演劇人生 -58ページ目

演劇人生

今日を生きる!

さて、興奮していたのだろうな、

今朝は6時前に眼を醒ましちまった。


ところが興奮していたのは我輩だけではなかったようだ。

主人も7時前に朝食を持って出てきたからだ。


今朝も食通を唸らせるようなご馳走の数々だ。

卵かけご飯に、身のついたシマホッケ、

メンチカツにジャーマンポテト、アーモンドスライス添えですよ。


10時になると主人につれられてお出かけです。


12月は O・ヘンリー原作「最後のひと葉」

「これだなァ!」


しみじみと「幸せ」という心を噛み締めながら

主人と並んで歩いた。

「犬のインプロってどういうものだ?」

もう、幸せすぎて、

そんなことはどうでもいい気になってきた。


時折行き交う犬がいた。

「あっはっはっは・・・、みんなドッグフード族だろうなァ」

昨夜から、

「我輩の食生活はかわったのだよ」

こよなく人類に近い食事をしているのだ。


みんなに吹聴したい思いだった。


飯倉片町の交差点を過ぎて、

小さなビルの入り口で立ち止まった主人が、

「あはようございます」

と、声をかけた。


ドア横に立てかけてある金属バットに

無性にション便をかけたくなったが、

直ぐに「は~い!」という女性の声がしたので諦めた、


ドアが開いた。

「お待ちしてました」

どうぞと招かれた。


「まあ、お利巧そうなワンちゃんね」

中年のご婦人は、

前からの知り合いのような触手で我輩の頭を撫でてくれた。

「お利巧なんて、我輩は子どもじゃないよ」

いささか不満だったが、嫌な顔はしなかった。

一、二回尻尾を振って容認の姿勢だけは見せておいた。


すると、

「まぁ、いい子ねェ」・・・ますます子ども扱いする。


主人を見上げると、

その目は明らかに「我慢しろ」といっている。

「大丈夫だよ。我輩は大人だよ」心に呟いてやった。


続く・・・

いい天気だァ、雲がひとつ・・・ふたつ浮かんでいるワン。


我輩は、幸運にも飼い犬である。

親は野良だった。

ということは、我輩は雑種で、

祖先は立派な秋田犬だ。

うわさでは、渋谷駅前にある銅像は、

我輩の曽祖父であるという。

これは実証できないので、

単なるうわさに過ぎないかもしれない。


ところで昨日、我輩の飼い主に、

どこやらの劇団から招待状が届いたらしい。


劇団の稽古場で、

ワークショップとかをやるので、

犬を連れて来ないかというもののようだ。

なぜ我輩を同道して欲しいといってきたのかだが、

ワークショップで、犬をテーマにしたインプロとかをやるらしいのだ。


「面白いじゃないか」と主人は言うが、

我輩にしてみれば下らないこと甚だしいとしか思えない。


ところで、インプロなんて省略していっているが、

インプロビゼーションと何で言わないのか理解に苦しむ。

ま、いいや・・・こんなことは人類に通じるはずはないからな。

何でも省略したがる悪いくせがあるらしい。

我輩も省略したいことがあるさ。

「ワンワンワ・・・」で終わらせようとするが、

つい「ン」が滑って出てきてしまうんだ。


何だかんだ文句を言うのは、

我輩は物事を深く考える性格からきているのかも知れない。

ただ、ひとついいことがあった。

我輩を連れて行き、

物欲しそうな顔をしないようにと思ったらしい。


昨晩の食事は贅を極めていた。


牛筋の煮込みとベーコンとジャガイモのバター炒めシャンピニオン添え、

ガーリックトースト、成分無調整の牛乳が生のまま出てきたことだ。

主人の食卓にのったレパートリーがそのままらしい


あ、そうそう、お新香だけは入っていませんでした。

本当は欲しかったんです。

塩分さえ加減してあれば、たまには食べたいですよ。

胸焼けが治まりますからね。


いつもは兎の糞のような粒々のドッグフードを食べさせられてますからね、

これには正直感動しました。

美味しかったです。


続く・・・・

朗読は難しい。

工夫すればするほど難しいように思う。


私は以前から、

「朗読劇」などと銘打って有料で見せることに抵抗を持っていた。

しかし有名女優や俳優たちが演じる(?)ことも加わり、

いつの間にか市民権を得て今日に至っているようだ。


「走れメロス」「蜘蛛の糸」や、

宮沢賢治作品などが選ばれることが多いようだ。


最近、私もカルチャー教室で受講者に

「葉っぱのフレディ」や「靴屋のマルチン」

自作の詩などを朗読させた。


しかし、読む側は聴く側に立てない。

ここに、朗読の問題がある。

録音したものを聞いても、

自分が読んだものを聞くのは、


「聞く」


であり


「聴く」


ではない。


聞くのは耳かもしれないが、

「門」とは、

全てに開かれたものではない。

一門に象徴されるように、勢力内の構成員を意味し、

門外に対する内輪を意味している。

すなわち「門」は、その領域への入り口なのである。


対して「聴く」の「聴」の耳は先にあるものの、

14の心に連なる必要がある。


朗読者に、聴く側の「14の心」に対する意識があるだろうか。


文字や文章を読んでいるうちは論外で、

作者が描いたであろうイメージに接近し、

それを我がものにしても足りないのが「朗読の世界」だと思う。


更に、

声優や俳優が、CDやDVDとして販売しているようだ。

「その程度でCDなどに固定化してしまっていいの?」

といいたくなるものもある。


舞台をDVDにする話も出る。

しかし、残したくない場合もある。

舞台の作品は進化を続けるものだからである。


例えば、今回の「母」のように、再演を考えれば、

今年の9月公演は残したいとも思わないからなのだ。


仕事は、縁者が死んでも残る。


2時間30分の作品の中の1秒の場面でも、

不満の残るものは残したくはないのである。


「朗読は読みながら出来るからラクだ」

などという人がいたら大間違いだ。


安易なものなんて、そうないものなんです。

10月29日(土)、30日(日)

10:00~

麻布区民センター

(港区六本木 東京メトロ、大江戸線「六本木」徒歩7分)


「ふれあい祭り」


劇団アドックは

30日(日)13:30~14:00 の時間枠に


神尾哲人作

「河童が消えた!」


を上演します。


お祭りのプログラムは、

ダンスやフラ、ジャズ演奏、合唱など盛りだくさんです。

どうぞ、遊びに来てください!

好きな役者を並べ始めたら・・・きりがない。

続々と出てくる。

どこで打ち止めにするか難しくなってきた。


きょうは演劇の神様についてです。

「何処に劇場にも神様がいる」


これは私の持論ではありません。

この9月に再演した「母」で天童公演に行った時、

舞台稽古を終えてホテルへ帰り、

食前にビールを酌み交わしながら出た話です。


舞台監督のY氏・・・

「何処の劇場に行っても感じる重~いものがない?」

と質問されて直ぐ、

「ぼくが感じるのは神様だね」

と答えた。

「鬼のときもあるよ」

実際にそうなのである。

舞台には鬼が棲み、客席には神様がいるように思えるのだ。


初めての劇場に入り、

最初に出会う人に、「おはようございます」と、

かける声がある。

・・・というより「音」がある。

ぼくにとって、

会った人への「挨拶」ではない。

神様と鬼に対する「音」のつもりなのだ。


そして楽屋や舞台へ向かう。

そこには、目覚めた鬼の気配を感じるし、

大向こうから見下ろす神様の視線を感じるのである。


「劇場だ!」

心に叫ぶ。


12月は O・ヘンリー原作「最後のひと葉」
 私の好きな俳優 ジェムス・スチュアート

 特に「裏窓」はよかった。

 緻密なプランを立てて役を創り上げる

 知性豊かな俳優としての印象が強い。

 西部劇には不向きに見える風貌だが、

 「西部開拓史」などをみると、その風貌を

 巧みに活かし、根無し草のような役を、

 見事に描いていた。

 「翼よ!あれがパリの灯だ」や「めまい」

 などに、彼の緻密な計算がみえる。