神功皇后伝説(第六話)玉依姫の思いやり
● 物資の兵站基地は和白だけでは間に合いません。 武内宿禰(たけうちすくね)と阿曇磯良(あずみいそら)は朝鮮半島進出用の新しい兵站基地と港を箱崎に造ります。 米俵・水・食料を集めた所が、現在の「米山(よねやま)弁財天」です。 武器・防具など諸々の道具を集積した場所が馬出5丁目の「道具山神社」です。 軍船の重心を保つため、また重たい水・食料・武器を載せた船のバランスを調整するために当時は砂を使用していました。 その真砂(まさご)を集めた所が武内神社のあった「真砂山」です。 現在、武内神社は筥崎宮の中に末社として移されていますが・・・筥崎宮東門から北に延びる武内通りの一角に石碑が立っています。 この三つを箱崎三山(はこざきさんざん)と言います。
米山弁財天 道具山神社
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真砂山 武内神社(筥崎宮)
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東末社中の●印(武内神社)
● 9月のある日、相ノ島を中心に合同の訓練が行われました。 皇后は皇石(おおいし)神社が鎮座する鹿部山(ししぶやま)の頂上から訓練を視察しました。 阿曇・胸形・宇佐それに朝廷軍の軍船を合計すると大小400艘の大船団です。 阿曇磯良がその水軍力を説明します。 玄界灘に浮ぶ大船団を眺めながら、皇后は倭国(日本)を誇らしく思いました。 同時に、今回の朝鮮半島進出は、国家の発展と平和を築くための第一歩であり、その使命の重さを改めて強く感じるのでした。
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鹿部山 皇石神社
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![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/77/ce/j/o0186017014543139536.jpg?caw=800)
● 皇石(おおいし)神社の祠の下は、横穴式の古墳で大きな石が埋まっています。 よって、もともとは大石神社と言っていたのですが、皇后が訓練の視察と航海の安全祈願に来られたので、後に皇石神社と名を変えたのです。
● 鹿部山(ししぶやま)の視察が終わると、古賀の海岸から小船で相ノ島に渡りました。 阿曇・胸形の海人族が聖地として信仰している祠(若宮神社)を訪ねるためです。 この祠には玉依姫(たまよりひめ)が祀られています。 熊襲征伐に向かう途中、大野城市にある玉依姫のお墓に戦勝祈願をしました。 その時、玉依姫の声が聞こえたかような気がして、何か安らぎを覚えていたのでした。 海の神様(綿津見大神)の娘であり、潮の満ち引きを管理できる神様だと聞いて、是非とも、玉依姫に航海の安全をお願いしたかったのです。
● 祠の前で目を閉じて祈っていると、今回は間違いなく、玉依姫のやさしい声をはっきりと感じました。 「貴女はこの国にとって大切な運命を背負っています。 今日から私達は姉妹です。 どんな時でも、姉である私が妹の貴女を見守っていますから、正しいと思う道を進みなさい」・・・皇后は玉依姫から愛と勇気を感じ取りました。
若宮神社(相ノ島) 宮地浜から相ノ島を望む
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/4e/ff/j/o0384038414543139543.jpg?caw=800)
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/34/17/j/o0468046414543139550.jpg?caw=800)
● 相ノ島から宮地浜へ渡り、宮地嶽神社にも航海安全を祈りました。 津屋崎港では完成したばかりの船の上で、胸形水軍の兵士達が出航準備に忙しく動き回っています。 皇后の姿を見つけると、エイ・エイ・オーッという大歓声が上がりました。 皇后は立ち上がって笑顔でその歓声に応え、持っていた杖を砂の上に刺しました。 「杖刺し」が訛って「津屋崎」となったそうです。
● そのあと、五所八幡宮、志式(ししき)神社でも航海安全を祈願しました。 朝鮮半島進出の前に、「皇后が祈願に参られた」と、各神社に言い伝えが残っています。
● 出発当日の朝早く、皇后は久山の聖母屋敷から香椎海岸へ出て、小船で御島神社(みしまじんじゃ)に渡りました。 現在は香椎宮の境外末社です。 祭神は玉依姫の父君であり、また、阿曇海人族の守護神である綿津見(わたつみ)大神です。
志賀海神社所蔵八幡縁起絵 皇后が御島神社で髪を洗い男髪に結う
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/e4/f8/j/o0560032714543139564.jpg?caw=800)
● ここで、航海の無事を祈り、そして髪を洗い、その髪を左右に分け、「みずら」という男髪にされました。 海岸に戻りましたが、頭だけが男・・・半分だけ男になったことから、この海岸付近を「片男佐(かたおさ)」と呼びます。 香椎浜イオンの前の香椎川に架かる橋が「片男佐橋」です。
香椎潟地図
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/7e/20/j/o1198095814543139578.jpg?caw=800)
* ピンク線=当時の海岸線 青線=現在の海岸線
御島神社 鎧坂
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/6c/c7/j/o0254024014543139586.jpg?caw=800)
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/a6/6d/j/o0305029214543139590.jpg?caw=800)
兜塚 濱男神社
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/31/b9/j/o0304026914543139598.jpg?caw=800)
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/6d/2c/j/o0341027114543139603.jpg?caw=800)
● 「鎧坂(よろいさか)」で鎧を身に着けられ、「兜塚(かぶとづか)」で兜を着けられ、ここで全身が男姿になられたので、橿日の宮に帰られる浜道を「濱男(はまお)」と呼ぶようになります。 濱男の「男」とは、神功皇后の男姿を言います。 御島神社の遥拝所として「濱男神社」(香椎区画整理事業のため、現在は香椎宮境内へ遷座中)が建てられました。 皇后は玉依姫から感じた勇気を形にするために・・・そして、朝鮮半島進出の覚悟を全兵士に伝えるため、男姿になることを決めたのです。 橿日の宮(香椎宮)で出陣式です。 皇后の男武者姿を見た兵士達から「ウォーッ」という地響きのようなどよめきが起こりました。
神功皇后 男武者姿人形 (信州深志神社 舞台人形)
![イメージ 19](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/ab/90/j/o0576076814543139607.jpg?caw=800)
● 朝鮮半島進出中に熊襲(くまそ)が勢いを盛り返すかもしれませんから、大和軍の一部を橿日宮(香椎)に残します。 仲哀天皇の御霊にお参りをされて、皇后が乗船される名島港に向かいました。 皇后のお召し船は阿曇海人族の船で最大級の軍船です。 磯良をはじめ、阿曇海人族の優秀な航海士が舵をとります。 出航前の船上で磯良がきびきびした声で指示を出しています。 その磯良の声を聞いて、皇后は大変心強く感じました。 阿曇磯良は別名「磯良丸(いそらまる)」とも呼ばれていました。 日本の船の名前に「○○丸」と付けるのは、磯良丸の丸が起源だと言われています。
● 阿曇氏は後年(663年)、百済(くだら)救援のための白村江の戦いでも大和朝廷軍の全水軍を任され、大船団の将軍を務めています。 将軍を務めたのは阿曇比羅夫(あずみひらふ)でしたが、大敗戦を喫し白村江で勇敢に戦死しています。 敗戦の責任を問われたのか、これを境に阿曇氏の子孫は全国に移動することになります。
● この阿曇氏の移動は・・・倭国で一番早く大陸の文化や技術を学んだ阿曇氏が、それらを全国に伝える役目を負った、とも言われています。 渥美半島の渥美、伊豆の熱海、長野県の安曇野など等・・・。 いずれにしても、その後の阿曇海人族の活躍は歴史上から消え、同族の胸形海人族(宗像氏)が大陸間航路を支えて行くことになります。
● 皇后が船に乗り込むと同時に、武内宿禰が到着しました。 武内は宗像鐘崎(かねがさき)の織幡(おりはた)神社に紅白の旗を織らせていて、いまその旗が皇后に届けられたのです。 皇后と阿曇磯良はこの紅白の旗を船の先頭に括り付けさせました。 航海安全を神に祈る時の依り代(よりしろ)としての旗です。 宗像大社秋大祭(みあれ祭)の時に旗を漁船の先に括り付ける「御長手(おながて)神事」のルーツだと思います。
織幡神社 みあれ祭
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/9d/b3/j/o0334033514543139612.jpg?caw=800)
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/03/d2/j/o0324030714543139624.jpg?caw=800)
● 織幡神社の祭神は武内宿禰です。 縫殿神社(ぬいどのじんじゃ)の船の帆もそうですが、ここ宗像・津屋崎付近には布縫職の高い技術を持った大陸からの渡来人の一団がいたのかも知れません。 縫職技術を持った渡来人は中国の呉(ご)の国から来たと言われ、呉服(ごふく)と言う言葉の由来となっています。
● 名島港では、緊張した兵士達を和ませるため、皇后が兵の一人ひとりに声をかけて、名前と出身地を聞いたそうです。 それが「名島(なじま)」の地名になりました。 4世紀のころは、未だ騎馬隊は組織されていません。 ただ、天皇(大王)や将軍、また豪族の首長らは馬に乗っていたと思われます。 皇后の栗毛、武内の黒毛の馬も専用の船で運ばれます。 太陽が西の空に傾き始める頃、400艘の大船団はここ名島港の他に、神湊・ 津屋崎・新宮・和白・箱崎・博多(那の津)・姪浜からも出航しました。
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20190819/15/kashii-ucchan/7d/29/j/o0550022014543139629.jpg?caw=800)
● 皇后が乗った先頭のお召し船が志賀島を通過した時、水平線に大きくて真っ赤な太陽がゆっくりと沈んでいきます。 皇后と武内宿禰・中臣烏賊津・阿曇磯良の四人は、朝鮮半島進出の成功を祈るかのように、無言で美しい夕陽を見つめていました。
「神功皇后伝説(第六話)玉依姫の思いやり」終わり
神功皇后伝説