神功皇后伝説(あとがき) 
 
                                     神功皇后
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神功皇后との出会いは、会社をリタイアしてからです。 自分(うっちゃん)のことや、住んでいる香椎地区を紹介するホームページ「香椎浪漫」を立ち上げた時からでした。 当然のことながら、「香椎浪漫」の中心は香椎宮になるのですが・・・香椎宮を学ぶには、神功皇后を避けて通ることは出来ません。 
 
神功皇后のお名前は知っていましたが、戦後教育の中では歴史として教えてもらっていません。 日本国最古の歴史書である「古事記」・「日本書紀」に登場し、明治時代の紙幣の肖像にもなっている人物なのに・・・戦後に一転、歴史の人物から神話の人物に置き換えられ、存在を消されたのです。
  
                                          神功皇后 紙幣の肖像
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* 話が逸れますが、神功皇后のお顔が西洋風になっているのは、紙幣の原版をイタリア人技師が製作したからです。
 
幾つもの本を読んで、神功皇后を学びました。 実在否定説の本も読んで、「なるほどね」とも感じました。 しかし、香椎及び近辺に残るおびただしい数の伝承を知るにつれ・・・神話であっても、面白い、浪漫だと思ったのです。 そんな時に読んだのが河村哲夫先生の『神功皇后の謎を解く』と綾杉るな先生の「ひもろぎ逍遥(ブログ=後の『神功皇后伝承を歩く』」でした。 お二人の心を捉えた理由の一つは、伝承地の数が多いことに加え、それを線でつないでいくと、記紀の記述と一致することが多く足跡をたどれたと言う点です。 お二人とも「神功皇后は実在した」と確信されておられます。 私もお二人の信念に心が動かされたことは間違いありません。
 
香椎宮は神功皇后の霊を祀る「」として創建されました。 その香椎宮の近くに住んでいると、彼女の浪漫を感じるのです。 「香椎浪漫」を立ち上げると同時に、『神功皇后伝説』を書き始めました。 自分の頭で仮説も考えながら物語をスタートしました。 しかしながら、基本の学習もしていないし、文章力もありませんから・・・多くを、河村哲夫先生と綾杉るな先生の解説文を引用または参考にしています。 つまり、パクリです。 でも、お二人には其々の講座に参加した時に、パクリを口頭でお伝えしました。 次はその時にいただいたサインです。 
 
      河村哲夫先生                                      綾杉るな先生
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河村哲夫先生は「神功皇后は間違いなく実在していました。 ところが、そのことが未だメジャーではないのです。 実在説がメジャーになるまでは、どんどんパクッて下さい」と、逆に励ましてくれました。
 
うっちゃんの『神功皇后伝説』は平成24年7月に第一話~第七話を「香椎浪漫」で発表しました。今回、幾つかの伝承と仮説を付け加え、第一話~第十話をブログに書き換えて再投稿したのです。そのキッカケとなったのは、考古学者の西谷 正 先生でした。
 
                                 西谷 正 先生
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  講座資料の似顔絵が良く特徴を捉えていたので、紹介しました。
  
西谷 正 先生については、詳しくご紹介する必要もないと思います。 九州大学名誉教授、海の道むなかた館長、伊都国歴史博物館名誉館長を務めておられます。
 
今年8月に、西谷 正 先生が講師をされた「宗像・沖ノ島 世界遺産への道」のセミナーを受講した時のことでした。 最後に「福岡の香椎に住み着いて長くなりましたが(先生は関西出身)・・・神功皇后の多くの伝承を知るにつれ、実在したという想いになって来ました。 色々研究してきたこともあり、近々、本にまとめようと思っています」、と話されたのです。 
エ~ッ 驚きました。 西谷 正 先生のセミナーには何度も出席してきましたが、記憶にある限り、神功皇后について触れられたのは初めてのことです。 
 
西谷 正 先生が神功皇后実在説の本を出版されると言うことは・・・凄いことになりますよ。 神功皇后が歴史に復活し、メジャーとなる可能性があります。  そんな気持ちの高ぶりから、『神功皇后伝説』をブログに書き換えて再投稿したのです。
西谷 正 先生の本の出版が待ち遠しいです。
 
おかげさまで『神功皇后伝説』のブログには多くの方々に訪問いただいております。 ありがとうございま。 
 
 
神功皇后伝説』は神功皇后が大和を出発して大和に帰るまでの約3年間の物語でした。 河村哲夫先生と綾杉るな先生の著書の記述内容を軸に、福岡県内に残る言い伝えを辿り、うっちゃんなりの学習と仮説を加えて書きました。
 
記紀に書かれている皇后の男勝りを和らげ、女らしさと優しさを前面に出してみました。 神功皇后実在説が否定される理由の一つが、記紀に描かれている皇后の神懸り的能力ではないでしょうか。 倭国の船団が朝鮮半島に近づいた時、皇后が祈ると「大きな波が起こり、魚達が船を抱えて新羅まで運んだ」と書かれているのです。 このような超神懸り的現象は、うっちゃんの『神功皇后伝説』では極力省きました。
 
日本書紀編纂者は中国の歴史書(史記・後漢書・三国志など)を既に読んでいた筈です。 魏志倭人伝に登場する邪馬台国卑弥呼が、鬼道、つまり占い術をよく行う巫女(シャーマン)と書かれていることを知っていました。 日本書紀は日本の歴史を外国(特に中国)に読んでもらう為に漢文で書かれています。 同時代の女王・卑弥呼神功皇后とする為に、皇后にシャーマンの能力を持たせたのではないか、と言う多くの説に同感です。 よって、うっちゃんの『神功皇后伝説』では、皇后は占いはしますが、超神懸り的鬼道は行っていないのです。
 
古代の天皇や大臣は何故長生きなのか? 武内宿禰が300歳まで生きる筈がありません。 香椎宮では大祓式の儀が6月30日と12月31日の2度行われます。 つまり大晦日が年に2度あった名残りです。 1年を2年として計算していたのですから、寿命年数が倍になります。 でも、それでも長生き過ぎますね。 
うっちゃんは「徐福伝説」を思い出しました。 秦の始皇帝徐福を日本に派遣し、不老不死の仙薬を探させた、と言う伝説です。 秦時代の後の歴史書にも「徐福伝説」のことが書かれていますから、これも日本書紀編纂者が読んでいた可能性が高いです。 日本書紀が中国の王や役人に読まれることを前提に、彼らが関心を持っている日本長寿伝説の宣伝をしたのではないかと思うのです。 
 
 
日本書紀には皇子(応神天皇)を出産した場所は宇美とは記されていますが・・・何故、宇美なのかが解らないのです。 その仮説を探っていたのですが、ありました。 朝鮮半島進出を成功に導いてくれた玉依姫です。 玉依姫のお墓(御陵ごりょう)がある大野城の御陵宝満神社(ごりょうほうまんじんじゃ)で皇子を産みたかったのではないでしょうか? でも、間に合わずに宇美で皇子を産んだのです。 この仮説を考えたときに、実際に宇美から約3kmを歩いて御陵宝満神社まで行ってみました。
 
                              御陵宝満神社
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姉妹の約束をしたからでしょうか、玉依姫に加えて神功皇后も祀られていました。 小さな拝殿の前で目を閉じてじっと立っていたら、皇后の優しい声が聞こえました。 「うっちゃん! 貴方の仮説は当たっていますよ」だって。
 
神功皇后伝説(あとがき)終わり