神功皇后伝説(第三話)天皇の死と熊襲征伐
 
 
● 年が明けて西暦369年1月、仲哀天皇は軍師である武内宿禰(たけうちすくね)と彼の軍隊を朝倉の本陣に呼び寄せました。 熊襲軍が補強されてきたからです。 熊襲(くまそ)の中では久留米方面で勢力を持っている女豪族・田油津姫(たぶらつひめ)の兵が応援に加わって来たからです。 何度も激しい戦闘が繰り返されました。 武内は天皇に正面突破だけではなく、側面からの陣が必要だと説きますが聞き入れてくれません。
 
● 2月3日、天皇は全軍での総攻撃を命じます。 合図と共に最初に飛び出したのは仲哀天皇の白馬でした。 兵士はそれに勇気づけられ、雄叫びを上げて熊襲軍に突進して行きました。 武内宿禰は、一瞬「しまった!」と叫び、天皇をお守りするために前に出ようとします。その時でした、一本の流れ矢が天皇の胸を射抜きます。 武内は天皇の馬の手綱をとって戦列から離れ、草むらで矢を抜きます。 うしろから追いかけて来た中臣烏賊津(なかとみいかつ)に、「あとは任せる。天皇は軽傷だから大丈夫だと兵士たちに伝えてくれ」と言うと、武内は天皇を駕籠に寝かせ、橿日宮(香椎)に連れ戻します。 傷はかなり深いのです。
 
● 皇后と武内は夜も寝ずに、天皇の側に着いて介抱しました。 大和から帯同させて来た薬師(くすし)の治療によって、傷口は塞がりましたが、出血が多かったのです。 顔色が悪くなって来ました。 天皇は薄く目を開けると皇后の顔を見上げながら言いました。「父上を超えることは出来なかった。 無念である。」  仲哀天皇にとって、父である倭健命(やまとたけるのみこと)の功績があまりにも大きかったのでしょう。 武内宿禰は天皇が焦っていることに気が付いていただけに、お守りすることが出来なかったことに責任を感じています。
 
● 2月5日夕刻、仲哀天皇武内宿禰に「皇后のことは宜しく頼む」と言い残して、二人が見守るなか、静かに目を閉じられました。 皇后は悲しみの中、御飯の山(おいのやま)の神木・大槇木(おおまきのき)で棺を作らせ、ご遺体を納めて橿日宮の椎の木(しいのき)に立て掛けました。 すると、すばらしい香りが周囲に広がったそうです。 この椎の木を「棺掛けの椎(かんかけのしい)」と言い、「香椎」の地名の由来となっています。
 
    大槇木(おいのやま公園)                                 棺掛けの椎 
 
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               古宮跡の棺掛けの椎

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● 「棺掛けの椎(かんかけのしい)」は、現在でも「古宮跡」の赤い玉垣の中にあります。 でも、椎の木の大きさは、当時のものとは思えないほど小さいのです。 黒田藩の学者・貝原益軒(かいばらえっけん)は「筑前国続風土記」の中で、次のように書いています。 「かの椎の木は今も御社の東にあり、神木と号す。 この木まことに古木と見ゆ。されど、その時の木にはあらず。 昔の種を植え伝えしならん。」
 
● 天皇崩御が敵に知れると一気に攻め込まれる。 そう考えた武内は朝廷軍の中でも天皇の死を隠すことにしました。 天皇のお棺を、船でこっそりと下関穴戸の豊浦宮へ運びました。 そこでモガリ(古代葬儀様式)をして保管します。
 
● 2月22日、武内宿禰は橿日の宮(香椎)に戻ってきました。 武内宿禰は仲哀天皇の無念を晴らす為には、羽白熊鷲(はしろくまわし)を討ち取るべし、と決心しています。 そして、全軍全兵士に「仲哀天皇は無事で、今は豊浦の宮で傷を癒しておられる。 我々は天皇のお言葉を受け、皇后を総大将として、再び熊襲討伐に向かう」と大号令を発したのです。
 
● 3月上旬、皇后と武内は、橿日宮に造られた仲哀天皇を祀る祠の前で戦勝祈願をし、軍を整え、甘木・朝倉へ向け出発します。 駕籠に乗った美しい皇后の姿に、兵士達は安らぎを感じました。 皇后の笠が風で飛んだ所が御笠(みかさ)。 皇后の笠は風に乗って舞い上がり、小さな森に落ちました。その森が大野城市の「御笠の森」です。
 
                  御笠の森  
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● 御笠川の中流に位置する大野城市には、初代神武天皇の母君である玉依姫(たまよりひめ)のお墓があります。 玉依姫は志賀島の海人族・阿曇氏の守護神である綿津見大神の次女です。 大野城市を通り過ぎる時に、玉依姫のお墓の横に立つ祠・御陵宝満神社(ごりょうほうまんじんじゃ)に立ち寄り、戦勝祈願をしました。 皇后は祈りの最中に、玉依姫の優しい声を聞いたような気がして、何か親しみを感じたのでした。 
 
● 大野城市の玉依姫のお墓は、御陵宝満神社の横の中学校にその名が残っています。 大野城市立 御陵中学校(ごりょうちゅうがっこう)です。
 
        御陵中学校                                  御陵宝満神社 
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                                                        神功皇后 熊襲討伐の図   
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● 朝倉の砥上山(とがみやま)に到着しました。 皇后と武内は砥上山の麓に本陣を構えました。 この地には、後に砥上神社(中津屋神社)が建ちました。 砥上山には兜石・ひづめ石など、皇后ゆかりの伝承が残っています。 戦を前にして、武内宿禰が兵士たちに武器を砥ぎ磨かせたので、砥上の地名が残りました。
 
● 次に前線を目配山(めくばりやま)の麓まで移動させます。 武内は皇后と目配山に登り、目を配って戦況を確認しました。 目配山の名の由来です。 山頂には皇后が座った腰掛岩が残っています。
 
● 皇后と中臣烏賊津(なかとみいかつ)は目配山の前線基地に大和から三輪山神を勧請し、大己貴(おおなむち)神社を建てました。 皇后と武内が登ったために名前が変った目配山の元の名は三輪山です。 何と言うことでしょう。 大和の三輪山が、この朝倉にもあったのです。 
 
        大己貴神社                                       大己貴神社の扁額
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大己貴神社の扁額は「大神(おおみわ)神宮」となっています。 この神社は大和三輪山と和白の大神神社と同じです。 地元の人達は大己貴神社を「大神様(おんがさま)」と呼んでいます。 話は変りますが、遠賀川も昔は「おんがさま」と呼ばれていたようですから、「大神川」だったのでしょうかね?
 
● そう言えば、この朝倉・甘木の地には、他にも春日・三笠・笠置・池田・香山など大和にある同じ地名が沢山広がっているのですが・・・これは何を意味するのでしょう?  邪馬台国研究家の安本美典先生が言われるように、ここが邪馬台国なのでしょう。 
 
下の絵図2枚を見て下さい。安本美典著「卑弥呼と邪馬台国」より引用
      「甘木・朝倉地方の地名と奈良大和郷の地名の比較」
 
                                                                               ● 甘木・朝倉地方の地名
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                                                                             ● 奈良大和郷の地名
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● 三輪・朝倉と言う地名の他、あらゆる地名が同じ方位に確認できます。 どちらが先かと言うと、勿論、甘木・朝倉が先です。 甘木・朝倉にあった邪馬台国が何らかの理由で大和に移動し、故郷と同じ位置に同じ地名をつけた、と考えられます。
日本書紀が神功皇后卑弥呼としているのは、関連を示唆しているのでしょう。
 
 
 
神功皇后伝説(第三話)天皇の死と熊襲征伐」終わり
 
 
神功皇后伝説 
 
*うっちゃんは飲酒運転を許しません!
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