神功皇后伝説(第七話)朝鮮半島との国交
 
 
               神功皇后 男武者姿 
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● 各港からそれぞれ出発した400艘の軍船は、北西の進路を取り、壱岐の島を経由して対馬厳原(いづはら)に到着しました。 全航路の半分まで来ました。 400艘の大船団ですから、厳原への到着時刻は先頭の船から最後尾までまる一日の差が出ます。 厳原では阿曇磯良(あずみいそら)が事前に手配しておいた食料・水を、到着した船から順次積み込み、再び出発させます。
  
                 対馬海峡航路図  
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● 厳原からは対馬の東海岸沿いを北上し鰐浦(わにうら)を目指します。 ここで・・・覚えていますか? 久山の斎宮(さいぐう・いつきのみや)で天照大神(あまてらすおおかみ)のお告げを聞いたとき、皇后武内宿禰中臣烏賊津三人だけの秘密にしておいた事柄がありました。
 
● そのお告げとは・・・皇后が仲哀天皇の子供を身ごもっていること、そしてその子は男の子であり、後にこの国を治めるであろう、ということでした。 でも朝鮮半島へ出発しなければなりません。 皇后は陣痛を遅らせるよう、冷たい石を腹に巻いて出発したと言われています。 朝鮮半島への航海途中で、皇后が時々見せる苦しそうな姿に武内宿禰は祈るような気持ちでお世話をしたのです。
 
● 志賀海神社の「八幡縁起絵」の中では・・・皇后は途中の砂浜で下船し、鎧を解き、岩にしがみ付いてお腹を冷やしている図が描かれています。 あ~辛かったでしょう。
 
       八幡縁起絵  岩にしがみ付いてお腹を冷やす皇后    
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● 対馬の最北端・鰐浦(わにうら)に船団が再集結し、最終の準備を整えます。 鰐浦は古代より天然の良港として知られ、日本書紀の神功皇后朝鮮半島進出の項にも地名が記されています。 後続の船団が次々と到着しています。  鰐浦から釜山までは53km・・・博多・小倉間(67km)よりも近いのです。 現在は丘の上に展望台があり、天気が良ければ韓国が見えます。 10月3日、神功皇后は出発の命令を下します。 最初の交渉国は新羅・・・向かうは新羅の首都・慶州(金城)です。 おびただしい数の軍船が朝鮮半島に向けて出発を開始しました。 
 
● 対馬の鰐浦を出航した直後でした。 急に黒い雲が立ち昇り、雨が降り始め、嵐による大波が船団を襲ってきたのです。 皇后と中臣烏賊津(なかとみいかつ)は船内にあった三枚の苫(とま・雨よけのムシロ)を海に投げ、「もし嵐を鎮めてくれれば、この三枚の苫(とま)が流れ着いた場所に神社を建て、礼をつくします」と祈ったそうです。 たちまち嵐は治まりました。 流れ着いた場所が東区の三苫(みとま)であり、地名の由来です。
 
      三枚の苫が流れ着いた三苫海岸  奥は志賀島と玄界島  
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● 皇后は帰国後、約束通りこの地に神社を建てました。 皇后と中臣烏賊津は阿曇磯良(あずみいそら)に海人族の守護神「綿津見大神(わたつみおおかみ)」を勧請してもらうよう頼みました。 磯良は快く引き受けてくれて、建てられたのが三苫(みとま)の綿津見神社です。 宮司は代々香椎宮の社家である三苫家が担っていました。 三苫家は中臣烏賊津の末裔です。 全国の三苫姓世帯の半数以上が福岡県にお住まいです。 三苫姓の人々のルーツは間違いなく福岡市の東区で、始祖は中臣烏賊津になります。 中臣鎌足から藤原家に分かれています。
 
                 綿津見神社     
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● 日本書紀には、大和軍は新羅の都・慶州(金城)まで進んだとは書かれているのですが・・・どのルートなのかは判らないのです。 神功皇后実在説が否定され理由の一つになっています
 
             皇后軍の慶州(金城)への進路  
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● ルートは幾つか考えられます。 一つ目は釜山(プサン)に上陸して陸路で慶州を目指す。 二つ目は釜山から船で更に北上し、蔚山(ウルサン)に上陸して陸路を進む。 三つ目は釜山の西側の金海(きんかい)から、船で韓国最長の河川・洛東江(らくとうこう)の上流へ上り、大邱(たいきゅう・テグ)から陸路を進む。 普通に考えれば、距離が最短である蔚山(ウルサン)ルートだと思います。
 
● 日本書紀の記述で気になる部分があります。 神功皇后は海の神様に祈った・・・すると、海の中の全てのたちが船を持ち上げ、大波が船を新羅の国の中まで運んだ・・・と、書かれているのです。 あり得ない話です・・・でもこれは、優秀な阿曇(あずみ)・胸形(むなかた)水軍が操舵する船団が、満潮を利用して川を上ったことを意味しているのではないか? であれば、洛東江(らくとうこう)利用のルートです。 うっちゃんが自分勝手に師と仰ぐ河村哲夫先生が、この説をとっておられます。
 
● ただ、うっちゃんは大邱(たいきゅう・テグ)からの陸路利用が気になるのです。 蔚山(ウルサン)からの陸路コースもそうですが・・・武内宿禰は、見知らぬ土地の陸路進行は何が起こるか分からない・・・として慎重に考えたのではないかと思うのです。
他に河川はないのか?  
 
● うっちゃんは地図上で、釜山(プサン)から蔚山(ウルサン)の先を更に北上しました。 優秀な海人族が舵をとる船団です・・・船であれば何処まで行っても安心だと思うのです。 大きな岬を左に入ると、なんと迎日湾(げいにちわん)・・・え~ッ、日本を歓迎する湾? そんなことはないですよね。 ここは東海岸なので、お正月に朝日(御来光)を迎える湾、と言う意味のようです。 
 
● この迎日湾の中に韓国有数の工業都市・浦項(ポハン)市があります。 そして、この浦項(ポハン)市には東海岸で最大の河川・兄山江(けいざんこう)が流れ込んでいるのです。 阿曇磯良(あずみいそら)は、この兄山江の存在を知っていたと思います。 兄山江を船で上って行けば、現在の西慶州駅の後ろに着きます。 陸路進行はありません。 どうでしょうか?・・・何処にも記録が残ってませんから・・・これも浪漫です。
                       
● 香椎宮 奏楽殿の絵馬に新羅国(慶州)での皇后が描かれています。 後ろに倭国軍の船が浮んでいますが・・・慶州(金城)には海がありませんから、あれは、兄山江に浮んでいる軍船になります。
                 香椎宮の絵馬
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 船上で鐘・太鼓を鳴らしながら川を上って来る大軍に、新羅国は騒然となります。 幾つかの小競り合いの戦がありましたが、武内宿禰阿曇磯良新羅国王との折衝に努力していました。 皇后から、出来れば戦を避けたいとの意向を聞いていたからです。阿曇磯良が同行させてきた渡来人の通訳が双方の意思疎通に活躍しました。中臣烏賊津は皇后の命により、百済国に向かっています。 新羅国王は武内宿禰と阿曇磯良の熱意ある折衝に押され、11月の終わりには皇后に和睦を申し入れました。 同時に国交が結ばれ、相互貿易の開始も確認されました。 百済国高句麗国は新羅国の決定に従い、両国とも戦をすることなく国交が結ばれました。 
 
                新羅国と国交成立      
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●後年、高句麗新羅とは幾度か交戦することになりますが、百済と結んだ今回の友好関係は仏教伝来など大陸の文化交流に大きな足跡を残すこととなります。 新羅・百済と倭国との三国で共同統治することになった加羅(から)の国に、任那(みまな)日本府を置き、神功皇后の子の応神天皇、孫の仁徳天皇はここを拠点に文化交流、相互貿易に大きく乗り出すことになります。 勿論、阿曇胸形の両水軍がこれらに係わり、大活躍したことは言うまでもありません。
 
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● 新羅国が抗戦せずに神功皇后に従ったのは、皇后が渡来してきた新羅王族の末裔だから、との説があります。 どんなんでしょう?  もう一つ気になることは・・・新羅国が建国された時の最初の国号は鶏林(ケリム)と呼ばれ、「」が神聖視されていました。 日本において、その「」が祭られている神社は西日本では唯一つ・・・香椎宮の末社・鶏石神社(けいせきじんじゃ)なのです。 新羅と香椎宮と神功皇后につながりがあるのか? 浪漫です。 
 
 
神功皇后伝説(第七話)朝鮮半島との国交」終わり
 
 
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