神功皇后伝説(第五話)朝鮮半島への渡海準備
 
 
● 今回の朝鮮半島進出成功のカギを握るのは軍船です。 武内宿禰(たけうちすくね)は、海人族のリ-ダー的存在である阿曇磯良(あずみいそら)を呼び出し相談しました。 阿曇磯良は阿曇海人族と同様に対馬海峡の航路に詳しい胸形(むなかた)氏、そして、瀬戸内海で勢力を誇る宇佐氏にも声を掛けるよう進言します。
 
● 皇后は三氏を呼んで天照大神(あまてらすおおかみ)のお告げ(御神託)があったことを伝えました。 阿曇(あずみ)、胸形(むなかた)、宇佐(うさ)の三氏は天照(アマテラス)のお導きであればとのことで、皇后に従い、兵士と軍船を含む軍備の提供を約束してくれました。 そしてすぐさま、不足する船舶の造船に取り掛かったのです。
 
● 宇佐氏胸形氏阿曇氏が、造船の為に木材を切り出した山が北九州市の皿倉山(さらくらやま)です。 視察の為でしょうか・・・皇后が皿倉山に登った言い伝えが山頂に残っています。 それが、国見岩(石碑)で、皇后はここから下界を見渡し、国見をしたそうです。 夕方になり下山のとき、「更に日が暮れた」→「更に暮れた」が訛って皿倉(さらくら)になったと言い伝えられています。 マスト(帆柱)に使用する木材を切り出した山が帆柱山です。
 
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     国見岩 皿倉山                              縫殿神社 福津市
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● 胸形(むなかた)氏が治める宗像・福津地域では布の縫職技術が優れた一団が住んでいました。 胸形氏の船舶の帆は、特に奴山(ぬやま)の村民が縫っていました。 村民が集まって作業した場所が、奴山の「縫殿(ぬいどの)神社」です。
 
● 皿倉山、帆柱山から切り出された木材は筏(いかだ)に組み立て、洞海湾から水路を経て遠賀川まで運ばれます。 造船所は遠賀川両岸にあったと思われます。 古代造船の為に使用された鉄製の道具(ヤリガンナ)がこの付近で多数発掘されています。
 
● 船底木材は立花山クスノキが使用されました。 クスノキは腐敗に強いので船の材料に使用されていたことが、日本書紀にも書かれています。 また、鎌倉時代の仏像の半分はクスノキを彫ったものです。 防虫剤の原料としても使用されていて、虫が喰わないのです。  阿曇海人族の船舶材は昔から、立花山のクスノキが使われていました。
                立花山クスノキ原生林
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● 紀元前の対馬海峡には定められた国境は無く、北部九州と朝鮮半島の間では其々に人々の往来があったことが考古学から明らかになっています。 そんな中から航海術に優れた海人族が生まれ・・・志賀島の勝馬を拠点に成長したのが阿曇氏ではないでしょうか。 うっちゃんの仮説ですが・・・1世紀には強大な奴国に従っていて、海運部門を任され、志賀(志賀海神社)に拠点を移します。 西暦57年、奴国の使者を乗せ、漢の国から金印を持ち帰ったのは阿曇の水軍でしょう。 3世紀に入ると陸部の平地に近い新宮(しんぐう)・和白付近に拠点を移します。 この時代に阿曇氏から分家し、北の津屋崎宗像方面で勢力を固めたのが胸形氏だろうと思っています。 
 
                                   金印
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● 志賀島津屋崎海岸の間に相ノ島が浮んでいます。 島の北東海岸の積み石古墳群が、阿曇氏の古墳なのか、胸形氏の古墳なのか論議がありますが・・・うっちゃんは血の繋がりがある両氏族の古墳だろうと思っています。 島の中で、古代より海人族の信仰に支えられてきた若宮神社は、阿曇と胸形両海人族の中間地にあり、聖地でしょう。 若宮神社の祭神は神功皇后が親しみを感じている玉依姫です。
 
     相ノ島 積み石古墳群                      相ノ島 若宮神社
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● 4世紀の初め、胸形海人族沖ノ島を経由した朝鮮半島への最短航路を発見します。 以後、大和朝廷にとって重要な島として国家的祭祀が執り行われるようになります。 7世紀になると、胸形氏は大和朝廷の大陸・朝鮮半島への対外交渉にも深く関わって活躍し、胸形君徳善(むなかたのきみとくぜん)の娘が天武天皇の后に嫁ぎます。そして、近年、沖ノ島から12万点に及ぶ国宝・重要文化財が出土し、世界遺産への登録につながっていったのです。 
 
      沖ノ島航路 (緑線)                                沖ノ島
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● 朝鮮半島へ進出する準備が着々と進む8月の上旬、阿曇磯良から志賀海神社の夜神楽(よかぐら)への招待を受けました。 志賀海神社とは兄弟みたいな関係である名島神社の船が皇后と武内を送り迎えしてくれました。 和白に造られた皇后専用の船着き場は、現在「御繋船(ごけいせん)の碑」が立っている処です。 今は内陸ですが、当時ここは水道(三苫水道)で船着き場がありました。
 
                           御繋船の碑   
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● 志賀海神社の神楽(かぐら)は、古代から今日まで連綿と伝えられてきた由緒あるものです。 また、神楽歌の中に「君が代」と同じ歌詞が入っています。 日本国歌のルーツは、ここ阿曇氏の守護神・志賀海神社かもしれません。 「君が~世は~・・・」の君=大王(おおきみ)とは誰のことでしょうか。 阿曇氏が奴国王に仕えていたと言う、うっちゃんの仮説に従うと・・・「君」とは奴国王です。 金印に刻まれている「委奴国王(わのなのこくおう)」=日本の国王=大王(おおきみ)となります。
 
● 志賀海神社の神職が雅楽を奏する中、八人の老女が踊り始めました。 御神幸祭の時に奉納される八乙女の舞」です。 かがり火の中で揺れ動く神秘的な踊りに、皇后は感動されて、じっと見入っていました。 志賀海神社所蔵の八幡縁起絵の中に八乙女の舞」と阿曇磯良が描かれた場面があります。
 
                             八幡縁起絵
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● 志賀海神社の伝承によると、阿曇磯良は海の中に住んでいて、はじめは神功皇后の協力要請にも姿を見せなかったそうです。 そこで、神職5人が雅楽を奏し、八人の老女が八乙女の舞」を踊り続けました・・・すると、阿曇磯良がに乗って海の底から現れたそうです。
矢印⇒に乗った阿曇磯良です。 この縁起絵は後世に描かれたもので、いま目の前の八乙女の舞」に感動している皇后は、そんなことを知る由もありません。
 
● その阿曇磯良が乗ってきた亀ですが・・・その後は石になって、志賀海神社の遥拝所にその姿を留めています。              
                                    亀石
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● 皇后は朝鮮半島進出のことが、いつも気になっています。 皇后のことを心配する武内宿禰は、神楽(かぐら)を見ながら穏やかに微笑む皇后の顔を見ながら安心したのでした。 真夏の静かな博多湾と満天の星空・・・渡海準備に忙しい二人にとっては久方ぶりの心が安らぐ時間でした。 
 
 
神功皇后伝説(第五話)朝鮮半島への渡海準備」終わり
 
 
神功皇后伝説 

 

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                           うっちゃんは飲酒運転を絶対に許さんばい!