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プールサイドの人魚姫

うつ病回復のきっかけとなった詩集出版、うつ病、不登校、いじめ、引きこもり、虐待などを経験した著者が
迷える人達に心のメッセージを贈る、言葉のかけらを拾い集めてください。


プールサイドの人魚姫-ゾンビ

七夕の日に「マイケル・ジャクソンに生き返って欲しい」と願い事をした人はいただろうか?

アメリカではその日、彼の公開追悼式が行われ、多くの参列者が最後の言葉を送った。

「マイケル…」とファンの震える声は、涙と共に天国にいるマイケルに届いた筈である。

そして次の日には「マイケルの幽霊」騒ぎで「YouTube」にアクセスが殺到。

幽霊でもよいから一目マイケルの姿を見たいという熱烈なファンの思いとは裏腹に、その幽霊の正体はカメラに映りこんだカーテンの影だったという。

死んで彼の偉大さを改めて実感することとなったが、彼が平和主義者だった事は「USAFORAFRICA」が物語っている。

「音楽が世界を動かす」それを実感したのは1967年に宇宙中継され世界31カ国で同時放送されたビートルズの曲「愛こそはすべて」を聴いた時だった。

今や音楽は誰でも簡単に世界中の曲をリアルタイムで聴き、共有することが出来るようになった。

1980年代に入ると、音楽は聴くから観るに大きく変貌して行く。

「観ながら聴く」MTV(ミュージックビデオ)の登場である。

これを駆使したのが、マイケル・ジャクソンやマドンナであり、大成功を収めた。

「BAD」では、巨匠「マーチィン・スコセッシ」を監督に起用し、ショートストーリーを織り込んだ短編映画を見事に描ききっているのである。

80年代に活躍したアーティストたちをマイコレクションの中から抜粋してみよう。

「a-ha」「ワム」「クイーン」「ダリル・ホール&ジョン・オーツ」「ヴァン・ヘイレン」「カルチャー・クラブ」「デュラン・デュラン」「ジャーニー」「TOTO」「スティング」「ポリス」「ビリー・ジョエル」「ユーリズミックス」「メン・アット・ワーク」「オリビア・ニュートンジョン」「ヒューイルイス・&ニュース」「プリンス」「ホイットニー・ヒューストン」「REOスピードワゴン」「ブルース・スプリングスティーン」「ダイアー・ストレイツ」「ペットショップボーイズ」等が挙げられる。

皆さんはどんな曲を思い出すだろうか。

マイケル・ジャクソンは「セイセイセイ」で、ポール・マッカートニーと共演し、新たなマイケルを垣間見ることが出来た。

わたし個人としては、以前から彼に「ビートルズ」の曲をカバーして欲しかったので、ポールとの共演は夢の中の出来事のように思えた。

マイケルに残して欲しかったもの、それは「マイケル・ビートルズを歌う」であったが、彼なりにアレンジしたビートルズを聴きたかった。

わたしが七夕に願ったことが通じていれば、今頃「レット・イット・ビー」を歌ってくれているかも知れない。

改めてマイケル・ジャクソンに合唱。







プールサイドの人魚姫-ミサイル

ミサイルをしつこく発射し続ける北挑戦が、最近では何だか哀れに思えてきて仕方がない。

ミサイル或いは核が無ければどの国からも相手にされず、それ故にひたすら核を追い求める男。

本音は6カ国協議に参加したくて仕方がないのだろうが、抜いてしまった刀を納める勇気のない国だから、核問題はこのまま進展を見せず暫くは北朝鮮のひとり芝居が続くのだろう。

核問題を巡って、足並みを揃えられないアメリカや中国、ロシアなどは、大国故の思惑やしがらみに縛られて、自由な発言と行動が制限されている。

アメリカから見れば北を第二のイラクにしてしまいたいだろうが、中国・ロシアが煩い。

朝鮮戦争で北朝鮮に加担した中国は、北をかばう素振りは見せているものの、本音は相当嫌気が指しているようだ。

国同士も人間関係と同じで、利用価値がある内はわがままも大目に見つつ、腹の底では谷底に突き落とす準備をしている。

同じ民族同士で争う愚かな行為に、一体誰が終止符を打てるのだろうか。

北朝鮮を暴挙に駆り立てるもの、それは過去に日本やアメリカが経験した負のリズムなのである。

北朝鮮は、我々の奥底に潜む写し絵ニヒリズムの塊である。

人類よ、核の呪縛から心を解き放ち給え。

 

プールサイドの人魚姫-星

 

 
 

織姫の

流した涙が

星になり

天の川を渡ります

織姫乗せた

笹舟が

彦星恋しと

渡ります

星の波間にゆり揺られ

さらりさらさら

渡ります

涙はいつか

乾いても

恋の涙は

永遠に

天の川に

生きてます

 

 


プールサイドの人魚姫-癌

映画「象の背中」は余命半年を宣告された肺癌のサラリーマンの余命の生き方を描いた作品だった。

「余命一ヶ月の花嫁」は乳癌を患ったうら若き女性の実話。

日本人の死因トップは「がん」続いて「心臓病」「脳卒中」と続く。

ひと昔前までは心臓病や脳卒中と言った「循環器系」が死因の大半を占めていたのだが、時代背景の移り変わりと共に圧倒的に増え始めた病気が、現在最も人を死の恐怖に陥れる「癌」である。

医者から「癌です」と病名を告げられた時から、おそらく初めて「死」を強く意識するようになる。

死に最も近い病気と言われる「癌」に対しては現在の先進医療を持ってしても、根治は不可能に近い。

なぜ、これほど癌を患う人間が増えたのか、その背景には皮肉なことに、高度経済成長が齎した日本人の環境の変化が大きく影響している。

米を主食としたバランスの良い「和食」は、島国である日本の風土に培われた「医食同源」である。

偏った食事を長く続けていると、人間の内臓は徐々に腐り始めて行く。

つまり健康な細胞が病気になり死滅して行く訳だ。

そしてがん細胞が誕生する。

医療水準の進化により、これまでは原因の分からない「奇病」とされていたものが、「癌」だったと分かり、生活習慣を改めることが「癌」の発病を防ぐ唯一の治療とされている。

遺伝による発病も多いが、それらとは全く関係なく発病する癌患者も多い。

今年の5月19日、わたしの友人が「食道癌」により他界した。

彼の死を知ったのは二日前の夜だった。

養護学校の同級生であり、友人としても30年以上の付き合いで、親友と呼んでもよい。

今年の2月15日に、わたしは彼に電話をしている。

わたしは心不全のため、三井記念病院に入院し治療が終わり、退院したばかりだった。

「もしもし、修、お前元気かよ…」

「何回電話しても留守電で繋がらないから、心配していたんだぞ」

「おお、神戸か、悪い悪い…」

彼の声を聞いたのは10年振りと、長い間音信普通になっていたが、年賀状は毎年出していた。

しかし、彼の方から返事が届いたことは一度もなかった。

「俺、実はさぁ食道癌でな、仕事辞めたのさ…」

「はぁ?…」

全く予期せぬ言葉が彼の口から零れ、わたしは言葉を失った。

「いつから…」

「去年の10月に検査で分かったんだ」

「入院は…?」

「通院して治療を受けている」

「放射線治療を受ける時だけ一週間入院するんだ」

「俺も心臓が悪くなって、去年死にかけたんだよ…」

「つい三日前まで入院していたよ…」

「本当か…」

「おい、もう何年も会っていないんだから、近い内に会おうぜ…」

「まだ日吉のアパートにいるんだろ?」

「ああ、変わってないよ」

「嫁さんは?」

「まだ一人だよ、彼女はいたけどな」

いつだったか、彼の彼女が「くも膜下出血」で倒れ、意識不明のまま病院に運ばれたが、二度と息をしなかった話を聞いたことがあった。

彼女がもし生きていれば、結婚したのだろうと思った。

「俺、今高砂に住んでいるんだけど、日吉までそんな時間かからんから、会おうぜ」

「おお、いいよ、またその時に電話くれ…」

この電話が最後になるとは思わなかった。

皆さんもご存知の通り、わたしは心不全をぶり返し、今年2回目の入院をした。

そして、離婚、引越し等を経て現在に至るが、新居のアパート生活も落ち着き始めた頃に、彼の携帯に何度も連絡を取ってみたが常に留守電状態であり、彼と話すことは出来なかった。

そしてとうとうその携帯が「現在使われておりません」になったのである。

この時わたしは非常に嫌な予感に襲われたが、スポーツマンタイプのあいつが、そんな簡単にくたばるとは思っていなかった。

彼の安否を確認するため、彼が勤めていた「パブ」に連絡を取った。

そうして彼の死を知ったのである。

余命三ヶ月…。

10月8日に病院へ行った時点で、彼の寿命は余命三ヶ月だったのである。

もちろん、その事は本人には知らせず、清水にある実家の家族たちだけが知っていることだったが、その家族もいきなり医者から余命について聞かされたこともあり、現実として受け止めることが出来なかったそうである。

しかし、彼はそれより長く生きた。

4ヶ月も長く生き、頑張った…。

検査を受け、食道癌だと分かった時、既に癌細胞は身体中の臓器に転移しており、治療の施しようがなかったそうである。

彼は喘息児で、その治療のために養護学校に清水から転校して来た。

頭は悪かったが、スポーツ万能で、わたしたちに「バク転」をよく見せてくれた。

運動神経の良さを買われ、養護学校では初めて「ハイジャン」に挑戦し、その練習風景を羨望の眼差しで見つめていたものだ。

養護学校を卒業すると、わたしは清水の訓練所へ、彼は静岡市内の繁華街にある日本料理専門店の「松竹」に就職し、板前の修業に励んだ。

日本料理をマスターした彼は、その後職を転々と変えつつ自分の料理人に対する腕を磨くため、様々なジャンルの料理を自分のものにして行った。

和食、洋食、中華とマスターしていき、22歳で中華料理店を構えたのである。

しかし、彼の弱点は「人の良さ」だった。

それが裏目に出てしまい、最悪の結果を辿ることとなる。

その頃わたしは最初の結婚に躓き、離婚したばかりであった。

身も心も荒んでおり、一日も早く静岡から逃げ出したいと思っていた。

静岡市立病院には、わずか一歳の息子が入院しており、大きな胸の手術を控えていた。その時のリーダーだった医者が、わたしの心臓に初めてメスを入れた「秋山先生」だったのである。

親の因果が子に報い…とはこの事だと思った。

その息子が本当の父親探しを始めて、わたしにメールをくれてからもう一年になる。

わたしは、妻と子どもに永遠の別れを告げ、横浜へと向かった。

勤めていた会社「北欧貿易」が支社を引き払い、本社のある横浜の関内へ戻ることになったので、支店長から「会社を辞めるかこのまま本社に来るかどしらかにしろ」と言われ、静岡を離れたい気持ちが強かったため、横浜へ行く決心をしたのだが、これが大きな間違いの基でもあった。

最初は社宅のある磯子のマンションに住んだが、半年ほどしてから会社が倒産。

警察署から捜査の手が入ったのである。

この会社は「金取引」で有名になった「豊田商事」と同類であり客を金取引で騙し、金銭を巻き上げる詐欺集団だったのである。

この話しについては機会があれば何れ話そうと思う。

会社倒産後、わたしは製版会社に就職、自分本来の技術を活かす仕事に就く事が出来た。

伊勢崎町の近くにアパートを借り、出直しを始めようとしていた時だった。

夜9時頃だった。

残業中で遅くなりそうな気配のしている時に、会社の電話が鳴った。

「かんべー、電話」

「あっ、はい…」

一体誰だろうと思った。殆どの人にこの会社にいることは内緒にしていたので、電話は意外だった。

「おーい、かんべー、俺…」

「修?お前か?久しぶりじゃん」

「いま、新横浜の駅にいるんだけど、ちょっと来てくれよ」

「まだ、仕事中だぞ、直ぐには行けないけど、ちょっと待っててくれ」

社長に友人が訪ねてきた旨のことを伝え、早速、新横浜の駅に向かった。

わたしの前に現れた彼は上下を白い体操服で包み、背中に大きなリュックサックを抱えていた。

いつものようにニコニコと笑顔を見せながら、

「暫く、居候させてくれ…」と、こう切り出して来たのである。

清水で何があったかは知らないし、深く追求もしなかったが、おおよその見当はついていた。

彼はもう二度と清水には帰らない積もりでいたようだ。

帰らないと言うより、帰ることが出来なくなってしまったのである。

そして、真っ先に彼の仕事先を見つけることにした。

それが、「パブ」だったのである。

暫く彼と一緒の生活が始まったが、パブは午後5時から早朝5時までが営業だったので、わたしとは全く時間が合わず、すれ違いだった。

そして自分でアパートを借り、日吉に移り住んだのである。

21年前の結婚式の時、友人代表として「祝辞」を読んでくれた彼。

そのビデオに映った彼の姿が、こんなに早く最後の姿になってしまうとは…。

彼は自分が癌で死ぬと思っていただろうか?

もしそうであるならば、「遺言」くらいは残しているだろう。

自分が死んだら友人たちに連絡して欲しいくらいの事は残すだろう。

もし、彼が余命三ヶ月を知っていたら、きっとまた違った生き方をしたかも知れない。

わたしも彼に会うことが出来たかも知れない。

2月にわたしと交わした「会う」約束を持ったまま、彼は天国に逝ってしまった。

わたしの心からまた一つ大事な星が消えて行った。

 

プールサイドの人魚姫-オール

 

 
 
 

あなたと二人で

迎える夜

これで

何回目だろうと

指折り数えてみたりした

十本の指では足りなくて

あなたの指も借りてみた

デートを重ねた

思い出の分だけ

あなたを好きになっていく

川の流れに任せた二人

離れ離れにならぬよう

心のオールで

しっかり

舵取りしてみるの

ささやかだけれど

幸せが

このまま二人に続くよう

今夜も

あなたの背中に

手を合わす

 


プールサイドの人魚姫-ryo

本日19:30より吉祥寺のライブハウス(曼荼羅)にて「葛原りょう」さんの詩の朗読ライブがありますので、夕方から出掛けて来ます。

今回は詩だけでなく、短歌や太宰治の作品も朗読すると言う事で、楽しみにしております。

前回、映像をアップした際、本人以外にも当日ライブへ行けなかった方からも感謝の言葉を頂き、わたしも本人以上に嬉しく思っております。

今回も撮影して来ますので、お楽しみに。


プールサイドの人魚姫-マイケル

世界中に衝撃が走った。「マイケル・ジャクソン死す」。

誰もがこの悲報に耳を疑っただろう。彼の死をまだ知らないでいる人も多くいるかも知れない。

ジョン・レノンが銃殺された時と同様のショッキングなニュースである。

先日、三沢光晴の訃報を記事にしたばかりだと言うのに、立て続けに起こったエンターティナーの死。

マイケルの死をヤフーのニュースで知った時、暫くの間何とも表現の出来ない虚脱感に襲われた。

彼の死について何を書こうか悩んでしまったほどである。

今更、マイケルの軌跡について書いたところで、殆んどの人たちはわたし以上に詳しいかも知れない。

現時点では彼の死因については不明であるが、時間とともに明らかになるだろう。

わたしがマイケルに出会ったのは14歳の時、養護学校在籍中で、長い闘病生活の真っ最中だった。

病気に拘束された入院生活での楽しみは漫画雑誌を読むか、音楽を聴くくらいのものだった。

洋楽にどっぷり浸かっていたわたしは、小さなトランジスタラジオから流れてくる、FENやビルボードヒットチャートを聴くのが唯一の娯楽だった。

音楽雑誌は「ミュージックライフ」を購読していた。

編集長が「星加ルミ子」の時代だから歴史を感じさせることだろう。

洋楽を聴くきっかけは小学2年に聴いた「ビートルズ」ツイストアンドシャウトに衝撃を受け、それ以来ラジオでオールジャパンポップス20を毎週聴いていた。

「みのもんた」がDJだったと記憶している。

洋楽ならジャンルを問わず、何でもよかった。

ベンチャーズからプレスリーまで幅広く聴いていたほどの音楽小僧であった。

家が貧しいからレコード盤など買える筈もないのだが、その頃近所に住んでいたわたしの兄さんと呼べる「順ちゃん」から多大な影響を受けている。

順ちゃんの家に行けば、喉から手が出るほどのレコード盤が豊富にあり、聴かせて貰うのが楽しみだった。

養護学校に入ると、生活費として現金が入る(看護婦が管理)ので、それでレコード盤を月に何枚か手に入れることが出来た。

ただし、わたしの生活費は親ではなく、福祉(国)からの補助だったため、金額は他の子どもたちと違い決められた額だったので、あまり使い過ぎると婦長が「これ以上は駄目」と釘を指した。

当時のシングル版は350円だったが、わたしの小遣いの殆んどは洋楽に消えて行った。

全米ヒットチャートの上位にある曲は全て手に入れた。

ただし、現在と違ってリアルタイムではないので、欲しい曲を手に入れるまではかなり時間がかかった。

「レッド・ツェッペリン」「CCR」「スリー・ドッグ・ナイト」「CSN&Y」「ELP」など、数え上げたらきりがない。

ロックの形が「ニューロック」と呼ばれ始めた時代でもある。

しかし、これらに大きな影響を与えたのが「R&B」その代表と言えば「モータウンサウンド」。

マイケルが所属し、リードヴォーカルを務めた「ジャクソン5」もまた多大な影響を受けている。

「スライ&ザ・ファミリーストーン」「マーヴィン・ゲイ」「ウィルソン・ピケット」「ジェームス・ブラウン」「スティーヴィー・ワンダー」「ダイアナ・ロス&スープリームス」などがその代表である。

幼いマイケルが歌った「ABC」は特に印象深い。

子どもながらに、そのソウルフルなボーカルとリズム感の良さは後のマイケルを予感させるものがあり、既に素地は出来上がっていたのである。

音楽以外でも何かと話題の尽きなかったマイケルではあったが、もう二度と魂の雄叫びと言われる彼の生の歌声と、その華麗なステップを見られないと思うと悲しくてやり切れない。

今夜はしみじみと、レコード盤に針を落としながら彼の歴史を振り返って見ようと思う。

 

プールサイドの人魚姫-手紙

 

 
 

これが

あなたに送る

わたしからの

最後のラブレター

遠くに旅立つ

あなたの顔を

わたしは真っ直ぐ

見られない

泳ぐ季節は

緑に埋もれて

外は命で溢れているのに

あなたはわたしを

もう二度と

見つめてはくれない

だから わたしは

最後のラブレター

あなたにそっと

送ります

 

 

プールサイドの人魚姫-パトカー

 

 

母の日や父の日を迎えると、大抵は詩をアップする事が多いので、今回は父に纏わるエピソードを一つ紹介しようと思う。

 

わたしに負けず劣らず波瀾万丈の人生を送った父なので、母と違って話題は尽きない。

太く短く生きたと人は言うが、父に死ぬつもりは全くなかった。

「父が死んだその日」で表現している通りで、わたしと二人で新しい人生を迎えようとしていた。

ただし、父の病気は重篤な「肝硬変」で、それは既に末期であったと思われる。

医者に診せたところで手遅れと言われただろうし、助かる手段は「肝臓移植」しかなかっただろう。

死ぬ三日前にわたしは父に呼び出され会っている。

その時「次に来る時は入院しているように」と言っておいたのだが、父はそれを断った。

寝間着もなければ、ぺちゃんこの薄く冷たい布団で毛布さえない。

外は秋が深まり冬支度を急かす北風が、冷たく青々とした空を吹き抜けて行く。

下着は何日も着替えた様子はなく髪も髭も伸び放題、人一倍綺麗好きだった父から見れば、こんな自分の姿を、他人の目に晒したくないという気持ちが強かったのだろう。

陽当たりのよい縁側に出て「とし坊、頭を洗ってくれるか」と言われ、生まれて初めて父の頭を洗うことになった。

小学生の時は、父がよくわたしの頭を洗ってくれた。

その思い出が蘇り、父の頭を洗う手により一層力が入った。

その父がまさか三日後に死ぬなんてことは想像すら出来なかったし、「働けるようになったら、車を買ってやるから免許を取れ」と約束までしていたのだが。

通夜の時に集まった親類縁者たちは、父について「自業自得」だと語っていた。

父の悪口ばかりが聞こえて来て、わたしは俯きながら唇を噛み締めていた。

酒に溺れまともな仕事にも就かず、刑務所に何度も厄介になっている父を見れば、悪口しか聞こえてこないのも当然だろう。

しかし、息子がいる前でそんな話しをすることもないだろうに。

親戚や兄弟たちからは悪い評判しか届かない。特に伯父さんは父の作った借金を一人で背負い返してくれたのである。

金額にして500万円、昭和30年代の金額にしてみれば途方もない借金である。

この件については、わたしは全く知らなかった。

何故こんな借金があったのか不思議でならなかったのだが、父は非常に気前がよく、友人たちと毎晩のように飲み歩いており、その時の飲み代は常に父が払っていたようである。

わたしの弁当や食事は作らないのに、他人に対しては非常に面倒見がよかった。

親ならばこの逆でなければいけないのだが、わたし自身については無頓着であった。

ただ、父が現金を持ち歩いていた姿を殆んど見ていなので、顔が利く店では飲み代を付けにしていたのではないだろうか。

とにかく伯父さんからみればとんでもない弟だったようだ。

そんな父ではあったが、近所に住む人たちは父の悪口を殆んど言わなかった。

父の亡骸を見て、髪を振り乱し身体全部で悲しみを表現していたのは、隣に住む「あっこちゃん」だった。まるで自分の親が亡くなったかのような、悲鳴にも似た泣き方だった。

このように、父を愛する人たちも多く存在したのも事実で、やはり人は死んだ時にその存在意義が分かるのかも知れない。

どんな悪人であっても、必要とする人間はいるものである。

前置きが随分長くなってしまったようなので、本題に入ろう。

わたしが15歳、父39歳の時の話しである。

養護学校を卒業した後のわたしは、清水にある病人専門の職業訓練所にいた。

養護学校に転校する時も卒業する時も、そして訓練所に入る時も全て伯父さんが父の代わりをしてくれていた。

父は藤枝に伯父さんと住んでいたにも関わらず、一切わたしにはノータッチ。

何故そんなことになったのかいまだに疑問である。

そんな父からある日電話がかかってきた。

「もしもし、とし坊…久しぶりだな」

「急に電話なんかかけてきてどうしたの?」

何故父がわたしの居場所を知っており、電話番号まで分かっているのが不思議でならなかった。

「今、久能海岸の停留所にいるんだけどな」

「はぁ…?」

「ちょっと頼みたいことがあるんだ」

「なに?」

「金を貸してくれないか…」

「いくら…?」

「千円でいいからさ…」

わたしはまだ15歳であり、仕事をしていないので収入はなかったが、訓練所から一ヶ月の小遣いとして5千円が支給されていた。

「分かった、じゃあいま直ぐ行くから」

と言って電話を切り、くしゃくしゃの千円札を一枚ポケットに押し込み、停留所に向かった。

久能海岸を走る150号線に駿河湾の荒波が押し寄せ、テトラポットに砕け散っていた。

父から話しを聞くまでわたしの頭の中は??だらけであった。

潮で錆び付いたトタン屋根が風に煽られて「バタンバタン」と大きな音を立てている。

その下で肩を小さくすぼめながら、冷たい潮風に背中を向けて立っている父を確認した。

手を振りながらわたしは父に近づいて行った。

父に会うのは約一年ぶりだった。

わたしはすぐさま父に疑問をぶつけてみた。

「なんでここにいるの?」

すると、とんでもない答えが返って来たのである。

「実はな、仲間数人と沼津に行ったんだ」

「うん…それで?」

「それでな、朝まで飲んでしまってさ、気がついたら帰る金がないんだよ」

「仲間はどうしたの?」

「いや、それが起きたら父ちゃん一人でさ…」

「それで、沼津からここまで歩いて来たんだ」

「歩いて…?」

「ああ、随分時間がかかったよ」

沼津と清水の距離は約55キロである。徒歩だと一体どれだけ時間がかかるだろうか?

わたしは驚いたと言うよりも呆れて却ってしまった。

「電話をかけるお金はあったんだね…」

と少し笑いながら父の手に千円札を渡し、清水駅行きのバスが来るのを待った。

バスに乗り込む父の背中を押しながら「ちゃんと藤枝に帰るんだよ」と見送った。

まるでわたしの方が親である。

後に聞いた話しによると、父は駅に着いたものの、電車には乗らずその足で酒場に行ってしまったのである。

折角上げた千円を父はなんと酒代に変えてしまったのだ。

酒が止められないのは分かっているが、後先考えず大切な金を酒に変えてしまったりするものだろうか?

そしてこともあろうに、酔った父はパトカーをタクシー代わりにしてしまったのでる。

警察の厄介になるのはいつものことであるが、パトカーで藤枝まで送ってもらったのは父くらいのものだろう。

この話しも父の武勇伝の一つなのだろうか?

皆さんはどう思います?

 


4月27日の夜、わたしは約20年振りに吉祥寺駅に降り立った。
目的は、ライブハウス「曼荼羅」へ「詩の朗読ライブ」を聴きに行くためだった。
ライブと言えば「音楽ライブ」が一般的であり、わたしの友人である「江戸川レノン」さんのライブに時々出掛けていた。
ここ一年ほどは体調不良などもあり、遠ざかってしまっているので、そろそろライブに顔を出さないと忘れられてしまいそうだ(苦笑)。
さて、葛原りょう氏とわたしがどのようにして出会ったのかと言うと、わたしは「ミクシィ」にも籍を置いている。
その中に「詩を書く人」というコミュニティがあったので、参加してみた。
わたしがアップした詩を読んでくれたある女性から、「ぜひRYOさんの詩を読んで下さい」と紹介されたのである。
正直なところ、わたしは他の詩人(作品)についてあまり興味を持っていないのだが、彼のサイトを覗き、プロフィールを読み愕然としたのである。
そして更に作品を読んでみて鳥肌が立ってしまった。
何故彼女がわたしに紹介したのか、その理由が漸く飲み込めたのである。
葛原氏とわたしの間には幾つもの共通点があった。
詩の世界観は多少違うものの、二人はよく似ているのである。
ライブ当日は立ち見が出るほどの盛況で、大成功に終わった。
ライブ終了後、二次会があると言うので、わたしも参加し彼の隣に席を設けた。
じっくり話し込むことは出来なかったが、有意義な出会いであったことは間違いない。
彼の詩集は2冊発行されており、1冊は企画出版されている。
「朝のワーク」文芸社ビジュアルアート、「魂の場所」コールサック社、そしてもう一冊が「チョコレイトの夜」文芸社(小説の中に彼の詩が使われている)。
興味のある人は是非読んでみて頂きたい。
ライブの共演者であるピアニスト「伊藤 愛」、ヴァイオリニスト「山本美嶺」の演奏も、朗読を更に盛り上げており、詩に興味のあるなしに関わらず、一度自分の眼と耳で確かめてみて欲しい。
次回のライブは、6月29日(吉祥寺、曼荼羅)で行われる。
体調の許す限りわたしも行こうと思っている。