神功皇后伝説(第二話) 仮宮の造営
 
 
● 皇后と中臣鳥賊津(なかとみいかつ)は朝廷軍の兵士のために、駐留地である和白(高美台)に大和と同じ大神(おおみわ)神社を建てました。 大神(おおみわ)は大三輪(おおみわ)であり、大和の三輪山に鎮座する故郷の神です。 遠い九州までやってきた大和の兵士にとっては安らぎの場所になったことでしょう。
 
                                 大神(おおみわ)神社   
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● 戦国時代の立花城主(立花道雪立花宗茂)は、この大神神社を守護神として、香椎宮と同様に厚遇していたようです。 神社の前のバス停や交差点・信号機の名称は大神(おおがみ)となっていますが、「おおみわ」が正しいのです。和白の住宅団地・美和台も三輪台ではないでしょうか。
 
● ここ和白の「大神(おおみわ)神社」が大和同盟軍の司令部と兵站基地になります。 神社の近くの陶器を焼いた窯跡、武器製造のための製鉄所跡が確認されています。 この地が後の時代の糟屋(かすや)の屯倉(みやけ)に発展して行きます。
 
● 古代朝鮮は未だハングル文字は無く、漢字を使用していました。 和白とは古代朝鮮語で「ハベエック」と発音し、「会議」を意味します。 この時代、民間レベルでは既に海人族の阿曇(あずみ)氏らは朝鮮半島と交流があり、和白には多くの渡来人が住み着いていたと思われます。 「和」を「白く」することは話し合い・ミーティングです。 阿曇氏は中国大陸や朝鮮半島からの渡来人を通訳として多く召抱え、応神仁徳天皇時代には外務省と同じような地位をもつことになります。 和白から新宮・古賀~そして宗像一帯はその後、中国大陸・朝鮮半島との交流の窓口として、また軍事基地の中心として大和朝廷の大変重要な地となって行きます。
              
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● 武内宿禰は橿日宮から北数百メートルの地に自身の屋敷を構え、井戸を掘りました。 大変良質な水が湧き出でて、武内大臣はその水で天皇と皇后の御飯を炊き、料理を作らせました。 この水が「不老水(ふろうすい)」と呼ばれ、「日本の名水百選」に選ばれています。 「不老」の名前のとおり、武内宿禰自身、応神天皇(神功皇后の子)のお世話をするほど長生きしたそうです。 「老いの水」とも言われています。
 
                               武内屋敷 
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                                                                             不老水
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                                                     不老水を仲哀天皇と神功皇后に献上する武内宿禰
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● 香椎宮の東側に位置していた「御飯(おい)の山」は、「老いの山」と書かれた文献もありますが・・・両陛下の為に炊いた「ご飯」が名前の由来でしょう。 平成9年からの福岡市教育委員会における調査で「御飯の山城跡」が発掘されました。 遺跡調査後、山は削り取られ平地にされて・・・現在は東区香椎台5丁目の団地に整備されています。 団地の中に「おいのやま公園」が残っています。
 
                                                      御飯の山城跡(団地造成前)
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● 各諸国の歩兵部隊は現在の古賀市の東から新宮・立花山東側方面で訓練を重ねました。 的野(まとの)は弓の訓練が行われた所だそうです。
 
● 数ヵ月後の9月初旬、戦の準備も整い・・・仲哀天皇は諸国豪族の長(おさ)を和白の司令部に集め、軍議を開きました。 そして、熊襲討伐の命を発します。
 
● 仲哀天皇は先頭の馬に乗り、中臣烏賊津(なかとみいかつ)を討伐隊の将軍とし、大軍を従えて筑紫路を南下しました。 香椎・和白の村造りと皇后の警護のために、武内宿禰阿曇磯良(あずみいそら)の軍を残しました。 天皇は軍師である武内宿禰が居なくても、自身の力で熊襲を討てる・・・また、そうでなければ父親である倭健命(やまとたけるのみこと)を超えることは出来ないと思っています。
 
● 熊襲(くまそ)とは、九州中部・南部を中心に55の部族が連合して出来た国です。 大和朝廷が要求する税の高さに苦しんでいて、納税に反抗しているのです。 筑後川近くまで勢力を伸ばして来ているのは、熊襲の中でも一番強いと言われている羽白熊鷲(はしろくまわし)です。 古処山(こしょさん)の麓に拠点を置き、秋月・甘木・朝倉を支配しています。
 
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● 天皇軍と同盟軍は太宰府政庁(この頃は未だ置かれていない)を過ぎて、宝満川に沿って南下、西鉄大牟田線大保(おおほ)駅付近に本陣を構えます。 本陣跡が現在の御勢大霊石(みせだいれいせき)神社です。 
 
● 両軍は甘木付近で激しい戦を繰り返しました。 天皇は兵士を鼓舞するするために、戦闘中でも敵の先頭近くまで駆け抜ける時があります。 天皇が危険な行動をとる度に、中臣烏賊津将軍や大和軍の大将たちは天皇を追いかけ、護っていました。
 
● 10月になるとお互いに様子をうかがうような小競り合いが続きます。
 
● 香椎では宮の造営も終わり、和白でも村の中が活発になり始めました。 真っ青な秋の空が広がるある日、武内宿禰は皇后を志賀島までの遠乗りにお誘いしました。 日本海側の白く長い奈多の砂浜を、皇后が乗った栗毛の馬が潮風を切って走り抜けます。 その直ぐ後ろを、宿禰の黒い馬が追い駆けていきます。 
 
● この時代は未だ志賀島橋はありません。 干潮を待って島に渡りました。 阿曇氏の長である阿曇磯良が迎えてくれました。 そして皇后を鹿狩りにお連れしました。 この時代、志賀島や能古島には野生の鹿が生息していました。 この日、皇后が狩りで仕留めた鹿の角は志賀海神社の鹿角堂(ろっかくどう)に納められています。
 
       志賀海神社                                        鹿角堂
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● 鹿狩りのあとは、日本海側の白い砂浜(現在の国民休暇村)で馬をおり、しばらく美しい水平線を眺めていました。 皇后が馬から降りたこの砂浜は、皇后にちなんで、下馬ヶ浜と呼ばれています。 阿曇磯良は皇后が釣り好きなことを知っていて、釣り道具を準備してくれていました。 近くの岩場で3人は存分に釣りを楽しみました。 夕刻、志賀島に落ちる真っ赤な夕日を背にして、二頭の馬は香椎の浜に戻って来ました。
 
                                                            国民休暇村前 下馬ヶ浜 
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● 前線への食料・兵器の補給が兵站基地の大切な仕事です。 和白の村は物資の搬入と搬出で大忙しでした。 大神(おおみわ)神社近くの矢尻と刀を製造する製鉄所もフル回転です。 夜臼(ゆうす)では、協力を申し出た村民が夜どおしで米の臼をひいて頑張りました。 夜臼の地名の由来です。
 
● 羽白熊鷲(はしろくまわし)軍は、時には天皇の本陣近くまで攻め込んで来ますが、同盟軍も頑張ってこれを追い返します。 天皇としては、戦は直ぐに終わらせるつもりだったのでしょうが・・・ 羽白熊鷲軍は強く、少々思惑が狂ったようです。
 
 
神功皇后伝説(第二話)仮宮の造営」終わり
 
 
 
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