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つぶやきかさこ

カメライター(カメラマン&ライター)かさこの毎日更新ブログ。政治・金融・社会問題から旅行記、写真などさまざまな話題を提供します。ホームページhttp://www.kasako.com/

この本を知ったきっかけは、正月特番のテレビ番組だった。
大沢たかお主演の番組で、世界各地を旅していくお話。
まだそんなに売れていない時の松嶋奈々子が彼女役として登場もする。
仕事にケリをつけ、有り金を全部トラベラーズチェック(旅行小切手)に替え、
インド・デリーからイギリス・ロンドンまで乗合バスで行くというのが話の大筋である。

テレビを見ておもしろいと思い、原作を読んで驚いたことは、この話がフィクションではないということだ。
著者沢木耕太郎の実話であると知り、「こんなことが可能なのだろうか?」と強い衝撃を受けた。

この本ははっきりいって「麻薬」である。
一度読んでみればわかるが、この本を読んだら、今の自分の立場を何もかも投げ捨ててすぐにでも旅に出たいと思うだろう。
いわゆる「海外旅行」ではなく「放浪の旅」。
普通の短期間の旅行にはない旅のおもしろさが存分に描かれている。
特にそれが作り話ではなく実際の話であるということが、圧倒的なリアリティーを持って読者に迫ってくる。
それが旅への衝動を強烈に駆り立てるのだ。

この本を読んだのはちょうどエジプト旅行に行った時だった。
いつか自分もこんな旅をしてみたいと思ったが、もう大学生を卒業し社会人になる自分に、こんな旅はできないだろうなと思っていた。

ところがその2年後。
僕は冬休みにインド旅行を計画していたが、年末の仕事の無理がたたりインフルエンザで倒れ、旅行2日前にキャンセルせざるを得なかった。
せっかく楽しみにしていた旅行がいけないことで、無為な正月休みを落ち込んで過ごしていた。
その時の無念さといったら大変なものである。
日々の仕事を頑張っているのは堂々と休みを取って旅行に行くためだった。その旅行がいけなくなってしまったのだ。

暇になると人はいろんなことを考える。
僕はその時、考えた。
世間体やらしがらみやらを考えず、ただ自分が一生のうちにどうしてもしたいことって何だろうか?
その時、僕は迷わず「深夜特急のような旅をしてみたい」と思った。
じゃあ行くと仮定して計画を立ててみるかと、
「深夜特急へ乗りたい人たちへ」とサブタイトルのついた旅行人の「アジア横断」というガイドブックを買ってみた。

それが旅への発端だった。
ガイドブックを見ているうちに「行けるな」と思うと同時に「今しかない」と思った。
そして僕は半年後に会社を辞めて深夜特急のような旅をするための準備を着々と進めていったのである。

人生を変えた本。この本に出会わなかったら僕の人生は全く違ったものになっていただろう。
「深夜特急」に出会えたおかげで、僕は4ヶ月のアジア放浪をすることができ、転職もした。
人の人生を変えてしまうほど「魔力」のあるおすすめの本が、この「深夜特急」だ。
こういう本に出会えるというのは偶然にしろ何にしろ、幸せなことだなと思う。
絶対におもしろいです。おすすめです。ぜひ読んでください。
こんな最高の書を今まで読んでこなかった自分自身が恥ずかしくなるぐらい、おもしろい本です。

「抵抗感」がある人にアドバイス。
・文庫本で5巻あるが、字も大きく量も少ないので、すぐ読めるので、
「5巻もあるの?」と長さを心配する必要はまったくない。
・「どうせ病院の腐敗を描いた社会派小説なんて嫌だ」という方、
私も「社会派小説」だと思っていたが、こてこての社会派ではない。
むしろ「人間ドラマ」が描かれたおもしろい小説ですので、その辺もご安心あれ。

さてさてここから書評に入っていくが、ネタばれになるので要注意。

<1>
まず、上記にも書いたけど「こてこての」社会派小説ではなかった。
病院、医療業界の腐敗を描いたものかと思ったが、
それほどその点に注力を注がれてはいない。
もちろん、到底信じがたい医療業界の実態が明らかにされてはいるのだが、
むしろそんなどうしようもない腐敗業界の中で、
世渡りしていく「加害者」でありながら「被害者」である医師たちの姿、
特に主人公・財前の人生は、反発というより共感を覚える。

腐敗だらけの教授選、序列で凝り固まった封建的な医師集団、
さまざまな利害、利権が絡んだ人事、
患者そっちのけの、自分の名誉のための業界・・・
そんな信じられない腐敗医療業界を見事に描いているわけだけど、
そこで生きている医師たちも腐敗に加担している確信犯でありながら、
そうしなくてはまともにこの業界では生きていけない被害者であることに、強く憤りを覚えた。

主人公・財前が「44歳で教授、46歳で学術会議会員、
50歳で学士院賞、55歳で学士院会員、60歳で文化勲章」というのを目標に、
すべてのものを投げ打って生きている、その情けなさ。
医療業界が肩書きや名誉ばかりにいかに縛られているかを端的に物語っている。
そんな肩書きのために、姑息な策謀をはりめぐらし、
神経をすりへらし、上司にごまをすり、賄賂を渡し、体を壊して、挙句の果てに死んでしまう・・・。
そういうものが「価値」を持ってしまう医療業界そのもののシステム変革をしない限り、
医師もまた加害者であり被害者なんだよなと、財前の生き方を読むにつれ思う。
でももし僕はその業界にいたら、きっと財前のように生きていただろうと思う。

<2>誤診裁判
この本の中心的な物語となっているのが誤診裁判である。
最近の度重なる病院の不祥事と重ね合わせると興味深いものがあるが、
僕は正直、この本での「誤診」はちょっと次元が違う問題だと思う。
患者を間違えただとか、注射を取り違えたとか、
昨今起こっているような単純な信じられないミスの事件ではなく、
非常に高度な医療レベルの「誤診」を問題にしていて、
鑑定人となる医者の立場によっても判断がわかれることから、
これを患者遺族側の勝利にして、医者の敗訴にしてしまうのは明らかにおかしいと思うが、
まあ明らかにおかしい判断をするのも裁判所だよなと思うと、興味深い。

実は、著者は、医師側勝訴の第一審で物語を完結していたらしいのだが、
読者から「社会的影響を考えても、医師側勝訴の判決にしてほしくない」
といった要望が多かったらしく、2年後に続編を書き、
第二審を「患者側勝訴」にした物語を書いたというわけだ。

僕はてっきり、ひどい誤診を行った医者の腐敗を描いたものかと思い込んでいたのだが、
僕がこの本を読む限りは、この「誤診」問題は、
むしろ主人公の医師側に共感を覚え、患者側に共感を覚えることはなかった。
それはこの本が主人公・財前を軸にした「人間ドラマ」を描いていることが理由で、
もし「こてこての」社会派で、もっと明らかな誤診事件にでっちあげ、
それを暴き立てるような本を著者が意図したなら、
財前を主人公にせず、患者側についた「正義の見方」里見を主人公にしたであろう。

僕には財前が悪で里見が善には見えなかった。
里見は正確な診断をするために患者に何度も検査をする医者なのだが、
はっきりいって患者からいやがられているし、僕だって患者だったら嫌だろうな。
確かに理想論からすれば何度も何度も検査をした方がいいに決まっているが、
そんなに何度も病院にはいってはいられない日常生活の中で、
いつまでたっても検査ばかりではっきりした決断をせずにいる里見のような医者だって、
下手をすると訴えられる可能性だってある。

その点、ずばっと手術だといってくれる財前の方が、患者としてはありがたい場合が多い。
だから僕は終始この物語は財前を悪とする物語ではないし、
現実問題として自分が置かれた立場や状況をふまえて行動しない、
理想主義者の里見は、現実的にはあり得ない行動だなと思ってしまう。
だからこそ主人公、財前は、腐敗業界の中で自分もはいつくばって生きていく姿に、
時折、慢心や奢りがあったとしても、それは非常に人間らしく、共感できるんだよなと思う。

この物語でずっといやらしいなと思うのは、東教授の娘。
自分が妻がいる里見を好きになったという理由から、
裁判に協力するようになり、妊娠している元婦長を断られても何度もしつこく訪ねるあたり、
結果として元婦長が裁判に証人として出廷したが、あれもあり得ないなと思うし、
非常識にも熱心に押しかけるああいう娘こそ犯罪だよなと思うが、
確かにこういう不純な動機で裁判に協力してしまうやつもいるよな。

<3>
この物語を読んで思うんだけど、一人一人の医師の誤診や、1つ1つの病院の不祥事よりも、
根本的に日本の医療制度そのものがおかしいから、変なことになってしまうし、
また、医者という肩書きをありがたがる小市民がうようよいるから、
余計に医者を尊大にさせてしまうんだろうなと思う。

財前の妻も里見の妻も、夫の出世ばかりを気にし、世間体ばかり気にしているし、
金を使って医者に特別扱いしてもらおうとする会社社長やお偉いさんがいるし、
医者そのものに限らずその周囲が医者を尊大にさせている大きな要因なんだなとつくづく感じさせる。

政治家の腐敗でもそうだけど、やっぱり金をもらって腐敗政治家に投票しちゃう、
そういう小市民が政治家の腐敗を増大させているのと同じように、
「医者と結婚」じゃないけど、医者を特別階級とあがめたてまつって、
ちやほやする取り巻きが医療業界腐敗の大きな要因であることを忘れてはいけないなと思う。

とにかくこの小説は実におもしろかった。
ぜひ読んで欲しい。買って損はしない本だ。
・「歴史で読み解くアメリカの戦争」山崎 雅弘著 学研
ブッシュ再選で再びこの4年間、恐ろしい時代がはじまったということもあり、
改めてアメリカのこれまでの紛争史を知りたいと思い、上記の本を借りてきました。
こういう本というのはなかなか読みたくっても読みにくい側面があると思うので、
この本を読んで私が重要だと思う部分を抜き出してみました。
今、起こっているさまざまな問題、
そして、今後も起こるであろうさまざまな問題を考える上での参考になればと思います。

なお、この本は単なる紛争の事件簿だけでなく、その背景なども丹念に記述していて、
かつ、単に湾岸戦争、イラク戦争だけでなく、朝鮮戦争、ベトナム戦争にまでさかのぼって、
主観的な論評ではなく、客観的な歴史的事実に基づいて、非常に丁寧に記述されている良書です。
ただそれゆえ、分量も多く、今、特に関心のあるイラクと、
イラク戦争後、次にブッシュが侵略しようともくろむイランの問題に、
はじめから読んでいるとなかなかいきつかないという弊害もあるので、
もし下記の記述で興味を持って本を手に取ったら、
朝鮮戦争やベトナム戦争を読むのは後回しにして、
第六章の「対テロ戦争(イラン・リビア・アフガニスタン)」、第七章の「イラク戦争」から読むとよいかもしれません。

なぜアメリカが世界を敵にしてまで戦争をするのか。
なぜアメリカはつけねらわれているのか。
なぜテロが連鎖するのか。
これまでのつぶやきかさこで私なりのアメリカ診断をしてきましたが、
そのアメリカ評と読み比べながら、下記の記述を参考にするとよいと思います。

「歴史で読み解くアメリカの戦争」より抜粋&一部かさこの補足
・国連無視のアメリカの政策はこれまでも行われていた
国連安保理の拒否権を多用するアメリカ。
1966~1991年までの26年間で、ソ連が拒否権を行使したのは4回。
しかし、アメリカは、1980~2003年までの24年間で、57回の拒否権を発動している。
アメリカが行使した拒否権の回数は全部で78回。
しかもその内訳は、人種差別で非難を浴びていた南アフリカを非難する決議をアメリカの拒否権で葬り去ったのが12回。
イスラエルを非難する決議をアメリカの拒否権で葬り去ったのが37回にも及ぶ。

ビンラディンが先の声明で、911テロを思いついた契機とされる、1982年のイスラエル軍のレバノン侵攻だが、
この時、国連は、イスラエルのレバノン国内からの撤退と軍事行動停止要求の決議をしたが、イスラエルは決議を無視して進撃。
その間、イスラエルを非難する国連での草案が3つあったが、
他国の圧倒的多数の賛成にもかかわらず、アメリカただ一国の反対によって、否決されてしまった。

911テロ後、アメリカは「新しい戦争」と称して、
テロとの戦いをはじめたが、何も今にはじまったことではない。
1970年代終わり頃から、反米を旗印としたイスラム過激派集団との戦いははじまっていた。

質素で禁欲的な社会を理想とするイスラム社会は、
扇情的な欲望至上主義的な現代風の生活習慣に対して、強い敵意を示してきた。
その欲望資本主義の総本山ともいえるのがアメリカだ。
それに対してアメリカは「文明の破壊」と称して、
欲望資本主義的価値観を否定する彼らを弾圧しようと試みた。

・イラクの次にアメリカが侵略を狙うイラン
1953年、親米派の将軍によるクーデターが成功すると、
イラン国内の石油利権は、米英両国の巨大石油企業(メジャー)6社と、
米系の独立系石油企業(インディペンデント)9社によって再配分された。
石油利権の割り当てに対する「リベート」として、3年間で5億ドル近い石油収入が、イランの親米政権へと支払われた。
石油利権はもちろん、軍事面でも緊密化が行われ、
アメリカ製イギリス製の武器や戦車がイランに輸出された。

こうしたアメリカーイラン親米政権の癒着関係は1970年まで安定していたが、
1973年の石油危機を契機に、イラン国内の政情が不安定になり、
石油高騰化で利益を独占する政権と特権層、それを支えるアメリカに対する非難を訴えた、
イスラム教シーア派の指導者ホメイニが1979年、熱狂的なイラン国民によって迎え入れられた。

石油利権と結びついた王権の腐敗と気に食わない思想・行動はすべて弾圧する秘密警察への怒りは、
それを影で支えてきたアメリカに向けられることになる。
1979年11月、腐敗政権で失脚し、アメリカに亡命したパーレビの身柄とイランに引き渡せと、
狂信的なシーア派の神学生たちがテヘランのアメリカ大使館に乱入し、
大使館員など53人を人質にするという事件が起きた。
人質はすべて解放されたが、この事件を機に、アメリカとイランは完全な断交状態に入った。

それゆえアメリカ政府は、ホメイニを指導者とするイランを「アメリカの脅威」とみなし、
1980年、隣国イラクがイランに侵攻すると、
アメリカは敵(イラン)の敵であるイラクに大規模な武器援助を開始。
現国防長官のラムズフェルドは、イラクの首都バグダットで、
サダム・フセイン大統領と固い握手を交わしたのである。

・リビア
イランのホメイニ政権を賞賛したのはリビアのカダフィ大佐である。
1959年、リビアで次々と巨大油田が発見されると、
米英両国の石油企業は国王を懐柔し、採掘から流通、販売に至る、すべての石油事業の実権を握ることに成功。
石油産出で儲けた富を、国王は特権階級で独占したため、
国民の間に王制打倒と反米・反英を叫ぶ空気が広まった。
1969年、カダフィは無血クーデターを成功させ、王制を廃止し、軍事政権を樹立。
リビア国内の米英両軍のすべての基地をリビアに返還させ、
さらには米英の石油企業が握る権益を国有化したのである。
根強い反米・反英思想を持つリビアは、反米テロ活動の資金援助を行った。
それに危機感を抱いたアメリカは1983年、
「国家に支援されたテロ行為は、明らかに戦争の一形態として理解されるべきであり、
政治的外交的手段のみならず、多様かつ柔軟な軍事的手段による対応も欠かせない」との海軍からの提言を受け、
1984年、レーガン政権は「テロへの対応に軍事力行使を認める」との方針を発表した。
1986年、アメリカ兵のたまり場として知られる西ベルリンでのディスコでの爆弾テロ事件を契機に、
その黒幕はリビアのカダフィであると断定したアメリカは、
リビアに大規模な空爆を行い、民間人100人以上が死亡したが、
最大の標的であったカダフィを殺すことはできず、また、
ソ連や東欧諸国のみならず、フランスやドイツなどアメリカの友好国からも、
アメリカの行為は「国際法を脱した暴挙」として厳しい非難を浴びる結果になった。
「圧倒的な軍事力でテロ勢力の根源を粉砕する」レーガン政権のもくろみは完全な失敗に終わった。

・イラク戦争
湾岸戦争を含め、イラクは過去に一度もアメリカに対して先制攻撃を行ったことはない。
また湾岸戦争の敗北と国連査察により、イラクの軍事力は低下させられていた。
だが、アメリカ政府は、出所不明の録音テープや不鮮明な衛星写真など、
わずかな証拠をもとに、「イラクは大量破壊兵器の研究開発を進めている」とし、
フランスやドイツなど同盟国の反対を押し切り、イラク戦争に踏み切った。

911テロ発生後、アメリカの報復攻撃を「アルカイダ」に絞るべきか、テロ支援国家に広げるべきか。
ラムズフェルドが「アルカイダ」だけでなく「イラク」も攻撃したらとそそのかした。
新保守主義派(ネオコン)と呼ばれる勢力は1998年の時点で「フセイン政権打倒」を重要案件に。

2002年、悪の枢軸国演説。
イラン、イラク、北朝鮮の3国。
「対テロリスト戦争においては、従来の抑止力という概念は通用せず、
敵の脅威が現実のものとなる前に、これを排除しなければならない」という演説
このアメリカの国家安全保障戦略のブッシュ・ドクトリンは、
ネオコンのウォルフォウィッツが1992年に父ブッシュに提言した政策提言書とほぼ同じ内容。
パウエル長官はイラク戦争開戦前に「軍事的には間違いなく勝利するが、戦後処理は極めて困難なものになる」と警告したが、
ネオコン派に押されてブッシュは開戦を決意する。

2002年10月、イラク政府は国連に
「イラクにはもはや大量破壊兵器の備蓄も、それを開発する能力も残っていない」と申告書を提出。
イラクへの武力行使に反対するフランス、ロシア、ドイツなどは、査察の継続を前提とした議論に。
しかしイラク戦争を急ぐブッシュは、偽造証拠をでっちあげ、
「ゲームは終わった。イラクは、武装解除への最後の機会を自ら放棄した」と述べ、開戦に踏み切った。
ブッシュの「ゲームが終わった」とは、イラクとのゲームが終わったというより、
国連でイラクへの武力行使に対する他国の賛成が得られないことがわかったから、
国連でこの問題を話し合うことは無駄だという意味での「ゲームが終わった」という意味だったんだろうな。

・アメリカのビンラディン支援
1979年イスラム国家アフガニスタンへ軍事侵攻を行ったソ連軍に対し、
イスラム武装グループはゲリラ闘争を行っていた。
サウジアラビアで建設業を営む実家から送られてくる豊富な資金援助を武器に、
ソ連軍と戦う「ムジャヒディン」の訓練施設や後方支援し悦の建設を行っていた、
ビンラディンに対し、アメリカは敵(ソ連)の敵であるビンラディンに、莫大な資金援助と武器援助を提供していた。

1989年、ソ連のアフガニスタンからの撤退、1990年、湾岸戦争の発生に伴い、
友好関係にあったアメリカとビンラディンは敵対関係へと変わる。
ビンラディンがアメリカを敵視する契機は、
アメリカ石油企業との関係が深いサウジアラビア王室が、サウジ国内でのアメリカ軍基地開設を許可したことだった。
イスラムの聖地であるメッカとメディナを擁するサウジ内に、異教徒であるアメリカの軍隊を駐留されるという、
サウジ国王の決定は、ビンラディンをはじめ、イスラム教徒にとっては信じがたい出来事だった。

ビンラディンは王室を非難する声明を発表。
1994年、サウジ国籍を剥奪され、スーダンに亡命したラディンは、
サウジのアメリカ軍の撤退を要求する一方、
かつてアフガニスタンで仲間であった兵を再編して、反米テロ組織を組織した。
それが「アルカイダ」である。

・アメリカがなぜ狙われるか
アメリカ政府およびアメリカ石油企業と癒着した親米政権が私腹を肥やし、
それに対する不満が国民に巻き起こり、一部の過激派が、デモや暴動、テロへと発展する。
これがテロの土壌なのだ。
1987年、国連は、イスラム過激派勢力を中心とする国際的なテロ事件の政治的背景を理解した上で、
その解決法を提案した。
「テロリズムの背景にある政治的・経済的要因をきちんと研究した上で、
(不法行為としての)「テロリズム」を定義し、その予防法を考える一方、
(不法な抑圧に対する抵抗運動の一環としての)民族解放闘争と区別するための国際会議を開催しよう」と提言したが、
賛成153国に対し、反対2国=アメリカとイスラエルの、
強い抵抗によって、このような会議が行われることが阻まれている。

<総評>
アメリカが戦争する理由、
それは自国の発展のために資本主義ルールにのっとらない政権の破壊。
石油をわがものにして莫大な富を得る。
石油利権の強力なプッシュ。
そして冷戦崩壊後、存在意義を失った軍事産業をつぶさないための戦争の創出。
軍産複合体の強力な政権へのプレッシャー。

テレビドラマ「24シーズン2」はまさに石油利権のために、
証拠を偽造して中東諸国を戦争させるという、イラク戦争をモデルにした内容だった。

アメリカこそ死の商人。
これからますます戦争とテロがアメリカのせいで続発するだろう。
※わが愛するネパール・カトマンズが、国王の横暴で今、大変なことになっているらしい。
民主化路線を歩んでいたネパールが、国王の独裁体制に変わろうとしつつあり、
それがテロ集団マオイストを刺激する結果になり、
バックパッカー天国のカトマンズも非常事態にあるらしい。
一日も早くくだらない政変を終わらせてほしいと願う。

9月24日にネパ-ルで大きな祭りがあるという話を聞き、
その祭りを見るために日程をあわせてチベットからネパ-ルに入った。
ネパ-ルに到着したのは祭りの2日前の9月22日だった。
どんな祭りか聞いた話によると、生き神クマリという少女が、いつもは館に潜んでいるにもかかわらず、
年に1回、この祭りの日には外に出てきて、現在のネパール国王をひざまずかせる儀式が行われるというものらしいのだ。
なかなかおもしろそうな祭りじゃないか。だって国王ともあろう人がただ一介の少女にひざまずくなんて、
これはすごいことだ。ぜひ見てみたいと思った。

ネパ-ルの正式名称は「ネパ-ル王国」である。王国の国王ということは絶対的な権力の持ち主に違いないが、
その国王が祭りとはいえ、民衆の前で少女にひざまずくのだから、これは大変なことである。
一番国の中で偉いはずの国王がひざまずくということは、国王よりも偉い人を認めるということではないか。
それだけ生き神クマリに対する信仰が深いのだろうか。祭りに対する興味は尽きなかった。

そして、祭りの日。今日が祭りの日であることだけは知っていたが、それがどこで行なわれ、
何時から始まるのか知らなかったので、ミニオムホテルの従業員に聞くと、
ダルバ-ル広場で10時から行なわれるということだった。
ネパ-ルの祭りの中でもかなり大きなものだと聞いていたので、少し早めに9時頃、ダルバール広場に向った。
ところが広場に着いてもこれから祭りがすぐに始まるという気配が全くないのである。
クマリの館のすぐそばには、祭りの間クマリが乗る山車が置いてあったが、
その他には祭りが10時から始まるような兆候は見受けられなかった。
広場で1時間待ってみたものの、何も始まらないので一旦近くのチャイ(紅茶)屋に入って様子を見ることにし

外の様子をちらちら気にしながら座っていた。いちよ店の主人に、祭りは何時から始まるのか聞いてみた。
すると「午後17時からだ」と言うのである。
「えっ、17時から?10時からじゃないの?」
「いや、17時からだ」
「本当?」
「間違いない」
というわけで、せっかく来たものの早すぎたようなので、ホテルに戻って出直すことにした。

ダルバ-ル広場からホテルに帰る途中、退屈なのでみやげ屋に寄った。
そこにはカシミ-ル産のマフラ-が店頭に並べられていて、なかなか良さそうなものだったからだ。
違う色のものやら質の違うものやらいろいろ見せてもらいながら、値段交渉をしていた。
気に入ったマフラ-があり交渉に交渉の末、800ルピ-だった値段が550ルピ-に下がった。
ただこれ以上は無理そうだったので、それで手を打つことにした。
マフラ-を買ったからか、主人はチャイを頼んでご馳走してくれた。

店でゆっくりしていると、みやげ屋の主人が、「そろそろ行った方がいい」と突然言った。
「どこへ?」
「祭りだよ。祭り。知ってるだろう。もうそろそろ始まるよ」
「えっ、17時って聞いたんですけど」
「いや12時からだ」
「えっ本当ですか。」
「急がないと間に合わなくなるぞ」

てなわけで、これはみやげ屋でゆっくりとチャイをすすっている場合じゃないと、再びダルバ-ル広場に向った。
ところが行ってみると午前中に来た時の様子と変わりなく、祭りが始まる様子はなかった。
ただ前と違ったのは、広場にある3つの寺院の階段状になっている所に、
場所取りなのか座って待っている人がちらほらいたぐらいだった。
祭りが今日行なわれることは間違いなさそうだが、この調子ではまだまだ祭りは始まりそうもない。
やっぱりさっき聞いた17時説が正しいのか。しかし17時というのはちょっと遅いような気もした。
いろんな人が違う時間を言っている。一体祭りは何時に始まるんだ?
これは聞き回らないと正確な時間はわかりそうもないなと思った。

ちょうどそんな時、チベットで出会った日本人の旅行者と広場で出くわした。
「どうも久しぶりです」
「どうも、どうも。やっぱり祭りにあわせてチベットから来たんですか」
「そうです。ただこの祭り、一体何時からなのか知ってます?」
「僕は16時って聞きましたよ」
「16時ですか」

その後ホテルに戻って、ホテルの人やレストランの人、みやげ屋、ス-パ-の人、通り掛かった日本人などに聞いて回った。
しかしそれぞれが別々のことを言っていた。14時説、15時説、16時説、17時説、18時説。
ただ意見を総合して判断するに、16時か17時あたりの意見が多かった。中でも17時説を唱える人が多かった。
すべての意見を聞いていたらずっと広場で待っていなくてはならない。
ここは一番意見の多い17時説を信じてみることにしようと、ホテルで待機した。

17時説に的を絞ったものの、ホテルに待っていてもなんだか落ち着かない。
本当に17時なのかどうかもまだわからないのだから。かといって早く行って待つ気にもなれない。
そんな中途半端な時間を過ごし、ついに待ちきれなくなって16時頃、
ちょっと早いかなと思ったが、再びダルバ-ル広場へ向った。
広場に向う途中の道端で、これまたチベットで出会った旅行者に出くわした。
チベットで会った旅行者はみな、このネパ-ルの祭りに日程をあわせているから、こんなにも何度も会うのだろう。
しかし彼らは祭りから帰ってくるところだという。
「祭りに行かないんですか?」
「いや、今、行ってきたんですよ。ところが人が一杯で全く見れそうもないので、帰ってきたんですよ」
「そんなに人すごいんですか」
「すごいなんてもんじゃないですよ。あれじゃ全然見れないと思ったんで帰ってきたんです」

しまった。祭りは始まってはいないが、すでに人で一杯だというのである。もっと早くから待つべきだったのか。
今から行って見れるかわからないが、とにかく広場に行ってみようと思った。
ダルバ-ル広場に近づくにつれ人通りは増していった。いよいよ祭りが始まるのだという雰囲気が町に充満していた。
ダルバ-ル広場に到着すると、そこにはものすごい人で溢れかえっていた。
クマリの館と、国王の来るホワイトハウスのような建物の向かいには3つの古い寺院があって、
その寺の階段状になっている部分が見物客の客席になっていた。
それぞれ男性用席、女性用席、プレス席と3つに分かれていた。
その階段にはぎっしりと人が寄せ集まっていてもうそこには入れない。これはすごいなんてもんじゃない。
広場の中心部にはスペ-スが開けられ、銃を持った小隊と楽器を持った楽隊が待機していた。
あちこちに警官が警備にあたって、広場に客が入らないように見張っている。
人の山で広場がほとんど見えない。しかし来たからにはどうにかしなくてはと、少しづつ中に押し入っていく。
時間は夕方16時を回っていた。いつ祭りが始まってもおかしくない雰囲気だった。

しばらくすると広場に何台もの外車が続々と入ってきた。きっと国王が来たのだろう。
彼らがホワイトハウスの中に入っていくのがかろうじて見えた。
しばらくすると、その建物の2階のバルコニ-にその一団が集まった。
ス-ツや着飾ったドレスを着た人たちが互いにあいさつをしあっている。
国王だけでなくその家族や海外からの来賓も来ているらしかった。

いよいよ何か始まるはずだと、後の人はぴょんぴょん飛び跳ね始めた。
僕も同じように飛び跳ねてみるが、跳ねたところであまりよく見えないことに変わりはない。
しかし飛び跳ねないとなんだか落ち着かないので、見えもしないのに後にいる人たち同様ぴょんぴょんやっていた。
なんとかして祭りの様子を見ようと、中には大人同士で肩車する者もいた。
またカメラだけを上に上げてやたらめったらシャッタ-を切っている者もいた。
しばらくすると楽隊の演奏が広場に鳴り響き、ついに山車に乗った生き神クマリが登場したらしかった。
どこかの誰かが「クマリだ!」と叫んだ。もう観客席はざわついてしょうがない。
それに負けじとへたっぴな楽隊の演奏がガンガン鳴り響く。もう広場は混沌状態だった。何が何だかさっぱりわからかった。

前の方にいる人や寺院の高い所にいるよく見える人たちが、「クマリだ」と叫んでいる。
僕を含めた後にいる人たちは、あわてて再びあちこちでぴょんぴょん飛び跳ね始めた。僕も負けじと飛び跳ねる。
一瞬だけ確かにクマリと思わしき山車の台座に乗った、化粧をした生き神の少女がかいまみえた。
大勢の人々の熱気と騒擾の中で、一身に注目を浴びる一人の幼い少女。
まるで見せ物のように、人々の前に曝け出された一介の少女。生き神として選ばれた運命とはいかなるものなのか。
少女の表情は、本当の自分自身の内面は一切見えず、
生き神としてたたえるここに集まる大勢の人々の信仰心が乗り移ったかのような、
信仰の対象物としての無表情な人形のようであった。
無意識の状態。多分、少女は祭りのことを終わってから何一つ覚えていないのではないか。そんな気がした。

人々の熱狂は、クマリが登場するとすさまじいものとなった。もう何が何だかわからない状態。
人々のざわめきとカメラのフラッシュがあちこちで氾濫していた。広場は興奮の絶頂となっていた。
たった一人の少女を前にして、大勢の人たちが集まり歓声をあげていた。
みな少しでもよく見えるポジションを確保しようと、押し合いへしあいになった。
人々をこれほど惹きつけるものは何なのか。人々をこれほど熱狂させるものは何なのか。
クマリという単なる一人の少女を、生き神として信仰する信じる心の強さが、この騒ぎの源となっているのだろうか。

そして祭りは知らぬ間に終わった。多分ほんの数分間にしか過ぎなかった時間だ。
人々のどよめきとため息と心地よい疲労感と共に、名残り惜しそうに、人々は徐々に広場から散っていった。
僕は結局何も見えなかった。ただ一瞬少女の顔を見ただけだった。
国王が本当にひざまずいたのかもわからないし、何が起こったのかもよくわからない。
でもなぜか祭りが終わると、妙な安堵感があった。祭りが終わったんだというほっとした安心感。
祭りという場に参加してできたんだという満足感。そして一瞬だけ見たクマリの表情に、感慨深い想いを抱いていた。
心地よい安堵感と少しの名残惜しさと共に、僕は人々の波に揉まれてタメルへと戻っていった。
こんなに騒然とした場に居合わせたことが最近あっただろうか?
地元の人たちの信仰心からの熱狂が、僕にも少しうつったような心地よいほてり感があった。

雑学コラム②:なぜクマリに国王がひざまずくか?
ネパールでお祭りがあるらしい。そのお祭りでは、なんと国王が生き神クマリにひざまずくという。
生き神とはいえ一介の少女に、王国の国王がひざまずくというのは一体どういうことなのだろうか。
最高権力者たる国王よりも偉い存在があると、国王自ら認めるようなものではないか。
そんなことが本当にあるのだろうか。
というより、それほどまでにネパールにおける生き神クマリへの信仰が強いのだろうかと、疑問に思った。
クマリは常時ダルバール広場にあるクマリの館にいて、
時々窓から顔を出して観光客を喜ばすだけの存在でしかないと思っていたから、余計に不思議だった。

毎年初秋に行われるインドラ・ジャトラ祭りで主役を務めるクマリ。
盛装したクマリが山車に乗り、カトマンズの町を3日間巡行する。
クマリが館に帰ると国王はクマリを訪問し、その手から祝福のティカ(赤い粉)を受けるという。

クマリという神様の誕生は、マッラ王朝時代に遡る。
マッラの王たちが夜中になると守護女神タレジュとさいころ遊びをしながら王の仕事に関して教えを受けた。
しかしある時、女神の気を損ねることが起こり、それ以後は女神自身が姿を現す代わりに、
サキャ家系の娘に宿ってお告げをすることになったという。これがクマリ誕生の伝説らしい。

こうしてクマリが誕生したわけだが、祭りをはじめるようになったのは18世紀後半のこと。
マッラ3王国は互いに抗争を繰り返して弱体化しつつあった。
その頃、中部ネパールでは小王国ゴルカの王プリティビナラヤン・シャハはカトマンズ盆地攻略を狙っていた。
政権の危機を感じたカトマンズの王、ジャラ・ブラカシュ・マッラは、
1760年、ダルバール広場にクマリの館を建設して盛大な祭儀を行い、
国の平安を祈願するためインドラ・ジャトラと呼応するようにクマリの山車巡行をはじめた。

ところが1768年。クマリの山車巡行が行われている最中に、ゴルカ軍がカトマンズへ侵攻。
カトマンズの王は逃亡し、生き神クマリは侵攻してきたゴルガの王プリティビナラヤン・シャハに祝福のティカを与えたという。
現在の国王はゴルカのシャハ王朝の系統。カトマンズ盆地に侵攻してきたシャハ王朝にとってクマリは、
シャハ王家のネパール王としての正統性を意味づける歴史的背景があるのだ。
だからこそ最高権力者たる国王がクマリにひざまずくことまでするのである。
ただクマリというのは、何もカトマンズに限らずあちこちにいる神様で、もとは土着信仰で地母神崇拝的なものだった。
それを国家が権力の正統性を裏付けるために、一大行事として取り上げたに過ぎないとも言える。
オーマーイガット!
ラストのシーンで思わず叫んだ。
なんでこうなるの?まったくおかしい。
ストーリーや設定やキャラクターめちゃくちゃやんけ。
こんなくそみそストーリーで誰が納得するねん。
ほんとひどかったな。この映画。

何が気に食わないかを列挙したらキリがないが、
大きなものだけできるだけ簡潔に説明しよう。

まずラスト。
主人公?のターナー君と結局、エリザベスがくっつくことになる。
それをあっさり認めてしまう提督とエリザベスの父親。
あり得ない!!!

法のしもべたる提督は、罪人をターナーによって逃がされたあげく、
結婚すると約束したエリザベスには逃げられ、面目まるつぶれ。
それをあっさり、婚約者の裏切りを素直に認め、他の男に譲るか?
そんな立場やそんなキャラクターじゃあるまい。
まして時代が時代である。
提督といったら相当お偉い人なわけで、そういう立場にある人が、
鍛冶職人なんかに譲ってしまうか?

さらにはそのお偉くなる提督に娘を差し出し、自分の家の安定を図ろうとする、
ようは権力や地位にこだわる父親が、
これまたあっさりと娘の婚約破棄と鍛冶職人との結婚を認めてしまう。
それは絶対にあり得ないでしょう。
そんなお人よしだったら、はじめっから提督との結婚は勧めないでしょうに。

そんでもって絶対いうだろうなと思ったセリフ。
「あなたは鍛冶職人じゃない。海賊よ」
言うと思ったよ。そういうセリフが読めてしまうラストってほんと興ざめするね。
情けない。

2人がくっつくのはいい。
でもくっつくのなら、スパロウ船長がいったように、
「今がチャンスだったのに、間抜け野郎!」といったその時だった。
町に戻らず、本当に海賊としてスパロウ船長とともに生きる決意なしには、
あの2人はくっつけなかったのに、町に戻ってハッピーエンドになってしまうなんて、
絶対にあり得ない。

海賊がゾンビなのも興ざめしたな。
呪いとはいえ、ゾンビという架空設定にしてしまうと、
「戦い」として成り立たなくなってしまうのではないか。
しかもその呪いの所以がようわからん。
なぜターナーの父親の血とメダルを返さなければならないのかようわからんし、
結局、父の血ではなく息子の血でなんで呪いが説けてしまうのか意味不明。
だいたいその後に、またスパロウ船長が盗んだじゃないか。
そしたら今度は彼の血が必要になる?
とにかくこの話の核となる呪いがいい加減な設定になっているから、物語がつまらなくなる。

意味不明なつまらない点をあげたらキリがないからこれでやめておこう。
複雑な設定はせず、単純な海賊三つ巴物語にした方がおもしろかったんじゃないか。
「これぞ映画!」という実におもしろかったギルバート・グレイプに出会って以来、
「映画ってすごいんだな」と映画を見直しつつあったんだけど、
それから借りてきた3作品は見事に3連敗の3タテくらってしまった。
リバーランススルーイット、蝶の舌、そして決定打を与えたのが、
DVDで借りてきてみた3時間にも及ぶ完全オリジナル版のニューシネマパラダイスである。

どうもこの映画にはもっと短いバージョンがあるらしい。
僕の論評は完全オリジナル版を対象にしているのでまずご了承いただきたい。
(まあ多少短くなったバージョンであっても基本的につまらなかったことは変わらないと思うが)

まずこの史上最悪につまらなかった映画をわざわざつぶやきで載せる理由は、
3時間の時間の無駄を他の人にも味わってほしくないからである。
こんなくそ映画、はっきりいってお金をもらっても見たくはないな。

1)主人公が3世代
まずいけないのはね、たった3時間で主人公が、
子供、青年、50歳ぐらいのおやじと3世代にわたること。
当然3世代で役者は違う。こうなってくるとね、主人公に感情移入できず、
ストーリーに入り込めないわけですよ。
まあせいぜい許されても子供と青年と2世代までだろう。

本だったらいいかもしれない。
文章で50歳の主人公が出てきても、自分で想像するから。
でも映画だと映像になってしまう。
こうなると子供、青年、おやじの3世代が同一人物として結びつかなくなってしまう。
いくら似ている人つれてきたとしてもね。

しかも最悪なことに、一番主人公が輝かしく親しみやすいのは、はじめの子供の頃なんですよ。
だから時間がたつにつれだんだん映画がつまらなくなってくる。
まあそもそもたった3時間の映画で子供から50歳になるまで描こうっていうのが間違い。
回想シーンみたいな形で、はじめとおわりの10分ぐらいずつに出てくるだけならいいけどね、
(それでもグリーンマイルなども主人公の青年時代と回想するじいさんのキャラクターの違和感はひどかった)
3世代がそれぞれ1時間ずつぐらい話に登場しちゃうと、もう3つばらばらなどうしようもない映画であることの、
下地を作っているようなもんですよ。

2)映画がテーマ?
多分、この映画は「映画」がメインテーマなんだろうけど、しっかり描かれていない。
それどころか、途中から映画がテーマではなく、単なる恋愛悲劇物語みたいな様相を呈してくる。
それでも最後はそれをむりやり映画に結びつけるような結末へと持ってくる。
もうてんでばらばらのどうしようもない映画ですよ、これは。

どうも短いバージョンは大恋愛の話は短めで映画をテーマに絞った構成になっているらしいんだけど、
それでも映画をテーマにしているにしちゃあ、すごくピンぼけしている感じ。
子供の頃は、戦争というきなくさい時代の中で、小さな村の唯一の娯楽が映画。
それに夢をかけるおじさんと子供の物語。
ここまではいい。

ところがその後、テレビが発明されて、映画がすたれてきて、
主人公が50歳すぎになって、30年ぶりに帰ってきた時に、
その映画館が爆破されるんだけど、
今、この映画を見て、単純に「テレビの繁栄で映画が衰退した」というメッセージは納得しがたい。
ましてこの主人公が、超一流の映画監督になってしまうならなおのこと。
時代の流れとともにね、映画好きだった子供が、
映画を捨ててテレビのプロデューサーにもなってね、
昔映写技術を教えてもらったおじさんとテレビVS映画みたいな対決論争みたいなことをする、
みたいな、その時代の違い、世代の違いを描いて、
最終的に両者のすみわけがあるみたいなストーリーだったら、
おもしろいし、ひきこまれるし、ふむふむと思うわけですよ。

でもそうじゃない。
映画の衰退っていうわりに、映画館が廃館になるのは24年後だし、
主人公は映画監督として成功しているのであれば、
映画の衰退と古き良き映画の時代の回想というテーマにはあまりに無理がありすぎる。

3)30年後
そしてもっともこの映画を、まったく視聴者から断絶させてしまったのは、
主人公が村を出てから30年後に帰ってくるお話。
30年後っていきなりいわれてもね、意味わからんですよ。
それに30年後にする意味がわからない。
第1、彼は自分の人生の成功のために村を出ただけなのに、
30年間ろくに親とも連絡をとらず一度も村に帰ってこないという設定の必要性もわからない。

はじめなぜ彼が帰らなかったのかは、青年時代に強烈な体験があったからだと思ったわけですよ。
その理由が回想シーンで明らかになるのかなと。
でもその答えは、単に人生の成功のために帰ってくるなというおじさんのアドバイスだけでしょ。
自分から「もう村には帰るまい」という強烈な動機づけとしてそれだけっていうのは、非常に無理があるし、
そういう設定にしたところでこの話のストーリーに何の意味もない。

さらにひどいのは、帰ってきて昔の恋人に再会する。
宮本輝でも似たような話があって、30年後の再会恋愛話ってありえないわけですよ。
20代の若い頃、世間も知らず社会も知らず、
ただ2人だけのことしか考えていない若い無鉄砲なカップルだからこそ、
大恋愛をしたし、そこに引き裂かれるような思いを抱く事件があったわけです。

それを30年後になって偶然再会して、あの時実はこうだったみたいな話になってね、
夫も子供もいる50歳のおばさんがね、
「あなたをずっと待っていたのよ」みたいなことで抱きついてキスするかってことですよ。
もちろん30年もたってるから、じゃあ2人でこれからどうのってことはありえないわけです。
でも主人公はその女性のことを思っていたから独身だみたいなことになっていて、
俺はまだ待つみたいなセリフをはく。
これがね、20代で別れて5年後とかせめて10年後ぐらいだったら、
もっと食い入れるように見れるわけです。
えっ!実はあの時別れてしまったのはこんな理由だったのか。
まだ5年だったら互いに若いしやりなおせるのではないかみたいなことでね。
しかし30年後ですよ。お話にならん。
見ていてむかついてきますよ。

4)別れた理由
そしてさらに納得がいかないのは大恋愛した男女が別れるきっかけとなったのは、
なんと主人公の映写技師の師匠さんだった。
しかもその意図が、主人公を仕事で成功させるため。
確かに彼は仕事で成功したが幸せな人生を送っていない。
それがこの映画の答えなのか?と思ってしまうわけですよ。
つまり仕事に成功するためなら狭い世界から飛び出せ!
でも人生の幸せは訪れてはこないと。
それか逆説的に仕事の成功はしなくても、村に残れば、
愛する女性と幸せな家庭を築けたかもしれないということが結論なのか。

ってことは、この映画のテーマってどうしようもないメッセージってことになる。
仕事で成功するやつは幸せな家庭は築けない。
幸せな家庭を築くやつは仕事では成功できない。
別にそれがいいたかったわけではないと思うんだけど、結果的にそういう結末になってしまっている。

もちろんそれをテーマに映画を作ることはできるわけで、
それだったらもっとドラマティックにそのことだけを描けば、
それはそれで「仕事か恋愛か?」みたいなことをつきつける、
いい映画はできるとは思うんだけど、いかんせんそういう意図はまったくない。

そんなわけで3時間にも及ぶこのくだらん最悪映画。
僕の人生の貴重な3時間を無駄にしたとして損害賠償をお願いしたいぐらい、
つまらん映画だったな。
ぜひ見ないで欲しい。きっと他におもしろい映画はあると思うから。
浮気妻との不倫愛の思い出話を、テーマもロマンスもなく、延々168分続く、拷問映画。
くずです。時間の無駄です。
見ないように注意報映画です。

テーマがない。無理やり戦争にこじつけてるけど、
よくよく見ると、戦争とは何の関係もない。
ただ輝かしい不倫愛を事故で失っただけ。

じゃあラブロマンスかというとそうでもない。
ほんと単なる不倫愛をテーマにしていたとしても、たとえばそこに夫が出てきて、
ドロドロの三角関係になってしまい、その心の葛藤や恋愛の駆け引きや、
互いの立場や仕事の関係などで、ドタバタ劇があるのなら、
見ていてもおもしろいけど、そういうのもまったくない。
普通に不倫して、ただその過去の楽しい思い出を回想しているだけ。

回想しているその場面もさっぱり意味がわからん。
なぜ何の関係もない一人の患者を、隊から離れて、廃墟で看護婦が看病しているのか、
意味がわからんし、別にそんなシーンを入れる必要性もどこにもない。
死んだ不倫妻に「地図のない」だの「国境がない」だの「権力者のない」だの、
戦争を匂わせるような遺書を書かせているけど、
別にこいつらの不倫愛は戦争や国境や権力者のせいで引き裂かれたわけではない。
ほんとね、意味がないんだね。

ほんと、ごめんなさい、クズ映画で。ぜひみなさん、見ないように。
クズ映画の製作者に代わり私がお詫びします。
みなさん、時間の無駄ですので、見ないでください。

<追伸>
こんなくそつまらん映画を他人はどう評価するか、ネットで見てみました。
とにかく素晴らしいと絶賛する感想が多かった。
(退屈、感情移入できない、など私と同じような感想も結構あったが)
でもその人たちの感想を見ていると、砂漠が出てくる映像美を絶賛してる。
確かに砂漠の映像は美しい。
でもそれは話のおもしろさとは関係ないでしょう。
(というか私からすればせっかくの砂漠の美しさを、
ストーリーが台無しにしているとしかいいようがない)
美しい砂漠を見たいなら、それそのものを見ればいいわけで、
つまらん中身のない不倫愛映画を見る必要はまったくない。

映画ってのは映像美に凝ればいいってもんじゃない。
しっかりとした、おもしろいストーリーがあって、
それがあってはじめて、その上に美しい映像が必要なんであって、
中身のないストーリーでも映像が美しければいいのなら、映画である必要はなく、
美しい景色映像なり写真なりビデオなりで十分なわけです。
いくらスープがうまくっても、麺と具がまずければラーメンは駄作。
それと同じで、映像が美しいから「いい映画」ってのは、
単なる映像美オタクの評価なわけで、肝心のストーリーをまったく忘れてしまっている。
映像がただ美しいだけじゃ、映画を作る意味がない。
それはプライベートライアンのはじめの30分の映像がリアルだとか、
そういう中身のない映像オタクのすることと同じ。

美しい砂漠の映像に騙されて、テーマ性ストーリー性ロマンス性のない、
単なる不倫愛映画が素晴らしいって?
バカいっちゃいけない。
「美しい」アフリカの砂漠にいって不倫でもしてなさい。
またしても信じられない「事件」が起きた。
東北新幹線が電車を乗り間違えた一受験生のために、
本来、停車するはずのない駅に緊急停車することになったのだ。

はっきりいおう。
こういうことをするバカな大人がいるから、若年層の犯罪がなくならないのだ。
こういうバカなことをするから、頭の弱いおかしな大人が量産されるのだ。
こんなことで緊急停車させたJR東日本の社員は、即刻クビにすべきだと思う。

JR東日本の「言い訳」はまったくナンセンスだ。
「これは特例中の特例だ」というけど、こんなことを特例と認めるなら、
わんさか私事で停車させる輩が出てくるだろう。
何も受験じゃなくなって、乗り間違える奴とか、急に違う場所に停車したい奴が、
この前例を引き合いにあることないことわあわあ騒いだらどうするつもりだ?

もう1つ、緊急停車させたのは、時刻に影響がないからだという。
まったく問題の本質を理解していない、とんちんかんな答えだ。
時刻に影響がないなら、とめてくれといえばとめるのか。
そういう問題じゃないだろう。

誰もがわかっていることだと思うけど、
電車にろくに乗れない高校生が大学受験して、そこで学力を問う、
そういう試験がそもそも間違っているわけだよ。
だからオウム真理教みたいに、学歴偏差値は素晴らしいけど、
反社会的なおかしな行動に走ってしまった人たちがいた。

学力が低下しただとか漢字が書けなくなっただとか、しょうもないことで騒いでいるけど、
教育というのは単なる知識丸暗記力とは違うだろうに。
学問もいいけど、もっと社会勉強的なことを教える教育に変えていかないと、
おかしなニンゲンがいっぱい量産されていく。

もうペーパー試験なんかやめちゃえばいいんだよね。
それこそ何時にどこそこ駅までいくらの予算内で来いみたいな社会的な試験にするとか、
本当の意味での「頭の良さ」を問う試験が必要とされているんじゃないのか。

たかが受験で乗り間違っただけで新幹線を止められてしまう、
そういう若者の自己チュー助長というかなんでもかんでも自分のしたいことはできる万能感みたいなものを、
大人が与えているからへんてこな大人がいっぱい育ち、
そういう輩が自分勝手の妄想で勝手な犯罪を犯したり、
犯罪までいかないまでも、自分がいかに自己チューであるかも気づかず、
平気で周囲に迷惑を撒き散らす、そういうニンゲンを生み出しているのが、
まさしく、このような甘やかしにあるのではないか。

本来、JRが取るべき態度は、受験生の訴えを突っぱねることだよ。
公共交通機関がどういうものなのか、
大事な受験にもかかわらず乗り間違った行動力のなさ、計画性のなさ、
社会というのは自分一人のために動いてるんじゃないということ、
電車を乗り間違うような人間が受験に受かったところでどうするんだということ、
そういうことを説明して、だから電車は普通通り運行しますという毅然とした態度をとらなきゃ。

今日、愛知県のイトーヨーカドーで34歳の男がイライラしたといって幼児を殺した。
奈良の小林は自分勝手な妄想で、小学生を誘拐し、殺した。
こいつらは、我慢ができない。
なんでもかんでも世界は自分中心で回っていて善悪の判断がつかない。
自分がやりたいと思ったらやる。ただそれだけ。
犯罪に至らなくても最近の若いものの自己中心的態度のいかに多いことか。
犯罪予備軍だよね。自分のやりたいことにが我慢できすやってしまい、
自分の嫌なことは周りを無視してやらない。
だからこういう犯罪がいっぱい起きていて、
そういう大人を育てている端的な原因こそが、
乗り間違った受験生のために電車を止めるという、勘違い大人の甘やかしなのだ。

こんなバカな特例を許したJRは社会にどれだけ悪影響を与えたか、
深く反省し、二度とこのようなことをすべきではないだろう。
無論、こんなことを美談にするバカなマスコミも許されないが。

GW中の最高に注目すべきニュースは、ブッシュ政権を批判した映画「華氏911」が、
税制優遇を受けるディズニー社から配給を中止されたというものだとつぶやきで書いた。
そしてその作品が22日、カンヌ映画祭で最高賞を受賞した。

その監督の前作映画が「ボウリング・フォー・コロンバイン」である。
「華氏911」がカンヌ映画祭で最高賞を受賞したニュースを見て、
僕はレンタルビデオ屋に駆け込み、前作を借りてきたわけだ。

「映画」というか完全な「ドキュメンタリー」だが、もう無茶苦茶おもしろい。
というかすばらしい!
これほどまでアメリカ社会の問題点と真正面から向き合った作品を僕は知らない。
もう大絶賛ですね。
今、生きている人はすべて見た方がいい。
中学校の社会の授業で取り上げるべき映画ですよ、これは。

タイトルの「コロンバイン」とは、アメリカで1999年、高校生が銃を乱射した高校の名前。
その事件と監督の地元で起こった6歳の少年が6歳の少女を銃殺するという2つの事件を発端に、
アメリカの社会構造に迫るドキュメントだ。

ここでおもしろいのは、単にアメリカが銃規制をしないからだとか、
アメリカが流血の歴史が多いからというのが理由ではなさそうだということがわかるからだ。
監督自身も突撃取材をしていく中で驚くべき事実を発見する。
ほとんど銃による殺傷事件が起きないカナダでは、
1000万世帯中、700万丁も銃を持っていることがわかる。
しかもカナダではほとんどの人が玄関に鍵をかけないという事実も驚きだった。
「流血の歴史」については、ドイツしかり日本しかり、イギリスしかりフランスしかり、
大虐殺や好戦的な歴史国家は他にもあったが、現在、それらの国で銃による殺人事件は、
アメリカの比にならないぐらい少ない。

なぜ、アメリカに銃がはびこり、簡単に銃で人を殺してしまうのか。
高校生銃乱射事件で犯人が心酔して聞いていたために、
とんだ筋違いの厳しい批判を受けたハードロック歌手、マリリン・マンソンへのインタビューで、
彼はこう語っている。
「……洪水、エイズ、殺人……メディアは恐怖と消費の一大キャンペーンをつくりだす。
そしてこのキャンペーンは、人々を恐がらせることによって消費へと向かわせようとする発想に基づいている。
その恐怖心が人を銃に向かわせるのだ。」 と。

その時、あまりピンと来なかったが、その言葉を裏付けるような取材活動を監督がする。
アメリカの犯罪は実はここ10年、20%減少しているにもかかわらず、
メディアが凶悪犯罪を取り上げるのは600%だという。
しかもそのおかげで、さまざまな自己防衛グッズが大変儲かっている。
驚きなのは、近所のスーパーで銃や銃弾が売られていて、
銃も銃弾も飛ぶように売れている。
そこに9.11テロが起きて、もうあちこちぼろ儲け企業が出て、
しかもそれが政府とグルになってどんどん恐怖を煽って戦争をするから、
さらに儲かるという、政府、メディア、企業が、
アメリカ国民に「恐怖」を飢えつけることで、ぼろ儲けしている社会構造が明らかにされるのだ。

なるほど「恐怖」か。
すると、まさしく、マリリン・マンソンの言葉は至言なわけだ。
ニュースで戦争や犯罪を取り上げ恐怖心を訴えたあと、ぱっとCMに切り替わって、
その恐怖心を利用して物を買わせる。
しかもそれは単に「自己防衛グッズ」に限らず、
「口臭がくさいと人から嫌われる」とか、「いい車に乗らないと女とやれない」とか、
そういった「恐怖心」を煽って消費行動を促進させるという、
非常に全般的な「洗脳」になっているのだ。

なるほどと思った。
だから恐怖心におののくアメリカ国民はバカのブッシュを支持するのだ。
恐怖心におびえ銃を買い込み、簡単に人を殺す。
それはアメリカ国民の行動でもありアメリカ国家そのものの行動でもあるのだから。

またなぜ凶悪犯罪が起きるかについて「暴力映画」だの「テレビゲーム」だの「アニメ」だのに責任を押し付ける人にも、
この映画で一定の考察をしている。
暴力映画が好きなのはカナダでもそうだし、暴力ゲームを生み出しているのは日本だけど、
カナダも日本も銃による殺人事件は極めて少ないと。

やはりそういったことを考えても、アメリカの異様な社会の原因は、
恐怖心を駆り立て、消費行動を煽り、それによってぼろ儲けしている、
メディアであり政治家であり軍事産業であり、全米ライフル協会であることを、
見事にこの映画で描き出している。

もう何度も何度も見返して、メモをとってみたい映画。
絶対みるべし映画でしょう。
「華氏911」も早く見たいなと思う。