神功皇后伝説(第四話) 天照大神のお告げ
 
 
● 軍隊の布陣を得意とする武内宿禰(たけうちすくね)は、甘木・朝倉の戦いでは地形に合わせて七つの陣(梅園の陣・宮園の陣・三府の陣・后の陣・関屋の陣・会所の陣・宮岡の陣)を考え、構えさせました。 これらの陣形のおかげで大和同盟軍は徐々に熊襲軍を秋月の谷間に追い込んで行きます。 途中、弓の矢が不足したので、急いで竹を切り出し、製作させました。 竹を切り出した場所が、現在の矢野竹(やのたけ)だと言われています。
 
                                                 神功皇后 熊襲征伐の図   
イメージ 1
 
● 秋月の谷間に追い込まれた羽白熊鷲(はしろくまわし)は、小石原川に沿った退却ルートを考えていました。 しかし、先を読んでいた戦術家の武内宿禰は宮園の陣(現在の秋月八幡宮)を構えて、その退却ルートを封じていたのです。 そして、秋月城跡の垂裕(すいよう)神社に最後の陣・梅園の陣を築き、主力軍を突進させて、いっきに羽白熊鷲を討ち取りました。
 
                       秋月城跡 黒門====(梅園の陣)====垂裕神社
イメージ 2イメージ 3
                                          
● 現在、水の文化村に大きな土饅頭のような形をした羽白熊鷲(はしろくまわし)の墓があります。 説明文を読むと、彼はこの地方の為に戦った英雄です。 大和朝廷からの税の軋轢に苦しむ農民を救おうとした豪族の長(おさ)だったのです。 神功皇后は、戦で死んだ羽白熊鷲軍の兵士たちも厚く弔ってあげました。
 
                                                            羽白熊鷲の墓   
イメージ 4
 
● 橿日宮(香椎)へ帰る準備をしていると、那珂川村の豪族の長(おさ)が武内宿禰を訪ねてきました。 話を聞くと・・・水田に那珂川の水を引き入れるべく用水路を掘っているが、硬い岩に突き当たって工事が難航している。 朝廷軍の助けをお願いできないだろうか・・・との事でした。
 
● 武内宿禰が皇后に相談すると・・・「戦に勝利できたのは、豪族たちの力のお陰です。 出来るだけの協力をしてあげるように」とのお言葉でした。 武内は朝廷軍の中から300名の別働隊を組織しました。 鉄器具を使って用水路の途中を塞ぐ岩盤を掘削し、遂に那珂川の水を水田に引き込むことが出来たのです。 
 
       裂田の溝                                                    裂田神社
イメージ 5イメージ 6
 

● この用水路は裂田の溝(さくたのうなで)と呼ばれ、日本書紀によると・・・武内宿禰が用水路をふさぐ岩の前で神に祈ると、突然カミナリが鳴り響き、岩を引き裂いて水を通した・・・と書かれています。 これだと、作り話になるのですが・・・ところが、この裂田の溝には人工的に掘削した跡が残っていたのです。 この事実によって、今まさに神功皇后実在説が高まって来ています。 伝説ではないのです。 現在、その場所には神功皇后を祀る裂田神社(さくたじんじゃ)が建っています。

 
● 4月上旬、大和同盟軍は香椎に戻ってきます。 皇后と武内は、橿日宮に造られた仲哀天皇を祀る祠の前で戦勝報告をしました。 しかし、皇后は橿日宮への帰路、ずっと考え事をして悩んでいました。 羽白熊鷲(はしろくまわし)を討ち取ったとはいえ、それはまだ熊襲のほんの一部です。 再度、熊襲国の奥深く攻め込んで行かねばならないのか。 熊襲の豪族たちは、大和朝廷の税が高いことに抵抗している。 と、言うことは大和朝廷が国の政治を間違えているのではないか。 「どうしたら良いのだろう」
 
● 皇后は今後の進むべき道を、神の神託(しんたく)により聞き出そうと思いました。 神の真のお告げを受けるには、斎宮(さいぐう・いつきのみや)での祭祀(神事)が必要です。 仲哀天皇がお亡くなりになったいま、橿日宮(かしいのみや)を神事に使用することは出来ません。 新しい斎宮(さいぐう・いつきのみや)が必要です。
 
● 皇后は日頃から武内宿禰と共に、橿日宮の近辺を視察しているので、斎宮の候補地がありました。 久山の山田村です。 武内も同意見だったので、さっそく宮の造営を命じます。 仲哀天皇との思い出が残る橿日宮に住むのは辛いので、斎宮の隣に自身の屋敷も造らせました。 それが聖母屋敷(しょうもやしき・後に付けられた名)です。 聖母(しょうも)とは神功皇后のことです。 鎌倉時代になると、神仏習合から神功皇后聖母菩薩(しょうもぼさつ)と呼ばれるようになります。
      
                                                               久山斎宮の位置図 
イメージ 7
 
                                                        遠見岳から久山の山田村を望む  
イメージ 8
 
                                            斎宮・聖母屋敷   トリアスショッピングモール   新幹線
 
● 5月の爽やかな初夏、武内は皇后を誘って久山の遠見岳(皇后が登って遠見をしたので後にこの山の名になった)に登りました。 吹き出した木々の新芽が山を覆い始めています。 山頂から南側下には建設中の斎宮聖母屋敷が望めます。 西側の遠くには玄界灘がキラキラと輝いていました。 武内は斎宮・聖母屋敷と付近の山々を注意深く眺めます。 そして、この地を敵の攻撃から防ぐにはどうしたら良いか、最高の防御布陣を頭の中に描いていました。 このことが後に役に立つことになります。
 
● 5月下旬、皇后武内宿禰、そして中臣烏賊津(なかとみいかつ)の三人は完成した斎宮に入ります。 このような祭祀は三人が一組になります。 一人が神主、一人が琴を弾く、もう一人が審神者(さにわ)を担います。 審神者とは、神が馮り移った神主が発する言葉の意を解釈し伝える役をいいます。 「中臣」とは神と人とを取り持つという意味があります。 審神者は誰でもなれる訳ではなく、中臣家は代々その役割を引き継いできた家柄でありました。 皇后が神主となり、武内宿禰が琴奏者、中臣烏賊津が審神者(さにわ)となって、7日間祈り続けました。
 
                                      久山斎宮    
イメージ 9イメージ 10
 
● そして7日目に皇祖神最高位の神・天照大神(あまてらすおおかみ)が皇后に馮り移り、お告げがありました。 中臣烏賊津がその言葉を訳します。
 
● 天照大神のお告げは「倭国から戦を無くし、民を幸せにするには国が豊かになるべし。 国を豊かにするためには、朝鮮半島の3国(高句麗新羅百済)に対し正式に国交を申し入れ、そして相互に貿易を開始し、文化交流を深めなければならない。 直ぐに行動に移すべし」と言う意味でした。 天照(あまてらす)の言葉は更に続きます。 「それから・・・」、この時に別の驚きのお告げを聞くのですが、しばらくは三人だけの秘密にして置くことにしました。
 
● 三人は天照大神が現れたことに感謝し、山田村から北に離れた猪野村の集落に天照を祀る祠を建てました。 伊野天照皇大神宮の旧宮です。 黒田藩三代藩主・光之公が、現在の場所に伊勢神宮を模して本殿を建て替えました。 現在は「九州のお伊勢さん」として、また、スーパーパワースポットとして人気があります。                          *参考:伊野天照皇大神宮
 
                                                         伊野天照皇大神宮の旧宮地跡  
イメージ 11
 
                                                        現在の伊野天照皇大神宮  
イメージ 12
 
● 天照大神のお告げは絶対的なものだと解っていても、朝鮮半島進出は容易なことではありません。 もしかしたら戦争になるかもしれない。 熊襲との戦いが終わったばかりで、戦力も落ちています。 皇后は心配した目で武内宿禰の顔を覗き込みました。 武内は「私はどんなことがあっても、皇后様をお守りいたします。 どうか安心してご決断を」と、優しく語りかけました。 皇后は武内のその言葉に安心と新しい気力を覚え、朝鮮半島進出の準備を命じました。
 
● 皇后にとって天皇亡きあと、武内宿禰に対して信頼する気持ちが特に強くなっています。 一緒に居ると、男としての安らぎも武内に感じていました。 
 
 
神功皇后伝説(第四話)天照大神のお告げ」終わり
 
 
神功皇后伝説