神功皇后伝説(第話)帰国と皇子誕生
 
 
● 新羅百済高句麗との国交締結・相互貿易・任那日本政府館の設置などに関する条約を取り交わし、帰国の途につきました。 国交締結を祝うかのように、対馬海峡の波は穏やかです。 12月4日、皇后以下各船団はそれぞれの基地に戻ってきました。 阿曇磯良(あずみいそら)は志賀島で彼の馬とともに下船します。 その地が勝馬(かつま)です。 そのほか、津屋崎の勝浦、八幡東の勝山勝田神社、小倉の勝山公園などの地名・神社の「」はその時の喜びを表しています。
                   
                                                      神功皇后
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● 帰国の船の中は飲み水が不足しました。 皇后のお召し船とは別に、軍馬用の船が和白に港に着いた時のことです。 皇后の栗毛の馬が、轡(くつわ)を噛み切ると突然駆け出したのです。 馬も喉が渇いていたのでしょう。 前足で地面を蹴った所から清水が湧き出しました。 その井戸は、現在も託乗寺(たくじょうじ)に残っていて、轡水(くつわみず)と呼ばれています。
 
       託乗寺 (和白)                                轡水 (くつわみず)
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● お召し船である神功皇后の船が名島港に到着しました。 海岸に「帆柱石」が干潮の時だけ姿を表します。 皇后が乗ったお召し船の帆柱が、化石になって残ったと伝えられていますが・・・現実的ではありません。 木の幹が桂化木(けいかぼく)になるには、数百万年以上の年数が必要です。 こんな言い伝えが残るということは、皇后の帰国時の港は名島に間違いない、ということでしょう。
 
      帆柱石(名島)                                         縁ノ石(名島) 
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● 皇后が船から降りて、輿に乗り換える間、座って休まれた石が「縁ノ石(えんのいし)です。 この石に触れて、安産・良縁を祈願して下さい。 名島の先の松原では、村民が皇后の帰国祝いの舞を踊っていました。 のちにこの地は舞松原と呼ばれるようになります。 しかし・・・皇后は、兵士や村民の喜びの歓声も耳に入らないほど、出産前の苦しみに耐えています。
 
● 橿日の宮(古宮跡)で仲哀天皇の御霊(みたま)に無事帰還と皇子懐妊の報告をしました。 朝鮮半島から鎧に挿していた杉の小枝を宮の境内に植え、「永遠(とわ)にこの国を護りたまえ」と祈りを込めました。 その杉の木が1,650年を経た今日の御神木「綾杉」です。
 
                                             綾杉  (香椎宮) 
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● 仲哀天皇への帰還報告後、武内宿禰(たけうちすくね)と皇后は少しの兵と皇后の女官達だけで、出産場所として予定していた大野城市の御陵宝満神社(ごりょうほうまんじんじゃ)へ向かいます。 御陵とは玉依姫(たまよりひめ)のお墓で、御陵宝満神社の祭神は、もちろん玉依姫です。 相ノ島で航海安全祈願をしていた時、皇后の心の中に語りかけてくれた神武天皇の母君です。 姉妹の約束もしました。 皇后は朝鮮半島進出の成功は玉依姫の御守りのお陰だと信じています。 だから、皇子を産む場所は玉依姫のお墓がある御陵宝満神社と決めていたのです。 
 
                                          帰国後 御陵宝満神社へ向かう    
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● 橿日の宮(香椎)から御陵宝満神社までの道程を考えると、皇后には少し焦りが出ています。 粕屋町の日守神社(ひまもりじんじゃ)の場所で休憩をしました。 皇后はここで、日を守りたまいて(太陽のほうを見ながら)「今、何時(なんどき)ですか?」と尋ねられたそうです。 その言い伝えから、この場所に日守神社が建てられました。
 
        日守神社                                        駕譽八幡宮 
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● 駕譽八幡宮(かよいはちまんぐう)でも皇后は駕籠から降りて休息されました。 地名は駕譽丁(かよいちょう)と言います。 駕譽丁(かよいちょう)とは皇室の駕籠をかかえる人足の集団をいいます。 全国を見渡しても地名として残っているのは大変珍しいようです。
 
● 皇后が駕籠の上から尋ねます。 「未だ着かぬか?」。 お付きの女官が答えます。 「早(は)や見えました」。 宇美にある早見町の地名の由来です。
 
● 御陵宝満神社まで残り3km、「早や見えました」と言った途端、陣痛が起こります。 もう限界です。 武内と女官たちは、皇后を現在の宇美八幡宮の地までお連れし、産所(うぶしょ)を造って出産させます。
 
● 12月14日、天照(アマテラス)のお告げ通り皇子が生まれました。 名前は誉田別尊(ほむたわけのみこと)で、後の応神天皇です。  武内宿禰は皇子を抱いて言いました。 「皇子がこの国を治める時が来るまで、私がお守りいたしますぞ」 この時の武内は、我が子を抱いているような顔をしていました。
 
                              皇子を抱く武内宿禰像 (香椎宮)  
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● 宇美は「(うみ)」であり、後の宇美八幡宮は「安産の神様」として全国からお参りに来るようになります。  境内の末社の「湯方神社(ゆのかたじんじゃ)」は、助産婦の役割を担った女官たちを祀ってあり、産婦人科の看護婦さんが大勢お参りに来ます。
 
       宇美八幡宮                                                湯方神社   
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● 宇美八幡宮の境内には、皇子出産の時、産湯の上を覆っていたと言う「湯蓋の森(ゆぶたのもり)」と産衣を掛けたと言う「衣掛の森(きぬかけのもり)」があります。 それぞれ一本のクスノキなのですが、あまりにも大木に成長したので「森」と呼んでいます。
 
       湯蓋の森                                                       衣掛の森   
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● 32歳の神功皇后にとっては遅い出産ですが初めての子であり、母乳で育てます。 7日ほど宇美で過ごし、皇后の体力も少しずつ戻ってきて、皇子も元気に育っています。 その間に、武内は皇后から頼まれて箱崎の浜へ出掛けます。 皇子の胎盤(胞衣・えな)を(はこ)に入れて祀るためです。 は砂の中に埋めて、目印のために松の木を植えてきました。 この松が「筥松」と呼ばれ、現在も筥崎宮の境内にあります。
 
        筥崎宮                                                    筥松  
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● 何故、箱崎の浜だったのか、それは異国からの攻撃に対する国家警護の印を造るためです。 武内宿禰は大陸・朝鮮半島の国々とは後の時代に必ず交戦することになるだろう、と見越しています。 箱崎を国家警護の拠点としたのです。 筥崎宮の祭神は皇子(応神天皇)、神功皇后の親子、そしてあの玉依姫です。 筥崎宮の本殿からそれぞれの鳥居の中心を辿った線は日本海に向いています。 三人で日本海・対馬海峡方面をじっと見つめ、敵国の侵入を見張ってきました。 鎌倉時代、二度やって来た元寇(蒙古と高麗の連合軍)を、筥崎宮の祭神三柱が大きな嵐を呼んで撃退しました。 
 
● 皇后は久山の聖母屋敷に戻る前に、御陵宝満神社の玉依姫に無事出産の報告と御礼に行きました。 この時も、玉依姫の優しい声が聞こえました。 「この子は、我が国にとって大切な子です。 貴女と一緒に、私もこの子を永久(とわ)に守って行きましょう」 筥崎宮はじめ全国の八幡宮の祭神として、応神天皇と神功皇后は勿論ですが、玉依姫が加わっているのは、応神天皇をお守りしているのです。
 
                                               御陵宝満神社
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神功皇后伝説(第八話)帰国と皇子誕生」終わり
 
 
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