 
作者が筑紫 娘子(ちくしのおとめ)と書かれているが、児島のことである。 家持が誰にも分からないように名を変えている。 何故ならば、この歌は児島水城の西の門家持を見送った時の歌だからである。 家持兄弟は従僕達に連れられ、旅人より数日前に大宰府を出発している。 家財荷物を運ぶため、海路を利用して奈良に帰るので、水城の西口に向かった。 父や山上憶良やお世話になった人々には、邸宅前でお別れを言ったので水城西口には誰も来ていない・・・いや、そこには児島が一人で来ていて、兄弟を笑顔で見送ってくれた。 そして、海路で帰る兄弟の無事を祈り、愛情がこもった歌を家持に詠ったのである。
 
家持は歌を整理しながら、薄灯りの中で、父・旅人児島の笑顔を何度も何度も思い出していた・・・。  
 
 
 
 大伴旅人 と 遊行女婦児島  完  
 
 万葉歌碑の場所         (太宰府市パンフレット)
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 大宰府万葉と関連する香椎うっちゃんの他のブログ 神功皇后と御笠の森
 
参考文献:■大宰府万葉の世界 前田淑 著       ■万葉歌碑 梅林孝雄 著
      ■古代を考える大宰府 田村圓澄 著