神功皇后伝説(第十話)大和凱旋ーその後 
 
 
                                                          志免から宇佐までのルート   
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● 北部九州の豪族たちの軍とは分かれ、大和軍を従えた皇后一行は、飯塚を出発しました。 田川に入った途端に、強い風が吹き出したので、ある社(やしろ)に立ち寄りました。 皇后は石に腰掛け、その横に中臣烏賊津(なかとみいかつ)が膝まづき、二人で天に祈ったところ風が治まったので再び出発します。 風を治めたので、この社を風治八幡宮(ふうじはちまんぐう)と呼ぶようになります。 5月の「川渡り神幸祭」は福岡県三大祭りの一つとして有名です。
 
                風治八幡宮                                                川渡り神幸祭  
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● 岩嶽稲荷大明神(いわたけいなりだいみょうじん)で休憩した時に、海の向こうに島が見え、皇后がそのきれいな風光を賞でたそうです。 風光明媚な九朗山の峠に鎮座する社です。 周防灘(瀬戸内海)が見えた時に、皇后は大和が近くなった来た興奮を覚え、気持ちを鎮めるために、その景色を褒めたのではないでしょうか。
 
      岩嶽稲荷大明神                                                 生立八幡神社  
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● みやこ町に入ってきました。 皇子がこの地で掴み立ちをしたのです。 皇后は皇子の成長を大変お喜びになり祠を建てられました。 現在の生立(おいたつ)八幡神社です。 ここの奉納山笠も勇壮なお祭りです。
 
● 宇佐に到着すると、既に船の準備も整っていました。 瀬戸内海に詳しい宇佐氏の水軍がお供をすることになりました。 下関の豊浦宮(とようらのみや)で、待機していた大和の水軍と合流し、モガリ中の仲哀天皇の御棺を船に収納します。 大和の地で埋葬する為です。
 
● 宇佐氏の水軍と各地で協力してくれた海人族のおかげで、瀬戸内海を無事に進んで来ました。 しかし、明石沖で二人の兄たち(仲哀天皇側室の子供)の軍船団が待ち構えていました。 想像していたよりは大軍です・・・しかも、既に左右を囲まれています。 皇后は目を閉じて・・・あらゆる事が頭の中をよぎります。 
 
● そして、ハッと目を開くと、皇子を見つめながら武内宿禰に言いました。 「久山の斎宮で、天照大神が告げました。 この子は後に天皇になって、この国を治める、と。 将来の国造りのためには、この子だけは何としても護らなければなりません。 私は半分の兵を率いて正面突破を試みます。 その間に、この子を連れて側面から活路を見出し、大和を目指して下さい」
 
                                   子守神功皇后之図
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                                 (杉並区大宮八幡宮奉納扁額)
 
● 武内にもこの場に居た者にも、皇后の決心が分かっていました・・・自分を犠牲にして、皇子を守ろうとしている。 武内も色々と策を巡らすが、今の状況からすると皇后の作戦が一番正しいのかもしれない。 その時、皇后一行を難波(大阪)まで護り届ける命令を受けていた宇佐氏の将軍が、武内の前に膝まづいて涙声で言いました。 「武内様、只今の皇后様のお気持ちに心を打たれました。 我々宇佐水軍の全兵士は、皇后様を御守りすべく命をお預けいたします」
 
● それを聞いた武内宿禰も決心を固めました。 武内は中臣烏賊津の手を握って皇后のことを頼みます。 「皇后様の御身、貴殿の命に代えて御守りすること、私に誓ってくれ」 中臣烏賊津は武内の手を強く握り返しました。 武内が皇子を抱いて、別動隊の船に乗り換える時、皇后と一瞬見つめ合います。 そしてお互いに頷くと、武内は後ろを振り返らずに船に乗り込みました。
 
● 武内宿禰は皇子を抱いて、別の軍船団で敵船団の右陣を破り、淡路島の南に迂回します。 その後、和歌山に上陸し、陸路を進んで無事に大和へ戻ることが出来ました。 囮(おとり)となった皇后軍は兄たち皇子の反乱軍と激しい戦いを繰り広げました。 大和正規軍と宇佐水軍の活躍によって、徐々に勢いをつけて敵を追い詰め・・・最後は先に大和に着いた武内軍と合流し、反乱軍をことごとく破ったのです。 大和の都に最後に帰って来たのは、返り血を全身に浴びた中臣烏賊津の隊でした。 武内宿禰は潤んだ目で中臣烏賊津を見つめ、黙ったまま健闘を称えたのでした。
 
● 神功皇后は皇子を抱いて思いました。 玉依姫が約束通り、皇子を守ってくれた、と。 皇后はその後、大和朝廷の実権を握りながら、皇子が成人し即位するまで摂政として政(まつりごと)に関わります。 そのお側で、武内宿禰が皇后と皇子の世話をしながら目を細めていました。
 
                                            山形県鵜渡川原人形
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その後
 
● 宇佐氏はこの時の活躍を認められ朝廷から厚遇を受けることとなり、宇佐八幡宮伊勢神宮を凌ぐ勢いで朝廷の守護神に登りつめて行きます。
 
● 大和に凱旋した2年後の372年、百済より使者が挨拶に来ました。 この時、百済王から神功皇后へ同盟記念として「七支刀(しちしとう)」が贈られたのです。 現在、奈良県天理市の石上(いそのかみ)神社に国宝として収められています。 仏教伝来など、百済が日本文化に及ぼした影響は多大なものがあります。
 
七支刀 (奈良 石上神社)                     神功皇后 坐像 (奈良 薬師寺)
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● 明石沖の戦いの時、皇后が武内に皇子を預けたことは「日本書紀」に記されています。この辺りの事は、多くの歴史研究家が論じているのですが・・・武内が男として、皇后から一番の信頼を得ていた証なんでしょう。 と言うことは、もしかしたら皇子の父親は・・・。
 
● 仲哀天皇の死と皇子誕生の時期(期間)がおかしいのではないか、と指摘する歴史研究家は少なくありません。 天皇継承の血が途切れないようにする為に・・・つまり、仲哀天皇の子とする為に、日本書紀編纂者は皇后が石でお腹を冷やすなど、無理やりにお腹の中にいる時間を長くした・・・とも考えられるのです。
 
                               武内宿禰像    
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● 香椎宮の武内宿禰が皇子を抱いている像を眺めていると・・・間違いなく父親の顔をしてますね。 4世紀後半の自然あふれる香椎の浜で、歴史と伝説の記憶の中には何処にも残っていませんが、神功皇后武内宿禰の淡い浪漫があったのだと考える方が、微笑ましくて楽しいではありませんか。 皇后も武内もお互いを愛おしく思っていた、との想定でこの物語を書いてみました。  しかし、武内はこの時、何歳だったんだろう???
 
● 皇子は第15代応神天皇として即位。 国を平定し、大陸・朝鮮半島との貿易・文化交流を更に深めました。 阿曇胸形の両海人族の船団が大和朝廷のために、大いに活躍しました。 応神天皇の志は子供の第16代仁徳天皇に引き継がれていきます。 仁徳天皇庶民優先の政治を心がけられたことが記録に伺われます。 応神・仁徳両天皇は律令体制国家の確立に向けて、その基盤を築いて行きました。 そして約300年後、私たちの祖先は、この国を「日本」と呼ぶようになります。
 
        応神天皇                                           仁徳天皇
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天皇の肖像画はウィキペディアより借りました。
子守神功皇后図は「いわき絵のぼり吉田絵師辰」さんブログからお借りしました。
山形県鵜渡川原人形ホームページから神功皇后人形写真をお借りしました。
 
 
「神功皇后伝説(第十話)大和凱旋ーその後」終わり
 
 
                 神功皇后伝説 (完)
 
*今回投稿した「神功皇后伝説 第一話~第十話」は、平成24年7月に「香椎浪漫」で発表した第一話~第七話をリライトし、本ブログにて再投稿しました。 第十話まで付き合っていただきまして、有り難うございます。
 
「神功皇后伝説」