神功皇后伝説(第九話)大和への道
 
 
● 宇美からは、駕籠の中で皇子を隣に寝かせながら久山の聖母屋敷に戻りました。 皇子の寝顔を眺めながら、皇后は幸せを感じています。 皇子のおしめを取り替えたところが、志免(しめ)町と言われています。
                 
● 12月にしては暖かい日が続いています。 武内宿禰(たけうちすくね)は皇后に代わり、各神社に朝鮮半島進出成功の報告と皇子誕生のお礼参りに出掛けました。 若杉山山頂の太祖宮(たいそきゅう)は古くなっていたので、新しく建て替えました。 のちの世になって、香椎宮の宮司(武内宿禰の子孫)が大きく育った綾杉の枝を分けてこの山に植えます。 その時つけられた山の名は「分けた杉」から分杉山(わけすぎやま)だったそうですが、今は若杉山になっています。
 
                             若杉山 太祖宮
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● 仲哀天皇が熊襲討伐の時、本陣を置いた西鉄大保駅の近くに祠を建てて天皇の御霊を祀りました。 現在の御勢大霊石(みせだいれいせき)神社です。 皇后が朝鮮半島から持ち帰った御影石が霊石として祭ってあります。 また、津屋崎の漁民のためには、彼らの漁の安全を祈り、波折(なみおり)神社が建てられました。
 
        御勢大霊石                                 波折神社
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● 年が明けた西暦370年1月のある日、大変な情報が入ってきました。 仲哀天皇の崩御と神功皇后に皇子が誕生したことが、本国の大和に知れたようです。 仲哀天皇には先に側室が産んだ皇子が2人います。二人とも既に成人していて皇室継承権を持っています。留守を預かっている大臣が皇后を裏切り、二人の皇子の内の一人を天皇に祭り上げて朝廷の権力を奪おう、との計画が進んでいるようです。
 
● このままでは皇后の皇子・誉田別尊(ほむたわけのみこと・応神天皇)は暗殺される危険が出てきます。 そして、大和の朝廷が乗っ取られることになります。 皇后は至急大和へ帰りたい気持ちを武内に相談しました。 「皇后様と皇子が大和の地に帰られるまで、私が命に代えてお護りいたします。ご安心ください」 大和の反逆グループとは戦になるでしょう。 武内は雪が解ける3月には大和へ向けて出発できるよう、冬の間に準備を整え計画を練りました。 
 
● 共に戦ってきた豪族の中から、大和と内通する謀判者が出るかもしれません。 熊襲(くまそ)が勢いを増してくるかもしれません。 皇子暗殺の刺客が忍び込むかもしれません。 武内は聖母屋敷を警護する最強の布陣を張ります。 以前、皇后と遠見山に登った時に既に頭の中に描いていた布陣です。
 
                                              聖母屋敷 警護布陣     
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● 中臣烏賊津(なかとみいかつ)を聖母屋敷だけの警護隊長に任命します。 聖母屋敷(斎宮)を囲んでいる東西南北に外周の陣で護りを固めます。 聖母屋敷の周りは掘りで囲みます。 久山の山田地区は盆地で出入り口は猪野川(いのかわ)が流れ出る黒男山の側だけです。 ここを武内自身が護ります。 我が命に代えて、絶対に皇后と皇子を守る・・・そんな武内の決死の想いがこの陣形に表れています。 武内の陣の近くに、現在は黒男神社(くろどんじんじゃ)が鎮座し、武内宿禰が祀られています。 また、斎宮(聖母屋敷)の近くに審神者神社(さにわじんじゃが鎮座し、中臣烏賊津が祀られています。
 
             黒男神社                                                           審神者神社 
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● 中臣烏賊津織幡神社(おりはたじんじゃ)から届いた八本の旗を、依り代(よりしろ)として皇后と皇子が眠る聖母屋敷の屋根の八方向に掲げます。 そして、皇后と皇子の安全を神に祈りました。 八本の旗は八旗(はちはた)、そして八幡(はちはた)、それが音読みの八幡(はちまん)となり・・・応神天皇の後の国内平定、海外進出などの功績から鎌倉時代には源氏が「八幡神(応神天皇)」を鶴岡八幡宮に勧請させます。 仏教との神仏習合から「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)となり、筥崎八幡宮と同じように武運・国家警護の神として全国に広がることになります。
 
● 八本の旗と武内が構えた警護布陣によって、何事もなく春を迎えようとしています。 武内宿禰は宇佐氏に船舶の準備をお願いしたい旨、使いを出しました。 瀬戸内海を無事に航行するには、他の水軍とも交流が深い宇佐氏の力が必要だったからです。 武内の考えは宇佐まで陸路、そこから宇佐氏の船舶で下関の豊浦の宮を経由して、難波(大阪)まで向かう行程です。
 
● 3月下旬、久山猪野の集落に天照大神を祀った祠を訪ね、大和へ帰る報告と途中の無事を祈願しました。 猪野川の両岸は桜が満開でした。 橿日の宮(古宮跡)の仲哀天皇を祀る祠の前では、別れを惜しみながら「扇の舞」を踊られました。 扇は朝鮮半島で蝙蝠(こうもり)の羽を見て、神宮皇后が考案し作ったと伝えられています。 踊りで壊れたり汚れてしまった扇を供養しようと、香椎宮には扇塚があります。
 
                                扇塚  (扇供養祭)  
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● 皇后一行はまず宇佐に向かうため、志免から峠を越えます。 坂道が急なため駕籠が使えず、皇后は皇子をショーケ(竹で編んだザル)に入れて抱え、歩いて越えました。 ここが後に「ショーケ越え」と呼ばれる峠です。 峠を越えると大分(だいぶ・飯塚)の地に入ります。
                                 志免から宇佐までのルート   
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● 皇后は大和軍以外の諸国の軍をこの地で解散します。 「隊を分ける」=「大(おお)分かれ」から、大分(だいぶ)の地名になったと言われています。 この地に大分八幡宮が建ちます。 現在、八幡様は全国に3万社近くあるそうです。 宇佐八幡宮が全国の八幡様の総本山ですが・・・その宇佐八幡宮や筥崎宮の元(もと・本)宮は、この小さな村にある大分(だいぶ)八幡宮であることはあまり知られていません。
 
     大分八幡宮                                          稲築八幡宮 
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● 諸国の軍と分かれ、ここからは大和の軍だけで進みます。 小さな稲築(いなつき)の村に入りました。 村民が歓迎してくれましたが、貧しい村で皇后と皇子の寝床は村民が稲の藁(わら)を敷いて作ってあげました。 稲築(いなつき)の地名の由来です。 皇子(応神天皇)を祀る稲築八幡宮が建てられました。
 
● 飯塚の綱分八幡宮(つなわけはちまんぐう)は大和への帰路、無事をお祈りしたところです。 日若神社(ひわかじんじゃ)で、皇后は皇子を抱いて、一緒に息災延命を祈願された言い伝えが残っていました。 神社に残る言い伝えを辿って行くと、皇后一行の行程が線でつながります。
 
● 皇后一行は飯塚の「納祖(のうそ)の森」で数日滞在します。 ここに祭壇を設け、朝鮮半島進出の成功を報告しました。 同時に天照(アマテラス)をはじめご先祖の神霊を祀ったので、そこは納祖宮と呼ばれ、現在の嚢祖八幡宮(のうそはちまんぐう)になりました。
                                     嚢祖八幡宮      
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● 大分(だいぶ)で軍の解散宣言はしたものの、北部九州の半数以上の豪族が別れを惜しんで、未だ後ろから着いて来ています。 皇后は言いました。 「皆さんには感謝しています。 見送りは、この辺で充分です。 また、いつの日か 会いましょう」 いつの日か=いいづか=飯塚が地名の由来と言われています。
 
● 阿曇磯良(あずみいそら)は最後までお供したい、と訴えました。 磯良の真剣な眼差しに、皇后が困っていると、横から武内宿禰(たけうちすくね)が静かに答えました。 「ご承知のように、朝鮮半島との貿易が始まります。 一番重要なのは、安定した対馬海峡航路の確保です。 直ちに、その準備に入ってほしい。 そして、皇子が成人して天皇となった時、国造りのためにもっと多くの協力を求めるでしょう。 その時には、阿曇氏胸形氏が力を合わせて天皇を助けてほしい」  阿曇磯良は大粒の涙を流しながら、何度も頷いたのでした。
 
● 次の日の朝、皇后は阿曇磯良が軍を率いて丘を下って行く姿をいつまでも見送っていました。 そして、武内宿禰の号令と共に大和軍の出発です。 宇佐まで下り、宇佐氏の船舶で下関経由、難波(大阪)に向かいます。 皇后と武内には、もう一つ乗り越えなければならない戦いが待っています。
 
 
神功皇后伝説(第九話)大和への道」終わり
 
 
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